一
花の匂いのする風が頬を撫でる。草原を駆け抜けてきた春風は冷たいが、水分をたっぷり含んでいた。
ステラの空の色を移した瞳が春の訪れに輝く。浮足立ち、思わず跳ねるように歩くと項でまとめた銀色の長い髪が背で踊る。淡い銀髪を羽根に見立てて、妖精のようだと言われることをステラは誇りに思っていた。
その日は日曜日。ミサの帰り道を歩くステラの視界には、大荷物を載せた馬車があった。王都へ向かうどこぞの貴族だろうか。浮足立った気持ちが一転沈みかける。ステラは大きく息を吐いて、重苦しい気分を言葉とともに吐き出した。
「とうとう社交シーズンが始まったわね」
このアルドリア王国では、議会の始まる十二月から人が王都に集まりだす。そして春から夏にかけての季節を、貴族は社交に勤しむのだ。
「ま、私には関係ない話だけれど……」
そんな呟きをかき消したのは、背後から近づく一台の馬車の音だった。ステラの隣で馬車は止まる。二頭立ての無蓋馬車だ。
「やあ、ミス・ステラ・ハントリー」
声を聞くなり最悪だとステラは顔をしかめた。馬車の持ち主はトマス・アボット。アボット家は貿易の成功で財を作った成り上がりものだ。顔を見るまでもないとステラは足を早めた。つれない態度にもめげずに馬上の男はステラに話しかけ続ける。
「無視するのかい? 頼むから話を少しは聞いてくれよぉ」
仕方なく視線をちらりと向けると、細い目、丸い鼻が目に入る。印象の薄いのっぺりした顔から耳に張り付くような粘性のある声まで、ナメクジのような男だと思った。鬱陶しくもついてくる男のせいで、ステラは悪目立ちだ。周囲の目を気にしたステラは冷たくはねつける。
「時間の無駄。私忙しいのよ」
「ああ、庭の掃除とか、洗濯とか? ハウスメイドも足りないだろうから仕方ないよね」
馬鹿にした厭味な響きにステラはぴたりと足を止めて馬上の男を睨み据えた。
使用人の数は家の財をそのまま表す。ステラの家では高給な男性使用人を執事の一人しか雇えず、あとはハウスメイドで補っている。だが、そのことにあえて触れるのは不躾で、おおよそ紳士らしからぬ行為だ。
「メイドはたくさんいるわよ。庶民の分際で、男爵令嬢の私を馬鹿にしているの?」
失敬な男には必要以上に尊大な態度で。少しでも見下せるようにとステラは背筋を伸ばす。だが相手はそんなささやかな反抗など気づきもしない。
「男爵令嬢と聞いて呆れるよねえ。馬車の一台も用意できない零細貴族のくせにねえ。ねえ、私と結婚したら、こんなふうに馬車がなくて歩いて出かけるなんて恥をかかなくて済むんだよ。ほら、やせ我慢しないで乗りなよ」
ステラはつんと顎を突き上げる。これ以上反ればきっとひっくり返ってしまうだろうと思ったけれども、不快な男にこれ以上見下されたくない。
もう少しで家の門だと、ステラは気持ち小走りになる。
「歩いているのは美容と健康のためよ。大きなお世話。あなたも少しは歩いたほうがいいんじゃないの。そのたるんだお腹、みっともないったら」
うんざりとトマスの腹を睨むと、彼は気にしていたのか顔を赤らめる。少し反撃できて、気分が良くなったステラはその勢いのまま、門番がいない造りだけは立派な門をくぐった。
「着いたわ。これ以上つきまとったら人を呼ぶから」
門の内側からステラは笑う。
「人? どこにいるのかなあ。ああ、老いぼれ執事かな? でも出迎えもないみたいだけどね」
せせら笑うトマスにステラは頭に血を上らせる。仮にも口説いている女に向かってこの横柄な態度はどういうつもりなのだろうか。ステラがいつか泣いて縋るとでも思っているのだろうか。上流貴族の仲間入りをするつもりなら一から礼儀作法を習ってこい。
「本当に失礼な人ね。何度話を持ってきてもね、私は成金で失敬な性悪男なんか相手にしないわ。諦めなさい」
トマスの目が苛立たしげに細められる。
「ああ、本当に、君は黙っていれば可愛いのに……そんなふうにつれなくしていると、あとで泣きを見ることになるよ? そのときに後悔しても遅いんだよぉ?」
うるさいのよ。心の中で叫ぶとステラは振り返りもせずに、敷地内を悠々と歩く。
庭師に暇を出してしまったせいで薔薇は枯れて雑草が伸び放題。それがステラの家――プレストン男爵ハントリー家だった。ようやく振りきったとほっとしつつ玄関の扉を開けると、物言いたげな老執事のレナードと母の極上の笑顔がステラを迎えた。
「おかえりなさい!」
母の声は弾んでいたが、一難去ってまた一難だとステラは思った。
母は新しいドレスを身をまとっている。細やかなレースがふんだんに使われたつややかな銀のドレスだ。この頃王都のジェネラスで流行っているのだろうか、少し前のようにスカートに大げさな膨らみはない分、上半身の装飾に手が込んでいる。帽子の上には花どころか果物が載っている。食うに困るという惨状だというのに、華やかな母の服装だけが浮いていた。
母の装いに、いきなり頬を殴られたような衝撃を受けて、落ち着こうとステラは息を大きく吐く。そして問うた。
「お母様、そのイブニングドレス――」
「あら、気づいてくれた? 仕立てていただいたのがさっき届いたのよぉ! 早速着ちゃったわ!」
耳をふさいでしまいたいと思いながらも、問わねばならぬ。ステラは思い切って口を開いた。
「あのね、母様、ドレスの代金はどうしたの?」
くすくすと笑う母の笑顔はあどけない少女のよう。裕福な貴族出身の母は、幼い頃からお金の心配をしたことがないせいで、ドレスの代金の計算もできずにいる。今年は出費を抑えようと話したばかりだったのに、きっと説得は右から左へ流れてしまっていたのだろう。油断していた己をステラが呪ったところで母は言った。
「ほら、アボット家のトマスさんがね、いくらでも立て替えてくださるって」
「はああああ!? なに馬鹿なこと――」
ステラは泣きたくなる。あの男はステラに隙がないからと、母親を攻めることにしたのか。ドレス一着分の借金がステラの肩に重くのしかかった。これでどれだけの財を持って行かれたかと思うと、血の気が引いていく。
(ああ、これで、地所収入の五分の一は飛んで行くかも……)
数年前から、父親が持ちかけられた事業が失敗するたびに、ハントリー家は領地を少しずつ手放し、生活を切り詰めてきた。だというのに、母が勧められるままに勝手に高額な買い物をし続けた。ステラが気づいた時にはもう後の祭り。両親はそれぞれに大量の借金をこしらえてしまっていたのだ。
その額は領地の全てを手放さなければならないほどに膨れ上がっているというのに、両親はなんとかなると信じ込んでいる。いや、ステラの結婚に夢を見ているのだ。
トマスのニヤニヤ笑いが目に浮かぶようだ。守りが甘かったと後悔し、思わず床に沈み込むステラは、ぎいいいという奥の扉が開く音を聞く。とたん、
「あなた。ステラがまた怒ってしまったの」
しくしくと泣き出した母が不満を訴えたのは父だ。用事があると礼拝にも出かけずに家にこもっていた父は、母をなだめたあと、渋い顔をして「話がある」とステラに部屋に入るようにと促した。
メイドが入れてくれた茶を飲み、一息入れて父は言った。
「今日は使者が来るからと家に居たのだが……王宮で侍女を募集しているらしく、召集があった。十四から二十歳の貴族令嬢すべてにお声がかかったのだ」
「え! 王宮!?」
華やかな響きに思わずステラは色めき立った。
ハントリー家の領地はアルドリア王国の最北端。一人娘のステラは十八で、既に社交界デビューも済んでいる。社交界は結婚のための出会いの場。晩餐会、舞踏会という機会を生かして将来の伴侶を見つけるのだ。
ステラも例に漏れず、良き伴侶を探している。息子のいないハントリー家では、現在男爵位の相続者がおらず、お家存続の危機にある。だが、ステラが結婚し息子を産めば、男爵家は存続できるため、家ぐるみで結婚話を進めている――はずなのだが、どう考えても空回り中だ。
まず、社交界での活動が多ければ多いほど、金がかかる。出費の一部が衣料費となるが、母が計画性も無く、自分のドレスを何着も作ったせいで、肝心のステラのドレスが買えないのだ。
流行遅れのドレスなど、困窮を極めていることを明らかにするようなもの。理想の結婚相手という目的達成は程遠い。領地と爵位を欲しがる成金の格好の餌食になるだけだ。
父の手の中の書状を奪い取るようにすると、ステラは早速目を通す。そしてある確信を持って上気した顔を上げた。
「すごいわ!」
だが、そんなステラとは裏腹に、父も母も顔を曇らせている。
「父様、母様、どうしたの」
ステラが問うと、父は逆に問い返してきた。
「どうしたはこっちの台詞だ。これから結婚を控えた娘を宮仕えなど……こんな横暴な話、喜ぶ要素がどこにある」
「何を言っているの」
ステラは呆れた。
「知っているでしょ――王太子夫妻にまだ御子がいらっしゃらないこと」
「それは知っているが、それがこの事とどう関係ある?」
父が怪訝そうに問いかける。
どうしてわからないのかと逆に問いたくなる。だから資産をだまし取られて零落するようなことになるのだ。
家の没落を父の愚かさのせいだと嘆いた祖母のお陰で、幼いころから情勢に耳を傾け続けていたステラにはピンときていた。突然の侍女の大量募集――これはつまり《公妾》――王太子の愛人の募集だと。
アルドリア王国の国教は基本的には離婚を認めていない。そして側妃を持つことも禁じている。唯一許されるのは公妾で、今の王にも数人の公妾がおられると聞いている。
ただし、基本的には公妾が産んだ非嫡出子には王位の相続は認められていない。だが、何事にも例外は生まれるし、そのたびに法が変えられてきたことをステラは歴史から学んでいる。王太子が選ぶのは離婚か、それか――――
「国母――もしかしたら王妃にもなれるという機会が巡ってきたのよ」
ステラには天啓が降りてきたかにも感じ、うっとりと頬を赤く染めた。しかし、それでも両親の気持ちは変わらないらしい。
「国母? 王妃? なにを馬鹿なことを言っているの? 本当にいつまでたっても夢見がちで困った子」
母が呆れたような顔をする。馬鹿で夢見がちはどっちよとステラは思う。
だが、多少ステラの考えが理解ができたらしい父も渋い顔だった。
「妃ならまだしも……愛人でどうしてそんなに喜べるんだ」
「愛人!?」
母はその言葉の響きに青くなる。そして縋るようにステラに言った。
「冗談じゃないわ。一人の人に愛されることが、女の幸せよ。トマスさんは本当に良い青年よ?」
「そうだ。おまえはさっさとアボット家に嫁いだらいいのだよ。この上ない縁談だよ」
両親は二人してステラの野望に理解を示さない。それどころか、卑しい――それはまだしも、あんな失敬な男に借金の形に売ろうとしている。
良い青年? 爵位目当ての男のどこがだ!
「あんな男の家に男爵位を渡すくらいなら、一生独身を貫くわよ!」
父や母には貴族としてのプライドは欠片もないのだろうか。伝統ある男爵位を代々守り抜いてきたご先祖様が泣くわとステラは憤慨する。
「おまえ……でも、私たちの生活はおまえに全てかかっているんだぞ。堅実な選択をせねば、皆が路頭に迷う――」
「堅実!?」
じゃあ、まずはお母様の浪費癖をなんとかしてちょうだい。
ギラギラとしたステラの視線を追うようにして、父は母のドレスをちらりと見る。口ひげに覆われた小さな口が、わずかに威厳を持って開かれそうになったその時、
「似合うでしょう?」
と、母がニッコリと笑う。父は開きかけた口を閉じ、もぞもぞと居心地が悪そうにしたあと、ややしてポンと手を打った。
「――そうだ。ステラも新しいドレスを母さんと同じ枚数、仕立ててやろうか?」
万事解決とでも言うように父は顔を輝かせる。いい加減な打開案がステラの堪忍袋の緒を切った。
「そんなお金どこにあるのよおおおおお!」
「ほら、トマスさんに――」
陽気に口を挟みかける母の言葉をステラは問答無用で遮った。
「とにかく、私、王宮に行くから! そして、どんな手を使ってでも王太子殿下のお心を射止めてみせるわよ!」