第三章プロローグ・北欧に語り継がれし悪神
近衛茉莉は神代怜悧の大学時代からの親友である。怜悧は生物工学、茉莉は電気工学を専攻していたが、天原考司郎の情報工学の授業を二人とも取っていた事で出会った。怜悧の名に恥じない優秀さは、人生で一度も人を愛した事が無かった茉莉の心を奪った。やがてストーカーまがいの事もするようになったが、怜悧はしばらく彼女に興味を持たなかった。それが変わったのは茉莉の研究分野が、人工知能についてだった事を知ってからである。彼女の研究発表を聴いた怜悧は、茉莉を天才だと認め、興味を抱くこととなった。二人は度々意見交換を行うようになり、互いに有意義な時間を過ごした。
変わり者の天才美人女子学生二人が仲良くしているという話は、大学中でも広く知られることになった。そこで彼女達に興味を持ったのが天原である。彼は二人の意見交換に加わり、更にハイレベルな議論を繰り広げた。やがて天原は彼女達にかねてより考えていた『コロニー・ワールド計画』について話し、研究メンバーとして勧誘した。怜悧は快諾し、茉莉もそれに追従した。
その後『コロニー・ワールド計画』は始まり、その最中に怜悧が聖騎を身籠り、出産した。茉莉は彼女を研究に専念させるべく代わりに聖騎を育てる事を申し出て、怜悧は迷いなくそれを任せた。やがて自分達の研究の後を継ぐ者として厳しく育てたが、怜悧の血を受け継ぐ彼は茉莉が与える試練を乗り越えていった。
聖騎が小学生になってからは、茉莉も研究に少しずつ復帰するようになった。しかし茉莉にとって聖騎は、敬愛する怜悧の子供であり、尊敬の対象である。料理は最高級の素材をもって良い物を作り、彼が何かを求めれば何でも買い与えた。彼が興味を持ったのは神話。本に綴られた神々の活躍に、彼は心を踊らせていた。
茉莉の主な仕事はこの世界と異世界とを結ぶ『繋世ゲート』の調査。世界各地に送った部下の報告を受けて、ゲートが発見された場合はそこに向かい、その条件などを調べている。そして、かつて茉莉がドイツに出現したというゲートを調査しに行ったところで出会ったのが、ゲオルク・ボクスベルクという民俗学者である。
「天振学園より参上致しました。近衛茉莉です。ボクスベルク博士」
「ああ、待っていたぞ。近衛博士」
ゲオルクの研究所に行った茉莉は、流暢なドイツ語で挨拶する。彼女がここに来た理由、それはゲートを使った彼の実験の手伝いをするためである。
「世界の電子化か。私達が支配出来るようにするためとは言え、あまりやりたくは無いのだがな。私としてはそのままの世界を観察したい」
「現在の私達の技術では、これしか方法が無いのです。申し訳ございません」
「いいや、謝ることはない。門外漢である私にはどうすることも出来ないのだからな。むしろ、こういった機会を与えられている事を感謝している」
「恐縮でございます。では、始めます」
そう言った茉莉は室内にある機械に触れ、様々なボタンやレバーを複雑に操作する。そして、その機械に接続されたキーボードを高速で叩き、データを入力する。踊るようなその指先は一流のピアニストのものにも劣らない美しい動きを見せていた。
「AKコード入力完了。コントローラ正常動作確認。システムオールグリーン。CWプログラム、任意のタイミングで起動可能です」
「では、頼む」
スラスラと唱える茉莉にゲオルクは許可を出す。
「了解。CWプログラム、起動」
茉莉はスイッチを押す。モニターでは慌ただしく無数の0と1が切り替わる。
「CWプログラム起動確認。AKコード変換確認。コロニーワールド0216電子化作業開始。完了まで、残り168時間29分27秒」
「後は待つだけで良いんだな?」
「はい。しばらく私達がすることはありません」
ゲオルクの確認に茉莉は頷く。するとそこに声がかけられる。
「へぇー、面白そうなことしてんじゃん」
ゲオルクと茉莉は声のする方に首を向ける。そこには中性的な顔立ちの、どこか古めかしい服装の青年がニヤニヤと笑って立っていた。ゲオルクは尋ねる。
「誰だ、お前は?」
「えー、知んないの? マジ傷付くわー。お前ならオレについても色々詳しいと思ってたのに」
「な、何の話だ?」
軽薄な様子の青年にゲオルクは戸惑う。この青年に彼は見覚えがない。青年はスタスタとゲオルクに近付いていき、彼の左から右手をのばして右肩にポンと乗せる。
「ま、仕方ねーか。じゃあ自己紹介するぜ」
青年はゲオルクの顔の左に己の顔を乗せる。そして、耳元で囁く。
「オレはロキ。アースガルズからやってきた神様だ」
ロキ――北欧神話に登場する悪神の名にゲオルクは鼻で笑う。
「ハッ、下らん。神が何故こんなところにいる」
「いやー、神なんてそんなに珍しいモンでもねーぜ? そっちのねーちゃんはオレ以外の神を知ってんだろ?」
ロキが茉莉に聞くと、彼女は頷く。
「はい、存じております」
「なっ……!」
ゲオルクは絶句する。彼は茉莉が冗談を言う性格では無い事を分かっている。そして民俗学を研究している彼としては、その言葉は聞き捨てならなかった。そんな彼を無視してロキは話す。
「お前らが異世界を神気取りで観察しようとするみてぇに、お前らの世界を観察する神ってのもいる訳よ。それがオレ達。アースガルズとかタカマガハラとかヘリオポリスとかオリュンポスとか、色んな世界から神と呼ばれるに値する者どもが、色んな世界を見て、たまーに干渉するのよ」
ロキはゲオルクから離れ、茉莉の下へとカツカツと音を立てて歩いていく。
「そんで、オレはこの世界の連中に目を付けた。神に劣る劣等世界の住民が、他の世界を見下して神の真似事をしてるのが滑稽でな、思わず――」
ロキの言葉は、茉莉の手刀が彼の喉元に迫ったところで止まる。
「この研究を愚弄することは私が許しません」
「おー、怖い怖い。まあ落ち着け、オレはお前らの事、結構気に入ってんだぜ?」
茉莉は手刀を取り下げず、ロキを睨みつける。
「では、あなたはどのようなつもりでこちらへいらしたのでしょう?」
「単刀直入に言えば、お前達の研究を見てたい。ただ、それだけだ」
ニヤニヤと笑いながら告げるロキ。茉莉は彼の真意が読めない。
「信用できませんね。北欧神話のロキは人を騙すことで有名ですから。あなたが本当にロキなのかは置いておくとしてもです」
「そりゃーそうだろうな。だが、お前らに拒否権があると思うか?」
いつの間にかロキは茉莉の正面から消えていた。そして茉莉の背後に現れる。
「なるほど。抵抗は無意味。人間は神には抗えないという事ですか」
「物分かりが良くて助かるぜ」
ロキは妖しく笑う。ゲオルクは腰を抜かしていた。そして茉莉は考える。
(神話でのロキは、光の神ヘイムダルと相討ちとなっています。このロキが本物だとすると、神々の黄昏が起きる前の時系列からやってきたのか……それとも、神話にあることは出鱈目だったのか……)
「もしくは、一度死んだ後転生したのか、とかな」
思考を先回りされて茉莉は不機嫌そうになる。
「では、約束してください。決して、私達の邪魔はしないと」
「良いぜ。……つっても、信用はしてくれねーんだろ?」
その問に茉莉は無言を貫く。
「ま、よろしく頼むぜ、近衛茉莉」
ロキはやれやれと首を振り、そう言った。