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呼吸の音

作者: 山田さん

一人称と三人称の間を曖昧にした作品を作りたいと思い、書いてみた掌編です。

 彼女の顔は見えない。

 ベッドは薄暗い部屋の奥に置かれており、彼女はそこで死を待っている。

 これ以上、彼女に近づくことは許されておらず、かすかな呼吸の音と、途切れ途切れの話の内容を何とか聞き取ることが出来る、ぎりぎりの距離に私は座っている。


 こんな島に来るんじゃなかったわ、と私は思う。

 漠然と憧れていた一人旅の先に私が選んだのは、私の国から飛行機で三十分程の小さな島。

 片言でなら、私の国の言葉も伝わるし、新鮮な魚をメインとした食事は抜群に美味しい。

 それに、誰も私のことを知らない。

 誰からも干渉されないし、誰も私のこれまでの人生を知らない。

 私はここでは完全に独りになれる、そう思っていた。

 それなのに、私は今、私と同じ国からやってきた見ず知らずの女性の最期の言葉を聞くはめに陥っている。


「スミマセンデスガ、トツゼンノネガイ、ココログルシイガ、ツイテクルコトネガイマス」

 宿泊しているホテルのマネージャーが直々に私の部屋に訪ねてきた。

 片言の言葉が私の微睡の邪魔をした。

「アナタトオナジクニノヒト、シニカケテル、カノジョノサイゴノハナシ、キイテクレナイカ」

 断る隙も与えられないまま、半ば強引に、私は死にかけているという私と同じ国の女性の部屋まで連れてこられたのだ。

「ソコカラサキニハ、チカヅカナイヨウニ、ネガイマス」

 マネージャーは、ベッドから少し離れたところに置かれている椅子を指さし、私に座るように促すと、軽く頭を下げ、部屋を出て行った。

 私は椅子に腰をかけ、奥のベッドを見た。

 横たわっている彼女の姿が、かすかに認識できる。

 ぼやけた影にしか見えないが、弱々しい息をするたびに、毛布に覆われた彼女の胸のあたりがかすかに波打っていた。

 死にかけている女性は、私の存在に気が付くと、私が誰なのか、言葉が通じるのか、ましてや男性なのか女性なのか、何も確かめることもせずに、自分のこれまでの人生を語り始めた。


 私はまだ眠気の残る気分のままでいた。

 異国のホテルで、死にかけている同じ国の女性が目の前にいる。

 女性は自分の今までの人生を私に語りかけている。

 私を取り巻くそんな現状そのものが、夢の中の出来事のように思える。

 私はまだ夢を見ているのだろうか。

 異国のホテル、死にかけている同じ国の女性、そして私……。

 だが、彼女の話が進むにつれて、私の意識はどんどんとはっきりしてくる。


 大まかな彼女の人生……決して楽しい人生を歩んできた訳ではないことを示唆する程度に大まかな内容……から始まり、やがて彼女の父親、母親の名前が告げられた。

 その時点で薄い霧が覆いかぶさっていたようなぼやけた私の意識に、小さな亀裂が走った。

「こんな偶然ってあることなのね……」

 それはまだ軽い驚きだったのが、彼女の兄、小学校時代の担任の先生、中学時代の初恋の相手、初めてのセックスの相手、そしてもう離婚してしまった夫、それらの名前が次々と羅列されていくにつれ、軽い驚きは驚愕に変わり、それが恐怖に変貌するのにそれほどの時間は必要なかった。

 その恐怖は訳の分からないものでもあるようで、それでも身近な、まるで母親の羊水の中にいる頃からずっと私に取り憑いていた恐怖でもあるようだった。

 私の恐怖は私の体を離れ、ベッドに横たわっている彼女の、かすかに上下する毛布の下の胸のあたりを漂い、いつしか死にかけている彼女と同化してしまったかのようだ。


 彼女の話は続く。

 名前の羅列が終わると、生まれた時から今までに、彼女の身に起こったいくつもの出来事が淡々と語られ始めた。

 生い立ち、貧乏でもないけれど決して金持ちでもなかった家庭、まだ痣が残っている事故のこと、友達と上手く過ごすことが出来なかった学生時代、惰性で通っていた職場、夫の浮気が原因となった離婚。

「なによりも一番つらかったのは、赤ちゃんのこと。やっと授かったのに私はその赤ちゃんを流産してしまったの……。きっとそんなことも夫の浮気に繋がったのかと、今となってはそう思っているの」

 流産してしまったその子に付けるはずだった名前が彼女の口から告げられた時、私の恐怖は頂点に達した。

「そしてわたしはいま、この異国の地で命を終えようとしているわ」

 それが彼女の最期の言葉だった。


 彼女の話が終わった。

 私は身動き一つ出来ずに、椅子の上で固まっていた。

 冷たい汗がすーっと背中を流れていくのが判る。

 開こうとしても、私の手は鍵を掛けられたように握りしめられたままになっている。

 見つめていたはずの彼女の横顔が、もうどこにも確認できない。

 毛布の下にあるはずの彼女のかすかに動く胸が確認できない。

 彼女はどこにいったのだろうか。

 それとも最初からそこにはいなかったのだろうか。

 私は……私は……ここにいるのだろうか。

 そもそも私は一人旅などしたのだろうか。

 飛行機で三十分のところにこんな島があっただろうか。

 ホテルは……マネージャーは……昨晩食べた美味しい魚料理は……。

 みんな、本物だったのだろうか。

 呼吸の音だけが真実の証のように、耳の奥から響いてくる。


 彼女が話したのは、それは紛れもなく私のことなのだ。

 父親の、母親の、兄の名前、私の生い立ち、家庭の事情、少女時代に遭遇した事故……痣はまだ残っている……、あまり楽しくもなかった学生時代、悲観に暮れることが仕事のような今の職場、失敗に終わった結婚生活。

 そして生まれてくるはずだった私の赤ちゃんが名乗るはずだった名前。

 彼女の口から語られたのは、何もかもが、些細な事柄から大きな出来事までが、全て、紛れもなく、この私の、人生そのものだったのだ。


 薄れていく私の意識の中で、かすかに聞こえていた呼吸の音が途絶えた。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  宿泊先のホテルの一室での出来事が、現実なのかそうでないのか、とても不思議な余韻を残す物語でした。  『私』と『彼女』の境界がだんだんとぼやけてきて、最後に途絶えた呼吸の音がどちらのものだ…
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