ACT-7
2時限目の休み時間、貴子は幸の手を引っ掴んで、がつがつと足音を響かせ教室から出て行った。幸は貴子に引きずられるように後ろを付いて行く。
「ど、どうしたんですか、貴子さん?」
「何も言うな、きりきり歩け!」
そして、一階の教室まで降りて来て、紀美代のクラスを指差した。しかし、その意味が幸には分からない。
「あれ、見える?」
幸は貴子が指差す方向を見たのだが、彼女が何を指差しているのか分からない。何時もどおりの休み時間、それ以外、何も見えないし何も感じない。
「――いえ、何も……」
しかし貴子には見えていた。紀美代の教室が、黒くて重い霧に包まれ、冷たい『邪気』を発している事を。更に黒い霧は雲となって稲妻を走らせる。
「見えてくれないと困るの、あれが見えないなら、私達は対等に戦えない」
幸は貴子の言葉に大いに引っかかりながらも極めて冷静に答える。
「戦う?誰と?」
「紀美代ちゃんよ!」
幸は一瞬目が点になって、暫く貴子をじっと見たまま何も言わなかった。
「いい幸、紀美代ちゃんには、なんだか良く分からない物が憑いているの。爺は修羅って言ってたけど、それがどんなもんなのか、正直私には分からない」
幸は一瞬考えてから貴子に聞き返す。
「修羅と言えば六道のアレ……ですよね…」
「そうよ、それが分かるんなら話は早いわ」
しかし、幸の眼に、その邪気と呼ばれる物は見えないし、感じる事も出来ない。
幸は首を傾げて更に考え込む。そして、頭の横っちょに電灯がぴかっと灯り、ぽんと手を叩くと、脱兎の如く科学部の部室に走り去った。
数分後、幸は山の様な機材を抱いたり背負ったり押したりして戻って来た。
「何よこれ?」
「はい、色々と有りますよ、取りあえずオシロスコープとか絶対フォトルミネッセンス法量子収率測定装置とか粒子分布測定装置とか放射線測定装置とか。あ、ブラックライトも有りますよ」
幸はそう言いながら嬉しそうに廊下にがゃがちゃと機材を並べ始めた。
「どうする気よ?」
「見えないのは人間の可視光線の周波数から外れているからです、ならば色んな物で測って見るのが一番、特に貴子さんの眼には霧状に見えると言う事でしたので、粒子測定装置を中心に揃えて見ました」
幸はそう言って廊下のコンセントに10個くらい同時に分配出来るテーブルタップを繋ぐと、嬉々として次々、装置のスイッチを入れて行く。すると各装置、鈍い動作音を発しながら息を吹き替えし、モーター音やらリセット動作を終え、全て使用可能の状態になった、のだが……
「おい、お前達、何やってるんだ」
彼らの背後から突然現れた教師の姿。それに、二人とも思わず振り返る。
「なんだ田中、またお前か。いい加減にしないと、科学部は本気で廃部にするぞ!」
激怒する教師の一括を幸はさらっと受け流して楽しそうに準備を進める。
「いいか、授業の邪魔するんじゃないぞ」
教師は捨て台詞を吐くと教室の中に消えて行った。幸は嬉しそうに「すみませーんと」声をかける。教師は教室に入る前に、苦々しい表情でちらっと幸に向けたが、この変わり者に理屈で対抗できる教師はこの学校にはいないらしい。
「では、始めましょうか」
色んな装置に囲まれた幸は楽しそうに貴子にそう伝えると、次々カメラやら端子やら、彼女の頭では理解出来ない、各種の測定を行う。
幸は暫く測定器の数字をじっと見ていたのだが、腕を組んだまま首をちょっと傾げて、再び黙り込んでしまった。
「ね、幸、何か分かったの?」
貴子はちょっと不安そうに幸に尋ねた。
「粒子測定は全部反応しませんでした。ただ……」
「ただ、何よ」
「オシロスコープで、なんか妙なノイズが出ますね~。50キロヘルツなら蛍光灯とか、本体の電源ノイズな可能性が有るんですが、これは全然違います、雷みたいな周波数です」
貴子はそう言われても、何の事だか良く分からず「はぁ……」と小さく答えて見せた。
更に幸は防護用のゴーグルをつけると、ブラックライトで周辺を照らし周囲を大きく見渡すと幸の表情がぴくりと動く。
「あ……何か見えますよ貴子さん」
「え?」
「粒状の物が沢山見えます。ナルホド、肉眼で見える程大きい粒子なんですね。もっと小さい物かと思ってたんですが、これじゃ、今持って来た計測器は使えません」
幸はそう言うと、貴子にゴーグルとブラックライトを渡し、粒子が見える方向を指し示して見せる。
「――ほぉ~、確かに何か見えるわね」
「ね?」
幸は再びゴーグルとブラックライトを受け取ると、光る物体を照らし始める。すると、ぼんやりと何かの姿が見えて来た。幸はブラックライトのスイッチを切ると、ゴーグルを外す。そして、いきなり目に飛び込んで来た物に派手に驚いて尻餅をつく。
「わぁ!」
現れたのは紀美代だった。しかしなんだか様子がおかしい。何時ものきらきらでキュートな笑顔は影を潜め、粘着質な視線は酷く艶が有って10代の少女の笑顔とはまるで違う。淫靡で正気が吸い込まれて行きそうな手練の女が持つ黒い微笑み……
紀美代は幸の前にゆっくりとしゃがみ込む。そして再び笑顔を見せるとまるで別人の様に
「幸先輩……」
「え、あ、その、なんでしょう?」
紀美代は口の端っこでにやりと笑って見せると幸の頬に掌を当て、優しく撫で回す。
「授業中ですよ、静かにして頂けますか?皆さんが困っています」
紀美代はそう言いながら視線を自分の背後にちらりと向ける。幸もその視線を追いかける。そこには廊下側ガラス戸から廊下を覗き込む生徒達の姿と、教室を飛び出した、さっきの教師の姿が有った。
「は、はい、そ、そうですねぇ……」
幸は自分の後頭部を弄りながら、必死で笑顔を作って見せるが、顔の筋肉が引き攣って、ぎこちなく笑う。
「今日も放課後の部活、楽しみにしてますから」
紀美代はそう言ってゆっくりと立ち上がり、振り向きざまに貴子と一瞬視線を合わせ、彼女にも微笑んで見せた。そして大きな翼を、ばさりと羽ばたくと、二人の前から教室の中で姿を消した。
「なんか、急にパワーアップした様な気が……」
「いえ、多分こんなもんじゃないのよ紀美代ちゃんの力って」
「それは悲しいお話ですね」
幸はそう言って肩を竦めて見せた。
だが、貴子はイマイチ本気になれない幸を思いっきり蹴り飛ばすと、紀美代の教室をじっと見詰めてから瞳を閉じる。そして何事か考えた後、開いた瞳には、以前の貴子とは確実に違う輝きが有った。
力強くしっかりと前を向く鋭い視線。そこに迷いは既に無い。
「幸、私、頑張る!」
その様子を見詰める幸の瞳に女神の顔がダブって見えた。
「な、何を頑張るんですか?」
貴子は幸に飛びっきりの笑顔を見せると躊躇せずにこう言った。
「紀美代ちゃんを奪い返すの、多分、これは彼女の為だけで無くて世の中の平和にも役立つ筈」
しかし、幸は首をしきりに傾げながら腕を組んで只管考える。そして、考え抜いた果ての結論は、極めてネガティブな物だった。
「どうやって戦うんですか?情報量はこちらの方が圧倒的に少なくて、プランが全然立たないのですが」
「莫迦、だから私が頑張るって言ってるでしょ。爺に本格的に呪術を教えて貰う、あんたは最後の一撃は作ったんでしょ、なら、もっと別の物も考えて」
幸はかくんと頭を垂れて「たはは……」と笑いながら泣いる。何故なら、なけなしの部費を全て注ぎ込む事になりそうだったからだ。
「幸、良い?紀美代ちゃんはあんたに惚れて科学部に入ったんでしょ」
「え、ええ、その様ですが……」
「お姫様を助け出すの王子様って、相場が決まってんのよ、責任はちゃんと取りなさい」
「そんなぁ……」
しかし、貴子達が立ち上がろうとしている今も事態は今も進行中なのだ。戦わなければならないのは、紀美代に憑りつく魔物以外に、時間とお金も有るように感じられた。
「紀美代ちゃんが戻ってくれば、部費の交付も有るんでしょ?」
「は、多分……」
「なら、ガツンとやってやりなさい」
貴子にびしっと気合を入れられた処で、幸は梅雨空に向けて「あぉ~~ん」と鳴いて見せた。しかし、梅雨空は何も言わず広がっている。夏はまだもう少し先になりそうだった。