第二話 星空を飛ぶ時 七
七
神社の境内は、夜九時を回ったばかりだと言うのに、本殿の裏手から入って来た二人以外に人の気配は無く、まるで深夜のように静まり返っていた。
桃樹は、紗夜の家に着いて足を挫いた綾を部屋まで運ぶと、神社に置きっ放しだった鞄を受け取って一人帰ろうとした。しかし、紗夜が桃樹を駅まで送ると言い出したのだ。
「大丈夫なんですか?」
桃樹は綾の事を尋ねた。
「彼女よく泊まるから大丈夫よ。勝手知ったる何とかってやつよ。パジャマだって着替えだって置いてるんだから」
「へえー」
一人残される事になった綾だったが、紗夜が、『帰りにコンビニでお菓子買ってくるわ』と、言うと、『やったー』と、言って納得した様子で二人を見送った。
「今頃パソコンで撮った写真を、トリミングして喜んでるじゃないかな。それより……」
「おれも大丈夫ですよ」
桃樹は、彼女がきっと自分の事を心配して着いて来たのだと思っていた。
「もう紗夜さんの、その、呪いとかいうヤツには掛かりませんから」
「ホントに?」彼女は桃樹の顔を覗きこむと、たたっと走って拝殿の横の柿の木にもたれた。そこは数時間前、二人がいた場所だった。
「じゃあもう一回キスしてみる?」紗夜は上目使いに桃樹を見る。
「ええ、いいですよ。何回でも」
桃樹は口を尖らせて変な顔をした。『いつも顔を赤くして照れてばかりはいられない』と、いう意地が彼にそんな顔をさせたのだが、顔を赤くして照れていた方がきっとマシだったであろう。
「バカね。そんなタコみたいな口にキスしたい訳ないでしょ」紗夜は笑った。「少し抵抗する子に無理やり迫るのが一番楽しいんじゃない。男子だってそうでしょ?」
「相変わらず恐ろしい事言いますね」桃樹の口が戻った。
「手、つなごうか」
そう言うと、紗夜は桃樹の手を取って歩き出した。
二人は鳥居をくぐり、階段を降りて駅へと向う道に戻る。
道に出ても、深夜のような静けさは相変わらずで、車の通りもなく商店のシャッターも閉じており、どうやら駅に着くまで状況は同じようだ。
桃樹は繋がれた手が前後に振られるのを見て、なんだか可笑しくなった。
「やっぱり可笑しい?」
紗夜は桃樹の顔を見て言った。
「こうやって手を繋いで歩くのって、なんか子供っぽくて紗夜さんのイメージじゃないみたいで」
「そうかな。じゃあ綾ちゃんなら、イメージ通りなの?」
「ん〜。彼女のイメージだったら、リコーダー吹きながら歩いてそうですけど」
「それってまるっきり小学生じゃない。梅田君も結構ひどい事言うのね」
紗夜は握った手をブンブンと大げさに振ると、
「たまにはいいでしょ、こんなのも」そう言って笑った。
「そうですね」
桃樹が笑った途端、今まで何も伝わらなかった彼女の手から、急に冷たく、はっきりとした言葉が伝わり、桃樹は、それが彼女の口から発せられる前に、思わず聞き返しそうになった。
少しの沈黙の後。
「私はね、本当は生まれて来なかった方が良かったの」
紗夜は前を向いたまま言った。なぜ彼女が急にそんな事を話し出したのか、桃樹にはよくわからなかったが、きっとそれは桃樹を殺しそうになった事への、お詫びのつもりだったのかも知れない。
「私の本当のお母さんはね、私を生んだ時に死んでしまって、私は新しい母に育てられたの。私は本当のお母さんにとてもよく似てて、よく母の生まれ変わりなんて言われたわ。父はそんな私をすごく可愛がってくれた。でも新しい母はそんな私が可愛い訳がなかった。よく、『死に損ない!』なんて言われたわ」
「そんな……」
「ひどいと思う? ……でもみんな同じ。要はみんな私を私として見てるんじゃなくて、私の後ろのお母さんの影を見てたの。新しい母が憎むのも、父が愛してるのも、私じゃなくて、私の後ろに居るお母さんの影だったの」
紗夜は夜空を見上げた。
「小学校の五年生の時に、父が間違って、私の事を死んだお母さんの名前で呼んだ事があったの。今考えたら大した事じゃないんだけど、その時、結局父は、私をお母さんの代わりとしか思っていないんだ。と感じて、すごく腹が立って、『そんなにお母さんに逢いたけりゃ逢いに行けばいいのよ!』って、言っちゃったの。凄い事言うでしょ?」
「はあ、でも子供だし腹が立ったらそのぐらいの事、言っても仕方ないですよ」
「言うだけならね……」
彼女は桃樹を見た。彼はゾクっとして唾を飲み込む。
「次の日、父は本当にお母さんに逢いに行った……父は家の近くのホテルに勤めてたのだけど、お祭りの垂れ幕を掛けようとして屋上で作業をしていた時に足を滑らせて……転落死だったわ」
「父のお葬式の後も、私は混乱していた。父が本当に母に逢いに行ったのか、私が父を恨んだから死んだのか、わからなかった。でも、父との会話を聞いていた母が言ったの。『あなたが父親を呪い殺したのよ。あなたのせいでお父さんは死んだの。私にはわかる、あなたの目には何かが棲んでいる』って……」
桃樹は何も言えなかった。彼女の父の死は、単なる事故だったかも知れないし、母の言葉も根拠の無いものだ。ただ彼女の目に、何か特別なものを感じる事だけは、桃樹も同じだった。
「私はもう何も悲しくはなかった。母にも言ったわ。『じゃあ、お母さんも連れて行ってあげようか、お父さんの所へ。逢いたいんでしょ?』って。次の日母は家を出て行った。元々父の家は地元では土地とか持ってて、少しお金持ちだったから、新しいお母さんは財産目当てで、子連れで祖父母と同居してるような父と結婚したの。でもお金より命が惜しくなったのね。殆ど何も持たずに出て行ったわ。父の香典だけは、ちゃっかり持っていったみたいだけど……」
桃樹は笑えなかった。それよりも話始めた彼女の瞳を見る度、だんだんと色が濃く、深くなっていくように思えて気掛かりだった。繋いだ手からも、話の内容以上のものは何も伝わらない。
「ねぇ」
紗夜は突然、桃樹の耳に触れるほど唇を寄せ、囁く様に言った。
「梅田君って、もう女の子とは経験は済ませたの?」
「へっ?」
桃樹は、紗夜が突然話題を変えて、とんでもない質問をしたので、声が裏返ってしまった。
「女の子とエッチした事ある? って聞いてるの」
「ぼ、ぼくはあの、まだ、そんな事は、まだ、です」
いつの間にか、「おれ」が「ぼく」になっていた。
「そうなの、ごめんなさい……そう、ふーん」
彼女は、その後に何か言いたそうだったが、やめてしまった。しかし桃樹にとっては、その方がよけいに気になってしまう。
「私ね、中学の三年生の時が、初めてだったの」
紗夜はお返しのつもりか、自分の事を話しだした。
「私の実家はね、スキー場のすぐ近くにあって、夏休みはその山でパラグライダーの教室をやるの。私はそこでバイトしてたんだけど、そこで知り合ったインストラクタの大学生と……。彼ね、梅田君みたいに背が高くて、顔はあなたみたいにカワイイ顔してなかったけどね、肩もガッチリとしててちょっとカッコ良かったわ」
桃樹はなぜ、彼女がそんな話を始めたのかまだわからなかった。
「でも、彼も死んだの。私の目の前で……」
紗夜が桃樹を見つめた時には、彼女の瞳は黒く深い色に戻っていた。
「ゲレンデの頂上付近に管理棟があって、当時は鍵も掛かってなかったから、私達そこの屋上に上って抱き合ってよく星を見てたわ。でも教室の最後の日の夜、彼は私に、『さよなら』って、言ったの。最初はきっと別れ話だと思った。教室が終わると、彼は大学に戻るのは知っていたから。でもそうじゃなかった。彼は私の目の前で、突然そこから飛び降りた……」
「私は慌てて上から覗き込んだんだけど、真っ暗で何も見えなくて、下に降りて彼を探したんだけど、裏は林になっててよくわからなかった。私は、彼のインストラクタ仲間の友達に電話して呼んだのだけど、その友達も彼を見つけられなかった。その友達は、『警察に連絡するからあなたは家に帰りなさい。あなたが一緒に居た事がバレるとあなたに迷惑が掛かるから』って、私は帰されちゃったの。私はそんな事どうでも良かったんだけど、中学生だから仕方ないと思って家に帰った。翌日その彼の友達から、彼の死体が発見されて、両親に引き取られたって連絡が入ったわ」
「でもそれは、その大学生が自分の意志で自殺したんでしょ。紗夜さんは……」
「その時私は思い出したの。彼が大学に戻るのはわかってた。でも私は、彼と離れたくないってずっと思ってた。だから私は彼を呪い殺したのよ」
「そんな……」
「私がそう思わなくても、私の中の何かがそう判断して、誰かを呪いに掛けるの。私は自分が嫌になって、数日後、彼の後を追おうとあの管理棟に行ったわ。あんな事件が起こった後なのに、鍵は掛かってなくて、屋上に上って彼と同じ場所から飛び降りようとしたの。でも出来なかった」
紗夜は、手を離して立ち止まった。
「あの場所に立つとね、ものすごく星がきれいなの。最近は田舎でもやたら街灯とかあって明るいんだけど、あそこは真っ暗で山の上だから、頭の上だけじゃなくって、目の高さにまで星があって」
紗夜はまるで目の前に星があるように両手を伸ばした。
桃樹は、今彼女の見ている夜空を知っていた。
それは、彼女とキスをしたときに伝わった、あの星空だった。
彼女の心の中には、いつもあの星空があったのだ。
「その星空を見てると、なぜか飛び降りる事が出来なくって……それで、まだ私は生きているの、こうやって。ひどい女でしょ。ここの家はね、私を産んだお母さんの実家なの。父の実家の方にも高校はあったんだけど、家から遠いし、とにかくあそこから離れたくて、こっちの高校に入学したの」
「でも、だからって」
桃樹は、いくら彼女の過去がどうであろうと、彼女が今も人を呪い殺そうとする理由がわからなかった。
「言ったでしょ、私は本当は生まれて来なかった方が良かったって。でも生まれて来てしまった。それはきっと理由があるから……」
彼女はまた歩き出した。
「私は最初、自分の力を恨んだわ。好きな人も殺してしまうこんな力に。でも生きることを選んだ時、私は、私の存在価値を探した。生きる理由を探したの。それはこの力を使う事。この力を使う為に私は生まれてきて、そして今も生かされてるの」
桃樹は何も言えなかった。いや、桃樹だから何も言えなかったのかも知れない。彼もまた特殊な能力を持つ人間だった。そして桃樹もまた、自分の能力を使う為に今ここに居るかも知れない。自分の能力と存在理由を正当化する為に。
紗夜と自分は同じなのか? でも何かが違う。しかし桃樹は、その答えを導き出す事は出来なかった。
「さあ着いたわ」
紗夜は話の終わりを告げた。
二人が着いたこの駅は、ロータリーもなく、駅前が少し広くなっている程度の小さな駅だった。今も車が一台止まっているだけで、人もタクシーもいない。バスもとっくに終わっていた。
桃樹がキップを買っていると、後ろから紗夜が声を掛けた。
「嫌な事聞いたって思ってるでしょ。私の事嫌いになった。それとも怖くなった?」
「いいえ、でも……」
桃樹の心は変わらなかった。彼にとって、呪いや祟りという不可思議な事象より、知らない誰かが死んでしまう事より、目の前の紗夜が傷つく事がとても辛く思えたのだった。
「でも、あなたが人を殺す為にその人と寝るなんて、やっぱりやめて欲しい……」
うつむいて、いじけた様に言う桃樹を紗夜は覗き込む。
「ふふっ。純情少年には敵わないわね」彼女は、桃樹の耳たぶに唇を付ける。
「わかった……もう好きでもない人と、寝るのはやめるわ」
「えっ」桃樹は、あまりにもあっさりと彼女が約束したので、拍子抜けしてしまった。
遠くで電車の音が聞こえた。桃樹はキップを自動改札に通し振り向く。この駅は入るとすぐにホームになっているので、焦る必要はなかった。
「じゃあね。その代わり、あなたが責任取ってよ。私の呪いに掛からない、唯一の男の子なんだから」
紗夜はそう言うと、微笑んで手を振った。
固まってしまった桃樹は、電車が着いても動けず、「ほら、早くしないと発車しちゃう」と、紗夜に言われ、結局焦って電車に飛び乗るハメになってしまった。
紗夜はその様子が可笑しくて、笑っていた。
そして、その電車がゆっくりと動き出し、駅を離れ、辺りが再び静寂に包まれても、紗夜の笑顔は消えなかった。しかし、
「ありがとう梅田君。あなたのおかげで、もう面倒な事をしなくても、人を操れる力を手に入れたみたい……」
紗夜がそうつぶやくと、その微笑みの形はそのまま、まるでその温度だけが下がったようだった。
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