第九話 64階層(帰)
ジーッと呼び出しブザーが鳴って、表示板の針が64を指した。あの二人だ。トマト、キュウリ関連の仕事を終えたらしい。
さらに何度もブザーは鳴る。
「何度も押さんでも聞こえているぞ」
エレベーターボーイはクランクを回しながら言った。だが、ブザーは止まない。あの二人は忍耐を知らないのか、さもなければ切羽詰まった状況にいるのだろう。
エレベーターが遅れたために冒険者が死ぬようなことがあってはならない。断じて、あってはならない。エレベーターボーイのプライドがかかっている。
エレベーターボーイは急いで手順を進め、エレベーターはそれに応えた。
エレベーターの籠はクロスボウから放たれた太矢のごときスピードでシャフトを駆け下りた。熱水機関から副産物として産まれた圧縮された空気を、エレベーターのすぐ上で解き放ったのだ。
落下の障害となるケーブルはすでに切り離してあった。足下からの恐ろしい突風にエレベーターボーイはもみくちゃにされる。体が浮き上がるのを防ぐために脚の指で床の突起を掴んでいる。
努力して目蓋をこじ開け、速力計を睨んだ。速力と時間さえ把握していれば、エレベーターの現在位置を割り出すのは造作もない。
エレベーターボーイは最小限のブレーキをかけた。人間の可聴域を超越した金属の絶叫が脳を貫く。常人ならそれに苦しみ、のたうち回ることだろう。だが、エレベーターボーイにとっては心地よい音色だ。狂気の流星のように時たま火花が散った。
エレベーターの籠は先ほどの横穴の地点に、先ほどの五倍のスピードでやって来た。
エレベーターの落下の方向が変わる。エレベーターボーイはよろめき、籠の壁の鋼材に頭をかち割られそうになる。だが、エレベーターボーイの太ももの筋肉が壷貝のように張り出し、彼は落ち着き払って姿勢を直した。
暗黒を切り裂いて、エレベーターの籠は64階層に飛び込んだ。
状況が見て取れた。きらめく刀、モンスターのぬめつく表皮。
すでにエレベーターの籠の格子扉は開いている。
「乗るがよい!」
冒険者二人は、籠の中に駆け込み、モンスターも押し掛けて来た。
ケラルムが振り向きざま、鋭剣を突いて、モンスターの皮から血がぶーっと吹き出し、床ではねた。
「エレネットを見せよ!」
エレベーターボーイが格子扉をどしんと閉めて、モンスターの首を挟んだ。ウツボと狼の合の子のようなモンスターが吠え、その頭は籠の外へと消えた。
「そんなもん、荷物の大半と一緒に奥に置いて来た!」
ケラルムが格子扉の隙間から刃を突き出しながら怒鳴る。
「無いのなら降りよ!」
「なんだって!?」
「こっちも商売でな! ただ乗りを許す余裕は無い!」
新手のモンスターが籠にずしんと頭突きをかまし、三人の足下が揺れた。
格子扉に穴が空いて、モンスターの顔がその向こうから押し寄せてくる。
「なんて野郎だ! ぶん殴ってやるから、そこで待ってろ!」
「こういう国で、こういうダンジョンなのだ!」
ケラルムが忙しくモンスターを斬りながらいきり立った。その背後でシフィエラが財布を開けると、エレベーターボーイに金貨を放った。
「地上行きの切符を二枚ね!」
「毎度あり。車内乗車券は普通の切符より高価だから、釣りは出ぬぞ」
エレベーターの籠が動き出すと、モンスターは一層激しく籠を攻撃して、今にも格子扉は破られそうになった。
「シフィエラ、『インフェルノ』を使うんだ!」
ケラルムがモンスターを食い止めながら怒鳴った。シフィエラが腰から、なにか小さな陶器のようなものを掴んだ。ポーション回復薬かと思いきや、彼女はその先端の紐を引っ張り、格子扉の隙間から放り投げた。
直後、大爆発がダンジョンを揺さぶる。
地下深き64階層に新たな太陽が生まれでもしたかのような光と熱が広まった。モンスターの一団はその場で焼け死んだ。
エレベーターの籠は巨人に投げられでもしたかのように、めちゃくちゃに跳ね回り、中の人間を多分に痛い目に遭わせる。だが、脱線だけはしなかったらしい。
エレベーターボーイが格子扉越しに外を睨むと、エレベーターの籠は追ってくる炎の壁を引き離しつつあった。
「いまのは魔法か?」
「いや、インフェルノは技術学部が作った爆薬の試験体だ。おまえ達が火筒に混めている黒い火薬よりも遥かに高性能で、点火するまで安定している。坑道の爆破を模して、ダンジョン内での使用を頼まれた。危うく焼き殺されるところだったがな」
ケラルムが答えた。
「でも、密閉空間での効果でしょうけど、あのサイズにしてはすごい爆発でしたよね。時計の機構を応用して、なんらかの時限点火装置を考案できるかもしれませんし、それなら爆発は離れた場所での安全なものとなりましょうね」
シフィエラが目を輝かせて言う。
二人はモンスターから逃げ延びて来た冒険者らしく、ぼろぼろの身なりで装備の大半を失っていた。それでも、トマトやキュウリをダンジョン奥深くに残してきたのだから、ダンジョン探索はある程度成功したのだろう。
この二人が再び64階層に潜れば、トマトとキュウリ関連のなんらかのデータを手に入れ、それ相応の利益を得るはずだ。
だが、この二人にその度胸はあるか? エレベーターボーイの経験は、野菜は64階層に放っておかれそうだと告げて来る。まあ、それはこの二人の問題だ。関わる必要もない。
その時、どすんと音がエレベーターの籠の天井でした。エレベーターボーイはダンジョンの天井の一角がはがれ落ちて来たことを頭に思い浮かべたが、さらに鍛冶職人が金属を叩く音が続いた。
籠の天井が火花を散らす。
「モンスターだ! 天井の上におる!」
エレベーターボーイの警告が飛び、籠の天井の鋼鉄の板を、白いものが貫いた。ケラルムが血をまき散らして床に転がる。
天井から突き込まれたのは新月刀のように光る、ぎょっとするほど長いモンスターの爪だった。死を免れたモンスターの一匹が、エレベーターの籠の上にくっついて同族の復讐に燃えているのだ。
「ケレルム先輩! あああ、どうしよう!」
シフィエラが頭を抱えた。彼女の先輩は肩を貫かれていた。すごい出血量だ。
「おぬし、プリーストだろう? 回復の魔法はどうした?」
「魔法を発動するためのマジックポイントが足りなくてーーああ、先輩!」
彼女の声は悲鳴になりつつあった。
まったく、素人というのは嫌なもんだ。一流の冒険者は、弓使いなら矢を、魔術師なら魔力をきらすといったことを決してしないものだ。
「回復ポーション一瓶を金貨一枚で販売しておるが、いかが?」
エレベーターボーイは相場の十倍の値段を口にしたが、金貨はすぐに飛んで来た。冒険者がこんなのばかりなら、エレベーターボーイの生活もずいぶん豊かになろうものだ。
エレベーターボーイは籠の片隅におかれた箱を開く。この箱はクーラーボックスと呼ばれていて、最近の熱力学の発達の賜物だ。箱の内部は人工的に安定な環境を保たれているので、エレベーターがダンジョンの過酷な環境を上り下りするにもかかわらず、質のいい様々なポーション薬が並んでいる。
シフィエラは購入したポーションの、赤いどろりとした液体をケラルムの傷口に注いだ。薬が折れた骨をつなぎ、裂けた肌を塞ぐ際の激痛で、ケラルムは歯を食いしばり、床に爪を食い込ませる。だが、ポーションの仕事は確実だ。数秒後には、冒険者は怪我をしたことなど、さっぱり忘れたかのように起き上がった。
さて、エレベーターボーイは頭上の脅威に対処せねばならない。モンスターは爪を何度も突き入れ、振り回していたが、しゃがんでさえいれば問題なかった。
だが、モンスターは籠の天井に大きな穴をあけて、籠の中に侵入しようとしてくる。モンスターの怪力で、天井の鋼鉄の板を留めるボルトがきしみはじめた。エレベーターボーイは速度計と刻時器を睨み、
「なにかに掴まれ!」
二人の客に怒鳴って、制御舵を握った。
エレベーターの籠は鋭く傾斜したレールを高速で駆け下りていたが、次の瞬間、唐突に垂直の落下に切り替わった。64階層からの横穴は終わり、地上へ通じる主シャフトにたどり着いたのだ。
普段ならスピードを徐々に落として、主シャフトのレールへと乗り換えるのだが、今はその暇も無かった。
二人の客が悲鳴を上げて籠の壁に叩き付けられる。そして、二人だけではなく、天井の上のモンスターも急激な進路の変化についていけず、慣性に従って直進し、主シャフトの岩の壁にぶつかった。さらに跳ね返り、反対側の壁にぶつかり、跳ね返ってその反対側の壁にぶつかった。そのことをエレベーターボーイは音で知った。
エレベーターボーイはレールが削れるほど、強力なブレーキをかける。その直後、突如停止したエレベーターの籠の天井に、回転しながらモンスターは激突してきた。
エレベーターの各所が苦しむような音をたて、煙を吐いていた。
「いまのは、流石のモンスターにもこたえたであろうよ」
エレベーターボーイは言った。
「なんて乗り物だ……」
ケラルムが弱々しく評価を口にした。
怒りの嵐をも圧しただろう途轍もない騒音は、エレベーターの籠が停止するとともに失せ、今ではダンジョンのたてる低い音のみが辺りを支配していた。
エレベーターボーイは刻時器を指で叩く。かなり無茶な機動だったが、このエレベーターの籠はエレベーターボーイの芸術作品だ。この程度なら、まだ大きな不都合は起こりえない。
穴だらけになった籠の天井板からモンスターの血がぽたぽたと滴った。
「モンスターは死んだのか?」
「あるいはな」
エレベーターボーイは天井を睨んで言った。
エレベーターのケーブルは地表で切り離して来たが、今の振動でケーブル操作員たちはエレベーターボーイに気付いたはずだ。
エレベーターボーイのケーブル操作員たちは企業組合のなかでも最も訓練された連中で、レールやケーブルを伝わる振動や音でエレベーターボーイの意図を読み取ることができたし、逆にそれほどの腕前を持たないものはエレベーターボーイの役には立たなかった。
エレベーターボーイはケーブルが来るまでこの地点で待っているだけでいいはずだ。
シフィエラが立ち上がろうとしたが、エレベーターボーイが素早く手で制した。
「どうやらまだ安全にはなっておらぬようだな」
三人の客は天井の上で、人間のものとは根源の異なる殺意のうねりを感じた。モンスターが咆哮をあげた。なんと恐ろしき咆哮。それは籠の梁や壁を伝わって、エレベーターの乗客の骨と内蔵を揺さぶった。
モンスターが先ほどよりも怒り狂っているのは間違いなかった。天井からやたらと爪が突き込まれ、モンスターは頭突きを繰り返す。
「64階層の連中の獰猛さには、げに特記すべきところがあるな。主シャフトに来てなお、攻撃衝動をおさめぬとは」
「何とかならないか?」
ケラルムが剣を探りながら尋ねた。
「天井はもうもたないぞ」
「俺のエレベータの籠だぞ。まだもとうよ。それにーー」
ゴツンっと三人の頭上で太い音がした。
「モンスターも大人しくなった」
籠の天井の穴からぼとぼとと、モンスターの血が滴ったが、今回はそれに肉片が混じっていた。
「……何が起こった?」
「このエレベーターを地上まで引き上げてくれるケーブルが地表から下りて来たのだが、モンスターが立っていたところはケーブル接続機構の真上だったということだ。奴はそれに頭を砕かれおったようだな」
エレベーターボーイは大して興味も表さずに言い、数あるレバーの一つをのしかかるようにして引き下ろした。籠の天井部から四本の金属腕がケーブルをがっちりと掴んだはずだ。
エレベーターボーイは籠の壁面をまさぐり、小窓を開いた。金槌を握った手をそこから出して、シャフトの壁面を走るレールを打った。特異なパターンの金属音が主シャフトを上がっていった。
「エレベーター動力室の連中に合図を送った」
エレベーターボーイは言った。音は遥か頭上の動力室までレールを伝わり、今頃労働者たちが走り回っていることだろう。
巨大な炉の高熱水蒸気が急激に冷却され、その負圧が車輪を回転させるのだ。エレベーターの籠は引きずられるように上昇を始めた。エレベーターボーイは計器のチェックを怠らないが、なんの異常も無いようだった。
「すぐに地表に着く。くつろいどれ」
エレベーターボーイは座り込む二人にそう言い、それから天井へと目をやった。天井はひどく傷ついていた。これは板そのものを交換しなければならないだろう。
しかも、エレベーターボーイの見ている前でぎしっと音をたてて天井の亀裂はさらに広がっていく。
「ん?」
天井板がめくれあがり、モンスターの顔がのぞいた。
つぶれて半分ほどの大きさになった顔で、残った一つの目が赤く燃えている。ノコギリの刃の形の歯を向いて、そいつは鋭い声を発した。
「なんという生命力。不死身か、こいつ? おぬしら64階層のボスをあそこまで連れて来たのか?」
籠の天井部の重要機器がおさめられた梁はモンスターでも壊せはしないが、天井の板はもう駄目だ。
エレベーターボーイの傍らの冒険者は異国風の鞘からすらりと剣を抜いた。ケラルムは丁とモンスターのかぎ爪を切り払い、刃を天井に差し込んだ。血が雨のように降ってくる。
直後にエレベーターボーイの脚払いが彼を床に倒した。モンスターの両腕が寸前までケラルムのいた場所を薙ぐ。
「立ち上がるでない。ちょっと斬っただけで殺せる奴ではないぞ!」
「どうしろってんだ!」
「奴を食い止めるのに専念しろ。俺に手がある」
何本ものビスが外れる甲高い音がして、モンスターが奇怪な木の根にも見える上半身を籠の中に入れようとしてくる。ダンジョンの闇を見慣れたエレベーターボーイにさえ、それは途轍もないものに見えた。ぎょっとするほど大きい手から伸びた、攻撃の本性、かぎ爪が襲いかかってくる。
ケラルムはうおっと叫んで、責め苦から逃れようとする子供がやるように、床を転がった。その横を床を削りながら爪がかすめる。
シフィエラの錫杖がうなりを上げてモンスターを打つが、折れたのは彼女の得物の方だ。
エレベーターボーイはかがんで高度計と速度計を睨む。彼は戦闘に参加しない。彼にとって自分の体を使っての戦闘など専門外の上、興味も無い。彼にとってはエレベーターがなによりも大切で、エレベーターもそれに応えてくれるのだ。
籠は上昇を続ける。いいスピードだ。エレベーターはこの上昇がここ数日で最高のスピードになっていることを肌で感じていた。
ケラルムが肩で転がりながら、剣を振るったが、もともと籠は中で戦闘をすることを想定した広さが無かった。彼はモンスターの攻撃をかわしきれずに、隅の方に積まれた緊急物資の山に突っ込んだ。
シフィエラが投げナイフを放つが、モンスターの腕が翻って、分厚い手のひらが金属の飛翔物を受け止める。モンスターの赤い目が嘲笑を浮かべるように光り、シフィエラが息を詰まらせるような声を上げた。
エレベーターボーイの見ている前で、計器の針は恐ろしい回転を続けた。籠の上昇のスピードはおよそ経験したことの無いほどのものになりつつあった。階層を通過するごとに異なった空気の層を突き破り、その際の音はどんどん鋭くなっていく。そして、階層ごとの異なった色の光が、壊れた格子扉ごしに籠の中に差し込んだ。その間隔は短くなっていった。
モンスターの腕が、多くの頭をもったヘビを想像させる滑らかな動きで、床の上で目を回すケラルムに狙いを定める。
階層通過の音が、ついには連続した一つのものとなった。
そして、突如として、壊れた格子扉の向こうから、光が瀑流となって籠の中になだれ込む。全てがはっきりと浮かび上がり、人間の目はその光に焼かれるようで、目を開けていることすらできなくなる。
エレベーターボーイの手が、制御盤の硝子に包まれた部位を貫き、その向こうのボタンを叩いた。
冒険者たちの命を狙っていたモンスターの腕はとどめを刺しにやってくることはなく、代わりに籠の天井の上で、まぎれもない悲鳴が上がった。
エレベーターシャフトの上でエレベーターに動力を与えている動力室。巨大な胃袋に見える熱水機関エンジンが、広大な部屋に熱と湿気をふりまいていた。この巨大機械の機嫌を損なわないように、劣悪な環境の中を労働者たちは走り回っていた。
そのとき、足下の床が破城槌で一撃でもされたかのように揺れて、誰もが尻餅をついた。
その上の階では、片眼鏡をかけて、書類を睨んでいた企業組合の会計士たちが椅子から転げ落ちた。
さらにその上の階で、お茶を飲みかわしながら異国の使者と商談を進めていた企業組合の専務たちが、茶器を振り回しながらぎゃっと叫んだ。
そういった具合にダンジョンの上に立っていた建物を大きな振動が襲った。
エレベーターの籠の、壊れた格子扉をどうにか開いてエレベーターボーイは地表のエレベーターの乗り場に下り立った。陽の光がいつものように、暗黒に慣れきったエレベーターボーイの目を貫いた。
籠の中、天井からぶら下がるモンスターの腕は、光を浴びてしぼんでしまったかのように、力強さを失ってだらりとぶら下がっていた。モンスターの本体はもっと悲惨な状況にあることだろう。モンスターは今、主シャフトの天井と、エレベーターの籠の隙間の、指先から肘ほどもない高さの空間に挟まれ、押し広げられているのだ。
籠の天井の穴から流れるモンスターの血は止まる気配を見せず、おかげで二人の客はざぶざぶとその粘着質の水たまりを歩いて籠から出なければならなかった。
二人とも口をきくのも億劫そうだった。