表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

落日

作者: 逢坂

挿絵(By みてみん)


「先生、痛くしないでくださいね」

 眉を寄せ、ぎゅっと目を瞑り、恐怖に身を強張らせている。筋骨隆々のオッサンが。私は溜め息をつきながら注射針を刺した。まったく、いい歳こいた大人が情けない。

 大学病院の地獄みたいな労働条件から逃れたい一心で、適当に選んだ転職先は野球球場の医務室だった。仕事があるのは試合の日だけ。デイゲームなら夜には解放される。私とは別に、スポーツ外科の先生が一人詰めていて、選手の怪我は基本的にその人が診た。私の患者は専ら観客で、熱中症とか捻挫とか、そういう簡単な症状の面倒だけみていれば良かった。給料は半分以下になったけれど、それでもここは天国だ。

「ほら、もう終わったから、自分でガーゼ押さえといて」

 慎重に脱力し、潤んだ目で安堵の息をつく。この臆病な彼は、私の患者の中で唯一の野球選手だった。


/


「あなた、なんでいつも私のところに来るの?」

 彼は、試合がある日は毎日、痛み止めを打ちにやってくる。カルテによれば、どうも腰の怪我が酷いらしい。何度も手術をしたようだが、安静にせずにスポーツを続ける限り、痛みが完全に引くことは無いだろう。

「なんでって、そりゃ、注射を」

「そうじゃなくて」

 呆れ顔を睨みつける。選手なら、私じゃなくて外科の方の先生に診てもらえばいいのだ。ああ、と納得したように頷き、彼は薄く微笑んだ。

「一番痛くないんですよ、先生の注射が。お上手で助かります」

「いつもあんなに恐がってるくせに?」

「先生だからあの程度で済んでるんです。実際、他の球場に遠征する時とか悪夢です」

「子供なのね」

 ぶるっと震えてみせる巨体を笑ってあげる。自分より一回り歳上な相手のはずなのに、全然そんな感じがしない。なんだかんだ言って少し嬉しかった私は、いつもよりちょっとだけ丁寧に針を刺すようにした。


/


「先生は、野球がお好きなんですか?」

「まさか、全然。あなたがどこの誰なのかも知らないわ」

 しょっちゅう顔を合わせるからって段々懐き始めた彼を、私は冷たくつっぱねる。

「でも、じゃあ、なんで球場にお勤めを?」

「別に、ここじゃなくても良かったわ。前の職場が嫌だっただけよ」

 患者の中には、野球選手もいれば、サッカー選手もいるし、商社マンも漁師も小学生もいる。患者の職業に一々興味を持っていたらキリがない。

「なるほど、FA宣言したわけですね」

「えふえー?」

 首を傾げる私に、彼は目を細めた。意味不明だ。きっと野球用語のジョークなんだろう。なんだか少し悔しかった。

「先生は、前の職場から、もともと、スポーツ外科は診られないんでしたっけ?」

「そうね、外科も少しはわかるけど、ちょっと専門外ね」

「じゃあ、先生は内科がご専門なんですね」

「小児科よ」

「はい?」

「小児科。本当の専門はね。マルチな分野だから、転職楽で助かったわ」

 彼は目を丸くしてぽかんとしていた。素直な人。頭の中がだだ漏れで、腹立たしいったらない。

「似合わないって思ってるでしょ。こんな恐い女が」

「いえ、まさか。納得いきましたよ。どーりで注射が上手いわけだ」

 精一杯おべっかを使っても、今更遅い。今日はいつもより痛くしてやろう。


/


「あなたは、スターティングメンバーってやつなの?」

 覚えたての野球用語で私が尋ねると、彼は少し驚いた顔をしてから、優しくゆっくり頷いた。

「そうですね。御陰さまで、なんとかスタメンでつかって貰ってます」

「野球が上手なのね」

「そーでもないですよ。ベテランなので、ちょっと監督が贔屓してくれるんです」

 彼は照れくさそうに頭を掻いた。

「ふうん。なら、こんなに薬打ってまで、毎日頑張ることないんじゃないの?」

 怪我が痛むのなら、大人しく休むのが適切な振る舞いだ。キツい薬を毎日体に入れて、腰を無理矢理酷使して。こんな生活、やめられるならそれに越したことはない。

「そうですね、本当は、そろそろお休みを貰った方がいいんでしょうけれど」

「イヤなの?」

「はい、それはイヤなんです」

「まったく、子供なんだから」

 私が溜め息をつくと、彼は寂しそうに笑った。珍しい表情だった。ひょっとすると、気に障ることを言ってしまったのかも知れない。

「ところで、あなたもゲッツーとやらをとる事はあるの?」

 話題を変えたくて、新しく覚えたもう一つの言葉を披露する。彼は面食らったようにしばらく押し黙ると、やがていつもの柔らかい笑みを浮かべた。

「ええ。たまにですけど、とりますよ」

「へぇ、なかなかやるじゃない」

「でも、ゲッツーをとられることもよくあります」

「とったりとられたりするものなの? ゲッツーって。侮れないわね」


/


 アルコールで患部を消毒してやると、いつもよりも赤く腫れていた。不審に思って様子を窺う。心無しか顔色も悪い。

「あなた、今日体調悪いの?」

「そうなんです。なんか、朝からダルくて」

「診てあげる。ちょっとこっち来なさい」

 処置室から診察室に移る。微熱があるし喉も腫れていた。

「風邪ね」

「野球始めてから、初めてですよ、風邪なんて引くの」

 彼はいつもより緩慢に話し、気怠げに苦笑した。

「歳ね。免疫落ちてるのよ。もう若くないんだから」

 自覚がなさそうなので軽く説教をしてから、私はアダルトチルドレンを手でしっしと追い払う。

「今日は注射はやめときましょ。体に毒だわ」

「それは困ります」

 彼はハッとして食い下がってくる。いつも心底嫌そうにしているくせに、自分から注射をして欲しがるなんて、変な話だ。

「ダメよ。今あんな強いお薬使ったら危ないわ」

「そこをなんとか」

「ダメなものはダメ。ちょうどいいから、一日くらい休んで安静にしてたらどうなの?」

 私が譲らないでいると、彼は唇を噛み、険しい顔をした。

「わかりました。今日は痛み止め無しでいきます」

 いじけたように低く告げ、医務室を出て行く彼。

「あ、ちょっと待ちなさい」

 薬無しで体を動かすなんて無茶だった。あんなに注射を恐がっている人が、それでも我慢して毎日痛み止めを打つくらいなのだから。腰の痛みはもう、とても耐えられないレベルなのだろう。

 呼び止めようとドアに急いだ私の目の前に、足から血を流した小さい女の子と、その母親と思わしき女性が現れた。

「すみません、娘が階段で転んで足を擦りむいてしまいまして」

「えっと、あの」

 仕方なく二人を招き入れ、入れ替わりに一瞬だけ廊下に出る。もう彼の姿は見当たらなかった。


/


 結局その日は一日中、彼のことが気になって仕方なかった。

「今日はもうあがっていいよー」

「あ、どうも」

 試合が終わり、観客が帰り切ったことが確認されると、こうして警備員さんが教えにきてくれる。私は手早く帰り支度を済ませ、選手たちのロッカールームに向かった。

「す、すみません、――選手はいますか?」

 息苦しい男臭さに咽せながら、私は彼を捜した。部屋の中には彼よりずっと若い選手たちが何人も居て、この人誰? と首を傾げながら私を見ていた。

「あ、私、医務室の――です」

 白衣を脱いでしまっていたことを思い出して名乗る。ああ、女医さんね。納得した様子で頷くと、高校生くらいにも見える、まだあどけない顔をした男の子が、部屋の奥の方に行って、彼を連れてきてくれた。

「おやっさん今日めっちゃキツそうだったから、ただの取材とかなら取り次がないでおこうと思ってたんですよ。すみませんね先生」

 男の子が申し訳なさそうに頭を下げる。おやっさんと呼ばれた我が患者は、彼に肩を貸してもらって気まずそうにしていた。サウナの中にいるみたいに沢山汗をかいているのに、顔は真っ青だった。

「実際迎えにきてくれて助かりましたよ。おやっさん死にそうで帰れないくせに、なぜか医務室行くのは嫌がってて参ってたんです」

「お前コラ、余計なこというんじゃねーよ」

 弱々しく怒る彼に、男の子は困ったように微笑んだ。

「医務室までは、私が肩を貸してあげた方がいいのかしら?」

 あまり力に自信はないけれど、と窺うと、彼は恥ずかしそうに少しだけ顔の血色を良くし、一人で大丈夫です! と直立してみせた。ロッカールーム中の選手がみんなして優しく笑い声をあげた。


/


「だー、いってー、無理だー、死ぬー」

 医務室に着くや否や、彼は情けない声で呻きながらベッドに倒れ込んだ。

「やせ我慢しちゃって。馬鹿ね。こんなボロボロになって、ちゃんと活躍は出来たの?」

 患部をアイシングしてやりながら問う。4タコでした、と彼は悔しそうに言った。よくわからないけど、要はダメだったのだろう。

「まずは体調整えないとどうしようもないわね。点滴打ってあげるから、30分だけ寝ていきなさい」

「え、点滴はちょっと」

 彼は身を強張らせ、怯えた目で私を見た。

「優しくしてあげるから大丈夫よ」

「信頼してマス」

 ぎこちなく頷くと、彼は深く息を吐き、一気に脱力した。きっと、ずっと気を張っていたのだろう。リラックスしただけでも、随分顔色がましになっていた。

「あなたって結婚してるの?」

 彼をして“手品”と言わしめた無痛テクニックで点滴針を刺し終え、落ちる量を調節しながら私は訊いた。御陰さまで、と彼は照れくさそうにした。

「料理は、ちゃんと作ってもらってる?」

「はい、あの、家内は料理が趣味なので、昔から美味いもん食わせてもらってます」

「ただ美味しくてもだめなのよ? 栄養があってもだめ。あなたの体はもう若い頃とは違うんだから、代謝や消化に合わせて、ちゃんとメニューを変えてもらいなさい」

「あ、はい。なんかごめんなさい」

 しゅんとして縮こまる巨体。私は溜め息をついた。

「大変ね。あなたみたいなでっかい子供の奥さんは」

「いやぁ、これでも、家の中じゃあしっかり者のフリをしてるんですけどねぇ」

 おどけて笑う彼に、それじゃあ余計に心配なのよと、私は再び息を吐いた。


/


 ある日、患者さんの一人が医務室にスポーツ新聞を忘れていった。球場で働き始めてからはよくあることで、いつもならば気にせずさっさと捨ててしまうのだけれど。一面にでかでかと彼の名前が載っていたものだから、ついつい目を通してしまった。


「頼れるベテラン、サヨナラ弾!


 同率首位同士の大一番を決めたのは、やはり――の一発だった。オフに腰の手術を行った――は、万全とは言えない体調ながらも、毎日痛み止めを打ち試合に臨んでいた。怪我をも凌駕する精神力と、かつて三冠王をとった天性のバットコントロール。一時は引退すら囁かれた今期だったが、徐々に調子を上げ、今では打点でリーグ3位につけている。まだまだ若手にはスタメンを譲らない。

 “怪我が酷いのはわかっている。しかし、今は彼の力が必要だ”

 監督からも絶大な信頼を寄せられる大黒柱が、チームを優勝に導くか!?


 ページの隅には彼の写真も載せられていて、「ベンチの中でもバットを離さない。根っからの野球馬鹿は皆のお手本だ」とコメントが添えてあった。写真の中の彼は、私には一度も見せたことのない真剣な表情をしていた。集中していないと、痛みを思い出してしまうのだろう。

 何故だか私は泣きたくなって、腹いせに新聞をぐしゃぐしゃにしてやった。


/


「先生、薬、またちょっと強くしてもらっていいですか?」

「効かなくなってきたの?」

「はい。最近ちょっとキツくて」

 人の体は段々薬に慣れる。痛み止めだって毎日使っていたら効果が薄れてくる。彼はこれまで、既に三回薬の効き目を強めていた。

「頼りにされてるのね」

 患部を消毒しながら私が言うと、彼は不思議そうに首を傾げた。

「この前、新聞であなたの記事をみたの。大黒柱とかみんなのお手本とか書かれてたわ」

「歳食ってきて、他に褒めることがなくなると、そーゆー風に誰もが言われるんですよ」

 芝居がかった暢気な声で彼はおどけた。

「もう、これ以上は強く出来ないわよ」

 私が注意すると、彼は静かに頷いた。


/


「多分、もう今日で終わりだと思います」

 そう、彼が告げたのは、ようやく風が涼しくなり始めた九月の末のことだった。

「シーズンは、十月まで続くって聞いていたのだけれど」

「はい。でも、今日勝てば優勝が決まりますから」

 彼は嬉しそうににっこりした。

「そう、良かったわね、肩の荷がおりて」

「今までお世話になりました」

「引退するの?」

「はい」

 奇妙なくらい穏やかに、彼は頷いた。

「ここに来るのも、野球するのも、今日限りです」

「そう」

 私は不意に思いついて、そっと彼の頭を撫でた。

「よく、頑張ったわね。痛いのに、よく我慢したわ」

 まるで、子供をあやすように、優しく。すると、彼も子供みたいに、黙ってぽろぽろ泣いた。

 憶えていてあげようと、私は思った。頼れるプロ野球選手としてではなく、しっかり者の夫としてでもなく、ただ、臆病で情けなかった彼を。私だけは、ちゃんと憶えていてあげようと、思った。



『落日』終わり

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ