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御徒町フィーバー2ndStation
作:工場長



第十七話 中の人


 現れたのは手足の生えた黒い物体――頭には蛇のような突起が付いておりそこには目と口が付いている。私はかつてこの物体を見たことがある。そう、こいつの名前は――
「お、お前はクラドスポリウム・トリコイデス!」
 我ながらよくぞこんな覚えにくい名前を覚えていたものだ。クラドスポリウム・トリコイデスとはお風呂場に居る黒かびのことである。
「えっ、かっちゃん。あの物体と知り合いなの?」
「いやいやしぃちゃん。知り合いなわけないでしょ」
 名前を知っているからって知り合いにされてはたまらない。
 クラドスポリウム・トリコイデスは私たちを指差し、気の抜けるような高い声で叫んだ。
「ふはははははっ、よくぞ名前を知っていたな。と言いたいところだが、私の名前はあいにくクラドスポリウム・トリコイデスではない。クラドスポリウム・トリコイデス・レディーだ!」
「ただレディーが付いただけで、名前は同じじゃん!」
 かわちゃんの言うとおりだ。
「中の人が女性だからレディーなんじゃないですか」
 なるほど、中の人が男だったら痴漢行為になるな。
「『中の人』と言うな! 中の人などいるわけないだろ! お前黒かびをナメているのか? まずはお前を真っ黒にしてやる!」
 クラドスポリウム・トリコイデス(長いのでレディーは省略)は、亜由美を指差すと、私たちに向かってきた。一歩一歩を確かにゆっくり、ゆっくりと。よくみると足に黒のゴム長靴を履いているではないか。
 歩きながらテーマ曲まで歌い始めた。

 トリコイデスは風呂好きだー
 いつも風呂場は真っ黒さ
 タイルの隙間、シャワーのノズルー
 今日もムッシムシ、カビー!

 悪者が私たちを真っ黒にしようとこちらへ向かってきているのだが、誰一人逃げようとしない。逆に胸を見られないように、首までお湯に浸かってクラドスポリウム・トリコイデスを眺めている。
「ちょっと、なんでそんなにゆっくりなのよ」
 あまりにもゆっくりなので、私はしびれを切らしてしまった。
「ふははははっ、風呂場で走ってはいけないと、親に教えられていなかったのか?」
 正論だけど、悪者が言うことだろうか?
 やっとのこと亜由美の前にたどり着くと、長靴を脱いでゆっくりと浴槽へと入る。
「ん……、よいしょ」
 ざぶん、と大きな音とともに、お湯がこぼれていく。手足を大の字に伸ばすクラドスポリウム・トリコイデス。顔は見えないけど、中の人はきっと気持ちがいいのだろう。
「さて、ゆっくり浸かったところで、お前を真っ黒にしてやる。ふははははっ」
 不意をついてクラドスポリウム・トリコイデスがいきなり亜由美に抱きついてきた。
「ちょっと、うわっ、本当に抱きついてきた!」
 敬語を使わない亜由美なんて、なんてレアなシーンなんだ!
「ふははははっ、セクシーな体つきだけあって、胸がふっくらとして……」
 おや、声がだんだん低くなってきたぞ。
 クラドスポリウム・トリコイデスは右手で「ちょっと待った」のポーズをとると、右手を自らの体の中に入れた。中から「プシュー」とスプレーを吹き付けたような音がする。
「ふははははっ、セクシーな体つきだけあって、胸がふっくらとしているな」
 あ、声が元に戻った。
「あんた今ヘリウムガスを吸っていたでしょ」
 かわちゃんが突っ込みを入れる。クラドスポリウム・トリコイデスは右手を左右に振って笑い出した。
「ヘリウムガスなどあるわけないだろう、もともと我はこの声だぞ、お前黒かびをナメているのか? お前も真っ黒にしてやる」
 クラドスポリウム・トリコイデスは左腕で亜由美を抱きしめながら右手でかわちゃんの肩を掴む。
「いやっ、この黒いの! 助けてー」
 かわちゃんがクラドスポリウム・トリコイデスを何度も殴るが、痛がらずに腕の中へとかわちゃんを引き込む。かわちゃんの拳が当るたびに、クラドスポリウム・トリコイデスに染み込んだお湯が勢いよく飛び出す。
「ふははははっ、両手に花とはまさにこのことだな、ふははははっ」
「こうなったらしぃちゃん、しぃちゃんの出番だよ」
 私はしぃちゃんの肩を叩いた。
「えっ、私!?」
「しぃちゃんの強烈な右ストレートをあいつに食らわしてやるのよ」
 かつてプロボクサーの右拳に怪我をさせ、パンチ力測定器具を破壊したしぃちゃんのパンチなら中の人にダメージを与えることができるはずだ。
「ま、待つのだ。暴力はいけないぞ、暴力は。ふははははっ」
 クラドスポリウム・トリコイデスの中の人は明らかに動揺している。笑ってはいるがその声は震えている。中の人はしぃちゃんのパンチ力の恐ろしさを知っているのだろうか。
「しぃちゃん、時には暴力も必要なのよ。躊躇しないで殴っちゃいなよ」
「やるしかないのかな……」
 しぃちゃんはクラドスポリウム・トリコイデスに向き合うと素早くパンチを撃つ体勢に構えた。腰を浮かしては落とす。立つか立たないか悩んでいるようだ。
「ま、待つのだ。かわいい女の子がそんな乱暴なことをしてはいけないのだ。ふははははっ」
「だけど、あなたは悪い人でしょう。悪い人は退治しないと……」
 しぃちゃんの右拳が強く握られる。座りながらパンチを打つ気のようだ。
「待てーい!」
 そのとき、風呂場の入り口が大きな音を立てて開かれた。頭に木製の風呂桶を乗せ、顔にはピンクの眼鏡マスク、そしてピンクの全身タイツ……。この人はもしかして?
「バスレンジャー・レディー参上!」
 やはりバスレンジャーか。しかも女湯だからバスレンジャー・レディーか。背の高いレディーだ。あ、よく見たらピンクのゴム長靴を履いてる。
「おお、待っていたぞバスレンジャー・レディー。今日こそ貴様を倒すときだ。ふははははっ」
 口では倒すと言っているけど。クラドスポリウム・トリコイデスの中の人は正義の味方の登場に正直ほっとしているだろう。
「なにを言うか、倒されるのは貴様のほうだ、とうっ!」
 と、正義の味方らしく叫んだのはいいものの、バスレンジャー・レディーは飛ぶわけでもなく、走るわけでもなく、ゆっくりゆっくりと歩いてこちらへ向かってくる。
「ちょっとー、もう少し早く来なさいよー」
 かわちゃんがクラドスポリウム・トリコイデスの右腕から逃れようともがきながら文句を言う。
「正義の味方がお風呂場で走るわけにはいかないのだ!」
 バスレンジャー(長いのでレディーは省略)は正義の味方なためか、公共のルールを遵守しようとしている。
「正義の味方なんだから、か弱い市民を守るのが先でしょう、もういいわよ。しぃちゃん、クラドスポリウム・トリコイデスを思いっきり殴っちゃって!」
「そうだね、私たちの力で二人を助けるのが一番だね。大丈夫です、本気は出しませんから」
 しぃちゃんは立ち上がると、右手を構える。今度は立って打つ気だ、裸を見られることなんて気にもしていない。
「そうですよ、全身タイツの正義のヒロインなんて当てにならないですよ」
 亜由美は結構ひどいことを言うな。
「ま、待て一般市民が我と戦って勝てると思うのか。ふははははっ、はぐうっ!」
 両脇に亜由美とかわちゃんを抱えているので全く無防備な状態のクラドスポリウム・トリコイデスの腹部をしぃちゃんの右ストレートが直撃した。その隙を突いて亜由美が浴槽から上がり、かわちゃんはしぃちゃんの右側(壁側)を横切って私のところへやって来た。
 クラドスポリウム・トリコイデスは仰向けになって浴槽に浮かぶ。水に浮かぶなんてこの着ぐるみは一体どういう素材でできているんだろう? それにしても本当に手加減したかどうかはともかく、しぃちゃんのパンチ力は相変わらずすごいな。
「大丈夫、かわちゃん。亜由美?」
「こわかったよー。なんか本気で抱きついて来るんだもん」
「私は大丈夫ですよ。……ところで残念ながらあなたの出番は無いようですよ」
 亜由美はやっと浴槽の淵へとたどり着いたバスレンジャーを見て慰めの言葉をかける。
「ううむ、今回は一般市民の勇気ある行動によって解決されたわけだな……」
 その言葉に反応したのか
「我はまだ倒されたわけではないぞ! ……うぐっ、げほっ」
 クラドスポリウム・トリコイデスは激しい水音を立てて起き上がったものの、激しく咳き込んでいる。
「着ぐるみだからダメージはそんなに与えないだろうと思ったんだけど……、やっぱり強すぎましたか?」
 しぃちゃんは自らが殴った場所を優しく撫でる。
「着ぐるみのおかげで命拾いしたね、中の人」
「な、中の人などいないと言っているではないか……、がはっ……、もういい、我は帰るぞ」
 よろよろになりながらクラドスポリウム・トリコイデスは浴槽の淵へと手をかけ、上がろうとしたが、
「うっ、染み込んだお湯が重くて体が持ち上がらない……」
 声がだんだん中の人本来のものへと変わっていく。動揺しているのか、ヘリウムガスを吸って元の声に戻すことを忘れているようだ。うん? この声、どこかで聞いたことあるな……。
「いっそのこと脱いじゃえばいいじゃない。自分で脱げないのなら私が開けるわよ」
 クラドスポリウム・トリコイデスの背中にファスナーが付いていることを確認した私はチャックに手をかける。
「脱ぐとはなんだ脱ぐとは……、我は何も着ていないぞ、これが裸だ」
 バスレンジャーと亜由美がクラドスポリウム・トリコイデスの手を取り引き上げる。浴槽にいる私たちは後ろから背中を押す。五人の力が一つになって、クラドスポリウム・トリコイデスを浴槽から救い出すことに成功した!!
「おお、助かったぞ……」
 クラドスポリウム・トリコイデスの体中からお湯が噴出す。一体どのくらい染み込んでいたんだ。
「中の人、お腹はもう大丈夫ですか?」
 しぃちゃんはまだ自分のパンチが強過ぎたことを気にしているようだ。
「中の人などいないといっているだろう。ええい、今日のところはこれで引き下がるが、次こそ全員真っ黒にしてやる、覚えていろ! ふははははっ」
 助けられた相手に失礼な言葉を吐きながら、そしてお湯を辺りへこぼしながらクラドスポリウム・トリコイデスは歩いて風呂場を去って行った。登場時よりも歩くスピードが遅いのは、中に染み込んだお湯が重いのと、しぃちゃんのパンチのダメージのせいだろう。
「さて、敵は去ったことだし私も帰るわよ、みんなどうもありがとう! とうっ!」
 声は勢いよかったけど、バスレンジャーも歩きながら風呂場を後にした。
「ありがとーバスレンジャー!」
 あなたの声も聞いたことのあるような声だったわ!!
「ところで、なんでこのお風呂場にやってきたんだろう?」
「商店街が企画したのでしょう。バスレンジャーだけにお風呂場でもヒーローショーをと……」
 はた迷惑な商店街だな。












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