しんしんと降って(プラスワン)
夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。
一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。
音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。
男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。
力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。
―――――――――――。
「ってな、昔は本当に可愛かったんだ! あの頃のリサはまるで雪の日に舞い降りた妖精のようで可憐で可愛く……オレが、このオレが守らなきゃいけないって、そう思ったんだよ!」
「はいはい」
木製のジョッキを片手に熱く息巻く男を横目に、私は自分用のグラスを傾ける。
強い酒精でごまかした果実の微かな香りが鼻に触れ、後はそんな事どうでもいいと言わんばかりに訪れる焼き付く様な熱い喉越し。区切られた窓越しに見える闇夜を舞う細かい雪は周囲の寒さを増長させ、こんな日は熱いくらいの酒に限ると心から思えた。
隣に腰掛ける人物が何度も聞いたような自分語りを繰り返さす騎士団長ですらなかったならば……
「リサはなぁホントいい子だったんだよ。苦しい身の上なのに泣き言ひとつ言わず、笑顔で健気で」
「……今だって泣き言ひとつ言わないでしょ、彼女が泣いたのなんて見た事ない。それによく笑ってますし」
「あれは笑ってるって言わないんだよ! あれは健気じゃねぇ、オーガの微笑みって言うんだああいうのはっ」
「……はぁ」
身元不明。記憶不在。自分が何処から来たのかも分からない。
異国の風情漂う【迷い人】の女性をこの団長が保護したのは今から4年も前の事になる。右も左も分からない彼女を保護したのは騎士団長ユン・リグレーは彼女の事を大変気遣った。
それこそ仕事の合間もその人の事が忘れられないようで。『最初の発見者だから仕方ない』とよく言い訳を言っていた事を覚えているがそれが嘘だと言う事はよく分かっている。
その翌年団長と【迷い人】の女性リサは結婚し、団長はより強く彼女を守ろうと意識した……しかし、時間の流れというものは時に残酷で、最初の出会いから既に4年が経った今では立場はむしろ『逆』になっている。
「なんでっオレが少ない小遣いでやりくりしなきゃいけないんだ! 稼いでいるのはオレだぞ、養ってやってるのは俺の方なんだからなっ……なんだ、から、ぐす」
「はいはい、分かりました分かりました。泣かないでください」
「う、ううう」
――彼女はたくましい……たくましすぎた。団長と結婚し、晴れてリサ・リグレーを名乗るようになった彼女はこの街で大層元気にやっている。……それはもう休日になれば家で寝ている団長を竹箒でしばき起こす程元気であり、騎士団の若い連中を連れたまにはイケナイ夜の町に出掛けようとすればどこからともなく幽鬼の如く現れる程元気であり、団長がこっそり隠していたヘソクリを『家計の為にありがとう』と素晴らしい笑顔で略奪していく程元気なのだ。
若干、団長を不憫に思ってしまうのは仕方ない。
「う、うう、分かるだろ? 俺の苦労。……そりゃ昔はな、本当に可憐で可愛くて何処かの深窓の令嬢のようだった。それが、今ではなんだ! デカイ酒樽は片手で持ち上げて、『この剣、重心ちょっと曲がってない?』とか言ってオレの剣を勝手に振り回し、挙句の果てに俺の大嫌いな野菜ばかり弁当に入れやがる、くうう!」
「……ご愁傷様です。でも団長、子供じゃないんですから野菜くらいキチンと食べ――」
「お前はリサか! あああああ!?」
「……目、大丈夫です?」
日頃から不憫で苦しい生活をしているそんな団長が、久しぶりに飲みに行けると言うから付いて来たのだが、これは……予想以上に酷かった。影では白き剣聖、国の守り手と噂される団長も、リサが関わると普通の人のように……むしろ普通の人以下の人間のように見えてくる。
私は口内に残るわだかまりを酒で洗い流し、せめて今日くらいは付き合って上げようと浮かべた笑顔で団長を見る。
「まぁ今日は飲みましょう、こんな雪がひどい夜です。飲んで温まって、それで嫌な事なんて忘れてしまえばいい」
「っ、ふ、副団長……お前っ!」
「はい」
「お前はリサじゃ、リサじゃないんだなぁ!」
「……酔い覚ましに水を掛けて上げましょうか? はい」
泣き崩れうっとうしくしだれかかってくる団長を手で押し退け、必死な作り笑いが崩れないように気を付けカウンターから身を乗り出す。すぐ近くに居た酒場の店主を呼び止めると追加の酒を一つか二つ。
ついでに何かツマミでも頼もうかと思案を始めた所で、それは急に襲ってきた。
腹の底から何かに鷲掴みにされたような強い悪寒。熱い酒の周りが一瞬で冷えたかのような錯覚に乗り出した身体は椅子へと戻り停止して。
「ア……ナ……タ?」
「ひっ」
……その時聞こえてきたそれは。まるで地の底から響いてくるような悪魔の言葉。
抑え切れない怨嗟と怒気をそのまま形にしてしまったかのような地獄のような響きに溢れ出す冷や汗が止まらない。
カタカタと聞こえてくる妙な音に目を向ければ横に座る団長の顔が瞬時に青ざめ大きく開き切った口にこの世の終わりでも訪れたような形相を浮かべている。呼び止めてしまったが為に近くに立っていた店主も同様だ、ザッと後ずさり蒸留酒が並んだ棚に背を張り付けるとわなわなと震えだす。
私は。決して振り返らないことを心に決めた。
「どうゆう、こと? 今日は騎士団の特別訓練、でしょう?」
「い、は、ふっ、リ……リリリリサ! あの」
「……帰るわよ」
「はああああ! 待って、待ってー、ぎゅおっ」
「…………」
……何が聞こえたとしても、私は決して振り返らない。
背ろから伸びて来た女性らしい細い腕は団長の首根っこを掴み引き寄せ、引き倒し、引きずり落とし。そのままずるずると後ろに下がって消えていく。チラリと横に見えた団長の横顔が何かに縋るように助けを求めて来たが、私は意図して顔を背けて別の方向を見る。
――少し、飲み過ぎたかも知れない。
まるで遠くから知り合いの幻聴が聞こえてくるようだった。
『この裏切り者がぁ』と罵る言葉はきっと気のせい。
『助けて、助けてください! お願いします』と懇願する声も多分気の迷い。
ほら、幻聴である証拠に呻き声は次第に遠くなり、バタンという無慈悲な扉の音と共に完全に聞こえなくなってしまった。
残されたのは一人で酒を傾ける私と、今では尋常じゃなく震えてしまっている店主のみだ。
「あ、ぁ、ユン、団長が……」
……まさか店主にもあの『幻聴』が聞こえたのか。
仕事中に酒を嗜めるとは決して褒められた事ではないが、まぁ今日くらいは大目に見て上げてもいいだろう。私は何もかもに気付かなかったように前を見て
「ふぅ」
小さく、息を吐く。
……さすがにまずいか。
手に取ったジョッキを傾ける事なくそのまま机に戻すと、ゴトリという音と共に今は亡き団長の最後の姿が想い出される。
確かに飲みに行こうと最初に言い出したのは間違いなく団長だ、しかし分かっていてそれに乗ってしまったこの私にも多少の責はある……あの底冷えするような怨嗟の言葉をもう一度聞きたいとは露とも思わないが、それでも勇気を出して踏み出さなければ行けない、今がその時と思えた。
「……」
あくまでも、冷静に。
飲みに行こうと言い出したのは団長ですからという理由を前面に押し出し、遠まわしなフォローで助けて差し上げる。それが現騎士団副団長のこの私の役目だ。
「店主、私は少し席を外します」
「えっ! 副団長、アンタ!?」
「……損な性分でしょう? ですがね、ここで恐れを抱いて尊敬する人を見捨てるなんて……そんな人間になるより百倍マシなんだ」
「ふ……ふくだんちょおおお!」
「止めるな」
私は席を立ち、傍の椅子に掛けておいた外套を上から羽織ると走り出した。
体躯のやたらといい団長を引きずって、しかも雪降る中での大行進。例え傑人リサ・リグレーとはいえ一足で家に帰れるとは到底思えなかった。
細かく羽毛のような雪が振り、それを彩る街灯の光が明るく照らす。共に白い光でありながら反響し合う白の重なりに目に映る街の景色は昼間とは大分違って目に映る。街中を行き交う人の数も少なく、薄雪を踏み抜くように走って追い掛ければやがて目的の二人の人物が視線の先に見えてきた。
赤レンガの古い建物の壁に団長が背中から押し付けられていた。
前方から覆い被さるように詰め寄っているのは彼女……これは腹に蹴りを入れる一歩手前か、顔に手形を残す数秒前か、あわやという場面に出くわしてしまい気持ちは焦ったが、どうやら二人の雰囲気は少し違うようだった。
「ひどい、今日が大切な日って分かってた癖に」
遠く聞こえて来たこれは彼女の言葉。
「ごめん、本当に気付かなかったんだ。オレが馬鹿で」
それに答える団長の言葉はやけに神妙だった。
「バカ」
「……ああ」
「バカッ」
「ああ」
「……バカ」
「……すまない」
二人の吐き出す白い吐息が互いの開かれた距離の中で混ざり合う……その隙間すら惜しいと言わんばかりに言い募るリサが団長の胸に飛び込み、迎える団長も彼女の背にそっと手を伸ばした。
接近する二人はお互いの顔を強く見つめ、吐き出される息はより近く、より傍で混ざり合い、やがて、距離はゼロになる。
「愛している、リサ」
「ど、どうでしたか団長は!」
酒場へ戻り、元居たカウンター席に腰を下ろせば心配そうな顔をした店主がすぐに寄ってきた。心から気が気じゃないという様子のいい年をした男を見返し、僅かに痛むこめかみを感じながら質問に答えてやる。
「団長は死んだよ」
「えええっ」
「あと、神も死んだ」
「え、うええええ!」
「くっそ! いいから酒持ってこいよっ、今日はとことん飲んでやるからな!」
こんな雪がひどい夜。とにかく飲んで嫌な事なんて忘れてしまった方がいいんだ……そうに違いなかった
――――――――。
「少し、飲みすぎたか」
酒場を後にし覚束無い足取りで私は歩く。
夜半に降り出し薄く積もった雪は一歩進むごとにシャリシャリと小さな音を立て、目に映る景色全体がまるで薄衣を掛けたようにうっすらと目に入る。
私は副団長をしているからと収入に余裕はない。なるべく安く、住みやすい家をと探した結果、住処は街中でもかなりの外れになり、街灯も補整された道も帰り道の後半には何も無くなってくる。
それでも迷わず家へと帰れるのは白雪自らが放つ不思議な明るさと飲酒による一過性の身体の暖かさによるもの。飲み過ぎによりやや視界がぼやけるといっても、普段から鍛えている為そこまで酷くはなく、道を踏み外さないように慎重に歩いていると道端の一角、少し高く積もった雪の中に『何か』が見えた気がした。
「なんだ」
疑問に細めた目に映ったのは雪の塊の塊の中から飛び出した数本の、髪。
金糸の如き光を放つ髪の束が目に入った瞬間、私の鼓動は数段跳ね上がり脳裏を……非常に嫌な予感が駆け抜けた。
「ひ、人!? 大丈夫か!」
周囲の目も忘れ、大袈裟に上げる声が辺りに響く。
音すらも包み込むような静かな雪の中、走り出す足に合わせ外套の装身具が冷たい音を掻き鳴らす。
雪の塊に到着し冷たい白亜の中に腕を突き入れると、耳が腐る程聞いた団長の思い出話しが思い出された。確かにこんな、こんな風な状況だったはず。
掻き分ける雪の奥に目的の相手が見えて来て、それが何かか分かった時。私は息を確認するのも忘れしばし呆然とした。
小さな身体。少し青褪めたような顔に血の気はなかったが、少なくとも生きている。
それは、犬だった。
「は、ははは……」
一瞬脱力し掛かったがそんな場合でない事も思い出す、急がなければ――。
差し伸ばした腕で犬の、金色の体毛を持つ子犬の下へ腕を差し入れると体重はひどく軽く、その軽やかさが余計に私を不安にさせた。
開いた外套の中へと犬をしまい込み力強く抱きしめて雪を踏む、家へと急ぎ走り出す私の顔に、微かな笑みが宿った。
……先程のような呆然とした笑みじゃなく、どちらかと言うと愉快な、微笑ましいものを見たような笑い顔が。
「私は団長になれないな、こんな私にはお前の方がお似合いだよ」
ク くぅ
「死ぬなよっ」
しんしんと雪が降る。
薄く白い絨毯を引いたような真っ白な道を。
行きとは違いプラスワンとなった私は急ぎ足で駆け抜けていった。
【次回予告】
雪の降る日に拾った犬は、ただの犬じゃなく幸運の使い!?
女っ気のなかった副団長に突如として降り掛かるフラグの連続。行きつけカフェテリアの女性店員、気になる新人女騎士、関わるはずの無かった貴族の令嬢、ワンワンショップの年上女性。右も左も分からぬ犬の子育てに鍛えた剣の腕なんて通用しない、たった一匹のワンちゃんプラスであわあわしまくる副団長の明日はどっちだ!?
次回、しんしんと降って(プラスワン)『犬を飼っている騎士とか駄目ですか?』で、またお会いしましょう!サヨウナラ!
えっ、これ短編小説だから次話がない? あ、ふーん(察し)……メリークリスマス!