第五章プロローグ・異端者の過去
ドイツ某所の研究所近衛茉莉とゲオルク・ボクスベルクは、北欧神話で語られる悪神ロキの企みの手伝いをしていた。とはいえ、四六時中作業をしている訳ではない。現在は休憩中だ。糖度の高いカフェオレを口に運ぶ茉莉に、ロキは話し掛ける。
「そういやさ、お前が育てたっつー神代聖騎。どんな奴なんだ?」
「どうせ私の考えなどお見通しなのでしょう?」
相手が紛れもない神であることを知りつつも、憮然とした態度の茉莉。ロキは不満そうに言葉を返す。
「オイオイ、つれねーなー。折角なんだからコミュニケーション取ろうぜー。コミュニケーションが必要なのはどんな世界でも、どんな種族でも共通だぞ?」
「コミュニケーションを取ろうと取らなかろうと、あなたとの関係が円滑になるとは思えませんので」
「お前ホント神相手に良い度胸だよなー。抱きたくなる」
「残念ながら、私には愛する方がいますので浮気するつもりはありません。ましてやあなたになど――」
相変わらず淡々と茉莉が話していると、ロキの姿が突如神代怜悧の姿に代わる。
「これでも駄目ですか? 茉莉」
任意の生物に化ける能力を持つロキは、声も口調も怜悧のものに変えて茉莉を誘惑する。服装もいつもの古めかしいものから、研究者らしい、怜悧のトレードマークである白衣姿になっている。茉莉は不快げに表情を歪める。
「今すぐ止めなさい」
「こえーこえー。だがそれがいい」
ロキは変身を解除して、元の中性的な青年の姿に戻り、楽しげに笑う。それを呆れた様子で茉莉は見る。
「本当に不快な存在ですね、あなたは」
「昔オーディンにも似たような事言われたぜ……。話は戻るけどよ、神代聖騎ってどんな奴なんだ?」
再びその質問をしてきたロキに、茉莉はため息をつく。そして諦めたように首を縦に振る。
「仕方ありませんね。聖騎様は簡単に言うと、この世界で一般的だとされているものとは違う価値観の持ち主です。それが血筋ゆえか私の影響によるものかは不明ですが、随分と捻くれて育ちました」
話し始めた途端に普段無表情な彼女の口がどこか優しげに綻ぶが、それに気付いたのはロキだけだった。しかし話が止まるのも面倒なので、彼は茶々を入れる事なく話を聞き続ける。
◇
神代聖騎は幼少期から「変わった子」と評される事が多かった。およそ10年前の、蝉がやかましい夏の日の幼稚園からの帰り道、聖騎はメイド服を着て隣を歩く茉理に質問をする。
「ねー、まつりさん」
「何でしょう、聖騎様」
茉莉は聖騎の母である怜悧を崇拝している。それ故に怜悧の血を継ぐ聖騎も彼女にとっては敬意の対象であり、まるで王族にでも接するように振る舞っている。幼さ特有の可愛げな顔に痣ができ、その上絆創膏が貼られた少年は、純粋な疑問を尋ねる。
「なんでカブトムシをやっつけちゃダメなの?」
そう聞く聖騎は無表情だ。この日幼稚園では聖騎と同じクラスの子供が自慢げにカブトムシを幼稚園に持ってきており、虫かごから出しては友人達に自慢げに見せびらかしていた。その後カブトムシは手を離れて飛び出し、聖騎の左肩に止まった。不快感を覚えた聖騎が手加減なしで振り払うと地面に叩き付けられ、自慢の角が折れると共に内臓をぶちまけた。そのグロテスクさに子供達――主に女子は泣き喚き、飼い主の少年はしばし呆然とした後に怒り、友人達と共に聖騎を罵り、暴力を加えた。騒ぎを聞き付けた先生により騒動は収まるも少年たちの怒りは晴れず、わだかまりを残した。幼稚園に迎えに来た茉莉はその辺りの事情を先生から聞いて把握している。
「それは、やっつけられたら痛いからです。聖騎様も痛いのは嫌でしょう?」
「うん。いや」
無表情の中に僅かな笑みを浮かべて答える茉莉に、聖騎は顔の痣を撫でながら答える。そして、更に質問する。
「でも、せんせいはこのまえ、かをやっつけてたけど、いいの? かはいたくないの?」
幼稚園の先生が蚊を叩いていた経験を思い出した聖騎の質問に、茉莉は困りながらも答える。
「蚊は人間をかゆくします。聖騎様もかゆいのは嫌でしょう。だから、良いのです」
「でも、カブトムシもいやだったよ。かたでモゾモゾうごいて、きもちわるかったよ」
「……」
更に困惑する茉莉。この少年は気になったものを放っておけない性質であることを分かっている茉莉は、どのように誤魔化せばいいのか頭を悩ませる。すると聖騎は質問を重ねてくる。
「あと、さくやくんたちも、ぼくをいたくしてきて、いやだったよ。さくやくんたちも、やっつけちゃダメなの?」
「そう来ましたか……」
虫と同列にクラスメートの名前を挙げる聖騎。下手すればそのうち何の疑問も無く殺人を犯すのではないかと考える茉莉は、しばしの思考の後に、慎重に答える。
「そうですね……。蚊とカブトムシや人間との違いは、やっつけた方が良いと思っている人達が多数派……いっぱいいるかどうかの違いです」
「うん」
話の続きを促すように、聖騎は頷く。
「蚊は、やっつけた方が良いと思っている人の方がいっぱいいるので、やっつけて良いのです。ですが、カブトムシや人間はやっつけてはダメだと思っている人の方がいっぱいますので、やっつけてはいけないのです」
茉莉自身上手く説明できている自信は無かった。彼女の予想通り、聖騎は釈然としていなかった。
「わからないよ。なにがダメでなにがいいのか。なにがちがうの?」
「それは……今は分からなくても大丈夫です。ゆっくり、時間をかけて分かっていけば良いのです」
「じゃあ、もしもみんながぼくをやっつけたほうがいいとおもったら、それはしかたないの?」
「……」
茉莉はまたも絶句する。彼女自身、同性愛者である事が周囲に発覚した際に、周囲の総意によって迫害の対象になった過去がある。だからこそ、聖騎の言葉を否定できない。この世界は多数派の価値観こそが正義である、というのが茉莉がこれまでの人生から導き出した結論である。
「はい。仕方ありません。この世界で生きていく為には、みんなに合わせるのが頭のいい生き方です。そして、みんなに嫌われないように、やっつけた方が良いと思われないようにしなくてはいけません。聖騎様、カブトムシの事を咲哉君には謝りましたか?」
「……ううん」
聖騎は首を横に振る。
「そうですか。では明日の朝、咲哉君に会ったらきちんと謝ってください」
「でも、ぼくはこんなにいたいのに、さくやくんはいたくないんだよ?」
「ですが、大事にしていたカブトムシにあんなことをされて、咲哉君は嫌な思いをしているのです。嫌な思いをさせた相手には謝らないといけません」
「それが、あたまのいいいきかた?」
茉莉は全く反省していない聖騎に内心で嘆息する。同時に、この人の気持ちの分からなさは母親譲りのものだろうと思う。筋金入りだったそれを思い出し、改善は不可能なのではないかとすら思った。
「はい、その通りです」
だから、茉莉はただそれだけ答える。ここで口うるさく説教をしても何も響かない。だからせめて『頭の良い生き方』を自分なりに教えていこうと思った。ここまでずっと歩き続けていた茉莉は、後方から自転車のベルの音を聞く。振り向くと、自転車を漕いでいたのは若い女だった。前の籠には幼い少女が、そして背中には少女よりは年上の少年――件のカブトムシを持ってきた少年である国見咲哉が乗っていた。自転車は茉理と聖騎の横で止まる。茉莉が謝罪をしようとする前に、自転車の女は口を開く。
「ごめんね、聖騎君。ウチの咲哉がケガさせちゃって。大丈夫?」
女は心の底から申し訳なさそうに謝罪する。その背中の咲哉は複雑な表情を浮かべていた。
「だいじょうぶです。ぼくこそ、カブトムシをやっつけちゃってごめんなさい」
あからさまな棒読みで聖騎は謝罪の言葉を述べる。だがそれに気分を害した様子は無く、女――咲哉の母親は、後ろの息子へと振り向く。
「ほら、聖騎君謝ってるでしょ。アンタも謝りなさい。ビックリさせちゃってごめんなさいって」
「……」
咲哉は謝ろうかどうか迷っている様子である。恐らくは母親の説教を受けて自分にも非があった事を認めているのだが、素直に謝るのは恥ずかしいといったところだろうと考えた茉莉は口を開く。
「いえ、咲哉君が謝る必要はありません。カブトムシの事は私からも謝ります。ごめんなさい」
咲哉に目線を合わせた上で、茉莉は頭を下げる。感情表現が苦手なことを自覚している彼女の言葉だが、咲哉の心には響いたらしい。
「えっと……オレもわるかった。その、えっと……ゴメン」
正面の茉莉ではなく聖騎の方を向いて、咲哉は謝る。不器用ながらも、本気で申し訳ないと思っていることは茉理には伝わった。このまま順調に育てば人の気持ちが分かる、まっすぐな人間に育つだろうと彼女は思う。そんな感想を持たれている事などつゆ知らず、咲哉はためらいがちに右手を差し出す。
「えっと……オレと、と、ともだちになろうぜ」
それを見た聖騎は困惑しながら茉莉を見る。たまに鋭い所がある一方で、咲哉が何を求めているのかを感じ取れない鈍感さがあるこの少年に、どう言うべきか頭を悩ませる。自分が「手を取って下さい」と言うのは簡単だが、それは端から見ればやらされている感がある。
「……」
とはいえ聖騎も、そこまで勘が悪い訳でもなかった。戸惑いながらも咲哉を真似て右手を差し出すと、咲哉はその手を掴む。仲直りは果たされ、咲哉の母は感謝の言葉を残して自転車を発進させた。
「よくできました、聖騎様」
咲哉に一応ではありつつも謝罪し、握手を返した聖騎に、茉莉は労いの言葉をかける。すると聖騎は口を開く。
「さくやくんは……アレは、ぼくをいたくした」
その表情にあるのは狂気。茉莉は気付く。人の心が分からない聖騎は、自分が心からの謝罪をしていないと同様に、咲哉の謝罪も単なるポーズだと思っているのである。彼の中にあるのは相変わらず、自分を『いたくした』……すなわち、自分に不快感を与えた相手を許さないという感情。虫だろうと人間であろうと、自分を不快にした存在は平等に『やっつける』、それが神代聖騎という人間である。
心から聖騎と『ともだち』になりたいと言った、素直になれないながらも根はまっすぐな少年は、後に不良少年と呼ばれる事になるのだが、それはまた別のお話。だが、ただひとつ言えるのは、その原因には神代聖騎が関わっているという事である。
◇
「あー、人間にしてはなかなか狂ってんな、神代聖騎は」
茉莉の話を聞き終えて、ロキはパチパチと拍手をする。隣で話を聞いていたゲオルクも、茉莉の話における聖騎の異常さに腰を抜かしている。
「もっとも、今の聖騎様はある程度人の気持ちが分かるようになっています。不快感を与えた相手に報復をするためには、人の感情を読み取ることが必要ですから」
「その経験を活かして、今では異世界で貴族相手に絶賛腹芸中ってか。にしてもよ」
ロキの問い掛けに茉莉は眉をひそめる。
「何でしょう?」
「神代聖騎は自分に不快感を与えた奴を許さねぇってことは、奴を異世界に送ったお前含めた連中も報復対象なんだろ? そこんとこ、どう考えてんだ?」
ニヤリと笑ってロキは質問する。恐らく既に答えは分かっているのだろうが、仕方ないと思いつつ茉莉は答える。
「私が敬愛しているのは、あくまで怜悧様です。怜悧様と聖騎様が敵対するのであれば、私は近衛家の血にかけて、怜悧様をお守りします」
近衛家は京都の『組織』に古くから関わってきた家系であり、主を守る為に茉莉も幼少期から教育を受けてきた。組織を抜けた今では、家が想定していたのとは別の者を守る対象としているが、自分に流れる血には誇りを持っている。
「そうかよ。つーかお前の話では、さも自分は常識人みたいに言ってたけどお前もなかなかだぜ。なにせ、神代怜悧の腹の中にいたという理由で神代聖騎に嫉妬してんだからな」
「当然でしょう。愛する者と一体化したいというのは、人として当然の欲求です。ゲオルク様もへその緒を通して栄養を貰ったり、産道を通ってみたりして、愛する人の体の隅々を把握したいでしょう? それを自分以外の何者かが当たり前の様に実現しているとなれば、嫉妬の一つや二つはするでしょう?」
「いやそれはない」
恍惚とした表情の茉莉にゲオルクが突っ込みを入れるが、ロキは特に気にした様子もなく言葉を返す。
「ま、オレも結構長い間『神様』をやってるし、色んな愛を見てきてるぜ。こんなのショボいショボい」
「確かに、神話に描かれる神はアブノーマルな性癖の者が度々見られるな」
「神話なんて所詮人間が書いたモンだし随分とマイルドだ。お前ら人間には想像も出来ない様な愛が、神界では繰り広げられてる。実際の神は色々ヤベ―ぜ」
「うむ……知りたいような、知りたくないような……」
言葉では迷っているかのようであるものの、ゲオルクはロキの言葉に好奇心を刺激される。それを尻目にロキは話を戻す。
「とにかくだ、神代聖騎は『頭の良い生き方』ってのをするために自分を偽って生きてきたんだろ。自分なりに分析した『多数派』の意見に合わせた行動をして、『普通』になろうとした。まぁでも、自由に生きられないってのは疲れるだろう。自分に不快感を与える要因を排除したいと考えているんだろう」
「随分と、聖騎様のお気持ちが分かるのですね」
言葉を並べ立てるロキを不思議に思った茉莉はそう言う。
「まぁな。なんつーか、昔のオレに似てる感じがするからな」
「昔とはいえ神から自分に似ていると評されるとは、聖騎様も大したものです」
茉莉は無表情に呟く。それにロキは声に出さずに言葉を返す。
(もしかしたら、『ロキ』の後継者になる資格が有るかも知れねーからな)
彼はただ、いつものようにニヤニヤと笑うのだった。