第三話 鬼の棲む島 二
二
旧型のバスは、黒煙を吐きながらガタゴトと揺れて、島を右周りに走っている。
定刻通り午前五時に港に着いた客船から、まだ眠たげにあくびをしながら降りた桃樹は、時刻表をみて八時迄バスがない事を知り一瞬愕然としたが、下船客用の臨時バスがある事を知るとそれに慌てて飛び乗り、今は、そのバスの真ん中辺りの座席で揺られながら風に当たっていた。
真夏でも、早朝の風は爽やかで涼しく、寝ぼけた桃樹の頭を徐々に覚ましてゆく。彼はしばらく島の景色を楽しんでいたが、ここへ来た目的を思い出すとウキウキした気分にはなれる筈もない。
気が付くと低い日差しがバスの正面から差し込んでいる。どうやらバスは北向きから進路を変え東向きに走っているらしく、道は海沿いから少し島の内側へ反れ、両側を崖に挟まれた殺風景な場所に出た。
桃樹が何気なく道端を見てると、バスは停留所を停まらずに通過してゆく。この臨時バスは下船客専用なので、途中から客を拾う事はなく、降車する人がいなければバス停に停まる事はない。しばらくバスが殺風景なままの道を走っていると、またも停留所を素通りした。
桃樹はその停留所の名前が目に止まり、慌てて立ち上がった。
「あっ。す、すみません。ここで降ります!」
バスは急ブレーキを掛けて停止した。桃樹はバタバタと鞄を持って通路を前に進む。
「えっ、お客さん。ここ神来だよ。こんなところで降りるの?」
バスの運転手は物珍しい顔で桃樹を見たが、こんな所と言われても、桃樹にはどんな所かはわからない。
「はぁ、すみません、降ります。どうも」
桃樹は停留所から数十メートル先でバスを降りた。街中じゃ考えられないが、停留所がないところでバスを降りても、他に走る車もなく特に迷惑にはならないようであった。もしかすると、自分の家の前で停めてくれと言ったら、停めてくれるかも知れない。
そんなバスを見送ると、桃樹はポケットから落書きのような地図を取り出し、アルバイト先のペンションに向った。
バス道をそのままの方角に少し歩くと、道が右にカーブしている。そのままバス道を歩いても着くのだが、そこから細い道が真っ直ぐ伸びていて、そっちを行った方が近道になる。桃樹はその細い道を行く事にした。
その道は林の中を通る道で、蝉の声がやかましいぐらいに響いている。途中、道は登り坂になり、その横をさらに細い道が右に分岐し下っていたのだが、気付かずに歩いていると、桃樹はやがて大きな鳥居がそびえ立つ神社へ辿り着いてしまった。
桃樹は慌てて地図を見る。
どうやら桃樹は道を間違えたらしい。地図の星マークが目的のペンションなのだが、その少し海側に鳥居のマークがある。彼はそっちに来てしまったようだ。
仕方なく引き返そうと桃樹が振り返ると、社務所の横で、巫女装束の女性が竹ぼうきを持って掃除をしていた。いや、掃除をする振りをして、桃樹をじっと睨んでいると言った方がいいだろう。とにかくその巫女は、思いっきり訝しげな視線を、桃樹に突き刺すように向けていた。
桃樹はその様子に気付き苦笑いすると、蝉の声に負けないように大きな声で尋ねた。
「すみませーん。この辺りに『リバーウエスト』っていうペンションありますかー?」
その巫女は少し不思議そうな顔をした後、桃樹の近くまで歩いて来た。よく見ると桃樹と同い年ぐらいの少女だ。彼女は、ほうきを持ち上げ、本殿のある方角に向けると、
「その地図は間違っている。ペンションはこの神社を抜けて、さらに奥へ続く道を真っ直ぐ行った海沿いにある」
それだけ言い、彼女は桃樹に背中を向けて元の場所に戻ってしまった。
「あ……ありがとう」
桃樹は〈何か変な女の子だなぁ〉と思いながら、彼女の言ったとおり神社の奥へ歩いて行った。ただ、自分が持っている地図とは全く反対の方向で少し不安になったが、素直な桃樹は、地元の人が言うんだから間違いないだろうと気軽に考えて歩き続けた。
本殿の真裏は鎮守の森――松林が広がっていたが、それを左手に見る形で、彼女の言った通り奥へと続く真っ直ぐな道があり、さらにそれを進むと桃樹は墓地へ出た。右手にはお寺の本堂も見える。この辺りは離島という事もあり、神仏分離の影響をあまり受けず、同じ敷地とは言わないまでも、極めて近い位置に神社と寺が並存していた。
桃樹は〈お墓の事なんて言ってなかったけどなぁ〉と彼女の言葉を思い出すと、海沿いにあるというペンションの建物を探したのだが見つからなかった。どうやら墓地の向こうは海らしく、彼は下――海にに降りられると思い、真っ直ぐ道の突き当たりまで歩いた。
――!
そこに立ち桃樹は驚いた。そこは下に降りる道などなく、断崖絶壁だったのだ。真下には波が岩にぶつかって白い波を立てている。
彼は、四年前の事件に関する父の言葉を思い出した。
『その女性が発見されたのは、墓地の裏手にある崖下の岩場だったんだ……』
「もしかしたら、ここって……」
その時、鋭い気が桃樹の背中に突き刺さった。
彼は、触れる事により相手の思考や記憶を読み取る特殊な能力を持っていた。ただし、自分に強く向けられた殺気や気配は、触れずとも感じる事が出来る。それは単に「気」というレベルではなく、相手がどう攻撃しようとするのか、相手が次にどんな技を仕掛けようとしているのかという「意思」がわかるのだ。彼が武道に長けているのは、その能力のおかげでもあった。
その気はゆっくりと近づいて来た。彼は数週間前、学校の屋上で同じような境遇に遭った事を思い出しながら、近づいてくる者の顔も姿も、手に取る様にわかっていた。
その者は巫女の姿をして、ほうきの柄をこちらに向け、今にも桃樹を突き落とそうとしている。
桃樹はぼんやり海を見ている振りをして、充分に彼女を引き付けると――
「こら!」
いきなり振り向いてほうきの柄を掴み、それを奪い取った。
「げっ! バレてた!」
慌てて走って逃げる少女を、桃樹は追いかけた。彼女の足はびっくりするほど速かったが、桃樹の足も速い。いくら荷物と奪ったほうきを持っているとは言え、草履ばきに袴姿の彼女に、スニーカの桃樹が負ける訳はなかった。すぐに追いつくと、彼女は慌ててつまづき、倒れた。
桃樹は彼女の身体を仰向けにひっくり返えすと、その上に乗り掛かる。
「一体どういうつもりだ! お前おれを殺すつもりか!」
桃樹は精一杯凄んだつもりだったが、彼女は妙に落ち着き、桃樹の質問にも答えず、逆に桃樹に質問した。
「お前、本当に女なのか?」
「へっ?」桃樹はすっとんきょうな声を出した。「おれが女に見えるか! おれは男だよっ」
「本当か?」彼女はそう言うと、桃樹のジーンズの上から「さわ、さわ、さわ」とあの部分をさわった。
「わぁっ、な、何するんだ」
「なんだそうなのか、それならいい」
彼女はその手触りに納得した様子だ。
「何がいいんだ!」
「お前、川西のじいちゃん所にバイトに来たんだろ」
「へっ? 川西? ……ペンション・リバーウエスト。ああ、そうなんだ」桃樹はその安易なネーミングに納得して、「そうだよ」と、ぶっきらぼうに答える。
「じゃあ、これは何だ?」
彼女は上に乗っている桃樹に「しっしっ」とあっち行けをすると上体を起こした。本当は殺されそうになった被害者の怒りを、もっと彼女にぶつけなければいけないのだが、あまりにも悪気の無い彼女の態度に、簡単に流されてしまう桃樹は、「ああ、ごめん」と言って横に離れる。
すると彼女は、白単衣の胸から一枚の紙を取り出し、それを広げて桃樹に見せた。それはさくらがアルバイト先にファックスした桃樹の履歴書のコピーだった。いや、正確に言うと桃樹のではない。そこには「氏名・梅田桃子、性別・女」と書かれてあった。
「あ、姉貴のやろう!」
桃樹はその紙を奪い取ると、立ち上がって真っ二つに破いた。多分さくらは、ここに着いて来れなかった恨みと、桃樹を女装させられなかった悔しみと、いつものいたずら心でそんな履歴書を送ったんだろう。
『ヒャヒャヒャヒャヒャー』まるでさくらの笑い声が聞こえて来るようだ。
「じゃあ、間違いだったんだな。それならいいや」
桃樹の様子を見た少女は、立ち上がって袴を「ぱんぱん」とはたくと、ほうきを拾ってスタスタと帰ろうとする。
「ちょっと待て!」桃樹は怒鳴った。「男だろうが、女だろうが、あんな所から突き落としていいわけがないだろ。殺人未遂だぞ!」
「バカかおまえは。あんな所から飛び込んで死ぬわけないだろ。あたしなんて小学校の時は、夏は毎日あそこから飛び込んで遊んでたぞ」
彼女は呆れた顔でそう言うと、前を見てまたも帰ろうとする。桃樹は女の子にそう言われると返す言葉がなく「ああ、そうなの」と言いかけたが、冷静に考えるとやっぱりおかしい。
「おい、死なないからって、やっぱり突き落としていいわけないだろ!」桃樹は彼女の肩に手を掛け引き止めた。
――その時、彼女の心の中の声が桃樹に伝わった。
桃樹は、触れる事により相手の思考や記憶を読み取る能力を持っている。自分に強く向けられた殺気や気配は、先程のように触れずとも感じる事は出来るが、それ以外の相手の心は、触れなければ読取る事は出来ない。その上、その能力はいわゆる心を読むという程大げさなものでなく、極々相手の表面の思考や記憶を読み取れる程度の能力であった。ただ、その能力を持つが故に、彼は父親の指示で事件の捜査を行っているのである。
さらに実験では、彼の能力は女性に対してはほとんど通じなかった。その理由は今もわかっていない。例外的に、訓練により姉のさくらの思考は読むことが出来る様になったが、それは桃樹の力だけでなく、さくら自身が、心のどこに言葉を置けば桃樹が読取れて、どこに置けば読取れないかを会得しているからでもあった。
しかし今、桃樹に伝わった彼女の言葉は、とても鮮明で、まるで耳元で囁かれたように、はっきりと彼に伝わったのだ。それは桃樹にとって、初めての経験だった。
彼女の心から伝わったのは、こんな言葉だった。
《本当にごめんなさい。ゆるして下さい――》
桃樹は初めての経験にびっくりすると共に、態度とは真反対の彼女の言葉に驚き、そのまま固まってしまった。
「なに呆けてるんだ。用がないならあたしは帰るぞ」
何も言えず黙っている桃樹を見て、彼女はそう悪態をついて歩き出した。
「ち、ちょっと待ってよ、結局そのペンションへ行くのはどうしたらいいんだ」
桃樹は彼女の心の言葉で、すっかり突き落とされそうになった怒りは消え失せた。彼女に追いつくと、「本当はこっちだ」と言った彼女の横を付いて歩いた。
「なあお前、梅田桃子って言う名前なのか?」
彼女はちらっと、桃樹の横顔を見る。
「違うよ、あの履歴書はウソだ。うめだももき、桃樹って言うんだよ」
「やっぱり『もも』じゃないか。『もも』は女の名前だぞ」
「ほっとけ、桃太郎だっているじゃないか。それよりお前は何て言うんだよ」
「あたしはね、へへ、杏って言うんだ。あっ、ここだよ、この階段を降りたらペンションの裏手に出るから」
いつの間にか境内に戻っていた桃樹は、杏が指差した海とは反対方向に降りる階段を見た。階段と言っても、坂道に所々丸太を敷いて階段状にしただけのものだ。彼は、〈また騙してんじゃないだろうな〉と、少し疑ったが、今度は地図と同じ方向である事と、彼女の心の声を聞いた事で信じる気になった。
桃樹は「じゃあ」と言ってその階段を降りようとする。すると彼女が呼び止めた。
「それより桃樹、歳はいくつなんだ?」
「えっ、ああ、十五。高一だよ」
「なんだ、あたしと一緒か。それにしても、十五にしては幼い顔してるな。都会の人間は苦労してないんだなぁ」
「ほっとけ。お前だって同い年のくせに、ちんちくりんで胸だってちっともねーじゃん」
桃樹は普段、女性の身体に関して悪口を言う事は殆どないのだが、杏のさっきからの余りの悪態の数々に耐えかね、思わず口走った。
「貴様、言ってはいけない事を!」
杏はまたもほうきの柄で桃樹を突こうとする。桃樹は、〈おっ、意外と速いな〉と、思ったが、余裕でそのほうきの先を掴むと、自分の方へ引っ張った。杏はほうきを桃樹に奪われないように必死で引っ張り返す。
しかし力で勝る桃樹は、どんどんほうきを奪い取ってゆく。
そして、その手が彼女の指先に触れた瞬間、桃樹にまた彼女の心の声が伝わった。
《ごめんなさい。本当はあなたと仲良くなりたいの――》
桃樹はまた驚いた。思わずほうきから手を離すと、杏は勢い余って後ろにひっくり返る。
「いててて、急に離すなバカヤロウ」
口から出る言葉は相変わらず悪いが、桃樹はだんだん彼女の事を、〈心の中は素直なんだけど、実はとっても照れ屋さんなんだろうな〉と、思い始めた。
しかしそれは、実は桃樹の、桃樹にしか出来ない誤解だったのだが、彼はまだ気付かない。
杏は立ち上がろうとすると、いつの間にか後ろに回った桃樹に抱きかかえられて起こされた。
「な、なんだ。そんな親切にされても、許さないからな」
彼女はまた悪態を付いたが、彼女の素直な心を見たつもりになってる桃樹は、そんな言葉が逆に可笑しくなって、「ははははっ」と、笑った。彼女はまるでイタズラ好きの子供の様だ。
「何が可笑しいんだ」
そう言う彼女の頭を、桃樹は手のひらでグリグリとなでると、つい口に出して言った。
「お前って、可愛らしいな」
その瞬間、彼女の顔は真っ赤になり、目は大きく見開き、口は回らず「あわわわ」と言ったあと、「バカヤロー」と言って走って行ってしまった。
〈やっぱり変なヤツ〉
桃樹は、彼女がどこかに行ってしまったので、ペンションの裏手に出る階段を降りていった。
杏は全力疾走で社務所の影に隠れたあと、その影から桃樹の事を、階段を降りて見えなくなるまでじっと目で追っていた。桃樹が見えなくなっても、彼女の心臓はまだ激しく鼓動したままだった。それは全力疾走をしたからではなく、桃樹に言われた言葉のせいであった。
彼女の性格上、「イジワル」「インケン」などと言われる事は数多くあったが、「カワイイ」なんて言われたのは生まれて始めての事であった。いや、まだハイハイをしていた赤ちゃんの頃にはきっと言われていただろうが、そんな時の事は当然記憶にない。とにかく彼女にとっては人生で初めての経験だったのだ。
「ふーぅ」
杏は長い溜め息を付くと、ほうきを立て掛けて、家に戻ろうとする。彼女はこの神社の神職一家の娘で、住居は社務所の裏にある。
彼女は胸に手をやると、やっと心臓の鼓動は収まったのだが、胸の中にはまだ、「きゅう」と、息苦しくなる何かが残っている気がして、また「ふぅ」と、溜め息を付いた。
「なんだ、あいつのせいで、胸が何か変だ……」
その時、久し振りに彼女に聞こえる声があった。
《ふふふふ……それはね、恋っていうのよ》
彼女は思わずその声に振り向いたが、それは青空に溶け込んでしまい、あとは風と蝉の声しか、聞こえるものはなかった。 |