121 任那興亡史
この争いの対象地である己汶は、今西博士が詳しく検証したごとく基汶川の流域で、今の蟾津江流域(釜山西方100キロの海岸沿いの平野)にあたる。
全羅南道(韓半島南西部の海岸に近い地域)の西部の四縣割譲に続いて、その東部にあたる已汶・帯沙を失うと加羅には今の釜山周辺の100キロ四方ほどの領地が残されるのみとなり、加羅の王たちが反抗的になるのは当然と思われる。
(春野註・以下は書紀・継体天皇八年の條に末松氏が解釈を加味したした文章である)
514年三月、伴跛国を中心とする加羅諸国は子呑・帯沙の多くの山々に城を築き、ノロシをあげる場所と兵糧を置く倉庫を置いて日本に備えた。また、新羅よりの今の慶尚北道のあたりにも城を築き渡して、新羅を攻めた。
(続いて、書紀、継体天皇九年の條を末松氏が解釈する)
515年春二月、百済の使者、文貴将軍らが国に帰るときに物部至至連を、帯沙の津を割譲する勅を伝える使いとして、将軍らにそえて遣わした。
一行は巨済島に至って、凄まじい伴跛国の離反、防衛の状況を伝え聞いたので、文貴将軍の指揮の下、新羅の道をとって北上し、物部の連は船師五百を率いて、両面から帯沙江に入った。しかし果たして伴跛の兵に包囲されて、困窮すること半年に及んだ。ついには命は長らえて退いて一島(不詳)に泊まった。
516年夏五月、百済王は前部木刕不麻甲背を遣わして島に待機する物部の連を労て、率いて百済に入った。秋九月、百済は物部の連にそえて州利即次将軍を(日本に)送って已汶の地を賜った事を謝した。