Side:いづみ-11-
健人と結婚したのち、わたしはそれまで勤めていた児童デイケア施設の正職員をやめた。
今も時々ボランティアとして顔を出したりはしているけれど、わたしは一日の大半を健人と一緒に過ごし、彼の治療院の手伝いであるとか、事務仕事をする傍ら、家の雑務をこなすといった生活に入った。
健人の父親が経営する<二階堂内科医院>には、毎日のようにたくさんの患者が訪れ――そのおこぼれというのか、何かそんな感じで、健人の元にもお客さんが適度にやってくるようになり、わたしと彼がふたりで暮らしていく分には、生活費のほうはそう困ることもなかった。
何分、家のローンや治療院の建物のローンは健人の両親持ちな上、光熱費まで彼らが代わりに払ってくれるだけでなく、生活費の援助として月に十万円、わたしは健人の……いや、今ではわたしの義理の両親でもある父母から受け取っていた。
「本当は月々二十万くらいと思ったんだけど……足りなかったらその時は、適宜言ってくれないかな」
もちろんわたしは、今でも十分良くしてもらっているし、こんなお金まで受けとるわけにはいかないと、義理の父と母に抗議した。でも彼らは、「このことは健人に内密にしてほしい」と強く注意した上で――あくまで表面上は健人の稼ぎだけでやっている振りをして、わたしはわたしで自由に好きなものを買いなさい、といったようなことを遠回しに言ったのだ。
一体どこまで親馬鹿なのかと言ってしまえばそれまででも、わたしはそんなにも両親から愛されている健人のことが、羨ましくもあった。確かに整体師としての健人の腕前というのは、プロとしてなかなかのものではあると思う……それでもやはり、毎日治療院を訪れる客の八割方が二階堂内科医院の患者であることを思うと、ここでもやはり親の七光効果というのを実感せずにはいられない。
つまり、健人は全盲であっても、かなりのところ恵まれた環境に育ち、本人はあまりそう自覚していないながらも、周囲の人に愛されて成長した人だった。そしてわたしが思うには――仮に全盲でも、他に何かの障害があったとしても、恵まれない環境で誰にも愛されずに育った健常の人より、健人のような人のほうが、よほど幸せなのではないかと思うのだ。
わたしは今も時々、健人が「麻薬を打たれてレイプされた」と言っているにも等しいわたしの告白を、どうもいまひとつ意味がわかっていなかったのではないかと、そんな気がしてならないことがある。
あるいは、彼自身があまりにも清らかすぎて、そんなことがわたしの身に本当に起こったことだとは理解できなかったのではないかとさえ……もっとも、わたしにしてもこのことは、再び言及したいことではないので、<幸せな今この瞬間>のために、あえて口を閉ざしていることではある。
けれど、やはり人間というのは、「宿命」というのか、「運命」といったものからは逃れられないものなのかもしれない。
健人とわたしの幸せな新婚生活というものは、実はこののちあまり長く続かなかった。
坂上達郎と偶然再会した時、わたしが「もしかしたら……」と頭の隅で考えた最悪のシナリオが、やがて現実のものとしてわたしの身の上に降りかかる時が、間近に迫っていたからである。
二階堂病院から借りたカルテを返し、治療院のほうへ戻ろうとした時――待合室に、ほっそりとした小柄な中年女性を見つけて、わたしは一瞬、心臓が止まるような衝撃が身内に走るのを感じた。
「宮森ゆり子さん、診察室へお入りください」
お義父さんが、大学病院のほうから引き抜いてきたという看護師が、優しい声で母の名前を呼ぶと、彼女はショックを受けているわたしに通りすがりざま……「あとで会いにいくよ」と、昔からの、人に暗示をかけるような低い声でそう言った。
宮森ゆり子、ということは、誰かと再婚したのだろうか?それともまた保険金詐欺のようものを働いていて、一時的に名前が変わっているのかどうか――なんにしても、わたしが次に思ったのは、ここからすぐにも逃げなくてはいけないということだった。
母に出会っただけでわたしは手足が震えはじめ、自分の心臓が他人のそれのようにバクバクと強く脈打ってくるのを感じていた。
おそらく、このことは誰に説明しても、わかってはもらえないことかもしれない……ここで問題になるのは、わたしが何をどうしても実の母には逆らえないということなのだ。
母はおそらくあのあと――腐れ縁でつきあいのある坂上から、わたしが盲目の坊やとつきあって金をせしめようとしているらしい……といったような話でも聞いたのだろう。
もちろんその時点では、母にはわたしの居場所などわからなかったに違いない。でも母は一度自分が「ターゲット」にした相手のことは、執念深くコツコツ地道に調べあげるのだ。もしかしたら、母にはもっと前から、わたしの居場所のことなどわかっていたのかもしれない。けれどその時には、<二階堂内科医院>も<二階堂治療院>も建設途中で――もう少し様子を見てからこの家には寄生したほうがいいと、そんなふうに判断したのかもしれない。
つまり、わたしが母のことを恐れるのは、何よりそうした理由によってだった。
今ごろ母は仮病か何かを使って、お義父さんの診察を受けているだろう。お義父さんの克己さんにしても、小柄でほっそりとし、五十代とはとても思えない美貌を持つ母に対して、彼女が実の娘に麻薬を打とうとするなどありえない、そうとしか思わないに違いない。
いや、過去にそうしたことが仮にあったとしても――今はもう彼女はすっかり心を入れ替えて、実の娘との交流を取り戻したいと考えているとかなんとか、そんなふうに善的に解釈してしまうだろう。
もちろん、母はお義父さんに対してすぐ、自分の身分を明かしたりしないことはわかっている。今日のところはまず、下見の下見といったところ……そして、わたしに帰り際にお金をせびるつもりなのだ。そのことだけは絶対的に間違いがなかった。
「達郎にあんたのことを聞いた時は、まさかと思ったけどね。でも知りあいに興信所をやってる奴がいるから、あんたのことを調べてもらったんだよ。十何年前もの写真だったけど、向こうもこの道のプロだからね……案外すぐわかって、あんたの過去のこととか色々、全部調べてもらったってわけ。まったく、嫌味な子だよね。病院とか介護関係の仕事にばっかり就いて、さも母親のわたしとは生き方が違いますみたいに思ってるんだろ?だけど、血ってのは水よりも濃いもんだよ。そんなわけであんたは今、あの目の見えない坊ちゃんと結婚してるってわけだ」
この時、健人は訪問診療に出かけていて留守だった。
母は居間で煙草を吸いはじめていたけれど、彼女が帰り次第すぐ、徹底的に消臭しておかなくてはならない。何故といって健人は、煙草や香水の匂いにはとても敏感だったからだ。
「母さん、今日のところはこれで、帰ってください」
義理の両親から生活費としてもらった、十万円の入った封筒を、わたしはテーブルの上に差しだした。
「ふん。今日のところはかい?ま、医者ってのは金の成る木だよ。毎月、うまくやれば五十万くらいは……」
「母さん!!」
坂上と同じく、腐った性根にまるで変化のない母に対し、わたしは重い声で怒鳴りつけた。
「五十万なんてお金、うちからは逆立ちしたってどっからも出てきやしないわよ!!確かに、お義父さんにはそのくらいの金銭的余裕はあるかもしれない。でもね、わたしのほうから毎月そのくらいお金をくださいなんて、死んでも言えるわけないじゃないの!!」
「馬鹿だねえ。そこをうまくやるのが、あんたの役目ってもんだろうが。あんな薄気味悪い男と結婚して夜のお勤めまでしてるってのに、こんなちっぽけな治療院であんたはこき使われてんだよ?もうちょっと小遣いくらい貰わないと間尺にあわないってところを、それとなく見せればいいのさ。向こうはね、いかにも上品な育ちでこれまで来てるから、そういうのには絶対弱いと思うね。あとは、ここの治療院をやってくのに金が足りないとでも言って……」
「もうやめてったら!!母さんのそんな話、わたしはもう聞きたくないの!!」
思わずわたしが耳を塞いで泣きだすと、母さんは煙草の火を揉み消し、十万円の入った封筒をシャネルのバッグへ入れて立ち上がった。
「まあ、なんにしてもまた来るよ。母さんはね、高血圧の薬をずっと飲んでるんだ――降圧剤とかいうのをね。あの薬はどこの病院でも貰えるものだし、診察代のほうもどこの病院だって大して変わらない。だからここの二階堂先生のところへ、これからもずーっと通うことにするよ。先生に、うちの店の名刺も置いてきたからね……これであの先生がうちに来てくれれば、さらにうまいことボールが転がるよ」
「いいから、もう早く帰ってったら!!」
はいはいと、まるで悪びれたところさえなく、母は玄関にある鏡の前で髪を整えてから帰っていった。
わたしがこの時感じていたのは――袋小路に入りこんだ、ネズミのような気持ちだったかもしれない。
そしてわたしがネズミなら、母はネコなのだ。それも、すぐにネズミを噛み殺すことなく、暫くネズミがもがくのを楽しんでから最後に喉を噛み裂くといったような、凶悪な猫。
この、わたしが二階堂家をあとにすることになる、前の日の夜……わたしはまるで自分には問題など何もないというような顔をして、健人の前でいつも以上に明るく振るまった。
でも、彼はあとになってから、そのせいで余計に混乱し、苦しんだかもしれない。
わたしにしても、健人に対して彼が納得できるような置き手紙を残していく、なんていうことは不可能に近かったので――ただ、「探さないでください。いづみ」といったような書き置きしか、残していけそうになかったのだ。
そして、それだけでは何かが不十分な気がして、「わたしの母を名のるゆり子という人が現れたら、すぐ警察に連絡してください」と小さな文字で書き添えておくことにした。
母は詐欺ということに関しては、本当に天才的な女優だということを、わたしはよく知っている。
だから、わたしがいなくても手八丁口八丁で二階堂家の人々から金を巻き上げるくらいのことは軽くやってのけるだろう……それに、自分たちに一言相談してくれれば、何もわたしが姿を消す必要まではなかったのにと、健人や彼の両親は思うに違いない。
わたしがこの時、健人の前から姿を消そうと思った理由はただひとつだけ。
わたしは母が道徳的に間違っているとか、最低な人間であるとわかってはいても――一度彼女の暗示の罠にかかってしまうと、彼女の犯罪の片棒を担ぎかねない自分を知っていた。
幼い頃から母が意識的にわたしをそう躾けたのかどうかはわからない。でも母は、最初はだだをこねたり反対しても、最終的に自分の娘が自分の言うなりになるだろうと知っているのだ。
そう……だからわたしは、自分の幸福に未練が残るあまり、じわじわと女郎蜘蛛の網にかかって餌食にされるよりも、最初からその網ごと壊すという道を選択することにしたのだ。