人間の記憶なんてあてにならない。ましてや小さい頃のものなんて――。
父方の田舎には二階建て相当の高さを誇る割と大きな土蔵があった。土蔵のすぐそばには如何にも祖父の手作りといった風情の傾きかけた物置があって、その外観に見合う廃材利用バレバレの古びたトタン屋根が取り付けられていた。
リヤカーやら農機具やら、幼い僕には無縁の物が詰め込まれたそこに、ただひとつカケガエのない宝物が「いる」ことを、去年の夏に発見した。
父にも母にも……そうして、もちろんいつも僕の上前を跳ねる兄にだって内緒の宝物。
柔らかな薄茶色の体に生えた、思わず触れたくなるようなフワフワの毛。顔の両サイドについた、小さくてつぶらな瞳(本当は七つの複眼が集まっているものらしいんだけれど!)。か細い足を巧みに使って後ろ向きに進む、ユニークな歩み。極めつけは頭部先端から鋭く伸びる、二本の角――大あご――だ。
どれをとっても僕の心を魅了して止まない、営巣性のウスバカゲロウの幼虫――アリジゴク――。
同年代の友人達が、カブト虫だのクワガタ虫だの騒いでいるのが馬鹿らしく思えてしまうくらい、僕はこの小さなハンターの虜だった。
「剛、一人? お兄ちゃんは?」
田舎を訪れたときの僕は――少なくとも自宅にいるときよりは――自由だった。
幼少時には余り僕らの側を離れることのなかった母親が、そのときばかりは久々に再会する親戚たちの相手で大忙しだったからだ。
麦藁帽子をかぶり、片手に空き瓶を持った僕に、母が怪訝な顔をして問いかける。
「兄ちゃんは、便所!」
三つ年の離れた兄――明――がトイレに入る機会を窺っていた、というのはもちろん秘密だ。
僕は、今朝田舎に着いた瞬間から一人で外出できるチャンスを今か今かと待っていたのだから。
十一人兄弟の末っ子。それが僕の父のポジションらしい。
戦争やら何やらで父自身、自分の兄弟の顔を全て覚えているわけではないという。
父が生まれたときにはすでに鬼籍に入っていた兄弟も幾人かいたからだ。
田舎の家には長男夫婦と祖父母の四人が住んでいた。
数年前まではいとこの宗雄さんと由香里さんも一緒に住んでいたらしいのだが、彼らは僕が幼稚園に入る頃にはもうそれぞれ所帯を持って独立していた。
僕にとっての宗雄さんと由香里さんは、いとこというより親戚のお兄ちゃん、お姉ちゃん、と呼んだほうがしっくりくる。いや、感覚からいくと叔父、叔母に近いかもしれない。
幼少時代の二十歳近い年の差は大きい。
つまりは互いの子供にそのぐらいの差がつくほど、末っ子の父と長男の省三おじさんは年が離れていたということだ。
十一人兄弟というのがどのぐらいの規模なのか、三つ上の兄がいるだけの僕にはイマイチ想像がつかなかったけれど、父が一回り以上年の離れた省三おじさんを親しげに「省ちゃん」と呼ぶのを聞くだけでも、十分不思議な感じがしたものだ。
夏休みを利用して生家に帰省する親戚は多い。でも、父の仕事の関係で、僕の一家だけは毎年一番賑わうはずの盆をはずしてここを訪問することが多かった。
無論、今年も例外ではない。
だから今回も、このだだっ広い平屋建てには、僕と兄以外子供と呼べる存在はいなかった。
去年までの僕なら、きっと口をへの字にして縁側に座っていただろう。
ただ座っているのに飽きたら縁側を出たところにある沓脱石に腰掛けて、ベッコウバチが地面に巣穴を掘る作業をぼんやり眺める。
巣穴を掘り終えた彼らが飛び立ったあと、巣の出入り口に小石を置いて意地悪するのは、そんなときのストレス解消法の一つだった。
しばらくして青虫などを抱えて帰ってきた彼らが、大事な獲物を地面に置き去りにしていそいそと石を退かしている姿を観察するのは、何だか爽快だったから。
そうそう。そのとき、ついでにハチの目を盗んで獲物をちょっぴり移動してみる、なんていうのもお勧めだ。
入り口から邪魔な小石を取り払ったハチが、置いておいたはずの虫――麻酔済なのに!――を探してキョロキョロと辺りを見回す様はなかなかに面白い。
でもさすがの僕も、ハチが獲物を見つけられないほど遠くに隠したり、という非道なことはしなかった。
彼らが苦労して狩りをしてきたことは容易に推察出来たし、その獲物が彼らの赤ちゃんのための大事な食糧であることも知っていたから。
さて、このベッコウバチ、僕の家の周りでは余り見かけなかったので、今思えば案外こういう悪戯が出来るのも田舎ならではだったのかも、という気がする。
そんな感じで一人遊びをしているうちに、時間が経過していくというのが大抵のパターンだった。
本当は、父が近くを流れる川へ連れ出してくれることに期待していたけれど、田舎に帰った父は少しでも目を離そうものなら省三おじさんと一緒になっていつの間にやら酒が入ってしまう。そうなると、僕ら兄弟の淡い希望は絶望に変わるのだ。心配性の母が僕と兄だけで川遊びに繰り出すのを許してくれるはずもなし。かといってかなづちの母がそこへ付き添ってくれることも期待出来ないからだ。
せっかく田舎へ来ているのに、幼かった当事は僕らだけで行くことが許されていた行動範囲は家の敷地内のみだった。
そんな限られた空間の中で、毎日顔を突き合わせては喧嘩している兄と遊んだってさして楽しいはずがない。
少し日をずらせばいとこのみんなと会えるはずなのに。自分たちだけそれに混ざることが出来ないんだと思うと、凄く悲しかった。
そう。少なくとも去年までは――。
「垣根の外に出ちゃいけんよ? 何じゃったらお兄ちゃん、待ってみたら?」
心配顔で母がそう言うが、冗談じゃない。
兄にだけは、アリジゴクの居場所を教えたくはなかった。
「へーき! 蔵にいくだけじゃけぇ」
言いながら、僕は夏の日差しが照りつける庭へと駆け出した。
屋根があってほとんど雨が吹き込まず、砂が常に乾燥しているところ。
アリジゴクは獲物を狩る罠の性質上、そういうところを好む生き物だ。
アリジゴクの、サラサラとした砂でこしらえたすり鉢状の巣に落ちた虫。それが彼らの食料だ。ただでさえ、肌理細やかな砂は崩れやすく、虫たちは足を取られる格好になる。その振動を察知したアリジゴクは、頭部のバネを使って留めとばかりに獲物に砂を投げつけるのだ。この様は、とてもリズミカルで何度見ても飽きがこない。
僕が幼心に彼らに惹かれたのは、虫自体の形状もさることながら、そういう策略に長けたところに感動したからだ。
蔵に隣接した壊れかけの物置は、アリジゴクたちにとって快適な居住エリアらしい。
祖父のいい加減な細工は前面オープンで壁なしだったし、そのくせ天には雨をしのぐ屋根がついていたからだ。
期待に違わず、今年もたくさんのアリジゴクの巣を見つけることが出来た。
「スゲェ!」
思わず感嘆の声を上げてしゃがみ込むと、僕はそっとすり鉢の中へ指を差し入れる。
そぉっと、そぉっと……。
心の中で逸る気持ちを抑えるように唱えながら、ゆっくりと指を動かして砂をかき出す。
かき出された砂に混じってモジモジと動くまぁるいもの。それがお目当てのアリジゴクだ。
持参してきた瓶に、周辺の砂を五センチぐらいの深さになるよう詰めると、僕はアリジゴクを潰さないようそっとつまみ上げて手のひらに載せた。
突然の仕打ちに驚き、死んだふりをしたアリジゴクが、恐る恐る後ろ向きに移動を開始すると、手のひらがくすぐったくて思わず笑いがこみ上げる。
その感触をしばし楽しんでいた僕に、突然後ろから声がかけられた。
「剛、何、一人で笑うとるん?」
ビクッとして振り返ると、一番会いたくない相手――兄――が立っていた。
「兄ちゃんには関係ないよ!」
ムスッとしてきびすを返す僕の手元を兄がお構いなしに覗き込んだ。
「なんじゃあ、アリジゴクか……」
砂の詰まった瓶を見て兄が得意げに鼻を鳴らす。
「俺もお前ぐらいんとき、ここでよぉ採りよったで」
意外、だった。
今まで兄と田舎に来てもここにアリジゴクがいるだなんて教えてくれなかったのに。
「お前には知られとぉなかったんじゃ」
兄の呟きを聞いてハッとする。
そう。兄も僕と同じ気持ちだったのだ。
いつも威張っていて嫌いだった兄が、ほんの少し近く感じられた。
「母ちゃん、アリジゴクの穴場、剛に見つかってしもぉた!」
後ろを振り返って声を張る兄に、母も近くまで来ていたことを知る。
「そぉ。残念じゃったね〜」
ニコニコと微笑む母は、ここの存在を最初から知っていたらしい。
何だかずっと一人だけの秘密みたいに思っていたのがバカらしく思えた。
「チェッ」
思わず舌打ちもしたくなるというもの。
「拗ねるなや! なぁ、俺と剛とどっちがよーけ(=沢山)アリジゴク採れるか競争しようぜ?」
もやもやした気持ちが後押ししたのか、兄の提案に、俄然ファイトが沸いてきた。
「おう!」
男らしくそう答えると、兄と僕は母の「二人とも頑張れ!」の声援を合図にしゃがみ込んだ。
しばらく夢中でアリジゴクを採り続け……そろそろ巣が見当たらないぞ、となった頃には僕の体はいつの間にやら壁に立てかけられたリヤカーのすぐそばまで来ていた。
ぶぅ〜ん……。
重低音を響かせるその羽音に視線を向けると、大きなハチが右足のふくらはぎにとまるところだった。
「母ちゃん、ハチが!」
兄の声で母が慌てて駆け寄ってくる気配がした。
その間、僕の瞳には足に向けてゆっくりと曲げられるハチのお尻と、こちらをじっと睨みつける逆三角形の顔が映っていた。
刺される!
思わず立ち上がってそのハチを払いのけようとしたら、後ろから母に抱きすくめられた。
あっという間に口をふさがれてそのまま後ろに引きずられる。
その隙に、僕の足のハチは毒袋つきの針を足に打ち込んで飛び立ってしまっていたけれど、口を封じられていて悲鳴すら上げられなかった。
凄く、凄く痛かったのに!だ。
後で母に「何で口をふさいだん?」と聞いたら、巣がそばにあることに気付いたので、余り騒いで他のハチが襲ってくることを回避したかったからだと言った。
僕を刺したのはいわゆる見張り役のハチで、巣はリヤカーの陰の地中に作られていたらしい。そこには軒下などに綺麗なまだら模様の巣を作るキイロスズメバチより一回り大きいスズメバチ――オオスズメバチ――の大邸宅があったのだ。
そんなわけで僕の右足のふくらはぎには直径一センチぐらいの穴がある。
こんなにも痣が大きくなってしまったのは、きっと毒で皮膚が壊死してしまった結果だろう。
陥没してしまった傷痕を見るたびに、僕の脳裏にはハチに刺されるまでのシーンがスローモーションで鮮明に再生される。
ゆっくりと曲がるお尻。
打ち込まれる毒針。
こちらに向けられたハチの顔。
僕の足で脈打ちつつ毒を注入する、ハチからの嬉しくない贈り物。
高校生になり、それ自体は十年以上も前の出来事になってしまったというのに、色褪せない衝撃の記憶。
「これ、四歳ぐらいのときにスズメバチに刺された痕なんっちゃ! むっちゃ痛かったんじゃけぇ!」
実際、その後ミツバチに二回、アシナガバチに三回と刺されたが、「何だ、こんなものか」と拍子抜けしてしまったほどだ。
放課後、教室で数名の友人にその穴を見せながら言うと、どれどれ?と触りまくられた。
「剛、これ、凄い穴になっとるじゃん!」
「当たり前よ! こんなにでかいハチじゃったもん!」
記憶を手繰り寄せ、指で十センチぐらいの大きさを作ると、近くに居た別の友人が
「馬鹿、お前、そりゃ幾らなんでも大袈裟じゃろー」
と笑った。
「いや、マジでこのくらいあったっちゃ!」
何せ、僕のふくらはぎにとまるハチは、そのぐらいの比率を持ってそこに存在していたのだから。
足を指差しながら
「この辺からこの辺までハチが居た!って記憶しとるけぇ、確かだって!」
そう力説したら、みんなに笑われた。
「剛、お前、ハチに刺されたん、いくつのときよ?」
ひとしきり笑われた後、クラスで一番仲の良い博之がニヤニヤ笑いながらそう問いかけてきた。
「じゃけぇ、四歳ぐらいんときっちゅったじゃん!」
人の話を聞いてなかったのかよ?
そんなニュアンスを込めて睨みつけたら、
「ってぇことは……身長、今より大分低かったよな?」
そう先制された。
「ったりめぇじゃん」
何を今更。
そこまで言って、僕はハッとなった。
「分かったか?」
博之に勝ち誇った笑みで問われて、僕はみんなの言わんとしていることをやっと悟った。
小さかった僕。
小さかった僕の足。
そこにとまったハチだって当然それに見合う比率だったわけで――。
記憶とは、かくもてあてにならないものなのだ、と痛感させられた瞬間だった。
きっと足にこの穴ぼこがある限り、僕はその教訓を忘れないだろう。
博之の嘲笑とともに思い出す、というのが癪ではあるけれど――。
【了】
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