第二話 星空を飛ぶ時 八〜九
八
桃樹はいつも、家に帰ってもチャイムは鳴らさず、持っている鍵で直接ドアを開ける。ほとんどの場合、彼が帰っても誰もいないからだ。
しかし今日は帰りが遅かった事もあり、先に誰かが帰っているようだ。玄関に上がると奥のリビングから不気味な声が聞こえる。
「ムフ、ムフフフフフ……」
どうやら姉のさくらの声のようだが、桃樹は不審に思い、音を立てずにそっとリビングに入る。
「ヒャヒャヒャヒャヒャー」
そこには、やはり姉のさくらがソファーに座って前かがみになり、テーブルに置いたパソコンを見つめてニヤニヤ笑いながら、奇声を発している。
「なんだ、やっぱりねーちゃんか」
「わあああああ。ごめんなさい。なにもしてませーん。って、何だ桃樹じゃない。脅かさないでよ」
さくらは声を掛けた桃樹に、勝手にびっくりして、勝手に怒った。
「ちょっと、帰って来たんなら、『ただいま』ぐらい言いなさいよ!」
「ただいま」
「はい、お帰りなさい。もう!」
彼女は自分が驚いた事に対し、まだ腹を立てているようだ。
「ねーちゃん。何見てたの? それオヤジのパソコンだろ? もしかしてエロサイト?」
「そんなの、このわたくしが見るわけないでしょ!」
さくらは偉そうに言うと、二人しかいないにも拘らず、桃樹に近づきこっそり耳打ちするように小声で言った。
「ちょっと不法侵入してたのよ、警視庁のデータベースに」
「えーっ! うぐぐぐっ」
桃樹が大声で驚いたので、さくらは慌てて彼の口を塞いだ。
「ちょっと! 声大きいわよ」
「って言っても、二人以外誰もいないじゃん」
「そうだけど……雰囲気よ、フンイキ。悪い事はこっそりやるから風情があるんでしょ」
「フゼイって……でも、悪いことしてんの? ねーちゃん」
「そりゃね。部外者が勝手に見てるんだから。ま、このセキュリティレベルじゃ、大した内容じゃないけどね」
「ふーん」
桃樹はダイニングに行き、鍋にシチューが残っているのを見つけると火を点けて、炊飯ジャーのご飯をよそいテーブルに着いた。
さくらはパソコンを片付けて、桃樹の向かいに座る。
「で、どうだったの? あの自殺しそうもないヤンキーの、自殺の原因は何か分った?」
さくらが言うヤンキーとは、学校の屋上から飛び降りた向日忠志の事である。
桃樹は、ご飯を口に運ぼうとした箸を止め、姉の顔を見た。
「ねーちゃん。催眠術を掛けて人を殺したら、その人は罪になるんだろうか?」
「えっ、なに? 急に変な事言うわね。まあ今の日本の刑法じゃ、まず無理ね。催眠術に掛けるために、何処かに監禁したり、薬物を使用したりすると、その行為は犯罪になるけど、それと本人の意思による自殺を直接結び付ける事は出来ないわ。マインドコントロールによる犯罪も、まだ判例では直接認められていないし、そういうのはまだ疑似科学とみなされてて、催眠術でも、祟りや呪いって言うのと同じレベルで、現代の法律では殺しの原因には成り得ないの」
「ふーん。ボリボリ」
桃樹はシチューが温まるまで、とりあえずタクアンでご飯を食べていた。
「って桃樹、もしかして、あのヤンキーは催眠術に掛かって自殺したって言うの?」
「うん。実はおれも今日、催眠術に掛かって死にそうになったんだよ。へへへへ」
「『へへへ』って、なに呑気に笑ってんのよ! 一体誰にやられたの?」
「えっ。あの昨日の写真の烏丸紗夜って言う女の人だよ。本人は掛ける積もりはなかったみたいなんだけど……。彼女は呪いって言ってたけど、あれは一種の催眠術だよ。おれにはわかる……ボリッ」
「で、でも、その彼女が、あのヤンキーに催眠術を掛けたっていう証拠はあるの?」
「それは、本人が言ってたんだ。『私と寝た男はみんな呪いに掛かって死んでゆく』って……」
その瞬間、「ふっ」と、照明が暗くなった。
上空から殺気の塊が、光を遮り桃樹に襲い掛かかる。
「!」
桃樹の反応は……、間に合わない。
ダァーン!――
その殺気の塊は、上空から飛び掛ると、椅子ごと桃樹を押し倒し、体の上に乗って首を絞めた。
「うぐぐぐぐ……」
桃樹は声が出せない。何とか開く目で、襲い掛かった者の顔を見た。
それは鬼の形相をした……姉のさくらだった。
彼女は一瞬で椅子からテーブルに足を掛け、そのままジャンプして向かいの桃樹に襲い掛かったのだ。無警戒だったとは言え、彼女の瞬発力は桃樹の反射神経をも上回った。
さくらは桃樹の首を絞めながら、冷酷な眼差しと声で彼に問いかけた。
「桃樹、あんた、今何て言ったの?」
「うぐ、うぐ、ぐぐ……」
いくら聞かれても、首を絞められた桃樹は声が出ない。
「あんた、あの女と寝たの?」
「ちが……うぐぐ……」
「言ったわよね、あの女と寝た男は催眠に掛かるって。それであんた今日催眠に掛かったんでしょ、あの女と寝て」
「ちが……が……」
さくらは、桃樹が本気で気を失う一歩手前で、ようやく首に掛かった手の力を緩めた。
「何が違うの? どおりで帰りが遅いと思ったら、そんなイヤラシイ事してたの? ほんっと最低ねっ!」
「げほっ、げげっ、ち、ちがうよねーちゃん。おれなんにもして、げほっ……」
桃樹はまだ、まともに話せなかったが、必死で命乞いをした。
「お、おれは、彼女の記憶を読もうとした、げほっ、だけなんだけど……、おれの能力が彼女の力を大きくして……普通じゃ掛からないのに、掛かったんだ……催眠に……ごほげほごほっ」
「あっ、そう言えば確かにそうね」
必死の桃樹と対象的に、何かを思い出したさくらは、呑気にポンと手を打った。
「よくあんた、実験班の連中に催眠のテストされてたわね。普通より掛かりやすいから気を付けろって。大体あんた、人の記憶を読むために、自分の心のチャックを開けっ放しでぶらぶら歩いてる様なものなんだから」
〈その表現はやめてくれ……〉桃樹は思ったが、口に出す余裕はない。
「じゃあ、本当に何もしてないんだ」
さくらは桃樹の目を覗き込む。
「当たり前だよ」
桃樹は真顔で言った。
彼が催眠に掛かったのは、実は烏丸紗夜とキスをしたからなのだが、そんな事を言うと、もう一度さくらに首を絞められるに決まっている。普段、彼はすぐに顔に出てしまい嘘を付くのが下手なのだが、この時ばかりは一切顔に出なかった。それは命を守る為、彼の防衛本能が付いた嘘だと言えた。
「そうか、なんだ、ごめんね。ははは……」
さくらは、やっと桃樹から降りて立ち上がる。桃樹は身体を返し、うつ伏せになって、まだ咳き込んでいた。
「なに、いつまで寝てんのよ。ご飯冷めちゃうわよ」
〈あんたのせいだろ……〉桃樹は言葉に出さない代わりに、さくらを睨み付ける。
「……ははは。そうだお姉ちゃんがシチュー入れてあげるから、座んなさいよ。……あっ!」
さくらが鍋のふたを開けると、残り少なかったシチューは、すっかり焦げ付いていた。
「ちょっと桃樹、あんた火が強すぎるのよね。せっかくのシチューが焦げ……」
〈それも、あんたのせいだろ……〉桃樹の目が言う。
「あっそうだ。お姉ちゃんが野菜炒めでも作ってあげるわ」
「……別にいいよ。食欲も無くなったし……」
桃樹はやっと椅子を起こして、そこに座った。
「遠慮しなさんなって!」
さくらはテキパキと用意をし始める。桃樹はそれ以上断らずに、流れに任せる事にした。
彼はさくらが料理をしている間、烏丸紗夜の事について話をした。彼女の父親が死んだ事、彼女の恋人が死んだ事、そして向日忠志を殺したという事。
「ふーん。でもね桃樹、その彼女の力、それって催眠術と言うより『カリスマ的精神支配力』に近いわね」
「なにそれ?」
「んーそうね、簡単な例だと……桃樹の周りでもいないかなぁ? 同じ事言ってても、妙に説得力のあるヤツとか」
「んー、なんとなくかな?」
「まあ、そういうのから始まって、アイドルやアーティスト、そしてカルト教団の教祖や政治家に至るまで、集団の指導者やトップというのは人を惹き付ける力、カリスマ性って言うのは確かにある訳よ。それが顔の良さだったり話し方だったり、その人の生い立ちとか、まあいろいろ分析は出来るんだけど、そのどれにも当てはまらない『能力』が確かに存在するらしいの」
「へぇー」
「あのカルト教団が大規模テロ事件を起こしてから、お父さんの部署でも研究が進んでるって聞いたわ。ま、超心理学の分野だから、わたしや桃樹なんかの『能力』と一緒に研究してるらしいけど」
「ふーん。でもその『カリスマなんとか』って催眠術とどう違うの?」
「まず人を惹き付ける力、カリスマ性ね。いくら催眠術が得意でも、進んで掛かりに来る人はいないわ、とにかくまず人を惹き付けないとだめなの。そして惹き付けた人を操る力、マインドコントロールや催眠術とか、その二つの力を兼ね備えてる人はそういないわ。彼女はその両方の力が物凄く強い見たい……」
「そうだよ、おれだってあんな簡単に……」
「あんたは、どんな女にでも弱いから話は別よ!」
さくらは野菜炒めの皿をテーブルに、「ドン」と、置いて椅子に座ると、自分の箸を取り出した。どうやら彼女もつまみ食いするらしい。
「……あ、でも彼女、不良の集団を一発で言うこと聞かせてたよ、たぶん……」
桃樹は、神社で紗夜が、不良達を家に帰らせたのを何となく覚えていた。しかしその後、学校の屋上に無意識で向ったため、記憶は曖昧だった。
「あと、おれが『自分の力』を強くしたって彼女言ってた。そんな事あるのかな?」
「さーね。それはわからないけど、桃樹が彼女の何かの刺激になったんじゃない? この色男!」
「そんなんじゃないよ、おれなんて子供扱いなんだから……」
桃樹は、また危ない方向に話が進むのを恐れて、必死で言い返す。
「ふーん。でも、『カリスマ的精神支配力』って、本人がそれという自覚がない事が殆どで、その力もすごく不安定なの。急に強くなったと思ったら、急に消えてなくなったり……ほら、よく大人気の芸能人が、急に消えていなくなったりするでしょ。ま、あれは事務所のせいだったり原因は様々なんだけど、本人のその力が急に無くなった例もあるらしいわ」
「へぇー」
桃樹は慌てて野菜炒めを茶碗に入れて、ご飯と一緒にかき込んだ。さくらがさっきから、凄い勢いでぱくぱくつまみ食いをして、桃樹の分がなくなりそうだからである。
しかしそのさくらの箸が、何かを思いついた様にぴたりと止まった。
「でも、オヤジ怪しいわね。桃樹をあの学校に転校させたのって、もしかしたら、最初から烏丸紗夜の事マークしてたんじゃ……」
「えっ? そんな事ってあるの……」
相変わらす呑気な桃樹の顔を、さくらは箸で指差した。
「あのね桃樹、彼女の力はね、ちょっと人の記憶を見て、びっくりしてひっくり返ってるようなあんたの能力とは違って、もの凄く危険な能力なの。即、犯罪に結びつくような。だからウチもきっとマークしてるわ」
「じゃあ彼女、逮捕されるの?」
「なに? 桃樹、あんた殺されそうになった相手を、まだかばいたいわけ? ほっんとお人好しっていうかバカね!」
「でも……」
「まあ、さっきも言った通り、殺人罪で彼女が逮捕される可能性は少ないわね。でも、別の方法で身柄を拘束される可能性はあるわ」
彼女は立ち上がった。
「ねーちゃん、どこ行くの?」
「お風呂よ。後は桃樹片付けといてね、お皿割らないように」
「うん」
「桃樹……」
さくらは、ダイニングの出口で立ち止まった。
「あんた、彼女の事どう思ってるのか知らないけど、少しでもかばいたいのなら、オヤジには彼女の事を言っちゃダメよ」
「え、どうしてさ?」
さくらの目は少し悲しそうだったが、桃樹には彼女の背中しか見えなかった。
「彼女の事を、わたし達みたいなモルモットにされたくなけりゃね」
さくらは部屋を出ると、後ろ手にドアをそっと閉めた。
九
部屋の蛍光灯を消してから、五分くらい経ったろうか。
豆球も点けずに真っ暗にした部屋だったが、次第に目が慣れて来ると、紗夜は隣の布団で寝ている綾が寝苦しそうに、もぞもぞ動いている様子が見て取れた。
「綾ちゃん……まだ、眠ってない?」
紗夜は小声で呼びかけた。
「はあ、まだです」
綾が答えると紗夜は自分の布団を出て、綾の布団に潜り込んだ。
「さ、紗夜さん」
「今日はごめんね。足、痛くない?」
「ええ、もう痛みはないです。でも桃樹のやろう、なんであんな事したんだろ?」
「ごめんね、それも私のせいなの……」
「そうなんですか? でも紗夜さんの周りって、不思議な事がいっぱい起こるから、もう慣れちゃいましたけど……」
「そう……」
紗夜は、何気なく綾の胸に手を添えると、急にびっくりしたようにパジャマの前を広げて胸を覗き込んだ。
「あれっ、綾ちゃん。また胸大きくなったんじゃない?」
紗夜は、今度は綾の胸を揉みだした。
「ちょ、ちょっと紗夜さん。そんな、紗夜さん程じゃないですよ」
「そんな事ないわ、私より大きいかも……もう子供扱い出来ないわね」
紗夜は綾の上に乗って両手で胸を揉んだ。パジャマの上からとはいえ、下着も付けていないので、綾には紗夜の手の感覚が直接伝わって来る。
「ちょっと紗夜さん。ダメですよ。そんな……」
「綾ちゃん……」
紗夜は真剣な顔で綾を見つめた。
「私ね、もう男の人と抱き合えない身体になっちゃったの」
「えっ!」綾は起き上がった。
「もしかして紗夜さん。桃樹のやろうに何かされたんですか!」
「違うわよ、綾ちゃん」
「そうですか……」綾はまた寝転がった。
すると紗夜はまた綾の上に乗りかかる。左手で綾の頭を抱えて右手はそっと胸に置いた。顔は唇が触れ合う程に近づいている。
「私、もう男の人と抱き合えないなら、趣味変えちゃおうかな、女同士とか……どう思う綾ちゃん」
「どうって、紗夜さん……」
さっきから紗夜の手は、ゆっくりと綾の胸の上で動いている。
綾は頭の中が真っ白になって、何を言っていいか分らなかった。
「あ、あたし、さ、紗夜さんなら、何されても……、い、いいです……」
「ふふ、うそよ」
紗夜は軽く綾の唇にキスをすると、ごろんと横に転がった。
「綾ちゃんには、梅田君がいるものね。取ったら可愛そうね」
「何言ってんですが紗夜さん! あいつは子分なんですから! そんなんじゃありません!」
綾の顔は真っ赤だった。ただその原因は、さっきからの行為全てに当てはまるもので、どれかに特定する事は出来ない。
「大体あんな頼りなさそうで、弱々しくって子供みたいなヤツ、全然ダメですよ」
「そうかな。彼って実は凄く強いのよ、仮部員の不良をバンバン投げてたんだから」
「そうなんですか?」
「それに意外と硬派だし」
「えー?」
「今日ね、私無理やり梅田君にキスしようとしたら、『おれは、好きでもない人と、キスなんてしません』なんて言われちゃった」
紗夜はその後、強引に桃樹にキスをしたのだが、その事は黙っていた。
「さ、紗夜さん……相変わらず、なんか凄い事してますね……」
「ふふふ……」紗夜は話したい事を全て言い終えたのか、「もう寝ようか」と言って自分の布団に戻った。
「おやすみなさい」
綾も目をつむった。
しばらくして紗夜の布団からは寝息が聞こえてきたが、綾はそれからも胸の高まりが抑え切れず、結局目が開いてしまった。
彼女は挫いた足をかばってゆっくりと起き上がると、窓際へ歩いてゆく。
〈せっかく後輩が入って来たと思ったのに、あたしって、やっぱりおもちゃにされるのかなぁ〉
綾はさっきから、目をつむると桃樹におんぶされた時の感覚と、紗夜に触られた胸の感覚が交互に蘇り、眠るどころではなかったのだ。
彼女がカーテンをそっと開くと、窓ガラスに自分の姿が映り込んだ。
「あちゃちゃ」
それを見て、綾はパジャマの胸のボタンが二つも外れている事に気付き、慌てて止める。そして「クス」っと笑うと、
「ま、お月さまとお星さましか見てないけどね」
そうつぶやき、窓の外をぼんやりと眺めた。
そこには月と、いくつかの星が出ていた。
そして、ちょうどその頃、学校で起きた出来事も、夜空の星以外、誰も見ている者はいなかった。 |