落日
「先生、痛くしないでくださいね」
眉を寄せ、ぎゅっと目を瞑り、恐怖に身を強張らせている。筋骨隆々のオッサンが。私は溜め息をつきながら注射針を刺した。まったく、いい歳こいた大人が情けない。
大学病院の地獄みたいな労働条件から逃れたい一心で、適当に選んだ転職先は野球球場の医務室だった。仕事があるのは試合の日だけ。デイゲームなら夜には解放される。私とは別に、スポーツ外科の先生が一人詰めていて、選手の怪我は基本的にその人が診た。私の患者は専ら観客で、熱中症とか捻挫とか、そういう簡単な症状の面倒だけみていれば良かった。給料は半分以下になったけれど、それでもここは天国だ。
「ほら、もう終わったから、自分でガーゼ押さえといて」
慎重に脱力し、潤んだ目で安堵の息をつく。この臆病な彼は、私の患者の中で唯一の野球選手だった。
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「あなた、なんでいつも私のところに来るの?」
彼は、試合がある日は毎日、痛み止めを打ちにやってくる。カルテによれば、どうも腰の怪我が酷いらしい。何度も手術をしたようだが、安静にせずにスポーツを続ける限り、痛みが完全に引くことは無いだろう。
「なんでって、そりゃ、注射を」
「そうじゃなくて」
呆れ顔を睨みつける。選手なら、私じゃなくて外科の方の先生に診てもらえばいいのだ。ああ、と納得したように頷き、彼は薄く微笑んだ。
「一番痛くないんですよ、先生の注射が。お上手で助かります」
「いつもあんなに恐がってるくせに?」
「先生だからあの程度で済んでるんです。実際、他の球場に遠征する時とか悪夢です」
「子供なのね」
ぶるっと震えてみせる巨体を笑ってあげる。自分より一回り歳上な相手のはずなのに、全然そんな感じがしない。なんだかんだ言って少し嬉しかった私は、いつもよりちょっとだけ丁寧に針を刺すようにした。
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「先生は、野球がお好きなんですか?」
「まさか、全然。あなたがどこの誰なのかも知らないわ」
しょっちゅう顔を合わせるからって段々懐き始めた彼を、私は冷たくつっぱねる。
「でも、じゃあ、なんで球場にお勤めを?」
「別に、ここじゃなくても良かったわ。前の職場が嫌だっただけよ」
患者の中には、野球選手もいれば、サッカー選手もいるし、商社マンも漁師も小学生もいる。患者の職業に一々興味を持っていたらキリがない。
「なるほど、FA宣言したわけですね」
「えふえー?」
首を傾げる私に、彼は目を細めた。意味不明だ。きっと野球用語のジョークなんだろう。なんだか少し悔しかった。
「先生は、前の職場から、もともと、スポーツ外科は診られないんでしたっけ?」
「そうね、外科も少しはわかるけど、ちょっと専門外ね」
「じゃあ、先生は内科がご専門なんですね」
「小児科よ」
「はい?」
「小児科。本当の専門はね。マルチな分野だから、転職楽で助かったわ」
彼は目を丸くしてぽかんとしていた。素直な人。頭の中がだだ漏れで、腹立たしいったらない。
「似合わないって思ってるでしょ。こんな恐い女が」
「いえ、まさか。納得いきましたよ。どーりで注射が上手いわけだ」
精一杯おべっかを使っても、今更遅い。今日はいつもより痛くしてやろう。
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「あなたは、スターティングメンバーってやつなの?」
覚えたての野球用語で私が尋ねると、彼は少し驚いた顔をしてから、優しくゆっくり頷いた。
「そうですね。御陰さまで、なんとかスタメンでつかって貰ってます」
「野球が上手なのね」
「そーでもないですよ。ベテランなので、ちょっと監督が贔屓してくれるんです」
彼は照れくさそうに頭を掻いた。
「ふうん。なら、こんなに薬打ってまで、毎日頑張ることないんじゃないの?」
怪我が痛むのなら、大人しく休むのが適切な振る舞いだ。キツい薬を毎日体に入れて、腰を無理矢理酷使して。こんな生活、やめられるならそれに越したことはない。
「そうですね、本当は、そろそろお休みを貰った方がいいんでしょうけれど」
「イヤなの?」
「はい、それはイヤなんです」
「まったく、子供なんだから」
私が溜め息をつくと、彼は寂しそうに笑った。珍しい表情だった。ひょっとすると、気に障ることを言ってしまったのかも知れない。
「ところで、あなたもゲッツーとやらをとる事はあるの?」
話題を変えたくて、新しく覚えたもう一つの言葉を披露する。彼は面食らったようにしばらく押し黙ると、やがていつもの柔らかい笑みを浮かべた。
「ええ。たまにですけど、とりますよ」
「へぇ、なかなかやるじゃない」
「でも、ゲッツーをとられることもよくあります」
「とったりとられたりするものなの? ゲッツーって。侮れないわね」
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アルコールで患部を消毒してやると、いつもよりも赤く腫れていた。不審に思って様子を窺う。心無しか顔色も悪い。
「あなた、今日体調悪いの?」
「そうなんです。なんか、朝からダルくて」
「診てあげる。ちょっとこっち来なさい」
処置室から診察室に移る。微熱があるし喉も腫れていた。
「風邪ね」
「野球始めてから、初めてですよ、風邪なんて引くの」
彼はいつもより緩慢に話し、気怠げに苦笑した。
「歳ね。免疫落ちてるのよ。もう若くないんだから」
自覚がなさそうなので軽く説教をしてから、私はアダルトチルドレンを手でしっしと追い払う。
「今日は注射はやめときましょ。体に毒だわ」
「それは困ります」
彼はハッとして食い下がってくる。いつも心底嫌そうにしているくせに、自分から注射をして欲しがるなんて、変な話だ。
「ダメよ。今あんな強いお薬使ったら危ないわ」
「そこをなんとか」
「ダメなものはダメ。ちょうどいいから、一日くらい休んで安静にしてたらどうなの?」
私が譲らないでいると、彼は唇を噛み、険しい顔をした。
「わかりました。今日は痛み止め無しでいきます」
いじけたように低く告げ、医務室を出て行く彼。
「あ、ちょっと待ちなさい」
薬無しで体を動かすなんて無茶だった。あんなに注射を恐がっている人が、それでも我慢して毎日痛み止めを打つくらいなのだから。腰の痛みはもう、とても耐えられないレベルなのだろう。
呼び止めようとドアに急いだ私の目の前に、足から血を流した小さい女の子と、その母親と思わしき女性が現れた。
「すみません、娘が階段で転んで足を擦りむいてしまいまして」
「えっと、あの」
仕方なく二人を招き入れ、入れ替わりに一瞬だけ廊下に出る。もう彼の姿は見当たらなかった。
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結局その日は一日中、彼のことが気になって仕方なかった。
「今日はもうあがっていいよー」
「あ、どうも」
試合が終わり、観客が帰り切ったことが確認されると、こうして警備員さんが教えにきてくれる。私は手早く帰り支度を済ませ、選手たちのロッカールームに向かった。
「す、すみません、――選手はいますか?」
息苦しい男臭さに咽せながら、私は彼を捜した。部屋の中には彼よりずっと若い選手たちが何人も居て、この人誰? と首を傾げながら私を見ていた。
「あ、私、医務室の――です」
白衣を脱いでしまっていたことを思い出して名乗る。ああ、女医さんね。納得した様子で頷くと、高校生くらいにも見える、まだあどけない顔をした男の子が、部屋の奥の方に行って、彼を連れてきてくれた。
「おやっさん今日めっちゃキツそうだったから、ただの取材とかなら取り次がないでおこうと思ってたんですよ。すみませんね先生」
男の子が申し訳なさそうに頭を下げる。おやっさんと呼ばれた我が患者は、彼に肩を貸してもらって気まずそうにしていた。サウナの中にいるみたいに沢山汗をかいているのに、顔は真っ青だった。
「実際迎えにきてくれて助かりましたよ。おやっさん死にそうで帰れないくせに、なぜか医務室行くのは嫌がってて参ってたんです」
「お前コラ、余計なこというんじゃねーよ」
弱々しく怒る彼に、男の子は困ったように微笑んだ。
「医務室までは、私が肩を貸してあげた方がいいのかしら?」
あまり力に自信はないけれど、と窺うと、彼は恥ずかしそうに少しだけ顔の血色を良くし、一人で大丈夫です! と直立してみせた。ロッカールーム中の選手がみんなして優しく笑い声をあげた。
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「だー、いってー、無理だー、死ぬー」
医務室に着くや否や、彼は情けない声で呻きながらベッドに倒れ込んだ。
「やせ我慢しちゃって。馬鹿ね。こんなボロボロになって、ちゃんと活躍は出来たの?」
患部をアイシングしてやりながら問う。4タコでした、と彼は悔しそうに言った。よくわからないけど、要はダメだったのだろう。
「まずは体調整えないとどうしようもないわね。点滴打ってあげるから、30分だけ寝ていきなさい」
「え、点滴はちょっと」
彼は身を強張らせ、怯えた目で私を見た。
「優しくしてあげるから大丈夫よ」
「信頼してマス」
ぎこちなく頷くと、彼は深く息を吐き、一気に脱力した。きっと、ずっと気を張っていたのだろう。リラックスしただけでも、随分顔色がましになっていた。
「あなたって結婚してるの?」
彼をして“手品”と言わしめた無痛テクニックで点滴針を刺し終え、落ちる量を調節しながら私は訊いた。御陰さまで、と彼は照れくさそうにした。
「料理は、ちゃんと作ってもらってる?」
「はい、あの、家内は料理が趣味なので、昔から美味いもん食わせてもらってます」
「ただ美味しくてもだめなのよ? 栄養があってもだめ。あなたの体はもう若い頃とは違うんだから、代謝や消化に合わせて、ちゃんとメニューを変えてもらいなさい」
「あ、はい。なんかごめんなさい」
しゅんとして縮こまる巨体。私は溜め息をついた。
「大変ね。あなたみたいなでっかい子供の奥さんは」
「いやぁ、これでも、家の中じゃあしっかり者のフリをしてるんですけどねぇ」
おどけて笑う彼に、それじゃあ余計に心配なのよと、私は再び息を吐いた。
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ある日、患者さんの一人が医務室にスポーツ新聞を忘れていった。球場で働き始めてからはよくあることで、いつもならば気にせずさっさと捨ててしまうのだけれど。一面にでかでかと彼の名前が載っていたものだから、ついつい目を通してしまった。
「頼れるベテラン、サヨナラ弾!
同率首位同士の大一番を決めたのは、やはり――の一発だった。オフに腰の手術を行った――は、万全とは言えない体調ながらも、毎日痛み止めを打ち試合に臨んでいた。怪我をも凌駕する精神力と、かつて三冠王をとった天性のバットコントロール。一時は引退すら囁かれた今期だったが、徐々に調子を上げ、今では打点でリーグ3位につけている。まだまだ若手にはスタメンを譲らない。
“怪我が酷いのはわかっている。しかし、今は彼の力が必要だ”
監督からも絶大な信頼を寄せられる大黒柱が、チームを優勝に導くか!?
」
ページの隅には彼の写真も載せられていて、「ベンチの中でもバットを離さない。根っからの野球馬鹿は皆のお手本だ」とコメントが添えてあった。写真の中の彼は、私には一度も見せたことのない真剣な表情をしていた。集中していないと、痛みを思い出してしまうのだろう。
何故だか私は泣きたくなって、腹いせに新聞をぐしゃぐしゃにしてやった。
/
「先生、薬、またちょっと強くしてもらっていいですか?」
「効かなくなってきたの?」
「はい。最近ちょっとキツくて」
人の体は段々薬に慣れる。痛み止めだって毎日使っていたら効果が薄れてくる。彼はこれまで、既に三回薬の効き目を強めていた。
「頼りにされてるのね」
患部を消毒しながら私が言うと、彼は不思議そうに首を傾げた。
「この前、新聞であなたの記事をみたの。大黒柱とかみんなのお手本とか書かれてたわ」
「歳食ってきて、他に褒めることがなくなると、そーゆー風に誰もが言われるんですよ」
芝居がかった暢気な声で彼はおどけた。
「もう、これ以上は強く出来ないわよ」
私が注意すると、彼は静かに頷いた。
/
「多分、もう今日で終わりだと思います」
そう、彼が告げたのは、ようやく風が涼しくなり始めた九月の末のことだった。
「シーズンは、十月まで続くって聞いていたのだけれど」
「はい。でも、今日勝てば優勝が決まりますから」
彼は嬉しそうににっこりした。
「そう、良かったわね、肩の荷がおりて」
「今までお世話になりました」
「引退するの?」
「はい」
奇妙なくらい穏やかに、彼は頷いた。
「ここに来るのも、野球するのも、今日限りです」
「そう」
私は不意に思いついて、そっと彼の頭を撫でた。
「よく、頑張ったわね。痛いのに、よく我慢したわ」
まるで、子供をあやすように、優しく。すると、彼も子供みたいに、黙ってぽろぽろ泣いた。
憶えていてあげようと、私は思った。頼れるプロ野球選手としてではなく、しっかり者の夫としてでもなく、ただ、臆病で情けなかった彼を。私だけは、ちゃんと憶えていてあげようと、思った。
『落日』終わり