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 鴇姫が天津幸隆に初めて会ったのは、ふた月ばかり前のことになる。
 旅装姿の幸隆が供も連れず、ふらりと雨宮の屋敷を訪ねてきたのだ。近隣の旅の途中だといい、この地へ入ったなら雨宮家へ挨拶に行くように、と父から言付かったといった。
 両家のつきあいは古く、雨宮家は形は天津家に対し礼をとっていたが、実際は拮抗した力を以てこの地方を治めていたのである。元々雨宮領は山々に囲まれ、公の支配がなかなか及ばぬ土地柄であった。
 雨宮知徳は先代と共に先の大乱でもこの地を守り抜いた知略と剛胆の人であったが、幸隆を歓迎し、鴇姫も引きあわせた。美しい鴇姫に幸隆の心が動かぬはずもなく、鴇姫もまた幸隆の異形を畏れる風もなく、短い逗留の間にふたりは心を通わせたものらしい。
 幸隆が去った後、所在なげにため息をつく鴇姫を戌郎は何度も見た。
 知徳は村衆を使い何やら探らせているようだったが、ただ姫に仕える戌郎には、それはあずかり知らぬことであった。

「戌郎」
 鴇姫の涼やかな声が呼ばわる。
 その声を聞き、その姿を見るたびに、悦びとほんの少しの悲しみが心を満たす。
 戌郎の父もまた知徳の側近くに仕えた男であった。父に伴われ雨宮の館へ上がったのは戌郎が六歳の頃だ。
 今でもよく覚えている……
 あの時、幼い鴇姫は小さな犬の仔の骸を抱いて泣きじゃくっていた。
「姫様、何をそんなに泣きなさっておいでですか。目が溶けてしまいますぞ」
 声をかけたのは父だ。
「アカの仔が死んでもうたのや……かわいそう……せっかく一緒に遊んだろうと思うとったのに」
「姫様」
と、戌郎を前に押し出しながら父が続ける。
「犬の仔ほどかわゆうもなし、役にも立たんかも知れませんが、これをその仔の代わりにおそばに置いては下さらんか」
「……」
 鴇姫は泣きやみ、戌郎を見た。大きな黒い瞳に吸い込まれそうだ。
「おお。おまえの倅か」
と、泣きじゃくる鴇姫を持て余し、傍らでいささかしぶい顔をしていた知徳がいった。
「名は何という?」
 戌郎の代わりに父が答えた。
「これに名前などあり申さん……なんとでも、お好きなようにお呼びくだされ」
「……いぬ……?その子……いぬの子なん……?」
 かわいらしい声。姫の言葉に父は微笑んだ。
「そうです、姫様。これの名は戌郎。命懸けて尽くしますゆえ、可愛がってやってくだされ」
「……いぬろう……」
 戌郎は頭を下げた。
「鴇、もう気が済んだやろう。その骸を戌郎に渡して弔うてもらえ」
「…………」
 鴇姫が黙って犬の仔を差し出した。それを受け取る。それはすでに固く冷たくなっていた。
 ふたりはその場を離れ、屋敷の裏へと廻った。
「いぬろう」
と、姫が話しかける。
「なんでおまえはさっきからひとことも喋らんのや?もしかして喋られへんの?」
 戌郎は頷いた。
 鴇姫は一瞬驚いたように目を見張り戌郎を見たが、視線を外すと今度はほんの少し遠慮がちにまた訊ねた。
「……うちの声は、聴こえるんか……?」
 戌郎はまた頷いた。
「……生まれつきなん……?」
「…………」
 しばらくしてから、また小さく頷く。
「かわいそうやな……」
 ぽつりとつぶやいた声に、戌郎は思わず鴇姫を見た。その悲しげな表情に、我知らず笑顔を作りかぶりを振る。
 そんな風に憐れまれたのは初めてのことだった。何か暖かいものに触れた気がした。

 あの時からずっと、戌郎は影のように鴇姫につき従い、その身の全てを捧げて尽くしてきた。
 それが戌郎の務めでもあったのだが、鴇姫が輿入れするならその任も終わるのだろうか……
「…………」
 鴇姫は今十六、いつ輿入れしてもおかしくない年齢ではあったが、これまで縁談の類もなく、わけもなくいつまでもこのまま暮らせるような気になっていたのだ。
 任を解かれ鴇姫の許から下がるなど考えたこともなかった。
 戌郎の望みは、ただ命の果てるまで鴇姫のそばに侍りこれに尽くす、そのことのみであった。

 年が明けた。
 鴇姫の天津幸隆への輿入れが正式に決まったのは春の終わりである。
 この間天津家では先代が隠居し幸政が正式な当主となり、次男幸隆は外戚佐々家の名跡を継いで幸政の臣下となったが、姫の父である雨宮知徳は、実は天津の先代がすでにこの世にないことを知っていた。
「父上」
 居室にあって何かを考え込んでいた知徳は、鴇姫の声に我に返った。
「なんや?」
「あの……」
 鴇姫はほんの少し言いよどんだが、思い切ったように口を開いた。
「戌郎のことです、父上。戌郎は……あの、どうされるおつもりですか……?」
「戌郎か。あれはこれまでようやってくれた。おまえが無事片づいたら、あとは次郎の守りでもさせようかい」
 次郎というのはまだ幼い鴇姫の異母弟、雨宮家の嫡男である。鴇姫は父の言葉を聞き、一瞬表情を曇らせた。
「父上……あの……我が侭を申し上げます……」
「うん?」
「戌郎を、連れて行ってはいけませぬか……?」
「口もきけん下郎を連れて輿入れか。供にするならわしがもうちょっと見栄えのええを選んだる」
「父上……わたくしは……戌郎がええのです……」
「おまえの強情にも困ったもんやの」
 知徳は眉根を寄せ、吐き出すようにいった。
「こんな嫁を取る幸隆殿のご苦労が偲ばれるわ」
「……申し訳ありませぬ……」
  幸隆の名を出され、鴇姫は消え入りそうな声で答えた。
「まあええ。戌郎のことは考えておく。おまえはもう下がりなさい」
 鴇姫はまだ何かいいたそうだったが、そのまま一礼して去った。
「…………」
 しばらくの後、知徳は居室のまま呼ばわった。
「戌郎、おるか」
 戌郎の姿はどこにもない。だが知徳は意に介するふうもなく続けた。
「鴇にはああいうたが、わしはハナからおまえを鴇につけたるつもりや。幸隆も承知するやろう」
「おまえももう知っとるやろう。天津の先代は毒殺や……天津幸政、やってくれるわ。
 ちいと目論見が狂うたが、しょうがない……」
 知徳は一息つくといった。
「戌郎、鴇を頼んだぞ」
 軒下で戌郎は小さく頷いた。
 鴇姫の「戌郎を連れて行きたい」「戌郎がいいのだ」という言葉を聞いたとき、心臓を鷲掴みにされたかと思った。
 天津家には争乱の兆しがあり、そのただ中へ嫁いでいく鴇姫はまさに暗雲へと飛び行く一羽の小鳥である。
 姫様は必ずわしがお守りする……
 戌郎はあらためて心に固く誓った。戌郎は音もなくその場を離れた。
 鴇姫は屋敷の裏、納屋の前で、所在なげに犬のアカとその仔犬達を相手にしていた。最初にアカが戌郎に気づき、鴇姫も振り返る。
「戌郎」

  ひめさま……

 戌郎も呼びかけた。だがもちろん、それは声にはならなかった。
「最初におまえにうたとき、アカの仔を埋めてもろたんやったな」
 もちろんそのアカとは今目の前にいるアカのことではない。だが雨宮家では長年使役犬として犬を飼っており、それらは全て同じ血に連なる犬であった。
 仔犬がじゃれつくままにさせながら鴇姫はいった。
「家を出たら、この仔らともお別れや」
 ほんの少し、淋しげな表情。

  ささの おやしきへ 
  いっぴきつれて いかれては

「そうやな」
 戌郎の身振りを読み、鴇姫が笑った。
「さきに父上にいうたらまた叱られてしまうから、まずは幸隆様にお願いしてみよう」
「…………」
「戌郎……」
 なんでしょう?というように見やった戌郎に姫がいう。
「佐々家へは、おまえも一緒に来て貰いたいと思うてる」
 ずきん、とまた心臓が締めつけられる。過ぎた悦びとは痛みと同義であることを戌郎は知った。
「幸隆様にお願いしてみるつもりや。幸隆様が応といわれたら、父上かてお許しくださるやろうからな」
「…………」
 戌郎は目を伏せた。幸隆様、と口の端に乗せるとき、鴇姫の頬はかがやき瞳は大きくうるんで、戌郎には目のくらむ思いであった。


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