Side:いづみ-9-
まあ、こういった経緯によって、わたしは九つも年下の二階堂健人とつきあいはじめることになった。
正直なところをいって、わたしは基本的に出不精な人間で、仕事が休みの日は大体、家で本を読んだりDVDを見たりして過ごすといったタイプだった。だから逆に、「普通の人がするようなデートがしたい!」という健人に引っ張りまわされるような感じで、彼とつきあいはじめてからは色々と外へ出ることが多くなったかもしれない。
そば屋でのことを思うと、確かに健人には若干KY気味のところはあるけれど、それと同時に彼は肝心なところでは決して空気を読み間違えないという人間でもあった。
だから、初めて映画館へデートをしに行くという時、車で迎えにいったわたしに、彼はまずこんなことを聞いてきた。
「いづみさん、俺はこんな白じょう杖なんてついてるし、サングラスをしていても――いかにも盲者だってわかるような容貌をしています。いづみさんはこんな男と一緒に歩いていて、恥かしくはないでしょうか?」
「んー、そうね。じゃあ、逆に聞くけど、仮にもし健人の目が見えていて、わたしの目が見えなかったとするわね。それで今健人がわたしにしたような質問を、健人がわたしにされたらどうする?」
健人は五秒ほど黙りこんだのち、いつものように屈託なく笑いだした。
「ずるいよ、いづみさん。そんな質問、意味がないってわかってるだろ」
「そうよ。だから健人の言ってることは意味がないの。第一わたし、いつも障害のある人の車椅子を押したりとか、ベンチレーターをつけてる重度障害者と街で買物したりしてるんだから、健人が白じょう杖ついてるくらい、なんとも思やしないのよ。だから健人もそんなくだらないこと、気にしないことね」
「じゃあ俺、この件については本当に何も気にしないことにします」
助手席に座る健人の顔に、優しい微笑みが広がっているを見て――わたしは自分が今の彼とまったく同じ顔の表情をしていることに、ふと気づいていた。
そう、健人といるといつでも周囲の人間は、そういう優しい気持ちになれるのだ。
それが果たして熱烈な恋心に自分の中でなりうるものなのかどうか、この時のわたしにはまだわからなかったけれど……そうした中でわたしは健人と何度もデートを重ねた。
初めて映画館へいった時には、音しか聴こえなくて、面白くないんじゃないかとわたしは思ったりしたけれど、健人曰く「言葉や音楽だけでもある程度ストーリーは楽しめる」ということだったし、何より彼にとってはわたしとのデートが大切なのであって、映画の内容などはまったくどうでもいいのだという。
「いづみさんが俺の隣にいてくれて、それで同じ箱から一緒にポップコーン食べてくれたりとか、それだけで俺には十分なんです」
<そこがどんな場所でも、わたしが一緒にいてくれるだけでいい>――というのは、いつでも健人の側から発されている、一種のオーラにも似た気持ちといって良かったかもしれない。
そしてデートのあと、別れる時に彼は必ず、「今日は楽しい時間をありがとうございました」と、礼儀正しく言うのだった。「これでまた次の休みの日まで、いづみさんのことを想って仕事のつらさや面倒くささに耐えられます。また、会ってくれますよね?」と。
その瞬間、わたしはいつも胸が締めつけられるように苦しくなるのを感じた。
何故といって、わたしは健人とのデートの時間を間違いなく100%楽しんでいるし、楽しめているのに――それにも関わらず、彼はいつも不安なのだろうということが、わたしにはわかっていたから。
わたしがある種の慈善的な優しさから健人とのデートにつきあっている……そうした疑いが、彼の心の中から消えるということはないのだろう。その日、どんなに楽しく互いに笑いあっていたとしても、健常のというか、晴眼の男性とつきあうことに比べて、自分は相手として物足りないのではないかという疑いが、健人の中ではどうしても残ってしまうのだと思う。
もしこれが、普通のカップルとか恋人同士だったら――そんな疑いを相手の心から消すために、キスのひとつでもしてから別れるのかもしれない。
でも、わたしはただいつも、言葉によってしか健人に答えることが出来なかった。
「次はどこに行って何を食べたいかとか、ちゃんと考えておいてよ。わたしくらいの年になると、自分でデートのプランなんて面倒くさくて考えられないんだから」とか、何か健人が直接欲しいのとは少し別の、ずれた返答しか、わたしは返すことが出来ない。
わたしはそれからもずっと、健人とショッピングセンターで一緒に買物したりだとか、遊園地や動物園へいったりといったデートを重ねた。健人がわたしの部屋へ来て、わたしのために食事を作ってくれたこともあるし、逆にわたしが健人の実家で料理をご馳走になったということもある。
買物をする時はいつも、わたしは健人に「こういうものがある」とか「ああいうものがある」といった説明をするのだけれど――わたしはそうした説明を面倒だと感じたことは一度もない。むしろ健人のほうが遠慮して、「そんな、店員さんみたいに商品知識をひけらかさなくてもいいよ」と引いていることさえあるくらいだった。
そう……人間というのは、どちらかがどちらか一方にひたすら献身したり、与え尽くしたりといった関係では、長く続いたりはしないものだ。
一応、表面的には、わたしが健人のことを<人>という字の下から支えているように見えるかもしれなくても、実際はそうじゃなかった。もし仮にわたしが健人に一与えたとしたら、彼はその十倍以上のものを返してくれる……そうした無理のない精神的循環が、わたしと健人の間には成立していた。
でもそれが普段わたしが接している障害者の子供たちに対するものとどう違うかというと、その説明は少し難しいかもしれない。なんにしても、かつてわたしがボランティアとして若葉寮へ通っていた時と同じく、健人は今ではわたしにとって、なくてはならない存在になりつつあった。
つまり、どういうことかというと――健人がわたしに対してちょうどそうであるように、わたしもまた彼との休日のデートを楽しみに、毎日仕事に励んでいるということだった。これでもし、健人と会えなくて今と同じ仕事をずっと続けていくとしたら……それはわたしにとって精神的な暗黒を意味していたとさえ、今では言えたかもしれない。
そんな感じで、わたしが健人と半年ほどもつきあった頃だっただろうか。
健人の両親が彼のために、自宅を改築して「あんま鍼灸治療院」を開設しようと思っていると、わたしに対して言ったのだ。
「わたしもね、そろそろ大学病院をやめて、個人病院を経営しようと思うんだよ。在宅診療もはじめようと思ってるし、そうした患者さんの中には、病院の治療や薬だけでは体の痛みが取れないといった人も多いと思う。健人にはおもにそういう人の治療に当たってもらおうと思っててね……どうだろう、いづみさん。もしいづみさんに健人との将来を考える気持ちがあるなら――治療院のすぐ横に家を建てるとか、あるいはこの家を二世帯住宅にするとか、そうした計画を立てたいと思うんだけれど……」
「父さん!!」
健人は自分の部屋で身なりを整え、デートに出かける準備をしているところだった。
お母さんはキッチンでお茶を入れており、こうした話しあいというのはすでにお父さんと打ち合わせ済みだったのだろう、健人が取り乱していても、彼女は一向涼しい顔をしたままだった。
「そんな重い話、突然サラっとするの、やめてよ。大体、そういう話は俺がいづみさんにちゃんとプロポーズしてから決めるような話なのに……急にそんなこと言われたら、いづみさんビビって、俺の前からいなくなっちゃうかもしれないだろ」
健人があんまり真っ赤な顔でそうまくしたてたので、わたしは悪いと思ったけれど、堪えきれずに笑いだしてしまった。
「ははは。ほら、健人。いづみさんも笑ってるぞ。健人がいづみさんにプロポーズするなんて言ったら――それこそ、何年先のことになるかな。まずは給料三か月分の貯金をして指輪を買って……そんなことを考えてたら父さん、気が遠くなって白髪が生えるよ。だからこうして先に、おまえのためを思って父さんが代わりに話をしたんじゃないか」
健人に出会った時から、なんとなく想像していたことだけれど、健人はやっぱりわたしが思ったとおりの、温室育ちのお坊ちゃまだった。
父親は大学病院に勤務する内科医、母親は専業主婦、そして健人の上にはお兄さんがひとりいて、官公庁に勤務しているらしい。この健人と四つ年の離れたお兄さんは、すでに結婚して独立しているという話だった。
「でもさ、そういうことはやっぱり、男の俺の口から……」
健人がなおももごもごと何かしゃべろうとしていると、お母さんが彼の頭を軽くはたき、わたしの元までアイスティーを持ってきた。
「ほら、健人。あんた寝癖が直ってないわよ!まったくもう、いづみさんと初めてデートに行くっていう日は、本当に大変だったわねえ。『俺、どっから見てもほんとにおかしくない!?』って百遍ばかりもわたしに聞くんだもの。それからはもう、毎日いづみさんいづみさんいづみさんってそればっかり……もしこれでいつか振られたら、この子自殺でもするんじゃないかって心配で仕方なかったわ」
「あ~もう、母さんまで!どうしてこう息子の面子を潰すようなことしか言わないのかな、この人たちは!!」
健人はそう言うと、再び自分の部屋へ戻り、ムースで寝癖を直しはじめた。
お母さんがそんな彼について、彼の髪がちゃんと直るよう横でアドバイスしている声が聞こえる。
「それで、どうだろうね、いづみさん」
お父さんは再び真剣な顔になると、住宅関係のパンフレットをわたしに向けて差しだした。
「わたしはね――あの子はきっと、一生結婚することもなく、家で過ごして終わることになるんじゃないかなって、ずっとそう思ってたんだ。なに、今のこの御時世、目が見えるとか見えないとか、健常だとか障害があるとか、あまり関係ないだろう?五体満足で健康であっても、家に引きこもってる子だっていることを思えば……あの子は本当によくやってるほうだと思う。もしいづみさんとのことがなくても――わたしは健人が整体師として一人前になったら、この家を改築して治療院を持たせようと思ってたんだ。それがまさかこんなに早い時期にそうなるとは思ってなかったけど、あの子の幸せのためならわたしはなんでもしてやりたいって、ずっとそう思ってきた。親馬鹿だとは思うけど……生活費の援助とか、わたしたちに出来ることはなんでする。だから、いづみさん。出来れば健人と一緒になってやってくれないか」
「あの、そういうことはわたし――健人とふたりで話しあって決めたいんです。お父さんやお母さんの気持ちは本当にありがたいと思うんですけど……べつにわたしは健人とふたりで暮らしていて、貧乏でも構わないんです。それに、健人も言ってたとおり、わたしもまだ彼から直接プロポーズされたっていうわけでもないですし……」
わたしとお父さんは小さな声で話していたのだけれど、そこはそれ、全盲人のおそるべき聴力というべきか、健人は部屋から走りでてくると、ソファに座るわたしの前まで来てひざまずいた。
「いづみさん、本当に俺と結婚してくれる!?もし本当にそうだったら俺――いづみさんのためになんだってするよ!毎日俺がごはん作ってもいいし、いづみさんが仕事から疲れて帰ってきたらマッサージだってしてあげられるし……えっとあとは、掃除と洗濯とゴミ捨てだって俺が担当してもいいや。いづみさんが一緒にいてくれるんだったら、本当に、俺……」
わたしがまたここで、堪えきれずにぷっと吹きだしてしまうと、お父さんとお母さんも一緒になって大笑いした。
「健人、あんたねえ。ごはん作るったって、あんたが作れるのなんて、カレーとハヤシライスとチャーハンくらいのもんじゃないの!」と、お母さんが再び息子の頭をはたく。「最初はそんな調子のいいこと言って、結局最後はいづみさんにおんぶに抱っこしてもらうんでしょ?あんたにまともに出来るって言ったら、洗濯とゴミ捨てと風呂掃除くらいのものかもね。あとはまあ、マッサージくらいはいづみさんに専門職としてサービス出来るか」
「ははは。そうだぞ、健人。おまえに出来ることって言ったら、たぶん微々たることだけだろうな。しかもおまえはすっかり「やった」つもりになってるけど、結局最後はいづみさんが後片付けの細かいことをやってくれたり……それを黙ってるといづみさんもだんだんストレスが溜まってきて、離婚ってことになったりしてな」
「離婚なんて縁起でもない!!父さん、冗談でも言っていいことと悪いことがあるだろ!」
――二階堂家の居間の空気は、いつもこんな感じで賑やかかつ和やかな雰囲気だった。
少し奇妙な話に聞こえるかもしれないけれど、わたしが健人と出会ってすぐ思ったのは、彼の家族や両親のことについてだった。特にお母さんのことについて……健人のように素直で気立てのいい子を手放して、盲学校や専門学校の寮に入れるというのは、わたしが親だとしたらつらい決断だろうという気がした。
それと同時に健人は少しマザコンっぽい気がすると、わたしは直感的に感じていたけれど――実際にはそんなこともなく、健人の母親である咲江さんは、どちらかというと適度に息子を突き放して接している感じだった。むしろ父親の克己さんのほうが、健人のことを目に入れても痛くないくらい可愛がっているような印象、というか。
まあ、なんにしてもある意味こんなぐだぐだ(?)な流れによって、わたしは健人と結婚することになった。といっても、わたしはこの時まだ健人とキスひとつ交わしていない関係で……手しか握りあったことはなかったけれど。
そして、わたしが健人と結婚してもいいと思えたのは――その、初めて彼と手を握りあった時のことが決め手であったかもしれない。
あれは、何度目かのデートで遊園地へ行った時、一緒に観覧車に乗ったことがあった。
その時健人は手に持ったソフトクリームを食べているところで、食べ終わったあと、口の端に少しだけバニラクリームが残っていたっけ。わたしはそれを見て、なんとなく……わたしたちもそろそろこういう場面で、キスくらいしたほうがいいのかしら?とぼんやり思ったりしていた。
その日は素晴らしく天気が良く、わたしは「外は雲ひとつなくいい天気よ、健人!」なんて彼に説明していたのだけれど――観覧車が上へ上へとあがっていく間、健人は極めて寡黙なままだった。
そして頂上に近いところまで観覧車がやって来た時、わたしは空のずっと向こうに鮮やかな虹がかかっているのを発見して、彼にそのことを伝えるべきかどうかと迷ったのだ。
「健人、虹がでてるわよ!虹!!」なんて言ってみたところで――その七色の色彩をどう説明してみせたらいいのかが、わたしにはわからなかった。それで代わりに彼の隣に座ると、あまり深い意味もなく健人の手を握りしめることにしたのだった。
でも、観覧車から降りた時、近くのベンチに腰かけながら、健人はぽつりとこんなことを言っていた。
「いづみさん、どうしてあの時……俺が手を握ってもらいたがってるってわかったんですか?」
(それは、空に虹がでていたからよ!)というのが、わたしにとっての本当の答えだったかもしれない。
それに、わたしは健人があの密室の空間でキスをしたりとか、何かそういう種類のことを考えていてずっと無言なんだろうかと思っていたけれど――そうではなく、彼はただ単純に怖かったらしいのだ。
つまり、健人がわたしに手を握ってほしいと思ったのは、何か性的ないやらしい意味があってのことではなく……純粋に、自分の足下にぽっかり暗黒の空間が広がっているような感覚が怖くて、それでわたしに手を握ってもらいたかっただけのことなのだ。
わたしはこの時も、健人にはわからない種類のくすくす笑いをし、健人は健人で「なんかよくわかんないけど、いづみさんが笑ってくれてよかった!」とでもいうように、優しく微笑んでいたっけ。
そう――わたしと健人との間に存在するのは、そんな種類の純粋な「Love Story」だった。
そして主人公は健人とわたしのふたり……わたしはまさか自分がそんな純愛を経験出来るだなんて想像してもみなかったので、この頃には健人との恋にすべてを賭けてもいいとさえ思うようになっていたかもしれない。
もっとも、わたしと健人との間は、そう順風満帆なことばかりでもなく、この時も遊園地で「ママ!あの人、ホラーハウスにいる人みたい!!」と子供に言われたし、時々そういう種類のことに遭遇するたび、健人はやはり軽く落ちこむようだった。
「いや、俺はまあいいんだけど……いづみさんはどうなのかなって。そんな奴と一緒にいたら、いづみさんの株が下がるっていうか……」
「馬鹿ねえ、健人!あんたって超のつく大馬鹿よ!!」
というのが、健人がそんなことを言いだすたびに返す、わたしの答え。
「わたしはね、自分の株が上がる人間とだけ過ごすほど暇な人間じゃないのよ!もし仮に自分の株の上がる人間が全然好きになれない奴だったら、健人はどうする?自分の株が下がっても、自分の好きだと思える人と一緒にいたいとは思わないの!?」
――健人はこの時立ち止まると、ちょっとの間だけ、泣いていたようだった。
でもわたしはそのことには気づかない振りをして、健人をメリーゴーランドに一緒に乗るよう誘ったのだ。
それから、こんなこともあった。
健人と「物凄く美味しい」と評判のラーメン屋さんで、角煮入りの醤油ラーメンと塩ラーメンをそれぞれ食べていた時のことだった。
酔っ払いのサラリーマンがふたり、健人の座る椅子の真横へやって来て、白じょう杖に目を留めると、こんなことを言いだした。
「おおっと、障害者さんがお座りですか。あんたたちはいいよなあ。障害者なんとか金っていって、お国から金もらって暮らせるんだろ?その税金を支払うために俺たちは、毎日汗水たらして働いて、それでこのザマよ!!ほらほら、あっち行け!このめくら!!おまえなんか俺たちの税金でメシ食ってるんだから、こんな時くらい場所を譲れってんだ!!」
この時、見るからに水商売系の格好をした太った女が、店の片隅で下品にギャハハハハ!!と笑った。
酔っ払いのサラリーマンや健人とわたしに対して笑い声を上げたというわけではなく――店の小さなTVを見ていて、何か面白いことがあったらしい。
「健人、もう大体食べたでしょう?そろそろ行こっか」
狭くて、どこか薄汚い感じのするラーメン屋から、わたしは早く出たくてたまらなかった。
健人は絶対に、ああした種類の人間とは関わりあいになってはいけないのだ。
そしてわたしが健人に対して強烈に惹かれたのは……たぶん、そこなのだと思う。彼はこの世の汚れとか醜さといったものを、奇跡的に回避しながら生きていて、それゆえに純粋なままなのかもしれない。
「ごめんね、いづみさん。俺のせいでまた嫌な思いをさせちゃって……」
外へ出た時、健人が気弱そうにそういうのを聞いて、今度はわたしのほうが涙が出そうになった。
「べつに、いいのよ。あんなゴミみたいな奴、ゴキブリでだしをとったラーメンでも食って、腹を壊せばいいんだわ。それより、評判どおり結構美味しいラーメンだったわよね。ただ、やってくる客が最低だっていうのがなんだけど」
「ふう~ん。いづみさんでも誰かを悪く言ったりすることあるんだ。ちょっとびっくり」
「あんなことまで言われて、のほほんとしてられる健人のほうが、あたしはびっくりよ!」
「まあ、しょうがないよ。目が見えない以上、喧嘩したって勝てるわけじゃないし……ただ俺、いづみさんに誰かが絡んできたりしたら、絶対守るからね」
「まったくもう、あんたって子は!!」
そう言ってわたしは、白じょう杖をついて歩く、健人の背中をばしんと叩いた。
もしかしたらわたしはこの時にはすでにもう、心の中で決めていたのかもしれない。
ああした世の中の汚さや醜さから一生健人のことを守っていきたいと――わたしは心の中のどこか、自分でもわからない無意識の領域で、ずっとそう思い続けていたのかもしれなかった。