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転校少年
作:菜田出ココ太



第二話 星空を飛ぶ時 六


 六

 暮れなずむ西の空は、まだ、薄い橙色だいだいいろ紺青こんじょうの空に筋となって残っていたが、東の空には待ちきれない星が、点々と輝き始めている。
 天体観測部二年の大宮綾おおみやあやは、小さい体に大きな天体望遠鏡を抱えて校舎の屋上に出た。
 向日忠志むこうただしの飛び降り事件以後、校舎の屋上は一応立ち入り禁止だったが、ドアの鍵を管理する天体観測部員には関係の無い事だった。それに今日は、久し振りに夜空は晴れて雲は無く、午前中の雨で大気は澄んでいる。こんなチャンスを逃す訳には行かなかった。
 綾は荷物を置くと、星を見る準備を始めた。
 まず、望遠鏡の三脚を、コンクリートに付けた印に合わせて置き、赤道儀の傾きを調節する。そして、極軸望遠鏡で北極星を見つけると、極軸合わせに入る。彼女は慣れた手付きでテキパキと作業をしたが、全ての準備を終えた頃には、西の空はすっかり暗くなってしまった。
 綾は望遠鏡を、南の少し低い空に向ける。――彼女の目的は決まっていた。
「お久し振り、あたしの木星ゼウスちゃん」
 彼女は望遠鏡を覗き込むなり、いきなり歓声を上げた。
「すごーい! 今日のしましまは、いつもよりすごーいくっきり。やったね!」
 彼女は、望遠鏡と一緒に持って来た大きな鞄をごそごそ探ると、一眼レフのデジカメを取り出す。
「今日は、いい写真が取れちゃいそう」
 そして、望遠鏡にカメラをセットすると、赤道儀のモータドライブを確認し、カメラの露出を合わせ、低速連続撮影モードにしてシャッターボタンを押した。
 静かな屋上に、カメラのシャッター音が鳴り響く。
 彼女は何度か露出の設定を変え、電池とメモリーカードを変えて写真を撮り続けた。そしてメモリーカードを使い切ると、その場にごろんと寝転がり、夜空を見上げる。
「あーあ。こんな事なら、あの新人も帰さなきゃ良かった。ウチの学校って街から遠いし山もあるから、結構星がよく見えるのよね。その上今日は特別澄んでるし。あいつも絶対感動するんだから」
 綾がぼんやり桃樹の顔を思い浮かべていると、出口のドアが「ガタッ」と鳴った。
 彼女はびくっとして起き上がる。すばやく望遠鏡に黒いカバーを掛けると、給水塔の影に隠れた。
 通常クラブ活動で夜遅く残る場合は、顧問の先生の許可が必要だったが、この日の綾はどうせ断られると思い、何も言わず内緒で屋上に上がっていた。しかし校舎が閉まる午後九時にはまだ三十分以上時間があったし、それまで見回りも来ない筈だった。
 彼女はそっと、給水塔の影からドアの方向を見た。
 するとドアが開き、中から誰かが一人出て来るのが見えた。暗くてよくわからなかったが、背が高く多分男性だろう。懐中電灯を持っていない所を見ると、見回りではなくどうやら生徒らしい。
「誰ですか? あたしの邪魔をするのは……」
 綾はぼそっとつぶやくと、そぉーと給水塔の影を出て男を追う。
 男はしっかりとした足取りで屋上の端まで歩くと、ためらいもなく一メートル程高くなっている縁に手を掛けて上った。
「えっ、うそ!」
 綾は思わず大きな声を出したが、男は全く聞こえない様子で五十センチ程の縁の奥行きを、ギリギリの所まで歩いた。
 その時、学校のすぐ脇の道を車が通り、ヘッドライトの光が縁に立つ男の顔を照らした。光はわずかだったが、闇に慣れた彼女の目には、はっきりとその人物の顔を見て取る事が出来た。
 その瞬間、綾は走った。そして叫ぶ。
「桃樹ぃー! 何してるの、危ない!」
 屋上の縁に立つのは桃樹だった。彼は虚ろな目で空を見上げいるだけで、綾の叫びも届いていない。
 綾は屋上の縁に両手を付いて上ろうとした。しかし慌てて中々上る事が出来ない。体を横にしながら何とか上ると、桃樹にしがみついた。
「ばか、何してるの。落ちちゃうよ!」
 綾は桃樹の腰に手を回し、体を引っ張った。彼は無反応だが抵抗もなく、綾の力でも何とか動かす事が出来た。桃樹はずるずると綾に引きずられ後ろへ下がる。
 彼女はとにかく落ちないように、桃樹を縁から遠ざけた。ただ、そうする事で精一杯で、後ろを振り返る余裕はなかった。
「あっ!」
 綾の踵が、縁の終わりからはみ出しバランスを崩す。彼女は必死で立て直したが、今度は引っ張った桃樹の体が後ろに倒れて来た。
 ドスーン!――
 綾と桃樹は屋上の縁から内側へ、一メートルの高さを落下した。
「いたたたたー」
 綾は腰を打った上に、桃樹に乗りかかられて動けない。彼女は桃樹の頭をバチバチ叩いて暴れた。
「こら! ばか! どいてよ! 目を覚ましてよー! 桃樹ぃー!」
 桃樹は、誰かに呼ばれた気がして目を開けた。
「あっ」
 桃樹の目にはまだ星が映っていたが、それは幻ではなく現実の物だった。桃樹の目がようやく焦点を合わせると、むくっと起き上がって後ろを見た。
「あれ、綾さん。どうしてそんな所で寝てるんですか?」
「ばかやろー! 桃樹が今、飛び降りようとしたんだぞ!」
「えっ」
 桃樹は立ち上がった。そこに一メートル程高くなっている縁があり、その先には夜空があった。
 桃樹には、神社からここに来るまでの記憶が欠落していた。
 ただ、星が見たくなった気がする。
 そして、星を見ていた気がする。
 桃樹は自分の胸に手を当てた。
 ―― いた。
 桃樹は自分の意識の中にある、烏丸紗夜からすまさやの思念を見つけた。それはまるで自分の物の様に、意識の中に溶け込んでいたが、彼が精神を集中すると、それは桃樹の意識からふつふつと分離してゆき、一つの塊となった。
 桃樹は触れる事により、相手の思考や記憶を読み取る能力を持っている。そしてそれは、相手の思考や記憶をイメージとして視覚的に捉える能力でもあった。それにより桃樹は誰の意思なのか、誰の記憶なのかを理解し得るのだ。いつの間にか桃樹の意識に溶け込んでいた烏丸紗夜の思念は、今桃樹の意識の中で、大きなビーチボール程の球体となって浮かんでいた。
「桃樹! ばかやろー! 怖かったんだぞ!」
 綾は座ったまま立ち上がれず、とうとう泣き出してしまった。桃樹は慌てて膝を付き、彼女の肩に手を置いた。
「綾さん。ごめんなさい。もう大丈夫ですから……」
「何であんな事したんだよー」
 彼女は桃樹に抱きついた。桃樹も尻餅をつきながら、彼女を受け止める。
「すいません。綾さん……」
 バターン!――
 その時、屋上のドアが開いて誰かが走って駆け寄ってきた。
「梅田君!」
 それは烏丸紗夜だった。紗夜は二人の前まで来ると膝を付き、肩で息をしながら口を開いた。
「梅田くん急にいなくなって、探したんだけど見つからなくて、家に帰ったんだけど、まさかと思って……」
 紗夜の息は、まだ荒いままだった。
「おれは大丈夫ですよ。綾さんに助けてもらったみたいで……」
 紗夜は桃樹の顔を見て、そして綾の涙顔を見た。数分前に起こったであろう出来事は、容易に想像する事が出来た。
 紗夜の目からは涙が流れていた。
「ごめんなさい。私、とんでもない事をしてしまって……」
 彼女はその場に泣き崩れた。
 すると綾は、紗夜が泣くのを見て逆に涙が止まってしまった。いつも冷静な紗夜が、こんなにも取り乱している様子を見るのは、初めての事だったからだ。
 彼女はどうしていいかわからず、時計に目をやった。
「ああ! 紗夜さん、もう校舎が閉まっちゃう。早く出ないと」
「そ、そうね」
 紗夜は、涙を拭いて立ち上がった。
 綾も立ち上がろうと、足に力を入れた時だった――
「いたっ!」
 綾は右足首に痛みが走り、隣の桃樹にしがみついた。
「どうしたんですか、綾さん」
「足、くじいちゃったみたい」
「えっ、そうなんですか。じゃあ早くほらっ」
 桃樹はそう言って、綾の前にしゃがんで背中を見せる。どうやらおんぶするつもりらしい。
「ばか、そんな恥ずかしい事、出来ますか」
「だってぇ」桃樹はそのカッコのまま、首だけを後ろに向ける。
「綾ちゃん。梅田君におんぶしてもらいなさい。ねっ」
 紗夜は笑顔で言った。どうやらもう、落ち着きは取り戻したらしい。
「じゃあ、わかりました……」綾は紗夜の言うことは素直に聞く。「……でも望遠鏡が」
「それは私が片付けるわ」
 紗夜は、望遠鏡の設置場所へと走っていった。
「ほら、綾さん早く」
「うん」綾は桃樹の背中に乗った。
 綾は桃樹におんぶされて、改めて彼の背の高さに驚いた。他の男子と比べると少し高い程度だと思っていたが、こうやっておんぶされると見える世界が変わって来る。彼女の場合、殆どの男子は自分より背が高いので、誰におんぶされても同じかも知れないが、それでも彼は、人をおんぶしているにも拘らず、ぴょんぴょん飛び回るように走って、まるで苦にしている様子はなかった。
〈男子ってこんなに力持ちなのかな? それとも……〉
 桃樹は屋上の出口のドアを、ぴょんと飛んでくぐった。
「きゃあ! ちょっと桃樹、頭ぶつけちゃうよ」
「大丈夫ですよ。綾さん怖がりなんだから、怖かったら目つむってて下さい」
 そう言って桃樹は階段を降りようとする。
「待った! 今あんた二段飛ばしで降りようとしただろ!」
「えっ、普通そうですよ」
「一段ずつ降りなさい」
「え〜、綾さんわがままだなぁ」
「何言ってんの。誰のせいでこうなったと思ってるのよ」
「は〜い」
 桃樹は仕方なく、階段を一段ずつ降りる。
「桃樹、どさくさに紛れてお尻もんでないだろな」
「もんでません」
「胸の感触で興奮してないだろうな」
「無いものは感じません」
「殺す!」綾は桃樹の首を絞める。
「あ、危ないですよ綾さん。階段落ちますよ」
「あはははは」
 ドアを入った所で望遠鏡とカメラの鞄を抱えた紗夜が、驚く程あどけない声で笑った。二人は階段の途中で、思わず後ろの紗夜を振り返る。
 紗夜はドアの鍵を掛け確認すると、二人の横に降りてきた。
「あなた達とってもお似合いね。見てて楽しくなるわ」
 綾は顔を真っ赤にして反論した。
「何言ってるんですか紗夜さん。こいつはあたしの子分なんですから」
「えー、いつから子分なんですか?」桃樹は上を向く。
「今から一生ずぅーっとだ。桃樹はあたしの言う事は、何でも聞かなきゃならないの! わかった?」
「一生ずっとはキツいですよ。せめて今日だけとか……ねぇ、紗夜さん」
 桃樹は紗夜に救いを求めた。
 紗夜は荷物を置いて部室の鍵を掛けると、おんぶの二人に振り向く。
「そーねぇ、三つの願いってのはどう。綾ちゃんのお願いを梅田君は三つ聞いてあげるの。ねっ」
「んー、かなりの減刑だけど仕方ないですね、紗夜さんが言うなら」
「おれも聞くだけなら、幾らでも聞きますよ。はははは」
「ばかやろー。耳で聞くだけじゃダメなんだって!」
 綾は桃樹の耳たぶを引っ張る。
「いたたたた、本当に落ちますって!」
 そんな会話を繰り返し、三人はようやく校舎を出た。
 校舎の外には、紗夜が家から乗って来た自転車があった。綾は荷台に横に座って、桃樹がハンドルを押して歩く。紗夜はその横を歩いた。
「綾ちゃん。その足じゃ、おうちに帰るの大変だから、今日は私の家に泊まる?」
「やったー。久しぶりですね」綾は高々と前方を指差す。「じゃあ桃樹、紗夜さんの家迄やってくれい!」
「はーい。じゃあ、あと二つ」桃樹は元気に返事をする。
「えー、今のも一つに入るの?」
「当然です」
 三人は駅へと続く道を右へ曲がり、神社の外周を登る坂道を歩いて行った。












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