第一話:Who is it?
黒い。見つめれば引きずりこまれてしまいそうな深淵。
闇が覆う空間は本能的な恐怖を煽るには十分な威圧を持つ。だが時間が経つほどそれは薄れ、やがて消えていった。
少年は数回瞬きをすると、目だけで辺りを見回す。そして違和感に眉を寄せた。比喩ではなく、その空間には何もなかったからだ。
棚やテーブル、それにランプ。必要最低限の調度品がまったく見当たらなかった。そして少年が寝転がっている場所は非常に固く、床であることは理解できた。
壁や天井もない。爛々と輝く月も見えない。そこには暗闇があるばかり。今日は新月の夜ではないはずだ。なのに姿を現さないとは、随分いいご身分ではないか。
やがて様子を探るのにも飽きがさした。他にすることなどなく、少年は寝返りをうってみる。
すると全身の筋がスムーズに動いた。仰向けの視界が九十度回転する。どこもおかしいところはない。
少年は安堵して息をついた。そしてふと、一つの疑問に思い当たる。
「ここ、どこだ?」
何かの部屋でもなければ、森でも砂漠でもないただの暗闇。そんな陰気な場所に見覚えなどあるわけがなかった。
記憶をたどる。彼はつい先刻まで雪の舞う雪原に倒れていたはず。そこ間違ってもこんな風景ではなかった。
もしや助けてくれた人間の部屋だろうか。考え、少年は頭を振る。この状況を思えば、その可能性は薄い。
ならば監禁か、と最悪の予想がよぎるが、それはないだろう。檻にも入れず見張りもなし。それに手足を自由にしておくなどありえない。それに、彼らがそんなことをするような人間にはとても思えなかった。
ならば、ここは一体どこだというのだ。
そこまで思案し、少年は痛む眉間を押さえた。悩むことは疲れる。それにこうしていては何も始まらないではないか。 行動を起こすべく、彼は手を床につき立ち上がった。だが立ち上がったところで特に変化はない。見渡すかぎりの闇がすべてを塗り潰している。
さてどうしたものか、と手で顎に触れた。瞬間、生暖かく粘着質なものが手を濡らした。手を動かすたびにそこからは水音が響く。何やら鉄の錆びたような臭いまでしてきた。
触れた場所からはとめどなく液体が滴っている。顎の先に溜まった水滴が一粒、落ちていったのを肌で感じた。
少年の背筋を冷たい気配が駆け抜ける。彼は、これは何なのか知っていた。だがそれは彼にとって決していいと言えるものではない。
彼は恐る恐る顎から手を離した。それを緩慢な動作で目の前にかざしていく。
鉄の臭いが一際、強くなった。
「な、んだよ。これ!」
少年は眼球が飛び出してしまいそうなほ驚愕し、目を見開いた。両手が赤黒い血で染められている。独特のぬめりが嫌悪をひどく煽った。
よく見れば所々に何かの塊が付着している。それは思わず顔を背けるほど生臭い臭いを放っていた。それらのことから少年は瞬時に察す。――それが、生物の肉片であるということを。
「――!」
彼は引きつった声を上げた。全身に鳥肌が立つ。激しい嫌悪に見舞われる。手がかゆみに似た痺れを訴えた。どうしようもない衝動がつき上げてくる。彼はとっさに服で手を拭こうと下を向き、そして、息を飲む。 そこでようやく、彼は全身が血で染まっていることに気付いたのだ。悪夢の色に染まった服。多量の湿気を含んでいるためいささか重い。まるで彼を追い詰めるように肌に張り付いた服はぬめり、いやに不気味だった。
消えたはずの恐怖の炎がくすぶる。それは鮮血というオイルを燃料に勢いよく燃え盛り、踊り狂った。それは捕われた少年に迫り、内側からあぶり焼いていく。
その炎は恐怖だけではなく吐き気をも煽った。胃液がせり上がり、異物を吐き出そうと喉がしなる。体の力が抜けた。気を抜いたら脆い泥の人形のように崩れてしまうかもしれない。
耐え切れない。少年はその場に座り込んだ。荒い息をつき必死に回復しようと試みる。半ば無理矢理にそれを何度か繰り返し、肺に詰め込む。
そしてようやく回復の兆しが見え始めた頃、彼はふと視線を上げた。刹那、愕然とする。これ以上がないくらいに目を見開いた。
そこにはもう、この場を支配していた黒は存在しない。ただ見知らぬ光景が広がっているだけだ。
古代の建造物といったところだろうか。苔が点在する石の床には何かの紋様が刻まれている。壁も同じ素材で作られていた。繊細かつ豪快な、どこか気品に溢れたそれ。
大部分をツタが覆い隠す。そのツタからは小ぶりながらも美しい、薔薇に似た花が咲いていた。その色は紅い。だが壁は半分ほどは壊れて存在しなかった。当然、雨風を防ぐ天井もない。
曇天の空にはガブラスが耳障りな声で鳴きながら飛んでいる。それは不吉の象徴であるコウモリに似て、心をざわつかせた。
それだけならさぞ建造物の美しさに酔えただろう。だが少年がそれらに目を向けることはない。彼の周りに、無数の人間の死体が無造作に転がっていたからだ。
「……何の冗談だよ、オイ」
血の気が引いていくのを鮮明に感じた。口端が引きつり、膝が笑い出して止まらない。折れそうになるそれを気力で懸命に支えながら、彼は周囲を見回す。
その人間たちは皆、鎧のような装備を身につけていた。一目で立派な物であったが分かる。しかしそれは一人として例外なく、無惨に引き裂かれていた。原型など見る影もない。
一人は足がもげて骨や筋がのぞき、もう一人は両腕が炭化してひどい悪臭を放っている。もう一人は胸から下が無く臓物が飛散し、もう一人は頭がなかった。もう一人は頭の肉が剥げ、頭蓋が砕け、脳髄が地に塗られていた。
その他にもあまりに凄惨な死に方をした死体が十何体とそこら中に転がっていた。中にはまだ息があるらしく時折体が痙攣しているものもある。だが、おそらく助かることはないだろう。
ある死体にはガブラスが何頭か群がり、争いながらその血肉を貪っていた。強引に引きちぎられる残酷な音が耳につく。その反動で揺れる体が、やりきれない無念を、語っているように見えた。
あまりの光景に息をすることもままならない。まるで呼吸の仕方を忘れてしまったようだ。脈拍がにわかに速くなるのが、手に取るように分かる。
言葉もなく立ち尽くす。目を見開きすぎていたいくらいだ。恐怖と驚きに渇いた喉がしなる。擦るような痛みを、小さく感じた。
不意に、背後に異変を感じる。鉛をぶつけられるような鈍重な気配。少年はそこを見上げ、そして、愕然とする。
そこには白い光を淡く放つ龍が大きな翼を広げ佇んでいた。微動だにせず、少年を見下ろしている。彼は思わず咥内に溜まった唾を飲み込んだ。
その体躯はしなやかで細長い。しかし抗いがたい力を感じる。白銀の光沢を放つ堅牢な鱗をその身に纏っていた。
一対の翼は猛々しく、女の唇のような赤い眼球は妖艶の輝きを放つ。一目見れば、その存在自体が恐怖であり、憎悪であり、至上であり、凄絶であることは理解できた。
――邪神。その言葉しか、それを形容するものはないと言い切れる。仮に飾り付けても、眼前の龍にはそぐわないだろう。少年の許容範囲を越えるほど、それは大きすぎるのだ。
彼は意を決し、それを睨んだ。腹に気合いを詰め込む。そして、すっかり乾燥してしまった薄い唇を舐めた。すると、思うよりあっさり言葉が出る。
「……一体何なんだよ。これをやったのはテメーか!?」
――返答はない。
当然だ。人外の生物が喋るわけがない。それどころか、言語を理解しているかも怪しいというのに。いやに混乱してるな、と少年は自嘲した。
龍は何かをすることはない。わずか開いた口内には鋭い歯が並んでいた。血を啜り生きる者の獰猛の片鱗。背筋から首筋を、痺れに似た刺激的な戦慄が駆け上がった。
その様子を見、龍は目を細める。瞬間、曇天の切れ間から赤い雷電が何本も落ちる。紅に照らされる白い面差しが、笑っていた。慈愛でも親愛でもない、絶対の嘲笑である、それ。その様はまるで、一つの高価な彫刻のよう。
彼は思わず眉をひそめた。眼前の龍に睨みを強くする。明らかに馬鹿にしたその態度が気に食わなかったからだ。
たかが動物に何を、とも思う。だが、彼のプライドが妥協を許さなかったのだ。
紅い目がますます細くなる。かと思えば、不意に右前足が動いた。おのずと視線がそこに向かう。木炭が焼けるような渇いた音が、鼓膜を焼いた。白く細い指が、鋭利な爪先が、指し示す。
「俺……?」
その先には、紛れも無く少年がいた。予想の範疇外のことに彼は驚きを隠せない。
人間の言語を理解したというのだろうか。いや、まさか、そんなはずはない。相手はたかが動物、いや、モンスターだ。そこまでの知能はないだろう。
不意に憶測が脳裏をよぎった。もしかすると、攻撃してくるかもしれない。彼は身構えた。しばし様子を見たが、そのようでもない。
と、いうことは。疑念が確信に変わる。やはり、言語を理解してのこと。それに対して龍が示した回答は――。
少年は絶句した。呆然としかけ、しかし頭を振りそれを払う。相手はいうなれば、ただの図体の大きい爬虫類ではないか。そんなものの言うことを真に受けるほうがおかしい。
だが、と脳の片隅が声を上げる。彼は龍が現れる以前からここにいた。先に龍がどうこうしたとは考えにくい。
そして血に染まった体、肉片、彼を中心に転がる人間の死体。この場にはあまりにも証拠が揃いすぎている。
しかし、にわかに信じられるわけがない。自分が人殺しなどと。断じて気が狂ったわけでも、食人肉の気があるわけでもないのに。
そう主張できたらどれほど楽だろうか。思い、少年は自嘲した。彼に言い逃れをする余地など、残されてはいないからだ。
考えるほど沼に嵌まっていく。まるでジェルに包まれたような罪悪感。自らへの嫌悪で体が震え出した。それをどうにかしようと自らの体を抱く。だが、そんなことで震えが治まるわけがない。
龍は満足げにそれを眺めていた。その様はほくそ笑んでいるようにも取れる。
やがて頭上を見上げると天を貫くような咆哮をあげる。少年にはその咆哮はどこか、高笑っているように思えた。
すると、まるでその意を汲んだように曇天が切れ、光が差し始めた。光は道を指し示す。空の青が龍を迎え入れるため両手を広げた。龍を包んだそれに共鳴するように、龍鱗が淡い白の光を放つ。
それを認めると、龍は翼をはばたかせた。何回か扇ぎ浮力をつけると、一直線に天へと昇っていく。その体躯はみるみるうちに空に呑まれ、そして、見えなくなった。
脅威が去ってからも、少年は身を震わせていた。胸にないはずの器官が刺すような痛みを訴える。激しくはないが、緩慢に精神を蝕んでいくそれ。耐え切れず、体を抱く腕の力を強くする。だが、それはあまり意味がなかった。
胸にざらつく痛みを吐き出そうとするが、肺がうまく機能せず失敗に終わる。空っぽの咳ばかりが口から零れた。
どうすることもできずに少年は無意識に肌に爪を立てる。加減せず力をこめたせいか服の下で肉がえぐれる感触がした。
痛い。頭の隅でそれを感じる。しかし、それすら罪への償いになるような気がして、安堵できた。体の奥で跳ねる鼓動が煩い。その音がまるで己を責め立てているようで、堪らなかった。
いつまでそうしていたのだろうか。ようやく落ち着き、少年は大きく息をついた。まだ、「あれ」を拭いきれたわけではない。今でも体の芯が震えている。
再度息をついた瞬間、世界に亀裂が走った。それは瞬く間に広がり、粉々に砕け散る。少年は瞬きもせずそれを見つめていた。はかなく散るそれが、ひどく美しく思えたから。
飛散した破片の先に現れたのは、元の暗闇が支配する空間。そして状況を理解する暇もなく、全身を浮遊感が襲う。驚愕に染められた意識も、次第に朧げになっていく。
落ちていくのを、少年の五感が伝えた。判然としない意識の底に足が届きそうだ。あと、もう少し。ほんのわずかで楽になれる。
足が地につく刹那、少年は自らを呼ぶ声を、聞いた気がした。
Act.1 End
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