chapter9 「“歴史観”を持とう!」
宮部みゆき先生の江戸時代ものには、独特の“優しさ”があります。一言でいうと「人情」とでもなるんですけど、その言葉で片付けるにはもったいない何かがあります。宮部先生のお書きになられる“江戸時代”は、必ずしも平和なだけの時代ではありません。けれどその中に人と人とのなんとないつながりを描き出すことで、あの読後感を演出しています。
司馬遼太郎先生の歴史小説には、不思議な説得力があります。どの時代においても、各キャラクターたちがある一つの流れに抗ったり従ったりしながらお話の中で矛盾なく存在し続けています。
ちょっと、ここで設問を。
なぜ、宮部先生や司馬先生の時代・歴史小説にはそういった味が生まれるのでしょうか。
もちろん、そのお答えは様々なところに求めることができます。巧みなプロット、練り込まれた含蓄、匂い立つような描写力、現代人にも通じるようなテーマの設定……、挙げていけばキリがありません。結局のところ、筆者の設問への模範解答は「作者が書き手として卓越しているから」という身も蓋もないものに至ってしまいます。
けれど、ここで筆者が声を大にして言いたいのはそんな身も蓋もない結論ではありません。
筆者はここで何を言いたいのかと言いますと――。例に出したお二方の小説に味があるのは、あのお二方の中に確固たる“歴史観”があるからなのだ、と言いたいのです。
“歴史観”ってなんじゃい、なんだか難しそうな話だなあ、と既に及び腰の方もいらっしゃるんじゃないかと思うんですが、筆者が言う“歴史観”っていうのはそんなに難しいお話ではありません。というか、そもそも筆者、難しいことを考えるような脳ミソを持ち合わせておりませんのでご安心ください。
結局のところ、ここでいう“歴史観”というのは“小説の舞台となる時代のイメージ”です。
歴史・時代小説の舞台となるのは、日本であれ外国であれ、この地球のどこかで繰り広げられていた(あるいは繰り広げられていたと仮定された)“過去”になります。もちろん、“過去”というのはいくつもの歴史的事実を数珠つなぎにして現代にも通じているので、現代と過去は実は一つの流れとしてとらえることができます。歴史というのは、一人の人間の人生にもよく似ています。
けれど、一人の人間の人生を見渡した時、調子のいい日もあれば悪い日があったり、あるときはヘゲレケに酔っぱらってしまった日もあったりします。あるいは若い頃にはツッパッていた人が、大人になるに従って丸くなることだってあります。逆もしかり。
そして、同じことは歴史にも言えます。
時代によって、全くその社会の雰囲気が違うんです。
たとえば戦国時代の頭の方と後ろの方では、かなり時代のイメージが違います。どう違うのか、という話は私見が大いに入ってしまいますので割愛しますが、戦国時代は応仁の乱から豊臣秀吉の天下統一くらいまで(織田信長の台頭まで、という説もあり)を指す時代区分であり、大体初期と末期で百年くらいの開きがあります。この稿を書いているのが2009年のことなんですが、100年前というと1909年。明治42年です。我々書き手のはるかなる先達・夏目漱石、森鴎外両先生は未だ存命です。当時の歴史情勢を見れば、日露戦争がようやく収まり、極東(殊に中国東北部から朝鮮半島)における大日本帝国の権益の大綱が確定された頃になります。ちなみに伊藤博文が暗殺されたのはこの1909年のことです。
うわー、全然時代のイメージが違いますね、現代と。もちろん、明治維新から現代までの日本の歴史は割と流動的かつ性急に流れている観もあるので、一概に比べることもできませんが、「戦国時代」とひとくくりにされる時代が、実はそれだけの時間的開きがあることを覚えておいてください。
たとえば、あなた様が北条早雲を主人公にした小説を書きたいとしましょう(どうでもいいですが、北条早雲さん、史料が少ないので描きにくい半面、史料が少ない故に想像の翼を広げやすいという玄人様向きの歴史上の人物だったりします)。けれど、北条早雲が駆け回った“戦国時代”を、桶狭間の戦いで今川義元が横死したころの“戦国時代”と同じ雰囲気で書いてしまったとしたら、それは時代考証的にまずいんです。乱暴なたとえであることは重々承知の上で書きますが、現代の小説を伊藤博文が死んだ頃の社会的雰囲気で描き出してしまったら、とてつもなくちぐはぐなものになってしまうのは想像していただけるのではないでしょうか。
現代小説であれば、そのちぐはぐさに気づくことが出来ますが、実は歴史・時代小説においては気づかれない場合も多いです。けれど、“このお話の舞台となった時代がどういう時代なのか”という視座を欠いている歴史・時代小説はうわべばかりになってしまい、歴史・時代小説としての面白さが半減してしまいます。なぜなら、歴史・時代小説の肝を煎じつめれば、「時代の流れというものに対して、人々がどう向き合ったか」というところに尽きてしまうのですから。時代小説だって結局のところ、“時代の枠という制約の中で”繰り広げられる小説なのですから、その舞台となる“時代の枠”を把握しておく必要があるのです。
(実を申せば、同じことは現代小説にも言えます。現代という“時代の枠”を我々がどう捉え行動しているのか、というのは小説を書く上で大きなテーマなりえます。まあそもそも、小説を書かれている方は無自覚のうちに“時代の枠”にぶつかっていっているんですけどね)
“歴史観”は、歴史・時代小説のリアリティのみならず、小説としての面白さをも裏打ちしてくれるんです。歴史・時代小説を書く上で使わない手はありません。
でも、こんな方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。
「でもさあ、どうやって“歴史観”とやらをイメージすればいいの?」という方。きっといらっしゃるのではないかと思います! そういったあなた様のために!
次回に続く!
(なんて過剰なヒキなんだろう……)
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