第三話 鬼の棲む島 三
三
そこは、騒がしく蝉の合唱が響き、木がうっそうと生い茂っていて、下の様子はまるで見えない。
少し変わった巫女装束の少女、杏に教えてもらった階段は、よくある様な神社へ登る為の石の階段ではなく、山道を登り易くする為に所々丸太を埋め込んだだけの粗末なもので、桃樹は、どうしても歩幅が合わないその丸太の階段を、ぽんぽんと跳ねる様に下りて行くと、確かに民家らしい建物の裏手に出て来た。
ただその建物は古い木造で、桃樹が想像していた「ペンション」という物とは大分とかけ離れていた為、彼は、〈また騙された?〉と、少し思ったのだが、ちょうど勝手口から出て来たおばさんが彼を見つけると、ここが目的の場所である事を知った。
「あー、来た来た。やっぱり男の子だったねぇ。ちょっと待ってよ、今じいちゃん呼んで来るから」
おばさんはバタバタと勝手口から家に入ると、家の主人を連れて戻って来た。
「あー本当だ。男の子じゃったな、ばあちゃん」
出てきた二人は、お互い「じいちゃん」「ばあちゃん」と呼び合っている割には歳は若く、まだ五十代後半か六十代前半と言った所に見える。
「よろしくお願いします。梅田桃樹と言います。男です。お世話になります。」
「あー、よく来たね。ワシら二人は『じいちゃん』『ばあちゃん』って呼んでくれりゃいいから、まあとにかく上がんなさい」
桃樹はそう呼ぶ事に少し抵抗を感じたが、取り敢えず付いて行くと勝手口から中へと入った。建物の中は外から見るより随分と綺麗で掃除が行き届いており、古さは隠せないが清潔感がある。桃樹は食堂の大きなテーブルに案内されると、荷物を置きそこに座った。
その後お互いの自己紹介をし、じいちゃんは川西正雄、ばあちゃんは川西加奈子と言い、他に従業員はおらず、二人でこの「ペンション・リバーウエスト」をきりもりしていたが、ただ、普段パラパラと釣客が泊まりに来るだけで、それでも困る事はなかったらしい。
「電話のお父さんの話だと息子さんだと言ってたんじゃが、届いた履歴書は女の子じゃし、どっちかなぁと思っとったんじゃ」
「すみません。どうも間違って送ったみたいで……」
「いいのよ、そんな事。でも本当に来てくれて助かったわ。急に三十人もお客さんが来たら、私達だけじゃ回んないからねぇ」
加奈子ばあさんが、お茶を入れた湯のみを桃樹の前に置いて、正雄じいさんの横に座った。
「あ、すみません」桃樹はお茶をすする。
「だって、あんなに高い時給で広告まで出したのに、全然募集がなくて、ほんと困っとったんだよ」
「ぶっ」桃樹は思わずお茶を噴いてしまった。
加奈子ばあさんは「あらあら」と、慌ててふきんを持って来る。
「すみません」と、言いながら桃樹は、〈「高い時給」って、最低賃金なんですけど……〉と、思い加奈子ばあさんを見た。実は彼は、アルバイトの時給が標準的にいくらかなんて知らなかったのだが、父が最低賃金ギリギリだと言っていたので最低なんだろう。桃樹は、きっと目の前の二人も自分と同じく、今の常識を知らずに募集したんだろうな。と、思った。
「それより、もしかして港から歩いて来たんか? 船着いてから、えらい時間掛かったんじゃないかい?」
正雄じいさんは食堂の大きな時計を見てから桃樹に向き直る。
「いえ、ちゃんとバスで来たんですけど、途中でキツネに化かされまして」
「キツネ? そんなの出たんか?」
「はぁ。巫女の姿に化けてたんですけど」
「あー、上の杏じゃろ。あの子はちょっと変わっとるからなぁ」
「はは、やっぱり……」〈変わってるんだ〉と、桃樹は思う。
すると、心配そうな顔で、正雄じいさんは桃樹の顔を覗きこんだ。
「あの子に何かされたのか?」
「いやちょっと……実は崖の上から海に突き落とされそうになりまして」
「あぢゃー」
正雄じいさんは顔に手を当てて反り返った。
「ごめんなさいね。あの子、本当は悪い子じゃないんだけど……」
加奈子ばあさんも真剣な顔で頭を下げる。
桃樹は、関係のないこの人達にそんなに謝られると、返って申し訳なく感じて思わず杏をかばってしまった。
「ははは、でもあの子、ちょっと変わってるけど、根は素直でかわいいですよね」
そう言った瞬間、川西夫妻は沈黙した。桃樹は何かまずい事でも言ったのかと目を泳がせる。
「あんた。変わっとるね」正雄じいさんは真顔で桃樹を見た。「あの子の事そんな風に言ってくれたの、あんたが初めてじゃ」
そう言われても、桃樹は何と答えていいかわからない。桃樹はあの杏という女の子が、実はもっと、とんでもない悪人なんじゃないかと少し不安になり始めた。
「おじいさん、そんな風に言わんでも、良い事言ってくれたんだから」加奈子ばあさんは立ち上がる。「明日からはあの子もここを手伝ってくれる事になってるから、二人で仲良くがんばってね」
「えっ、あ、はい」〈あの子と一緒に働くのか……〉その一言で、桃樹の不安は大きくなっていった。
ちょうど昼時、杏はふらふらと丸太の階段を下りてペンションの裏手に出た。
そして、まるで動物のように匂いにつられ、ふらふらと勝手口を上がる。そこから四つん這いになって、ぺたぺたと廊下を進むと、食堂の入口で止まった。
中を覗くと、正雄じいちゃんと加奈子ばあちゃん、そして朝出会ったばかりの桃樹が何かを食べている。
彼らは午前中の仕事を終え、三人で昼食を摂っていたのだ。
「ゴクッ」
杏は生唾を飲み込んだが、食堂には入ろうとしない。いつもの様に、じいちゃんとばあちゃんだけなら直ぐに入れるのだが、あの「桃樹」がいると、どう言って入ったらいいのか急にわからなくなり、躊躇してしまうのだ。
仕方なくじーっと見てると、向こうがこちらに気付いた。
「ん?」
桃樹は勝手口の方から誰かの視線を感じて、不審に思い覗き込むと、巫女装束の杏がこそこそとこちらの方を見ている。桃樹の様子に加奈子ばあさんも気付いた。
「あら、杏。どうしたんだい」
加奈子ばあさんが声をかけると、やっと気付いてもらえた杏は、ふらふらと入って来て桃樹の横に座りテーブルに突っ伏してしまった。
「ばあちゃん、何か食わせてくれ」
「どうした、また静子さんいないのかい?」
加奈子ばあさんが厨房に向いながら聞いた。どうやら静子というのは、杏の母親の名前らしい。
「うん。気が付いたら、出掛けてていなかった。朝から何にも食べてないのに……」
「えっ」桃樹は少し驚いて彼女を見る。杏の家庭の事情はよくわからないが、彼女はあまり、家で食事させてもらってないのだろうか。
加奈子ばあさんはもう一つお皿を用意すると杏の前に置いた。しかし彼女はそれを見ても嬉しそうな顔をしない。
「ばあちゃん。あたしビーフストロガノフ嫌いだ」
〈なに!〉桃樹は声に出さずに驚いた。〈これはハヤシライスじゃなかったのか!〉桃樹はさっきから食べていた料理が自分が思っていた物とは違う事に驚き、〈どうりで少し味が違うな〉と思ったが、それよりもまず、杏のわがままにカチンと来た。
「こら、ご飯食べさせてもらうのに文句言うな。これうまいぞ」
桃樹の言葉に杏もカチンと来た。
「うるさい! 放っとけ!」
そう言うとスプーンの柄で桃樹の顔を突こうとする。
「ひっ!」
正雄じいさんは、思わず悲鳴を上げた。
しかし桃樹は、難なく避けて杏の手を掴むと、その手からスプーンを奪い取った。杏は「うー」と唸ると、うなだれて大人しくなった。
〈こりゃたまげた。この少年、杏を手なずけよった!〉
正雄じいさんは、まるで桃樹を、猛獣使いかの様に大げさに思う。
桃樹は奪ったスプーンでビーフストロガノフを掬うと、杏の顔の前に「あーん」と言って持って行く。
杏はそれを「ぱくっ」と食べる。
〈こ、この少年、餌付けまで!〉
正雄じいさんは、またも大げさに思う。
そうやって杏は、桃樹に何度か食べさせてもらっていたが、川西夫妻がニヤニヤ笑いながらその様子を見ているのに気付き、
「もういい、自分で食べる」
と言って桃樹からスプーンを奪い、自分で食べ出した。
正雄じいさんも杏から視線を戻すと、ふと思い出した様に桃樹に言う。
「おおそうじゃ、仕事は明日からだから、今日はもう夕飯まで好きにしていいぞ。と言ってもこの辺りは何もないがなぁ……」
そう言うと正雄じいさんは桃樹の荷物に目が止まった。彼の荷物はボストンバッグと合皮で出来た長い袋で、来た時から食堂に置きっ放しだったのだ。
「お前さん、釣りでもするのかい」
「ああ、あの中身は竹刀なんです。おれ剣道するんで。後でちょっとその辺で振らせてもらいます」
「それなら、ゴクッ、ウチの道場でやりなよ」
杏は、水を飲みながら桃樹に向って言った。桃樹が彼女の方に向くと、皿の上は殆ど無くなっている。『嫌いだ』と、言ったくせに。桃樹は少し可笑しくなる。
「杏、あそこは道場じゃなくって、神楽殿でしょ」
加奈子ばあさんが言うと、桃樹のわからなそうな顔を見て杏が説明した。
「神楽殿ってのは、神社で舞を踊ったりするステージみたいな所を言うんだ。そんなのも知らんのか」
「ああ、そうなんだ」
相変わらず口が悪い杏であったが、桃樹は気にしていない。
「でもウチの神楽殿って、壁板が全部張ってあって一度も外したところ見てないし、ばあちゃんだって昔、あそこで薙刀の稽古してたんだろ?」
「ああ、もうずうっと昔の事だけどねぇ」
「よし、決まり。じゃあ行くぞ桃樹」
杏は立ち上がって桃樹の腕を引っ張る。
「えっ、ちょっと」桃樹はまだお皿に残っている分を慌ててかき込んだ。横目で見ると彼女の皿はもう空だ。
「早く行くぞ。のろま!」
杏は勝手に桃樹の竹刀入れを持って、勝手口へと行ってしまう。
「す、すいません片付けもしないで……」
「いいから気にせんで、行っといで」
申し訳なさそうに言った桃樹に、加奈子ばあさんは笑顔で見送った。
「あの子も、もう十五になるか」正雄は何かを思い出すように呟いた。「いよいよ今年、またこの季節がやって来てしもうた……」
「本当に来るのかしら」
加奈子は、彼の呟きに少し疑うような視線を向ける。
「ああ、来るさ、必ず。四年前と同じようにな」
そして二人の足音が、バタバタと勝手口から外へ消えてゆくと、食堂は、またいつもの静寂に包まれる。
蝉の声は、少し遠くで聞こえていた。 |