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Side:いづみ-3-

 一応念のために先に書いておくと、わたしの健人に対する想いというのは、恋ではない。

 確かにわたしは彼のことが人間として好きだし、出会った瞬間に物凄く「何か」を感じたにしても――それはいわゆるソウルメイトとかいうのと同じ種類のものだと言っていいと思う。

 わたしは二十八歳になるこの年までに、大きな恋愛を二度ほどした。

 一度目は最初に勤めた病院の医師が相手で、ようするにそれは<不倫>だった。

 先にも書いたとおり、わたしはオペ室の横にある中央材料室という場所で、手術器具などの滅菌作業をしており、その間病院の先生方が手術する様子を時折垣間見ていた……その中で、いわゆる「凄腕」タイプの先生がひとりいて、わたしも他の職員と同様その先生のことをとても尊敬していた。

 といっても、その先生とは中材にいる間はまったく接点などなかったし、初めて話をしたのはわたしが総婦長の命令で病棟の勤務になってからのことだった。 

 ――今にして思うと、わたしは先生にとってたぶん「引っかけやすい、若い女の子」といった感じだったのかもしれない。そして口が重くて自分とのことをペラペラ他のナースに喋ったりもしない子だということが、先生にはわかっていたのだと思う。

 何かそういう種類のお互いに惹かれあうものがあって、わたしはこの先生に対し、熱烈な恋心を持つようになった。

 もっとも、先生がすでに結婚していて子供がふたりいることも知っていたし、彼が奥さんと別れて自分と結婚してくれたらいいのに……とか、何かそんなふう思ったことは、一度もない。

 その時わたしにあったのはとにかく――先生のように凄い人がわたしみたいな子とつきあってくれるだなんて!という、強い憧れに似た気持ちだけで、とにかく先生が落ち着いた家庭人であることも含め、ひたすらに尊敬しているという、何かそういう関係だった。

 その後、先生が自分の父親の病院を継ぐために故郷へ戻っていった時、わたしは何も言わずに彼のことを見送った。簡単にいえば、自然消滅系の恋に分類していいのかもしれないと思う、たぶん。 

 そして、先生との恋愛ののち、もう二度と不倫なんてしないぞ!と心に決めたわたしは、特別養護老人ホームで働いていた時、同じ介護福祉士の同僚であった桜木大輔と二年ほど交際したのち、結婚することになった……というか、結婚するはずだったのだけれど、最後の最後でその話は御破算になったのだ。

 わたしには小さな頃からずっと、いわゆる世間一般の<普通の人>に対してコンプレックスのようなものがあり、ずっとその同じ「普通」の仲間入りをしたいという拘りのようなものがあった。

 大輔との恋愛は、ほとんど友達の延長線上のようもので、特に大きな盛り上がりはないけれど、一緒にいればまあそれなりに幸せにはなれるだろう……といった感じの関係だった。けれども、大輔の家族に会うという段階になって、わたしにははっきりわかってしまったのだ。

 わたしは彼の属する「普通のどこにでもある幸せな家庭」に入っていくことは出来ないこと、一時的に猫を被って<普通のふり>をすることは出来ても、いずれその化けの皮が剥がれた時、何かが恐ろしい力で徹底的に駄目になってしまうだろう、ということが。

 正直なところをいって、結婚指輪を突き返した時、大輔には何が起こっているのかさっぱり理由がわからなかったと思う。

 このことを言葉で説明するのは、わたしにとって今も難しいことなのだけれど……有り体にいえば、「愛が冷めた」とでも表現する以外にない。「こんなわたしでも、その気になれば普通の一般家庭に入ることも出来るのだ。そのことが確認できたら気が済んだし、でもそんな気持ちで結婚しても何かが決してうまくはいかないだろう」――なんだか嫌な言い方だけれど、とにかくわたしの心の根底にはそんな気持ちがあって、そして自分の中に「実はそんな感情がある」と気づいた以上、わたしは大輔と結婚できなくなってしまったのだ。

 わたしは大輔に、自分の母親が病的な詐欺師であり、逮捕歴があること、またその母に十代の頃売春を強要された……といったようなことは、一切話していなかった。そんなことを話せばきっと彼が離れていくと思った、というより……わたしにとって母のことを話す、という行為自体が、今も口に出して語ることさえ難しいという、そういう種類のことだったといえる。

 わたしが現在勤める<ヘルパーステーション・こころ>のすぐ横には、同じ病院系列が運営する特別養護老人ホームやグループホームなどが隣接していて、今も大輔はそこで働いているし、メールも電話もしない関係になったとはいえ、極たまに廊下ですれ違った時に話をしたりすることはある。

 わたしはまさか自分がこんな形で誰かを「傷つけうる」ことがあるとは思ってもみなかったので――大輔と別れて以来、恋愛というものは一度もしていない。

 そして、健人と出会ってから、彼のほうがひたすらわたしのことを信奉する……という形の恋心を寄せられるようになって、なんとも罰が悪いような、複雑な思いを味わっていた。

 何故ならそれは、わたしが初めてつきあった先生に対するものと瓜二つといっていいくらい、似通ったものだったからだ。

 自分が心の中に思い描いている理想像を相手に被せ、そして自分の心の中の偶像を信奉するといったような、とても幼くて若い恋心……でも、わたしにとって先生との恋愛は人間として成長するのに必要なものだったとも思うし、そう考えると健人のわたしに対する気持ちというのも――もし仮にあとで幻滅して終わることになったとしても、彼の成長にとって大切なものだろうか、とわたしは思ったりもした。

 なんにしても、二度目に「若葉寮」という視覚障害者のための施設を訪れた時、わたしは奇妙な変化にすぐ気づいていた。

 玄関のところで、受付の神原嬢と軽く挨拶した時も、彼女が「本当は話したくてたまらない」といったような含み笑いをしていることに、わたしはとっくに気づいていたのだ。でも神原さんの謎めいた表情の真意はわからず、とにかく男子寮の部屋をひとつひとつ訪ねてみて――すぐにその理由がわかった。

「あ、別に僕はこれといって用事ないです」

「お気遣いありがとうございます。でも、他に鷲尾さんのことを楽しみにしてる人がいると思うので」

「俺のことなんかより、健人のところに行ってあげてくださいよ」

 などなど……結局わたしは、男子寮の誰にも相手にされないことによって、二階の十三号室にいる健人の部屋を訪ねる以外にはなかったのだ。

 しかもこの時、いつわたしが来るだろうかとずっと待っていたのかどうか、健人は奥のほうの廊下を行ったり来たりしていて、わたしが他の子に「こんにちは~!」と挨拶するなり、ぴゅー!っと自室へ引っこんだのだった。

 健人のわたしに対する好意というのは、あまりに純粋であからさまで……わたしが彼の部屋をノックすると、健人はわたしが来たことなどまったく気づかなかったという振りをしているのが――本当におかしくてたまらなかった。

「あ、いづみさん。来てくれたんですね。僕、ずっと待ってたんです」

(そうみたいね)とあえて言うことはせず、わたしは健人が居住空間としている室内を、さり気なく見てまわった。

 彼がいるのはふたり部屋で、入って左側に二段ベッドがあり、奥には机がふたつ並んでいる。そして右側の壁には水着姿のアイドルのポスターが、そして後ろを振り返るとドアのところにAKB48のポスターが貼ってあったりした。

「ふう~ん。健人はAKB48の中では誰押しとかってあるの?」

 わたしに背中を向ける形で机の前に座り、しきりに点字のタイプライターを打っている健人に向かってわたしはそう聞いた。

「ああ、もしかしてドアのところのポスターですか?それは同じ部屋の東條恵太が貼ったもので、僕には無関係です。あいつは僕みたいに全盲じゃなくて、視野は狭いにしても拡大鏡でものを見れば一応見えますからね。入って右のところに水着姿の女性のポスターが貼ってあるかもしれませんが、それも恵太が貼ったものなので、僕にはそんないかがわしい気持ちはこれっぽっちもありはしません」

 わたしは健人の話をそこまで聞いていて、再びおかしくてたまらなくなった。むしろ彼くらいの年でそういうことにまるで無関心だったとしたら、そっちのほうが問題ありだろうという気がして。

「あ、いづみさん。笑ってますね?声を堪えていても、僕にはわかります。確かに僕は目が見えないけれど――その分、その人の醸しだす雰囲気であるとか、そういうものに結構敏感なんです。立ちっぱなしで話をするのも疲れるでしょうから、恵太の机の椅子にでも座ってください。あいつは今、職業訓練中でいないので、なんの遠慮も入りません」

「職業訓練って、同じ部屋の恵太くんって同級生なんでしょ?健人はそういうの行かなくていいの?」

「僕はついこの間終わらせあるので、大丈夫です。まあ、無給でこき使われて大変でしたよ。つくづく自分はあんま師にも鍼灸師にも向いてないなあと思いましたけど、現実問題、目が見えなかったら他の職業の選択肢ってほとんどないのが現状ですから……いづみさんは、介護の仕事をなさってるってこの間言ってましたよね?いづみさんはどうですか?仕事は楽しいですか?」

 わたしは恵太くんの椅子に座ると、なんて書いてあるのかまったくわからない点字の本などを見たりしつつ、健人の質問に答えた。

「そうねえ。楽しいといえば確かに楽しいし、充実してるなあって感じることもあるけど……たぶん、わたしも健人と同じで、自分が今の仕事に向いてるとは思ってないわね。でもまあ他に出来ることもこれといってないし、少しでも人の役に立てることって、100%完全に楽しいっていうんじゃ、たぶん駄目だと思うのよ。自分の中の至らない部分を自覚したりだとか、何かの痛みや面倒くささを覚えてでもコツコツやっていく。有り体にいえば、それが働くっていうことなんじゃないかしらね」

「そっか~。俺、いや、僕……そんなこと、考えてみたこともなかったな。いづみさんのお話は大変役に立ちます」

 そう言って健人は、タイプの終わった点字用紙を何枚か重ね、それを机の上で整えていた。

「ねえ、それってなんて書いてあるの?」

「これはですね……」

 そう言って健人は、どこかもごもごと少しの間口籠もっていた。

「僕の秘密の日記なんです。今ちょうど、現在進行形でいづみさんが話してくれた貴重な言葉もタイプしておきました。『自分の中の至らない部分を自覚したりだとか、何かの痛みや面倒くささを覚えてでもコツコツやっていく……それが働くということだ』。うん、もし恵太が職業訓練から戻ってきたら、俺、いづみさんの言葉を自分が考えだしでもしたみたいに、あいつに一説ぶってやることにしますよ」

「まったくもう。健人って、真面目ないい子なんだか不真面目なのか、よくわかんないわね。なんにしてもわたし、女子寮にも行かなくちゃいけないから、そろそろ行くね」

「えっ!?もう行っちゃうんですか!?」

 健人があんまり驚いたせいで、彼が椅子から立ち上がるのと同時、CDラックに肩がぶつかって、そこからバラバラとCDが何枚か落ちてきた。

「えっと、バッハのパッヘルベルのカノン?健人はクラシックとか好きなの?」

 わたしが床に散乱したCDを拾い上げつつそう聞くと、健人は暫く黙ったままでいた。

「……いづみさんは、恵太みたいにやっぱり、ロックとかそういう方面の曲のほうが好きですか?俺も一応そういうの、聴くには聴くんですけど……」

「う~ん。そうね。別にわたし、音楽のジャンルには特にこれといって拘りはないから、まあ無節操になんでも聴くわね。ロックでもポップスでもクラシックでもなんでも」

 すると、健人の顔が一気にパッと輝くのがわかった。

「本当ですか!?良かった~。はっきり言ってこの寮内でクラシックなんか聴いてるの、俺くらいのもんですよ。うちは親父がクラシック好きで、小さな頃からそればっかりだったから……他のみんなはくだらないゴミみたいな音楽を聴いてるんですけど、そんな本当のこと、言うわけにもいかないし」

(今言ってるじゃん!)と突っ込みたいのを堪えつつ、わたしは健人のCDラックにあるCDと、恵太くんの机の横にある棚とを見比べた。

 確かに、そこに収納されているCDのタイトルは、まったく正反対だといって良かったかもしれない。

 ベートーヴェンにモーツァルトにバッハにブラームス……それに対して、ビートルズにローリングストーンズにクイーンにエアロスミス……部屋にコンポは一台しかないようだけれど、音楽の嗜好の違いによってふたりの間では喧嘩になったりしないのだろうかと、わたしは少し心配になった。

「いづみさん、女子寮へ顔を出して戻ってきたら、またここに来てくれませんか?俺、この一週間、いづみさんが来てくれることだけを楽しみに、学校の授業に耐えていたんですから」

「えっと、でも……うん、そうね。時間があったらちょっとだけね」

 わたしは室内に時計がないことに気づいて、自分の腕時計に目を落とした。

 一応、予定としては午後の一時から四時までの約三時間、ボランティアとして働くということになってはいる。女子寮へ一度いってから男子寮へ戻ってきても、少しくらいなら健人と話をする時間は残っているだろう。

 わたしが部屋から出ていくなり――健人はCDプレイヤーにエルガーのCDをのせて聴きはじめていた。わたしが思うには、健人は最初からクラシック音楽なんてかけていたら気どっていると思われると思ったのかもしれない。

 なんにしても、わたしはこのあと、女子寮で朗読をしたりして再び健人の部屋まで戻ってくると、彼と時間ギリギリまで他愛もない世間話をして過ごした。そして健人が来週はいつ来るのか聞いてきたので、土曜の同じ時間にまたやって来るということを伝えた。

「いづみさんは、日曜日はどんなふうにして過ごしてるんですか?」

「そうねえ。まあ洗濯したりとか掃除したり、あとは買物にいったりとかかな。何しろ、月曜から金曜までずっと働いてるでしょ?そうすると日曜日は溜まった家事をして終わりみたいになるのよね」

 わたしは本当にそう何気なく答えたつもりなのだけれど、健人はまた顔を下のほうに向けて、暫くの間何かもじもじしていた。

 もちろん彼は目が見えていないのだけれど、健人にとって「何か大切な質問」をする前には、彼がまったく同じ仕種をするということに、わたしはこの時気づいていた。

「デートとか、しないんですか?つきあってる人と……」

 わたしはこの時、流石に堪えきれなくなって、ぶーっ!!と吹きだしてしまった。

 すると、その笑い声に驚いたらしい、ドアの外で立ち聞きしていた生徒二名が、部屋の中を覗きこみ、それから「やばい!」という顔をしてすぐに走っていった。

「なんですか、いづみさん?俺、今なんか変なこと言いましたか?」

 健人のその物言いには、卑屈なところや不安を感じさせるようなところはまるでなく、ただ単純に「好きな人を笑わせることが出来てよかった」とでもいうような、優しさがあった。

 わたしは現在、確かに誰ともつきあっていないけれど――もしかしたらそういう人がいると嘘をついておいたほうがいいかもしれないと最初は思ったのだ。でも、わたしは健人に対して「完全降伏」とでもいうような白旗を上げたい気持ちになっていた。

 彼のような純粋な人間に対して嘘をつくだなんて、そんなやり方はフェアじゃない。

「ううん、いないわよ、そんな人。っていうかわたし、結婚願望とかもないしね。もしかしたら、孤独な老人の介護ばっかりしてるから……夢を持てないのかもしれないわねえ。子供なんて生んでも、老後の世話をしてくれるとは限らないっていうケース、数限りなく見てるし。ホームヘルパーって家の中に入って家事をするのが仕事でしょ?ひとりの利用者の家の中に入ると、家族関係がどうだとか、色々知りたくないことも見えてきちゃうものなのよね。で、幸福な家庭よりも不幸なおうちのほうが実際多いわけ。最初はこう、「この人とならいい家庭を築けそう!」なんて夢見たとしても、現実はなかなかうまくいかないって、わかってもいるしね」

 自分でも、心の中では(子供相手にわたしは何を話してるんだろう)と思ってはいたけれど、健人にはどこか、人にそうさせるものがあった。つまり、彼に「自分は一言一句洩らすことなく、あなたの話を聞いています」という態度があるゆえに――いつの間にか本音について、ポロッと喋ってしまっているのだ。

「そうですか。でも俺……僕だったら、いづみさんみたいな人と結婚したいな。そしたら、俺にできることはなんでもします。確かに俺は目が見えないけど、洗濯とか掃除とか、料理だって一応出来るし、いづみさんが思ってる以上に出来ることって色々あると思うんです。まあ、いづみさんはきっと、目の見える人との結婚が一番望ましいって思ってるだろうけど……」

 それから健人がまた顔を下に向けてもじもじするような仕種をしたので、わたしはなんて言ったらいいのかわからなくなった。

 問題は目が見えるとか見えないではなく――もっと別のことなのだと伝えるには、どう表現したらいいのか、ぴったりくる言葉がどうしても見つからなくて。

「まあ、健人は人生これからだものね。何もわたしみたいな九歳も年上のおばさんが相手じゃなくても、若くて可愛い子がこれからたくさん現れるわよ。あ、そろそろ時間だから、じゃあまた来週ね!」

 わたしは自分の言った言葉に対する健人の返事を待たずに、彼の部屋から飛びだしていた。

 正直なところをいって、九歳も年下の子に胸がドキドキときめいたりなんかして、どうするんだ、自分!というのが本音。

 でもまあ、それというのも健人があんまり純粋で綺麗すぎる心を持っているのがいけないのだ。

 もちろん、わたしは彼に恋心なんて持っていない――けれど、一途な気持ちで想ってもらえたり、一方的に慕われたりするというのは、やはり嬉しいことではあった。

「どうしたんですか、鷲尾さん!?まさかとは思うけど、二階堂くんが何か……」

 受付の窓口をガラッと開け、神原さんがそう言うのを聞いて、わたしは少し焦った。

 何故といって、自分が今とても赤い顔をしてるだろうことが、よくわかっていたからだ。

「あっはは~。そういうことですか」

 わたしが「健人は感情表現がストレートすぎる」と小さな声でいうと、神原さんは詰所に上がってお茶でも飲んでいきませんかとわたしを誘った。

 そこで、宿直の職員たちの机が並ぶ部屋に、ちょっとの間だけお邪魔することにする。

「先週、鷲尾さんがここへ来てから、二階堂くん、寮の一階から三階までを全部訪ねまわって、「鷲尾いづみさんは俺の好きな人なので、誰も手を出さないでください」キャンペーンを張ったんですよ」

 そう言って、神原さんはもう堪えきれないというように、げらげらと遠慮なく笑いだした。

「後輩とか同級生とか先輩の全員に、鷲尾さんのことを自分がどんなに好きかを演説してまわって、自分のこの一世一代の恋愛に協力するよう強制したっていうか……」

 わたしはとにかく、口をぽかんと開けたまま、驚くより他はなかった。

 どうりで、廊下で挨拶した寮生たちが、いかにも意味ありげな顔をしていたわけだと、あらためてそう思う。

「えっと、あの……あの子っていつもそうなんですか?たとえば、割と年齢が若い女の人がボランティアでやってきたらすぐ恋しちゃうとか……」

「ううん、それが全然なのよ」

 そう言って神原さんは、わたしに梅こぶ茶を勧め、お饅頭の載ったお盆の蓋を開けた。

「うちがこういうボランティアを募集してるのって、まあ簡単にいってしまえば視覚障害者の社会ってすごく閉鎖的だからなの。中途で視力を失った人は別としても、生まれつき全盲の子なんかは盲学校でずっと訓練して最後はあんま師になるみたいなパターンになりがちだし。その点、鷲尾さんみたいな人がふらっと一人でボランティアにやって来たりすると、「見えない自分たちの領域に見える人がやってきた」ってことになるわけ。そういうところで<見える人>との社会の接点っていうのかな、そういうものを持ってほしいってことなんだけど……まあ、二階堂くんはわたしが見たところ、これまでボランティアの人に心を開いたりしたことはないって感じかも。一見、最初に握手して仲良さそうに見えたとしても――あとでこっそり、「あの人はいまいち中身がない」とか「人間として深みがない」とかなんとか、同室の子に話したりしてるのよ。まあ、そのことをたまたま聞いてた宿直の先生が、「なーにを生意気なことを言っとるか!」って怒ったりもするんだけど……結構当たってるのよね、二階堂くんの言ってることって」

「でもなんかわかります。あの子にはちょっと嘘が通用しないっていうか……もし仮に嘘をついたとしても、見破られそうな感じ、わたしもするから」

 神原さんはまたくすくすと笑いだし、「それはどうかしらね」と言って、梅こぶ茶を一口すすった。

「恋は盲目っていうでしょ。まあ、二階堂くんの場合、恋してなくても盲目なんだけど……彼って同じ専門学校の子に普通にもてたりもするから、たぶん誰かとつきあおうと思えばそうできるとは思うのよ。でも<恋>っていうものが本当はどんなものなのか、今まで知らなかったんじゃないかしら。わたしの見る限りいかにも硬派で淡白な感じだったんだけど、鷲尾さんに出会ったことできっと一気に目覚めちゃったのね。なんていうかこう――遅くなってやってきた春、みたいな感じで」

「遅くなってやってきた春、ですか……」

 もはや笑おうにも笑えなくなって、わたしは梅こぶ茶の湯飲みを手の中に収めたまま、健人がよくそうしてたみたいにもじもじとした。

 ちょっとした慈善心のようなものでボランティアしようと思ったことが、まさかこんな結果になるとは、思ってもみなかったのだ。

「う~ん、なんていうか、何かの障害を持ってる子って、男の子は特にそうなんだけど、精神的に発達が遅いのよね。女の子のほうはわりとしっかりしてる場合が多いんだけど」

「あ、それなんか凄くわかります!今日、女子寮へいったら、男子寮とは反応が全然違うんですよ。せっかくボランティアの人が来てるんだから、少しくらい話してあげなきゃ可哀想、みたいに気遣ってくれてるっていうか……なんかむしろ向こうに気を遣ってもらってこっちがボランティアさせてもらってるみたいな感じなんです。でも男子寮のほうは、そういうのが全然なくって、むしろ小学生とか中学生の子が好奇心剥きだしでチラチラこっちを見てるみたいな反応っていうか」

「それ、当たってる!!」

 そう言って神原さんはまた、げらげらと笑いだした。

「わたしも、言いたいことがあるんならハッキリ言え!!ってここの子にはよく言いたくなるのよ。なんかもうもじもじしたりだんまりを決めこんだりしてね、言わなくても察してくれって感じなの。でも現実の社会ではそういうのは通用しないでしょ?だから先生たちも自分の口ではっきりものを言えるように催促するんだけど……これがまた難しいというか、なんていうか。まあ、逆におしゃべりな子は「もう喋らなくていい」っていうくらい、極端にお喋りだったりね」

 わたしは五号室の大槻くんのことを思いだして、思わずぷっと吹きだしてしまった。

 彼は変に理屈っぽい子で、最初に挨拶した時、聞いてもいないのに自分の生い立ちや趣味のことなどをえんえんとしゃべり続けていたからだ。

「まあ、鷲尾さんも二階堂くんのことは、そんなに深く考えなくて大丈夫だと思うの。ほら、わたしたちの年になるともうそういうのは大体経験してるじゃない?自分も、初めて誰かを本気で好きになった時はこうだったなあ……とか。たぶん二階堂くんは今、そういう通過点にいるって思えばいいんじゃないかしら?わたしも相手のことを思ってるだけで幸せってこと、その昔はあったものねえ。まあ、大体そういうのは片想いで終わっちゃったけど」

 ――書き忘れていたけれど、神原夏樹嬢は物凄い美人の受付嬢である(ちなみに独身)。

 たぶん、ここの男子寮の生徒たちが全員晴眼者だったとしたら、全員が全員、彼女に恋をしてしまいそうなくらいのマドンナといっていいと思う。

 年齢のほうはわたしより四つ年上なのだけれど、全然三十代に見えないし、下手をしたら老人の介護に追われて所帯じみた雰囲気を醸してるわたしより、年下にさえ見えたかもしれない。

 だから、健人がわたしに対してあからさまな好意を見せた時、わたしは少し不思議な感じがしたのだ。

 神原さんは容姿だけでなく声のほうも美人だし、さらに言うなら、今日女子寮のほうでわたしは、他のボランティアスタッフに若くて可愛い子が混じっているのも発見していた。彼女はアニメの声優のような声をしていて、男子寮のほうでも結構人気があるという。

 でも健人は彼女のことには特に関心を示さず、わたしにだけ真っ直ぐに好意を伝えたのだ。

 それがどうしてなのか――まあ、恋のキューピッドの矢の気まぐれと言ってしまえばそれまでだけれど、わたしは機会があったら健人に聞いてみたいと思っていた。




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