上り線の少女
一
隣の線路に止まった電車のドアで、制服の少女が涙を隠した。
彼は、見てはいけないものを見てしまったと目をそらした。
なぜ、彼女は泣いているのだろう。
ここは、上下線が列車待ちをする駅である。それぞれのプラットホームを隔てて外側の線路を急行が追い抜いていく。だから、待避線に入った列車は、開いたドアの反対側の窓同士が向かい合う。
可愛い子だった。毎朝、通学時間が同じで、お互い同じ列車の同じ場所へ乗る。だから、気にはなっていた。
しばらくして、視線を戻すと、彼女のまつげはまだぬれていた。娘はちらりと目を合わすと、恥ずかしそうにほほ笑み、ハンカチを当てた。
彼も笑顔を返した。すると、勇気が出た。
〔なにが、悲しかったの?〕
ペン書きしたメモ帳を広げ、ドアのガラスに押し当てた。
彼女が、再びはにかんだ。
〔ひ・み・つ〕
少女もノートを出して、ボールペンを走らせた。
そのとき、がくんと車体が揺れてがして、列車が動き始めた。彼は後ろへ引かれ、よろめいた。
その格好を見て、彼女がまた笑った。
二
通学が楽しみになった。
背中合わせに列車が止まると、あいさつを交わす。声は聞こえないから、手と笑顔だ。
用意したメモ帳を開く。前夜に何を話すか準備してきた。
〔一時間目は?〕
何を聞こうか、いろいろ考えたが、あまりなれなれしい質問は嫌われそうで、あっさりしたものにした。
〔数学〕
睡眠が少し足りなかったのか、ちょっとはれぼったい目で返事を書きかえした。ぼくのことを考えていて眠れなかったのかな、彼は自分勝手な想像をした。
〔さいあくぅーっ!〕
彼女もうなずくと思ったが、
〔わたし、数学大好き〕
と、思わぬ答えが返ってきた。
〔将来数学者になって、フィールズ賞をとるの〕
数学界のノーベル賞といわれるフィールズ賞だが、四年に一度しか行われず、受賞はより難関だともいわれる。少女とフィールズ賞というアンバランスさがいい。
列車が動き出すと、差し込んだ朝日が彼女の窓ガラスを黄金色に染めた。一瞬、少女が光り輝いたかに見えた。
彼らは毎朝、数分間のデートを楽しんだ。
三
その日、彼女は沈んだ表情で彼の前に止まった。
そして、ノートの指を挟んでいたところをすぐさま開いた。
〔お父さんの転勤で、あす引っ越しするの〕
驚きで彼の胸が詰まった。まだ、ひと言さえも、言葉を交わしていないのに。
しばらくは、彼女を見つめるだけで、何と答えていいかわからなかった。
ふと、我に返ると、大急ぎでメモ帳に書いた。
〔きょう放課後に会える?〕
少女は、うなずいた。
いつ、どこで?と首をかしげた。
〔学校が終わったら、〕
と書きかけたところで、突然インクが出なくなった。向かいのドアから彼女がのぞき込んでいる。
あわてて、ノートの隅でペンのテストを繰り返した。まったく書けない。
そのとき上り線のベルが鳴った。カバンからペンを取り出していては間に合わない。彼はあせった。
だれかにペンを借りようと振り返った彼の目に、ホームの柱に取り付けられたアナウンス用マイクが飛び込んできた。駅員がしまい忘れている。
瞬間、はじかれたようにドアを飛び出した彼は、手に取ったマイクで叫んだ。
「学校が終わったら、風の谷駅のプラットホームで待ってる」
ホームや列車の乗客は、驚いて振り返った。
「風の谷のホームで待ってる」
声をさらに張り上げて、彼は繰り返した。
閉まりかけた上り列車の乗客もこちらを見ている。渋い顔、噴き出す者。だが、彼女はひとり、もの悲しげで困惑したような表情を変えなかった。列車はそのままホームを離れた。
夕暮れ、彼女は待ち合わせ場所に現れなかった。彼は暗くなったプラットホームでいつまでもたたずんでいた。
四
次の日の朝、隣線に上り列車がすべり込んできた。
もちろん彼女の姿はなかった。代わりに、同じ制服を着た女の子が二人立っている。
あの子たちのどちらかが彼女だったら。もし、きのう来てくれていたら。
ぼんやりと考えながら彼女たちを見ていた彼は、はっと気づいた。二人は、手話で話している。
「じゃあ、彼女も……、だから」
「おとうさん、だっこ」
車両のドアにもたれていた彼に、子どもがまとわりついてきた。
「あなた、なに考え込んでるの、しんみりと。窓の外に何かあるの」
のぞき込んできた妻の目が笑っている。
「いや、何も」
答えながら彼は顔をそむけた。
もう何年になるだろう。あの日から。
彼のまぶたが熱くなった。
にじんだ視線の中を、昔のように待合線の列車は静かに離れていった。
(了)
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