例えばそれは、秋になった日の早朝の匂いに似ている。
瞼まで広がるようなその空気を、言葉に表すのが勿体ないから私はすーっと息を吸い込む。
どれだけ大人になっても、なるべく覚えていられるように。
そんな時の心は少しだけ、もどかしさにも似ている。
言うなればそれは、日が暮れた夏の日のほんの一時に似ている。
蛙と蜩が泣いて、ブラウン管からは笑い声が聞こえてくる。
網戸からは川の香りを含んだ風が入り込み、汗をかいた身体に触れる。
そんな心の中身を言葉にするのは勿体ないから、私は三角座りをして膝小僧に頬を乗せる。
瞼を閉じれば、髪が膝を優しく撫でる。
どうか忘れませんように。
それは高校時代のふとした帰り道に似ている。
いつもの河川敷を自転車で走る、そんな一時にふと感じた想いに似ている。
家のドアを開けるとそこにはきっといつものように母が居て、ベージュのエプロンを付けている。
夕飯の匂いがしている。
それは痛いぐらいに儚い感情だから、私は何も言葉にできず夕日を見ながらゆったりとペダルをこいだ。
それは孤独に溺れる日々とは程遠い。
寂しさ故に誰かを利用したりはしない。
悲しいぐらいエゴに塗れた私とは全然違っている。
そんな時間とは全然違う。
それは穏やかな春の日。
薄手のカーディガンを羽織って光を噛み締める。
太陽の暖かさが冬に冷えきった指先を温めて、爪の先まで血が行き渡っていく。
木々の新緑は揺れて、少し涙が出て来そうになる。
それはスーパーで食材を選んでいる時。
私は今晩の夕食を頭に想い浮かべる。
誰が食べてくれなくとも、心がその感情で満たされていればそれでいい。
今この時、それをいつか思い出せるならきっと時間は永遠になる。
みずみずしい野菜の皮膚を手のひらで感じる。
生きているのだと感じる。
それは何かを残そうと必死になっている時間とは違う。
もっと自然体の私で感じられるもので、ちゃんと周りが見えている。
だからとても有り難く。
だからとても温かい。
何があっても自分を好きでいたいと思えるから。
だってそれは、姿見に写された自分に見惚れる僅かな一時にも似て。
太股から膝にかけての形が、なんだか嬉しくて笑っているような気がする。
ストッキングが破れてしまっても、そこに居る私はキラリとする目を細めて微笑んでいる。
これからの未来に、安寧と煌めきを。
なんの根拠もなくそれが叶うような気がしてとても穏やかで。
ふわりと身体を一回転させて、私は今の自分をそこに焼き付けた。
私が恐れて震えてしまうのは、それがとても気紛れだと知っているから。
弱くて脆くて危うくて。
昔作った紙粘土の人形がボロボロと崩れていくのと同じで。
頑張っても足掻いても、私自身には止められない。
それがここから見える大きな駅の向こうに沈んで行くのを、追いかけることはできない。
それはあの日貴方と見た景色に近い。
肩と肩のほんの小さな接点から伝わる貴方の温もり。
それから先の黒い未来など、遠く遠くあの山の向こうで。
全く関係のない事だった。
貴方の横顔が優しく、私のもきっと優しく。
時折離れてはまた触れる、僅かな接点が柔らかく。
そのような時間を、私はちゃんと生きていた。
無力な自分を感じる時に、それがいつかどこかで私を待っていることを忘れてしまいそうになる。
私は情けないんだと、痛い程に知っているから。
何もかもが真っ暗になり。
何もかもが面倒になり。
だけどそれはヒーローのように私をそこから救い出す。
得体の知れない空気のようなもの。
風邪を引いた私を、その苦しみを治してくれる。
それは彼や彼女の美しい髪の毛や、真っ白な八重歯、細い爪をした華奢な指先のようなもの。
私は信じられず、高鳴る胸を手の平で制する。
そこには確かに神が居る。
雲間から差し込む光の中には、私の愛した全ての物達がまた私に向かって降り注ぐ。
どうか泣かないで。
明日の私よ、どうか泣かないで。
全てが消え失せて、瞳に力が無くなったとしても。
どうかどうか泣かないで。
それはまたいつか、ふとした瞬間に私を温めてくれるから。 |