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7年目のココロにあるお店で。
作:山田木理



全部見せます。
Aコースは、補正、モザイク、ボカシ、一切ございません。
Bコースは、ややソフトに初心者向け。




『…ちょっと、サトシ。聞いてるの?』
「あ…?」
『…だから、…ね。…よ。…それで、…もう、ナナ…からね。…のよ』

電波にのった母親の声の99%は、携帯電話を逆さに持っていることに気付かなかったサトシの耳を素通りし、柔らかなシーツに溶け込んでいった。

1%、溶けずに耳にこびり付いたのは、

…ナナ



そして、再び浅い眠りに身を沈めようとしたら、聞き覚えのない声がサトシの耳に滑り込んできた。

「…だ〜か〜ら〜、言ってンだろ!」

近い。
声はすぐ枕元からする。

「ウソつくンじゃない!」
これは3ヶ月前に彼女になったヒカルの声だ。
そっか、合い鍵を渡したんだっけ?

「だから、オレは、コイツの隠し子だって」
聞き覚えのない声は、子供の声だ。

「じゃあ、サトシは18歳でアンタ生んだの?」
ヒカルがわけのわからないことを聞いている。

「そうだよ。コイツの腹から7年前に出てきたんだよ」
おバカな質問におバカな答え。

「誰の腹から何が出てきたって?」 
おバカな会話にサトシはピリオドを打った。

ヒカルと初めて見るガキが同時に目覚めたばかりのサトシを睨み付けた。

「サトシ〜。たまの休みぐらいどこか行こうよぉ〜」
ヒカルは、サトシの肩を揺さぶりながら、子供の隣で子供のように駄々をこねる。
どうやら、ヒカルは子供を見えないことにしたようだ。

「誰だ。お前?」
サトシは、ヒカルを無視し、生んだ覚えのないガキに聞いた。

「とうちゃん。ヒドイよ。オレの事、忘れたの?それより、このウルサい女はサトシのコレか?」
と、ガキは中年オヤジみたいに小指を立てながら聞いてくる。
小指が自分だと知れ、ヒカルはますますムキになる。
「サトシぃ〜、このガキ、何者ぉ?」
「だからぁ〜、隠し子でっす」
ガキはヒカルを挑発するように言葉を投げつけた。

「フニャ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
ヒカルが猫になる。
ヒカルには、たまに、何かがのり移る。

「帰るにゃ!」
名古屋弁ではない。
猫がのり移っているのだ。
猫のまま、ヒカルは、部屋から出て行った。

ヒカルの長所は来週の日曜日には、何事もなかったように現れることだ。


「頭、悪そうな女」
子供はウンザリしたように部屋を出ていくヒカルを見送った。
「だから、誰だ?お前」
サトシは二度目の質問をしてやった。

「ジュンだよ。あっれ〜?お前ンちの母ちゃんから聞いてない?」
「聞いてない…。あ…」

電話で何か言ってた。

ナナって…

「サトシのお祖父ちゃんの従姉妹の婿養子の弟の孫。津田じゅん、7歳。ヨロシク。津田サトシ君。25歳!」
ご丁寧にサトシのプロフィールも付け加えてくれた。

ナナ、7歳か…

「へ?ちょっと待て。ヨロシク?って、何だ?遙か彼方の遠い親戚が、オレに何のヨロシクだよ」

「だ〜か〜ら〜、オレの父ちゃんが単身赴任でフランスに行っていて、母ちゃんが夏休みの間にちょっくら夫婦愛をはぐくみに行ったわけだ。オレはその間、田舎の母ちゃんの実家で、夏休みをお気楽に過ごしていたけど、夏休みが終わって、母ちゃんが迎えに来てくれるのを待っていたわけだが、フランスのパイロットとかスチュワーデスとかがもっと金くれって、ストおこしやがって…。ニュースぐらい見ただろ?とにかく、母ちゃんはフランスに足止めをくらってさ。でも、夏休みは終わったし、オレも学校休んでずっと田舎暮らししているわけにもいかないし。ストはいつ終わるかわかんないし。母ちゃんは家に一人残すのは心配だって電話で言ってくる。ここまで言えば、バカな女のオトコのサトシでも分かるだろ」

「オレにお前の世話しろって?」

「アンタの世話にはならね〜よ。とりあえず、オレのことはオレでするから、ここに置いてくれればいいだけだ」

サトシは六畳の狭い部屋を見渡し、溜息を吐いていった。

「他に適任者がいるだろ。昔から遙か彼方の薄〜い血の繋がりより、近くの他人って」
「オレのことは空気だと思ってくれ!」




(サトシ。ずっと一緒にいよう…)
(カナ…)
耳に張り付いた想い出。
7年間、消えないカタマリ。
残された疑問符。
ナゼ?

ナゼ、消えた?





ジリリリリリリリリリ…
「うるさいぞ。空気」

サトシは、目覚まし時計を掴んだ。
「まだ、朝の6時じゃねえか」
未だ開けきってない瞼の下に、狭い室内をドタバタ走るジュンを捉えた。
「やべ〜。算数の宿題忘れてた。ひぇ〜。時間がない。やべぇ〜」
算数の教科書を牛乳の染み込んだ雑巾のように摘み上げ、ジュンは小さな眉間に皺を寄せ唸っていた。
「まだ、6時だぞ」
「もう、出なきゃ、間に合わねぇんだよ」
「じゃあ、諦めろ」
と、サトシは再び目を閉じた。
しかし、サトシの睡眠はすぐに邪魔された。
「サトシ〜。頼むよ。サトシだったら、こんなの5分で終わる。小2の算数だ」
サトシは無視を決め込むつもりだったが、ジュンは体を揺すってくる。
週の始め、月曜日はソレでなくとも憂鬱である。

「サトシ〜。オレがヒステリー恒子に怒られちゃってもいいのか」

全然、構わない。

「ヒステリー恒子っていうのは、オレの担任なんだけど、その名の通り、怒ると切れるんだよ。その切れ方が尋常じゃないんだ。黒板に爪をキーって立てたような声で切れるんだぜ。サトシも一回怒られて見ろよ。死にたくなるって。あんなのが小学校の教育者って言うのは、絶対間違ってる。文部省、何とかしろ!って、オレは言いたいね。大体、日本の情操教育って…」

「で!どれをやればいいんだ?」

これ以上、このやかましいスピーカーを放っておくと、脳神経が麻痺しそうだ。
サトシは通勤前に小2の算数を解くという、憂鬱な月曜日に輪を掛けた朝を送る羽目になった。

「ほらよ」
サトシがノートを放り投げると、ジュンは歯ブラシを持ったまま満面の笑みを浮かべた。
「サトシ。大好き」




「津田。一杯、つきあえよ」
「いえ。今日はちょっと…」
サトシはジュンの頭痛のする要望を思い浮かべながら会社の先輩に謝った。
携帯の留守録に『今夜はおでんが食べたい』と、入っていたのだ。
まだ夏だというのに。

「もしかして、ヒカルちゃんとデート?」
彼女であるヒカルは、この先輩に紹介されたのだった。
女友達の多いこの先輩のおかげでサトシは女に不自由したことはなかった。
「いえ、ちょっと、用があって」
「おい。おい。何の用だよ。今度は結構、長くもっていると思ったが、もう、終わりじゃねぇだろうな?」
「違いますよ…。多分」
「前にお前に紹介したアユミが、お前の事を冷たいヤツだって愚痴っていたぜ。その来る者拒まず、去る者追わずって性格をいい加減治せよ。そろそろ、オレもお前に紹介する女がいなくなるぞ」
見た目より人のイイ先輩は手をヒラヒラと振ってサトシと別れた。
サトシは人混みに混じり歩き出した。

冷めている。
人に何度か言われた。
でも、正確には違う。
冷めているというより、鈍くなっているのだ。
熱さも冷たさも何も感じない。
昔はもっと、全てのモノの温度を肌で感じられるぐらいには敏感だった、ような気がする。
しかし、ソレすらも忘れそうだ。
夏の太陽の熱さも冬の雪の冷たさも、何も感じられなくなりそうだ。
何も感じていない自分すら忘れて、最後には自分自身見失いそうだった。

人波に揉まれサトシは駅に向かう。
気付かぬ内に手にはポケットティシューとビラが握られていた。


「おでん!」
ジュンはサトシが買ってきたコンビニのおでんをひったくり、湯気と共に漂う匂いにウットリとした。
サトシは同じくコンビニで買ったおにぎりとお茶を差しだしてやった。

「やっぱり、夏も終わりに近付くとこういう暖かいモン食いたくなるよな〜。なんかさ、ソーメンも冷やし中華も食い飽きて、暫く忘れていた味をフッと思い出すんだよ。おっ、餅巾着じゃん。サトシ、いいセンスしてるよ。うん。旨い」

ジュンは唸りながらサトシが買ってきたおでんを旨そうに片付けていく。

「正月にはあんまり旨いとは思わないけど。ナゼ故に季節はずれの餅は旨いんだ?なっ。分かるだろう?サトシ」

サトシがカラシの封を切る頃には、既に茹で卵も大根もはんぺんも無くなっていた。

「でも、最近は食に季節感が無くなったよな」
と、平成生まれとは思えぬ台詞を吐きながら缶に入ったお茶を啜っている。

「パリの空の下にいるオレの父ちゃんと母ちゃんにもこのおでんの味を伝えたい」
などと言って、フッと溜息を吐いている。
暫く会っていない両親を思いだしたのだろうか、僅かな間があった。

「…冬にスイカ食べたくなるよな」
と、言ったのはサトシだった。
「そう!そう!そうなんだよ」
口から唾を飛ばしながらジュンは箸を振り回して同意した。
サトシはジュンにつられて知らず知らず笑っていた。


クシュン

小さなくしゃみにサトシは目を覚ました。
「風邪か?」
「ん…。ダイジョウブ」

クシュン
二度目のくしゃみにサトシは電気をつけた。
眩しそうに目を擦りながらジュンはサトシを見上げた。
「鼻水流れてるぞ」

サトシは帰り道に貰ったポケットティシューをジュンに投げ、風邪薬を捜し始めた。
風邪などここ数年ひいてないな、と思いながら風邪薬を探し当てた。

「全部見せます。Aコースは、補正、モザイク、ボカシ、一切ございません。Bコースは、ややソフトに初心者向け…」
振り向くと、ジュンがポケットティシューの裏面を読み上げていた。

「なぁ、サトシ。何を全部見せてくれるんだ?ここに電話したら、いいモノ見られるのか?」

さぁ…、と首を傾げ、水の入ったコップと一緒に風邪薬を差し出す。

「風邪じゃないって。それに、コレ賞味期限切れてる」
「賞味期限?」
「ここ」
 箱の側面を差してジュンは言った。
「使用期限だろ」
「とにかくダイジョウブだって」
鼻水を垂らしながらジュンは笑った。


(大丈夫。私は平気だって)
(ダメだ。両親を説得してから…)
(無理だよ。あの人達には何を言っても無駄。私達のことは認めて貰えるはずがない)
(仕方ないだろう。オレ達はまだ、18歳だから。オレが就職して、落ち着いたらカナを絶対迎えにいく)
(サトシ…。まさか、大学に行かずに、就職を選んだのは私の為だったの?)
(違うよ。自分の為だ。カナを世界で一番好きな自分の為だ。愛してる)

アイシテル…。

感じたモノを感じたままに言葉にした。
曖昧な気持ちがクッキリとした形になった瞬間だった。
彼女に会って初めて熱いと感じた。
18年間、ずっと生ぬるかった世間を冷たいと感じた。
外は冷たく、内部は熱かった。

(サトシ。ずっと一緒にいよう…)
(カナ…)
(私、家出るよ。サトシ)
カナの目に強い光を見た。

高校1年生の時、席が隣だった。
たったそれだけの縁から始まった恋だった。
厳格な教育者の家庭に育ったカナは地味で大人しい性格だったが、サトシの前では本当の自分をさらけ出してくれた。

(スイカって、冬に食べたくなるよね)
そう言って、笑ったのはカナだった。
(サトシのお荷物になりたくない)
二人で泣いた事もあった。
(サトシのわからず屋!)
罵り合った事もあった。

(カナ…)

熱かった。
熱い日々が続くと信じて疑わなかった。

(サトシのトコロに行くよ)
(わかった。待っているよ)

ずっと、ずっと、ずっと待っていた。
ずっと、ずっと、この部屋で待っていた。
カナを待っていた。
今でも…?

分からない。麻痺した脳は現実を拒否し始めた。
アツイも、ツメタイも、アイシテルも、マッテルも感じられない。

どうして来なかったんだ!


ゴホゴホッ
「熱はないみたいだな…」
「だろっ。だから、一人でダイジョウブだって。サトシは会社行けよ」
「ダメだ。医者に連れていく」
「仕事。遅刻するぞ」
サトシは時計を見た。
今出なければ完全に遅刻である。

「最近の医者は、簡単には注射は打たないから安心しろ」
「誰が注射の心配してるンだよ。オレはお前の面倒にはならない。オレのことは空気だと思えって言っただろう。ゴホッ」
「誰が空気だ。お前なんか公害だよ。ほら、上着貸してやるから。これ、着ろ」
「イヤだ。絶対イヤだ」
「わがまま言うな」
「ワガママじゃない。オレはサトシの迷惑にならない」
「もう、十分なってるよ」
「違う。オレはサトシの荷物じゃない」
「何言っているんだ!早くしろよ」
「オレはサトシの空気なんだ」
「ジュン!いい加減にしろ!言うこと聞かないなら、追い出すぞ」
「分かった。出てくよ…。迷惑なんだろ!」
ジュンは目に涙まで浮かべて、パジャマのまま出て行こうとした。
サトシは咄嗟に腕を掴んだ。

「オレが出て行く。お前はここで頭冷やせ」
「サト…」

ジュンに貸そうとした上着を引っかけ、サトシはジュンの言葉を最後まで聞かず部屋を飛び出した。


「クソッ。何なんだ。アイツは!」
サラリーマン、OL、学生達の群に逆らいながらサトシは目的もなく歩いた。
ジュンが来てから5日間、今日のように会社を休む羽目になったのは初めてだが、あの部屋では、いつも振り回されていたような気がする。

ジュンの涙混じりの瞳が浮かんでくる。
「クソッ。帰るモンか!反省しろ」
あんな部屋…、どうせ、待ってもカナは現れない。

もう、待つ必要がないからなのか?


サトシより2週間遅れで、カナは新しいサトシの部屋に来るはずだった。
約束の日曜日、家で電話が来るのを待った。
駅に着いたら電話すると言っていたからだ。
だが、電話は鳴らなかった。
携帯電話も繋がらない。
両親に見つかったのだろうか。
一晩中、眠らずに待っていた。
月曜日は仕事を休んで待っていた。

そして、電話が鳴った。

(返して!カナを返してちょうだい!)

カナの母親だった。
カナは両親の説得を諦め、こっそりと手紙を残し出てくると言っていた。
だから、カナの母親がサトシの親にサトシの居所を聞き出し、そう言ってくるのは予想できた。
だが、カナはサトシの部屋には来ていない。

カナは予定通り自分の部屋を片付け、荷物を整理し、手紙に一言だけ両親への礼を書き残し、家を出ていたのだ。
サトシの所に来るとは一言も書き残してはいなかった。
それは、ただ両親への配慮だったのかも知れないが、サトシには不安を募らせる一つの原因となった。
最初から、自分の所に来るつもりは、なかったのではないか?

警察に捜索願を出した。
単なる家出人の捜索は本格的にはしてもらえなかった。

カナの両親の激しい批難と、
せめて近くまで迎えに行くべきだったという猛烈な後悔と共に、
サトシは一人でカナを捜した。

何か事故か事件に巻き込まれたのではないか?
そんな不安と、
最初から、自分の所に来るつもりは、なかったのではないか?
そんな不安が交錯する。

彼女が来たくても来られないと信じるのは、彼女は無事ではない事を意味する。
しかし、彼女が自分の意志で自分の前から姿を消したと考えるなら、彼女はどこかで無事に生きているはずである。

祈りが、自分の中で真っ二つに別れた。

彼女の無事を祈る強い気持ちは、それは、彼女の裏切りを祈る気持ち。

カナの愛情と裏切り。

自分はどちらを願う?

結局、何一つ分からなかった。

カナの気持ちも自分の気持ちも、分からなかった。

考えて、考えて、考えた末、いつの間にか考えることを拒否していた。

なのに、なぜ、今になって知りたいと、こんなに知りたいと思うんだ?


一瞬、寒気が走った。

「風邪、移ったか…」
ポケットに手を突っ込むとポケットティシューがあった。

「全部見せます…か」

「いらっしゃいませ〜。Aコースは、補正、モザイク、ボカシ、一切ございません。Bコースは、ややソフトに初心者向け」
黄色のはっぴを着た調子の良さそうなお兄さんに手を引かれ、店内に入った。
朝だというのにスーツを着たサラリーマンが何人もいた。
たまに女性の姿も見かけた。

自分が、なぜ、そこに行ったか、わからない。
そして、なぜ、そのコースを選んだのか、わからない。
「…Aコースで」
「はい。はい。では、三番ルームにご案内〜」
「お客さん。初めて?」
黄色のはっぴを着た自分より若そうなオトコがニヤリと笑いながら聞いてくる。
「初めてだったらBコースを奨めるけど。Aコースはきついよ。まぁ、オレはお兄さんがチャンと現実の世界に戻れるよう祈るばかりだけど…」
「え?」
「いや、いや、何でもないっす」
無機質な白い廊下をオトコは軽い足取りで歩いていく。
そして、『3』と番号を下げたドアの前で止まり、もう一度サトシを振り返った。

「後悔無しね」

ニッと振り返り、サトシを部屋の中に押し込めた。


 落ちる!


そう感じた。

「な?」
フワリと体が浮いたのだ。
星のない宇宙に突き落とされた感覚。
そして、寒さも暑さも何も感じなくなった。
何もない世界。

『お客さん。初めて?』

マイクを通した聞き覚えのある声。
しかし、この声は空間に広がるでもなく、サトシの脳に直接響く。
そして、目の前にスッと浮かび上がる映像。

「ジュン?」

暗闇に浮かんだのはジュンだった。

『そうか…。アンタにはジュンに見えるのか』

「ジュン。どう言うことだ?家で寝ているんじゃないのか?」

『お客さんは、Aコースだったね。で、何が視たいの?』

「何言っているんだ?」

『ここはお客さんの視たいモノを視せる店なんだよ。サトシは何が視たい?』

「どうしてオレの名を?」

『何が視たい?』

脳に響くジュンの声。

何が視たい?

「オレは…」

ジュンの顔がぼやけ、やがて、それはカナの顔になる。

「カ、ナ…」

目の前のカナは優しく微笑んでいる。

「なぜ、来なかったんだ?カナ。ずっと、ずっと待っていたんだ」

『お客さんの見たいモノをお見せします。お客さんの知りたいことをお教えします。Aコースで全てお見せいたします』

カナはそう言うとスッと消え…



『イヤーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー』

脳に反響した悲鳴。
カナの悲鳴。

空間に現れた18歳のままのカナ。
360度の映画のスクリーンにカナは現れた。

恐怖に引きつった顔は自分を通り越して違う物を見ている。

そこは、雑木林だった。

どこからともなく現れた手がカナの服をむしり取っていく。

『ヤメテ。助けて』

激しい息遣い。
目の前でカナは見知らぬ男に犯されていた。

男はカナの顔を殴りつけ、カナの口から血の混じった唾液が流れる。

『助けて!イヤ!ヤメテ…』

サトシは目を反らそうとした。
しかし、そのスクリーンは右も左も上も下も全てカナが写し出されていた。
瞼を降ろしても、脳に直接映像が送られて来る。

『助けて!助けて!サトシ!』

「もう、イイ!やめろ!」
耳を塞いだ。
だが、声は直接脳に響く。

『サトシ。サトシ。サトシ。サトシ…』

涙と唾液と血と泥にまみれたカナの顔が思考の全てを支配する。

『まだ、だ…』

一瞬、ジュンの声が混じる。

フッと顔を上げた。

映画館の最前列にサトシはいる。

画面の女優は男に犯され、自由になる右手に石を握った。

血が弾けた。

場内に沈黙が訪れる。

カナは呆然と動かない男を見下ろしている。

目で確認できるぐらいに震えている。

事実を否定するように何度も首を横に振っている。

男は頭から血を流し、動かない。


パッと一瞬で画面が変わる。

カナは乱れた服装のまま、崖っぷちに立っていた。

目は虚ろで何も映していないようだ。

口元が動いている。


サトシ、と。


「もう、やめろ!こんなくだらないドラマなんか。たくさんだ…」

『もう、終わりです。お客さん。ほら』

ハッキリ聞こえたジュンの声に顔を上げた。

血に濡れたカナの顔がそこにあった。


『カナはサトシと暮らすために家を出ました。日曜日の早朝に出る予定でしたが、両親の目を盗む為、土曜日の深夜にこっそりと家を出ました。それが、よくなかったのでしょう…。彼女の遺体は今も、この谷間の人の訪れない場所で静かに朽ちています。それから、カナのお腹には貴方の子供がいました』

「…そんな事、信じられるわけ」

『信じるか信じないかはサトシの自由。でも、コレが真実。どうでした?全部お見せいたしました』

「ジュン。お前は何者なんだ?」

『私はジュンではありません。貴方の心の鏡です」

「オレの?」

『貴方の心にあるモノを、ただ映しているだけ』

ジュンはカナと同じ瞳で微笑んだ。

『これで、全てです。本日はご来店下さいまして、誠に有り難うございました』



サラリーマンとOLの群の中、サトシは立っていた。
足音。
車のクラクション。
盲目者用信号機の音。

サトシは人混みを掻き分けるように走り出した。


「ジュン!」
自分の部屋のドアを勢いよく開いた。

「ジュン!いるんだろう。出てこい」
整わない息のまま大声を張り上げた。

「ジュン!どこだ?」
狭い部屋にジュンの姿は…ない。
と思ったが、フッと何かが腰に巻き付いた。

「サトシ〜」
「ジュン…」
腰に抱きついて来たジュンをゆっくりと見下ろした。

「ひどいよ。サトシ。病人をほったらかしにして出て行くなんて」
しゃくり上げながらジュンは涙と鼻水のこびり付いた顔で怨みがましそうにサトシを見上げた。

「悪かったよ」
サトシはゆっくりとしゃがみ込みポケットティシューでジュンの顔を拭いてやった。
「サトシ…」
小さなジュンの体を抱きしめていた。
「痛いよ。サトシ」
「よかった…」
「サトシ?」
「熱いな…」
目が熱い。

涙はこんなにも熱かったのか。
ジュンが来てから麻痺していた神経が機能し始めていたんだ。

熱さも、
冷たさも、
温かさも、
苦さも、
美味しさも、
淋しさも、
カナシサも、
アツサも、
ツメタサも、

マッテイルも、

アイシテイルも、

体全体に感じる…

7年前まで、感じていた全てを、ゆっくりと取り戻す。
そして、止まっていた時がゆっくりと動き出す…

「サトシ…」
耳に届くジュンの声。
「ダイジョウブだよ。ダイジョウブだから…」
暖かな柔らかい感触がゆっくりとサトシの体に染み込んでいった。

もう、ダイジョウブだよ…




『…ちょっと、サトシ。聞いているの?』
「あ…?」
『…だからね。大変なのよ。見つかったのよ!カナさんが遺体で発見されたのよ。それで、こっちは大騒ぎよ。アンタには辛いでしょうが、もう、7年過ぎたんだからね。気をしっかり持つのよ』

電波にのった母親の声の99%は、携帯電話を逆さに持っていることに気付かなかったサトシの耳を素通りし、柔らかなシーツに溶け込んでいった。

そして、1%は、

ナナ…

「サトシ〜。たまの休みぐらいどこか行こうよ」
サトシは体を揺り起こされた。

「ジュン…?」

「ジュン?ジュンって誰よ!どこの女?」

瞼を開くと頬を膨らませたヒカルがサトシを覗き込んでいた。
ヒカルはそんな子供っぽい仕草をよくしていた。
すぐに怒るが、すぐに忘れる。
熱しやすく冷めやすい便利な性格だった。
だから、三ヶ月ももっているんだ。

ヒカルはいつまでも起きないサトシにムッとしてテレビのボリュームを上げた。

『…で発見された遺体は既に白骨化しており、警察では7年前に行方不明になった桜井加奈子さんと断定。事件事故の両面から捜査を開始…』

「かわいそう。7年間も見つけて貰えなかったんだね」

ヒカルはテレビに映った未だ高校生のカナの顔写真を気の毒そうに眺め、サトシを振り返った。

「サトシ?…どうしたの?泣いているの?」
オロオロとヒカルはサトシの肩に手を触れた。
「サトシ〜。どうしたの。どっか痛いの?」

サトシの涙は止まらなかった。
壊れた水道管のように止めどもなく溢れ出す。

「サトシ…」
子供のように首を横に振るサトシをヒカルはそっと抱き寄せた。

「…サトシ。ダイジョウブだよ。ダイジョウブだから…ね」
暖かなヒカルの体温が伝わってきた。

『…次のニュースです。1週間前、フランスの航空会社で決裂した労使間の賃上げ交渉が成立し、1週間に及ぶストライキがようやく解除された模様です…』

サトシはハッと顔を上げ、部屋を見渡した。
「ジュンは?」
ヒカルは、微笑んだ。

髪に触れるヒカルの手の感触。
耳に吹き込まれた囁き。
「ダイジョウブ。泣かないで。サトシ」

ヒカルには、たまに、何かがのり移る…

「ジュンは、ダイジョウブだから…」



そうか…、ジュンは、お母さんに会えたんだね。


溢れる熱い涙も、

窓から漏れる朝の眩しい光も、

心臓の鼓動も、

体全体に感じる…
明日へと続いていく…



















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