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Side:いづみ-8-

 そんなふうにして、健人はある意味長い時間を通し、わたしの心の支えだった。

 もっとも、彼はすでにもうわたしのことなど忘れているだろう……とは思っていた。知らせがないのは良い便りとはよく言ったもので、健人がわたしを訪ねてこないのなら、それはそれで彼の人生が十分うまくいっている証拠のようなものだと思っていたから。

 けれども、ある意味人生の悪戯というのかただの偶然なのか――わたしは、市内でもっとも大きいと言われている書店で、健人と二年ぶりに再会した。

 わたしが発達障害のある子や自閉症の子供に関する専門書を三冊ほど買って、カウンターで会計を済ませようとした時、本屋の店員が御注文の本が入荷になっています、と言ったのだ。

 わたしはその時たぶん、「ああ、そうですか。じゃあ一緒に買っていきます」とかなんとか、そんな言葉をぼんやり話しただけにも関わらず――「いづみさ~ん!!」と、文芸書や文庫本の並ぶ本棚の向こうから、健人がシャキシャキ白じょう杖をついて現れたのだ。

 確かに店員のほうでも、「鷲尾いづみさまで間違いございませんね?」といったようなことを聞いた気はするけれど、それだって別に馬鹿みたいに大きな声だったわけではない。

 にも関わらず、健人はわたしの声(と店員の声)に反応して、晴眼者を白じょう杖で押しのけるようにしながら、わたしの元まで一直線にやってきたのだ。

「健人、あんた、どうしてここに……」

 偶然会えてびっくりしたのと嬉しいのとで、わたしはそんな月並みな言葉しか口から出てこなかった。

 対する健人はといえば、サングラスをして何やらちょっといい格好をしており――なんだか杖をついて歩くダンディなイケてるお兄ちゃんといった風情だった。

 しかもあの時、もしかして健人はまだ成長期が終わっていなかったのだろうか。

 肩幅も広くなり、背もわたしより少し高くなっている。あの頃は、わたしよりも二三センチ低かったし、体格のほうも貧弱な感じだったのに……わたしはまるで、かつての自分の教え子が立派になって戻ってきたとでもいうような、深い感慨に近い気持ちをこの時味わっていた。

「いづみさんの声は、どんなに遠くからでも判別できますよ。それに俺、あれからもずっといづみさんのことばっかり考えて過ごしてたし……だからもしかして幻聴かなとも思ったけど、店員の人が「鷲尾いづみさん」って言ったから、まず間違いないと思って……」

「まったくもう、あんたって子は……」

 全速力で走ったあとの犬のような顔を健人がしているのを見て、わたしは思わず彼の頬に触れたくなった。そして無意識の内にも手を伸ばしかけて――ハッとした。

 新刊の本が並ぶ棚の向こうから、森繭香がおそろしいくらいの目つきでわたしのことを睨んでいるのに気づいたのだ。

「健人、あんたもしかしてデートの途中なんじゃないの?」

 わたしはどこか迷惑顔の店員に気づいて、急いで精算を済ませると、次の客のために会計の場所を譲った。

 そしてショルダーバッグの中に四冊の本をしまいこみながら、森繭香に向かって軽く目線で合図を送る。

「俺は別にデートなんか……」

 そう言いかける健人のことを制し、わたしは繭香に向かって手を振った。

「あら、繭香ちゃんも久しぶりね。元気だった?」

(あなたになんか、ちゃん付けで話しかけられたくもない)――そういう顔をあからさまに繭香はしていたけれど、健人の手前もあるのかどうか、彼女は消え入りそうなくらいの小さな声で、ようやく「こんにちは」とだけ挨拶をした。

「悪いんだけどさ、繭香。先に帰っててくれないか。俺はいづみさんと大切な話が……」

「あーら、健人。何もわたしに遠慮することないわよ」と、わたしは自分でも白々しいような声で言った。「若い人は若い人同士!まあ、おばさんは消えることにするわ。そのうちまた、会おうと思えば会えるでしょ」

「いづみさん、変なこと言わないでくれよ。俺と繭香はたまたま一緒にいたってだけで、なんでもないんだ!」

 わたしはその言葉に、森繭香が泣きだしそうな顔をしていることがわかった。

 あれから二年――森繭香はたぶん、邪魔なボランティアのババアも消えたことだし、健人は自分のほうを向いてくれると思ったのだろう。そして特に何か進展があるでもなく、健人と繭香はなんとなく仲間として一緒にい続けたのかもしれない。その関係性が今、再び木っ端微塵に砕けてしまったのだ。

「この際だから繭香、俺はおまえにもう一度はっきり言っておく。俺と由貴は親友同士だ。そして俺には親友の好きな子とつきあうような趣味はないって、前にも言っただろ?だからもう俺につきまとわないでくれ。つきまとうなら由貴にしろ。これで俺の気持ちがはっきりわかったか?」

 たぶんこの時、もし健人の目が見えていたとしたら――今のと同じセリフはとても言えなかったに違いない。

 繭香は今にも泣きだしそうどころか、実際にぽろぽろと涙をこぼして、わたしと健人の前から去っていった。

 わたしはよほど追いかけようかと思ったけれど、健人に止められた。

 そして健人に「わたしじゃなくて、あんたが追いかけなさいよ!」と言おうにも……白じょう杖をついて歩く健人に、繭香を追いかけるのは言うまでもなく不可能だった。

「いいんだ、いづみさん。っていうか、これまで中途半端な態度をとってた俺も悪かったのかもしれないけど――俺、知ってるんだ。繭香がいづみさんのことを実際より悪く言って、女子寮での評判を落としてたこと。だからそれ以来、あいつのことは本気で相手にしてない。でも恵太の幼馴染みで由貴の好きな子だから、なんとなくなあなあでこれまで来たってだけの話なんだ。あいつは携帯もちゃんと持ってるし、今ごろ由貴にでも電話して色々しゃべってると思うよ。それで気がすんだら、今度は家に電話して車で迎えに来てもらうだろう。繭香が俺と同じく全盲だったら、もちろん心配だけど……まあ、か弱そうな振りをしてあいつ、実際はかなりしっかりしてるから、いづみさんが心配することなんて何もないんだ」

「本当にそう?もし事故にでも遭ったらって、わたしはそのことが一番心配なんだけど……」

 わたしが繭香の去っていった通路を目で追っていると、健人はわたしの腕をかなり強引に掴んで言った。

「それよりもいづみさん、今はいづみさんが俺の目になってくれないかな?それで、どこか落ち着ける場所にでも案内してよ。ここの本屋の隣にそば屋だかうどん屋だか、あとはファミレスとかスパゲッティ屋とかがあるんだろ?俺も前にそこで、恵太と一緒にミートソース食べたことあるんだ。結構美味かったと思う」

「そうなの。じゃあまたそこに行ってみる?」

「ううん、そこは一度行ったからいいとして……俺、今日はそばかうどんが食べたい。もちろん、俺がいづみさんに奢るよ。だって誘ったのは、男の俺のほうなんだから」

「まったく、何いっぱしのこと言ってるんだか!大体健人、わたしに会いに来ないとこみると、あんたまだ半人前なんでしょ?そんな人とは割り勘くらいがちょうどいいんじゃないかしらね」

「だってさ、俺、整体師として働きはじめて、まだほんの半年程度なんだよ?もっと仕事にも馴れて、まわりの人に「一人前!」って認めてもらえたんじゃなきゃ……恥かしくていづみさんにはまだ会えないって思ってたんだ」

 わたしは健人が自分のことをずっと忘れずに覚えていてくれたことが嬉しくて――繭香には悪いと思ったけれど、一時的に彼女のことは忘れることにした。

 そして健人と腕を組んで歩きながら、「そこ、段差あるからね」とか「階段が二段」とか、そんなことを時折言いつつ、彼とふたり、本屋のすぐ隣にあるそば屋へ入った。

 白じょう杖を脇において座敷へ上がると、お盆に水とおしぼりをふたつ載せたウェイトレスの女性が、メニューをわたしに差しだした。わたしはこの時、彼女が好奇の眼差しで健人のことを見るのを、見逃さないわけにはいかなかった。

「ご注文のほうが決まりましたら、お呼びください」

 彼女が健人を見るのと同じ眼差しで、わたしがウェイトレスの女性のことを<観察>していると、流石に彼女も少し罰が悪かったのかもしれない。慌てたように、そそくさとすぐ下がっていった。

「健人はうどんとそば、どっちがいいの?」

「ん~、俺はそばかな。まあ、うどんでもいいけど」

「結局どっちよ!っていうか、冷たいのとあったかいの、どっちがいい?」

「あったかいのがいいな。だからかしわそばとかでいい」

「なんか梅とろろそばとか色々あるけど……メニューを読み上げたほうがいい?」

「ううん、いいよ。かしわで。でも、いづみさんは自分の好きなのゆっくり選んで。俺、ほんとに奢るからさ」

 結局、わたしが梅とろろそばを頼み、健人はかしわそばを頼んだ。

 彼が変なところで遠慮をし、変なところで遠慮しない子だっていうことはわかっていたけれど……わたしは彼が本当に自分の頼みたいものを頼んだのかどうか、少し気になっていた。

「あ~、でも俺ほんと、今感無量だよ。いづみさんとこんなところで偶然会えるなんて。本屋と同じ建物の中に、CDショップがあるだろ?俺はそこにCDを買いに来たんだけど、繭香が本屋もちょっと覗いてから帰りたいっていうからさ。あんなふうに追い返しちゃったけど、もしあいつが由貴とうまくいったら――俺、繭香のことは一生様付けで呼んでもいいな、うん」

「そっか、そうだったのね。いくら市内で一番大きな本屋とはいえ、点字で書かれた本までは置いてないから……健人がなんであそこにいたのか、ちょっと不思議だったの。それで、繭香ちゃんのことだけど……」

「いづみさん、あいつのことなんて言うの、もうやめようよ!」

 健人はおしぼりでしつこいくらい手を拭きながら言った。

「先に繭香の名前だしたのは、俺のほうかもしれないけどさ。でもね、いづみさん。俺があいつのことを好きになれない一番の理由は、とにかく性格!の一言に尽きるんだ。あいつって、俺の知る限り、本当の友達なんてひとりもいないんじゃないかな。恵太とは腐れ縁みたいなもんだし、由貴は繭香に恋してるから友達っていうのとは違うし、俺は繭香のことはもともと人間として好きじゃないからね。女友達と仮に仲良さそうにしてたとしても――なんか違うんだよな、友達っていうのとは。だから、障害があるとかないとか目が見えるとか見えないとか、結局最後はあまり関係ないんだ。最後はとにかく本人の性格の問題。それが悪かったら、誰のせいでもなく本人が不幸になるっていう、そういうことなんだ」

「……………」

 わたしは健人のこの意見には、同意しかねた。

 何故といって、繭香の視野が広くて仮に視力が両目とも1.5あったとしよう。そうしたら、彼女は超セレブなおうちで両親に期待をかけられて育ち、極端な話、今ごろアイドルとしてデビューしていた可能性だってなくはないかもしれない。

 でも繭香は晴眼者の間では強いコンプレックスを感じ、また盲学校のような場所で「優等生」としてまわりから崇められても――おそらく何か満たされないのだ。

 変なたとえ話かもしれないけれど、もし仮にわたしが片目だけ見えていたとして、両目とも見えない人には「あなたは片目だけでも見えていい」と言われ仲間に入れてもらえず、両目とも見える人には「あなたは我々と同じ仲間ではない」と宣告されたとしたら――わたしはもしかしたら、残った片目も潰して、両目とも見えない人の仲間になろうとするかもしれないと思う。

 うまく言えないけれど、森繭香が悩んでいるのはそうした種類の孤独なのではないかという気がした。

 そして出会い方がまずかっただけに、今さらどうしようもないとはいえ……健人とのことがなかったら、もしかしたらわたしは彼女ともう少しわかりあえたかもしれないと、そんなふうに感じていた。

「だからさ、いづみさんも俺に対して遠慮することなんかないんだ。俺がさっき繭香のことを傷つけたみたいに――いづみさんもさ、俺につきまとわれて迷惑だったら、はっきり迷惑だって言ってくれていいんだ。俺、いづみさんと会えなかったこの二年くらいの間、ずっといづみさんのことだけを想って、色んなことを頑張ってきたんだ。だからさ、いづみさんは俺の心の恩人なんだよ。いづみさんとの出会いがなかったら……たぶん俺、そんなに本腰入れて按摩師とか鍼灸師の資格を取ろうと思わなかったと思うし、今の俺があるのは何より、いづみさんのお陰っていうか」

「確かに、健人はあの頃よりは大人になったのかもね」

 先ほどと同じウェイトレスの女性がそばをふたつ運んできた。

 そして健人の元にはかしわそばを、わたしの手前には梅とろろそばを置いていく。

 会計の伝票のほうは、健人に気づかれないようにそっと、わたしは自分の座布団の横へ置いた。いくらなんでも、九つも年下の子に奢ってもらうわけにはいかなかったから。

「ねえ、いづみさん。俺ってほんとに大人になったと思う?っていうのはさ、いづみさんが俺のことを大人の男として見てくれるかどうかってことなんだけど」

 健人ははふはふとそばを食べながら――たぶん、露の湯気のせいばかりでなく、真っ赤になってそう言った。

 こういうところはたぶん、あの頃と少しも変わっていないのだと思うと、わたしはくすくす笑いたくてたまらなくなった。

「健人、あんたもしサングラスが邪魔くさいんなら、それ外したら?隣の席とは大きな衝立で遮られているし、ここは半分個室みたいな感じのところだから」

「うん。俺たぶん、鼻のつけ根があまり高くないんだな。なんかの拍子にすぐ、サングラスがずり落ちてきちゃって」

 お互いにそばを食べている間、健人が先に発した言葉の答えは、一旦保留になった。

 ずるずると藪そばをすすっている間、わたしは全然別のことを健人に聞いていた――今どんなところで働いているのかとか、働いていてどんな具合なのかとか、そんな一般的なことを。

「俺が今いるところは、俺以外の整体師の人はみんな健常者ばっかりで七人。学校を卒業する少し前くらいに、先生と一緒に面接へ連れてかれて……先生が横でべらべら俺がどんなにいい子かってことをしゃべりまくって、なんかそれで採用が決まったって感じ。お客さんもいい人が多いし、何より一緒に働いてる他の人がさ、目の見えない俺を気遣ってすごく良くしてくれるんだ」

「そうなの。なんかわたし、その様子が目に浮かぶ気がするな」

「え?いづみさん、それどういう意味?俺がなんかドジやらかして、まわりの人が必死でフォローしてるんだろうなとか、そういうこと?でも俺、こう見えて結構お客さんには受けがいいんだぜ――あ、そうだ!もし今度暇があったら、いづみさんもうちに来てよ。それで俺のことを指名してくれると嬉しいな」

 そう言って健人は、胸元のポケットから名刺を一枚取りだし、わたしに手渡した。

 わたしは普通に文字が印刷されているだけでなく、点字でも同じ表示がされている<整体師 二階堂健人>と書かれた名刺を、とても大切な宝物のように、バッグの中へしまいこんだ。

 この時、わたしは言葉にして健人に伝えることは出来なかったけれど……わたしが彼の働く様子が目に浮かぶといったのは、次のような意味合いで、ということだった。

 今わたしが訓練と療育を担当している障害のある子たちの中にも、健人とまったく同じタイプの子がいる。つまり、彼は全盲で口も聞けないにも関わらず、「ただそこにいるだけでいい」といったタイプの子だった。ようするに、わたしが目の見えない健人から心に<光>をもらったように、おそらく健人のまわりにいる人たちにも、そのことがよくわかるのだろう。

 もちろん健人自身は「俺なんか目も見えないし、みんなの世話になるばっかりなのに」としか思っていないに違いない。でもそれこそが彼の心の純粋さであり優しさであり、清さなのだと思う。

 だから、まわりの人は自然健人に「よくしてあげたい」と感じ、そして健人のほうでは「こんなによくしてもらって悪いな。もっとがんばらなきゃ」といった循環で、人間関係がうまく回っているのだと思う……健人はこういう種類のことで、何か嘘をつけるような子ではなかった。

 普通の健常者がよくするように、仕事がうまくいっていなくても「まあ、うまくいってる」といったようなことを、彼が口にすることはまずありえない。

 だから、健人にもし、仕事で何か悩みがあったら「いづみさん俺どうしよう」と今素直に打ち明けていただろうし、逆に彼が「うまくいってる」と言ったとしたら、それは額面通りに受けとっていいことなのだ。

 わたしはそのことがよくわかっていたから、就職して一人前の社会人として楽しくやっているらしい健人のことが、本当に誇らしくてたまらなかった。 

「でね、いづみさん、俺が最初に話したことなんだけど……」

 そばを食べ終わり、ウェイトレスの女性が蕎麦湯の入った湯桶を運んでくると、健人は素早くさっとサングラスをかけ、そんなことを言いだした。

 わたしは健人が立派に成長したことがあまりに嬉しく、微笑ましい気持ちで彼を見つめることに夢中で、この時にはすでに健人の話した「最初のこと」などすっかり忘れてしまっていた。

「最初に話したことって、なんだっけ?」

 湯のみにそば湯とそばつゆを混ぜ、わたしはそれを健人の前に置きながら聞いた。

「もう~!!いづみさん、わかってるくせにさ!俺、昔いづみさんと約束したじゃん。俺がもし自分で給料を稼ぐ一人前の人間になってたら、ひとりの男として見てくれるって!それで、いづみさんは今誰かとつきあってるの!?」

「ううん、それはないけど……」

 わたしが小さな声でぽつりとそう言った次の瞬間――健人は店中の客がびっくりするくらいの大声で、「やったー!!」と叫んでいた。

「ちょっと、健人……」

 隣の座敷の客が、ホトトギスの描かれた屏風の向こうから、こちらの様子を覗き見するのを見て――流石にわたしも少し罰の悪いような恥かしさを味わった。

 それでも、健人はやめない。

「やった!やった!!いづみさん、約束だよ!!俺が一人前の人間としてちゃんとやってたら、結婚を前提につきあってくれるって言ってたよね!?」

「う、うん……」

 健人が興奮のあまり、テーブルの前に身を乗りだした瞬間――そば湯とそばつゆの混ざった湯のみが倒れた。わたしは(まったくもう)と思いつつ、ティッシュで黙ってテーブルを拭く。

「でもね、健人。わたし、あんたと本当に結婚を前提につきあうなんて約束したっけ?まあ、確かにもしそうだったら「考えてもいい」みたいなことは話した記憶があるけど……」

「じゃあ、今考えてよ!!さあ、ほら早く!!いづみさん!!」

 わたしは結局、健人のあまりの元気のよさと勢いに呑まれるような感じで――この日、そば屋のお座敷で「つきあってもいい」というような返事を健人にすることになった。

 もちろん、「あんたまだ一人前じゃなくて半人前じゃないの」とか、適当に誤魔化すこともしようと思えば出来ただろう。でもわたしにはわかっていた。健人が二年後でも三年後でも五年後でも、「一人前になった」と彼が感じたら、もう一度わたしの元へやってくるだろうということが。

 それと、わたしが健人と「つきあう」ことを決めたのには、もうひとつ大きな理由がある。

 このまったく会わなかった二年の間、健人がわたしのことをずっと想っていてくれたように、わたしもまた同じような気持ちで彼を想うことが多かったということ……その感情にわたしは<恋>と名づけたりはしなかったし、それは恋愛などよりもよほど純粋で大切な気持ちだと思っていた。

 でも今――二年もの間、お互いにそんな気持ちで想いあっていたことを思うと、わたしは健人のことを拒むということが出来なかったのだ。

(大輔との時がちょうどそうだったように、今度もまた最後の最後で健人との関係も終わりになったとしたら?)

 そう思うと、わたしは背筋に薄ら寒いものを覚えたけれど、健人のように純粋な人を傷つける人間がいたとしたら、それは自分であっても決して許すことは出来ないと思っていた。そして自分にそういう気持ちがあるのなら――健人との関係も最終的にはうまくいくかもしれないという希望を、わたしは持ってしまったのだ。

 何より、子供のように無邪気に喜ぶ健人の姿を見ながらわたしが思ったのは、次のようなことだったかもしれない。

 この子は今、昔と違って、わたしが立ち直れなくなるくらいの傷を負わせることも出来るということ、つまりそう感じさせるものがあるくらい、彼は大人になったのだということが、わたしにはよくわかっていたのだ。




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