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聖家族 作者:門戸明子
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室生紗智の話(上)

きゃあああああああ~~!

もういやああああ~!

 落ち着いて……落ち着きなさい私! ゆっくり、もっとゆっくり話さなきゃっ。

「せせ遷延性意識障害、え~つまり、そのぅいわゆる植物状態は、ですね、え~脳死とはまったく違いまして」

「どういうところが違うんでしょう?」

 はいはい、どういうところが違うか、ですねっと。ここで……ボードを出してカメラに向けて……え、何? 何首振ってるんですかカメラさん? 上と下、逆? えっ!? たたたた大変! 直して直して! ああああ落ちるっ落ちるぅっ!

「え、ここちらをご覧くださいませ。こちら脳の断面図、なんですけども、脳死は、これらすべて、全部が、ですね、えっと活動を止めてしまってるんですけども。遷延性意識障害では、えっと……この部分、脳幹と言いまして、血液循環とか、た、体温調整といった、生命維持に大事な部分なんですが、ここは、大丈夫という状態なんですね」

 カンペをチェックして……よし、あと3行……。

「原因としては、あのぅ、脳卒中とか脳腫瘍、ガンですね、あの、そういう頭部の病気とか、あとはその、交通事故ぉ……などによって頭部に衝撃が、その加わって、おこる場合も、あり……ます」

「しかし、実際社会復帰されてる方もいらっしゃるんですよね?」

「は、はい、えっと早期の適切な……ち、えっと、治療とあと……その」

 えっと、えっと……あれ? なんだっけ?今、どこ? うわ、うわ、だめだめ、早くしゃべらなきゃ……うそぉ! みんなこっちを見てる!
 早く早く! えぇえっと……何をしゃべってたっけ?
 考えるそばから、言葉が頭の中からかき消えてく。捕まえようとするのに、するする、するする、単語が私から逃げていって……遠ざかって……。

「はいはいちょっと止めまーす!」

 あああ……。
 会議室にいたスタッフさんから一斉にため息がもれました。
 またやっちゃった……これで5回目。

「ももっ……申し訳ありませんっ!」

「いやぁいいんですよ室生先生、そんなに頭さげないでください」

 ディレクターの黒沢さんがにこにこしながら手を振るけど。でも、目が怒ってますよ……?

「撮影初めてなんですから、緊張するのは仕方ないですよ」

 はい、初めてです。テレビ出演も、番組の監修も。
 私はため息をついて、汗でしわしわになったカンペを手の中でのばしました。
 「奇跡のカムバック」っていうベタなタイトルからもわかる通り、植物状態から奇跡的に回復して、社会復帰した患者さんの例を紹介する番組なんですけどね。
 私はアボカド……もとい、鮮やかなミントグリーンのスーツを着た女性に、必死で視線で合図を送りました。
 だから私にはこんな仕事無理だって、言ったじゃないですか、佐伯教授! そもそも教授が「私は出るの嫌、でもよその病院が出るのはもっと嫌」なんて変なこと言わなければ~!
 でも佐伯教授は花瓶の花なんか触って知らん顔。も~!

「先生、カンペ見ながらでいいですから、リラックス、リラックスですよー」

「はい……ほんとにほんとにすみません」

 私はチビの体をさらに小さくして頭を下げまくるしかなくて。
 黒沢さん、ちらちらっと腕時計を見てる。時間、押してるんだ……。私が失敗ばかりするから……。カメラマンさんと音声さんも、だるそうな顔を見合わせてる。
 私のせいだ。全部。どうしよう……。今度失敗したら……失敗したら? 心臓が再びどっくんどっくん……。
 ダメダメ! 早く落ち着かなくちゃ……!

「じゃ、もう一回行こうか」

 黒沢さんの合図があって、私は慌てて座りなおします。
 オペに比べたら、しゃべるだけなんて大したことない。そうよ。簡単簡単!
 でも……そう思おうとすればするほど、体がガチガチに固くなっていく……。
 みんなが私を見てる。じぃって見てる。また失敗するんじゃないか、バカなことするんじゃないかって……?
 それは蔑みの、憐みのまなざし。見覚えのあるあの……。

――お前はこんな簡単なこともまともにできんのか。

 ごめんなさい、お父さん。

――剛を見ろ、とても同じ血が流れてるとは思えん。

 そうだね、兄さんはやっぱりすごいね。

――お前もう何もすんな。何かやると絶対失敗するんだから。尻拭いするオレのことも考えろよ。

 ごめんなさい兄さん、迷惑ばっかりかけて。ごめんなさい。できそこないの妹で。許してください。

 あれ……? あ……息が苦しい。口をぱくぱくするけど、酸素が……入ってこないみたい。ああ、もしかして、これってまた……。

 あ……まずい、って思ったその時。

 バタン!

 頭の奥の奥……近くて遠いどこかで、木製のドアが閉まる重々しい音が響き渡りました。

――お前は入っちゃいかんと言っただろう!

――紗智は入っちゃダメ!

 どうして兄さんだけなの? どうして紗智は、中に入っちゃいけないの?

 あぁ、ダメだぁ……って思った時にはもう遅かったみたい。私はパイプ椅子から転がり落ち、陸揚げされた魚みたいにぴくぴく体を折ってうめき声をあげていました。

「先生!? 先生! 大丈夫ですか!? おい、救急車だ! 救急車呼べ!」

「いや、ここ病院すから!」

「そ、そうか!」

 黒沢さんたち、びっくりして私を覗き込む。
 ごめんなさい、でも大丈夫。たいしたことじゃないんです、子どもの頃からよくなるんです。って説明したいのに、口からはハアハア荒い湿った息が漏れるだけ。
 人形を触ってるみたいに、自分の体だっていう感覚がなくて。汗がダラダラ流れ落ちるんだけど、寒いのか暑いのかもわからなくて……。

「あなた、その袋貸して」

 おろおろするスタッフさんたちの後ろから、きっぱりした声が響きました。
 佐伯教授はコンビニ袋の中からてきぱきとおにぎりやらスナック菓子やらを取り出すと、ビニール袋だけを私にパス。
 私は汗でぬめった手でそれを受け取ると、口に当てて呼吸を再開しました。
 はあ……はあ……はあ……はあ……。
 落ち着いて。落ち着きなさい私。何も考えちゃダメ。この一呼吸、次の一呼吸のことだけ、考えるの。
 何度も何度も、袋の中で呼吸を続けます。
 次第に、浅かった呼吸が元に戻っていく。視界がようやくクリアになって……。
 もう……大丈夫みたいです。今日のところは。


「終わったー!」ってスタッフさんたちが伸びをしたのは、結局それから2時間もたってからのこと。もうほんっとに申しわけなさすぎてどうしていいやら……。とにかく、一人一人に頭を下げて回りました。

「いやあこちらもスケジュールごり押ししたから、無理させちゃったかもしれないですねえ。ほんとにもう大丈夫ですか? あれ過呼吸ってやつでしょう?」

 黒沢さん優しく言ってくれるけど……う、目が見られない! 怖すぎて。

「だっ大丈夫です。子どものころから緊張するとこんな感じで。慣れてますから」

「そうなんですか? 大変ですねー」

 それから撤収が始まって、私はようやく深く深く息を吐きだすことができました。



 会議室から最後の機材を運び出していた時。
「そういえば先生」と黒沢さんが私を見ました。

「はい?」

「先生が診てる患者の中に、迷宮入りになった事件の被害者がいるって噂に聞いたんですが……」

 瞬間、ピシッて顔が凍りついたこと、黒沢さんにバレちゃいました……?

「そのこと、MCが番組の中でちらっと触れてもかまいませんかね?」

「あの……ぅ、患者さんのプライバシーに関することは、ちょっと」

「もちろん個人は特定できないようにしますよ。ただそういう人もいるんだってことを紹介するだけです。なんでも、犯人を見てるかもしれないって言うんでしょう? もしその人が話せるくらいまで回復すれば、事件が解決する可能性だってあるじゃないですか」

 そんな単純な事件なら、誰も苦労しません! って言えればいいけど、うまく説明できる自信なんてありません……。

「えと……あの」

 うろたえる私の声に、「やだわぁ」って明るい佐伯教授の声がかぶさって。

「連続オカマ盗撮魔なんて、あなた、知りたいの?」

「へ? ……オカマ?」

「そりゃ被害者のオカマさんにしてみたら重大事件でしょうけどねえ。でも視聴者がそれ、知りたいかしら?」

 佐伯教授はちらりと私を見ると、ウィンク。あぁ助かった!

「そ、そうですか。……ま、いろんな事件がありますからね」

 黒沢さん、コホンて咳払い。「じゃ、オンエア楽しみにしててください」って、スタッフさんたちを促して、ようやくドアの向こうに消えていきました。
 私は教授を振り返って深く深く頭を下げる。

「ほんとに申し訳ありませんでした! 教授にもご迷惑を」

「いいのよ~そんな深刻に考えないで。いっぱいしゃべったって、編集で10秒くらいに削られちゃうんだから」

「じゅ、10秒……ですか?」

「そうよ~」

 あっけらかんとした教授の微笑みに、なんとなく救われたような。私は顔の筋肉が緩むのを感じました。
 気が付くと窓からは夕日が差し込んで……。今日一日、何してたんだろ私。
 ため息ひとつ。
 ダメダメ、まだ今日中にやらなきゃいけない仕事もあるんだから。しっかりしなくちゃ。
 私は気を取り直して、会議室のカーテンをしめようと窓辺に近づきました。

「まったく、散々でしたねえ」

 声がした方を見下ろすと、黒沢さんとカメラマンさんが歩いていくところ……。
 この研究棟、古い建物だから全然防音設備が整ってないんです。だから窓を閉めてても会話が筒抜けで……。

「33歳で大学病院の准教授っていうから、どんだけすごいキャリアウーマンかと勝手に想像してたけど、全然違ったな」

「ああいう暗いオタク系だとは思いませんでしたねえ」

「カメラの前でテンパるヤツはたくさん見てきたけど、あそこまでってのは珍しいよな」

「いきなりぶっ倒れるし」

「つきあったら面倒そうだな」

「いや、それ以前に男いないっしょー」

「顔も特徴ないし」

「もうちょっとテレビ映えする人、選んだ方がよかったんじゃないですか? せめてヘアメイクつけるとか」

「仕方ねえだろ、経費は1円単位で減らせって上からきっつく言われてるんだから」

 ギュウッてカーテンを握りしめて、また上がりそうになる呼吸を必死で抑えました。

 ごめんなさい。ごめんなさい。がっかりさせて、ごめんなさい。うまくできなくて、迷惑かけて、ごめんなさい――。

「……せんせ、室生紗智先生!」

 ハッて顔をあげると、佐伯教授がにっこり微笑んでいます。

「気にしちゃだめよ。あなたの才能は、わたしがちゃんと認めてますからね」

「佐伯教授……」

 あがり症の私が、曲がりなりにも准教授なんていう肩書をいただけているのも、この方のおかげ。教授に出会えたのは私の人生の奇跡だって、本当に感謝してます。
 まぁ、あの欠点さえなければ……ですけど……。

「ねえねえねえねえ、ところで今日はこの後時間ある? 実は……」

 ほら、来た!

「お断りします!」

 私がぴしゃっていうと、教授の頬がぷうってふくれちゃって。もう、子どもみたい!

「まだ何も言ってないじゃないの~」

「またお見合いの話ですよね?」

 そう、教授の唯一の欠点はこのおせっかいさなんです!

「だってあなた、もう34でしょ。そろそろねえ……」

「33です!」

 教授は、研究一筋の私のこと、前からとっても心配してくれていて。高校生の頃に母親が病死したと知ってからは、もはや私の結婚を自分の使命であるかのように、お見合い話を再三持ってきてくださって……。

「ねえ、会うだけでも会ってみてよ。この前から話してる人、主人の話じゃ、とっても優秀な方で、しかも心の優しい好青年らしいのよ~」

「はあ……」

 ご主人というのは、別の大学で教鞭をとっていらっしゃる物理学の教授です。1か月くらい前から、この「主人の教え子」がお見合い相手リストのトップにきていて、猛プッシュされてるんですけど……。でも、まだ結婚なんて考えていないし、正直ありがた迷惑なんですよね。う、はっきり言えない自分が悲しい……。

「んもう! 紗智先生が何心配してるか、ちゃんとわかってるわよ。でも彼なら大丈夫。お父上のおメガネにも絶対かなうから」

 お父さん?

 その単語に、ドキン……て、心臓が止まりそうになりました。

「やっぱり厳しい方なんでしょ? お仕事がお仕事だしねえ。よかったら、お父様にも同席していただく? その方が話も早いし、どうかしら」

 それは……絶対に無理ですっ!

「あ、あのっ! 父は今、入院してまして」

「あらそうなの? どこかお悪いの?」

「いえ……ただの検査入院だって聞いてます」

「そう、でも、そうね、お父様ももうお若くないんだからねえ。だからこそ、早くお孫さんの顔見せて安心させてあげなきゃね!」

 ……そうきますか。
 がっくりって肩を落とした私を、「そうそうそういえば」って佐伯教授が覗き込みました。

「あなたが言ってたボディガードの件、お願いしておいたから。近いうちに手配してもらえると思うわ」



 外来や入院の患者さんたちを受け入れる新病棟の裏に、研究棟はあります。ハコモノより設備、がモットーの歴代教授陣のおかげで、戦後に建てられた旧病棟をそのまま使用していて。気味悪がるナースさんもいますけど、でも機材はいいものを使ってるんですよ。
 そこの3階、0071とプレートがかかった部屋に、一人の女性が眠っています。
 そこを訪れて彼女に声をかけるのが、私の日課でした。

「明美さん、こんにちは。紗智です。今日はこんな時間まで来られなくてごめんなさい。実は私、さっきまでテレビの番組撮影があったんですよ! 初めてだから、もうすっごく緊張しちゃいました。手なんか、汗でベタベタ~」

 返事は……ありません。
 私はいつものように規則正しい呼吸音が続いていること、計器に異常がないことをチェックしました。
 彼女は、低酸素脳症が原因となって、慢性期の重い意識障害を患っている、いわゆる植物状態の患者さんで。ただ眠っているような状態が、もう8年も続いてるんだから、びっくりしちゃいますよね?
 ノーメイクなのに透き通るような白い肌で、ほんのり赤い唇は、今にも開きそう。今でさえこんなにきれいなんだから、元気な頃はきっとものすごい美人だったんだろうな。社長夫人だったっていうのもうなずける話。
 でも人生って何が起こるかわからないものです。だって彼女は……。

「ボディガードを派遣してもらうことにしました。この前みたいな不審者は、もう絶対来させませんから。だから安心してくださいね」

 私は絵本の中のお姫様みたいに無垢なその寝顔に微笑みかけました。



 その日は結局9時近くになってようやく病院から出ることができた私。ふぅう。疲れた。
 星も月も見えないのっぺらぼうな空の下、手袋にはあって息を吐きだしました。白い息がふわんて広がって、空気に溶けて。病院の中にこもってるとわからないけど、こんな時、真冬なんだなあって実感しちゃいますよね。
 冷え込みの強いこんな夜は、病院から徒歩10分っていう自宅がすごくありがたいです。
 職場から半径1キロ圏内のみの生活で出会いなんかあるわけないでしょ! って、佐伯教授には呆れられちゃいますけどね。

「朝のパン……買っとこ」

 つぶやいて、私は「麦っこベーカリー」に足を向けました。通りから1本入った路地にある、一軒家をまるごとリノベーションしたパン屋さん。丸太を組んだ山小屋って雰囲気の店内には、鳥やリスのオブジェも飾られてとってもかわいくて、ここでパンを買うのがマイブームなんです。
 閉店間際の店内は、幸いお客さんの姿もなし。ゆっくり選ばせてもらお……私は香ばしい匂いに誘われるように、パンの棚に近づきました。

「あ、さっちゃーん、いらっしゃい!」

 ちょっと舌足らずな明るい声に振り向くと、エプロン姿の女性が奥から顔を出しました。

「みずほさん! こんばんは」

「よかったわぁお客さんこないから、もう閉めて帰っちゃおうかと思ってたの」

 白いふっくらした頬にえくぼを浮かべてやってくるのは、ここのスタッフ新条みずほさん。
 スタイル抜群で、お肌もツヤツヤ。モデルさんみたいに美形な彼女が、実は高校生の息子を持つ主婦だって聞いて、そりゃもうびっくりしたっけ……。

「あ、ね、さっちゃんちょっとこっちこっち!」

 みずほさん、私の腕をぐいぐい引っ張ってイートインコーナーに座らせると、厨房からバゲット風のパンを持ってきてくれました。

「食べてみて! 試作品だから、お金はいらないわ」

 フランスパンの上に、ゴロゴロってチーズのかたまり、その上にシナモンと……

「わ、これ蜂蜜使ってますか?」

「そうなの。蜂蜜とシナモンて、いいでしょう?」

 フランスパンのパリパリって触感と、ちょっと焦げたチーズ……そしてほんのり蜂蜜の甘さ。

「すっごくおいしいです!」

 みずほさん、ふふって笑って、それから体をぐいって乗り出しました。
 ん? 

「何かあったの?」

「……え?」

「わかるわよぅ。元気ないじゃない。研究がうまくいってないの?」

「いえ……そうじゃくて」

「わがままな患者にあたっちゃったとか? モンスターペイシェントとか言うんだっけ?」

「違いますよー」

「教授の椅子を巡って、ドロドロの争いに巻き込まれちゃってるとか?」

「みずほさん……ドラマの見すぎです」

 私たち、顔を見合わせて思わず吹き出しちゃう。そう、みずほさんて、同性の、しかも年下の私が言うのも妙だけど、いつも無邪気でほんとにかわいらしい。
 私が彼女みたいだったら……。

――もう少し愛想よくできんのかお前は!

 そうしたら、何か、変わっていたかな?

「ね、何があったのよ?」

 少しだけ、みずほさんになら少しだけ、グチってもいいですか?
 ほんの、少しだけ。

「実は……上司からお見合い勧められてて」

「ええっ! お見合い!?」

 みずほさん、椅子が音を立てるくらいのけぞって……あのぅそんなに驚かなくても……。

「そうなんです、それで気が重くて」

「いいじゃないのぉ、すればすれば?」

「結婚なんて……まだまだ」

「どうして?」

「だって……私って、自分のことだって満足にできないんですよ。なのに、家庭とか子育てとか……想像つかないです」

「やあねえ考えすぎ! スーパーマンじゃないのよみんな。でもなんとかやってけるもんなんだから。案ずるよりなんとか、って言うじゃないの。さっちゃんにはさっちゃんのいいところがたくさんあるでしょ。真面目さとか優しさとか。そこを家庭に生かせばいいのよー」

 にこって笑うみずほさん。彼女と話してると、いつも心がふんわり軽くなって、ついついいろんなことを話しちゃうんです。ほんと、不思議な人……。

「でも……私、今は結婚より先に、やらなきゃいけないことがあるから」

 ゆるんだ心から思わずこぼれた本音に、みずほさんは「え?」って首を傾げました。大丈夫、聞こえなかった……みたい。



 一人きりのマンションは、留守してる間に空気が凍っちゃうのかな。そんなに広くない1LDKなのに、氷の塊が沈んでるみたいに冷え冷えと重たい空気が私を迎えました。

「ただいまー」

 もちろん返事はないんですよ。でも、なんとなく習慣になっちゃってて。一人暮らしの経験がある方なら、わかってもらえるんじゃないでしょうか?
 ふぅうってため息をついて、ポストに入ってた郵便をテーブルの上に投げ出しました。

「ん?」

 今、バサッて重量感のある音が……。
 チラシをかきわけてみると、白い上品な雰囲気の分厚い封筒。これってまた……って中を見ると、案の定結婚式の招待状ですか。

「麻美ちゃん結婚するんだ……」

 私ってこんなに友達いたかな? なんて考えちゃうほど、卒業してからもう何通も届いた招待状。来月結婚するのは、高校時代のクラスメイトです。
 友達は次々結婚して、年賀状は年々家族写真つきのものが多くなって……。
 はあ……って、またため息ひとつ。
 結婚も出産も、もちろん憧れないわけじゃないんです。でも……。
 その時、視界の端に映ったのは点滅する小さな赤いランプ。それが電話の留守録だって気づいて、慌てて招待状をチラシの下に押し込むと、私はいそいそ再生ボタンを押しました。

『1件のメッセージをお預かりしています』

 部屋の中で人の声が聴けるのってなんだかうれしくないですか? 私だけですか? 誰かな、誰かなってわくわく――

『紗智? オレだ』

 聞き覚えのある低めの声。だるそうにかすれる、語尾。
 その瞬間、少しだけ浮き上がりかけた気持ちはあっという間に凍り付きました。

 ――兄さん!

 黒い霧のようなもやもやしたものが、ウイルスのように体中にざわざわああって広がっていって。私はナンバーを確認せずに再生ボタンを押したことを、あっという間に後悔しました。

『親父の見舞い、全然行ってないんだって? 叔父貴から電話あったぞ。お前に行っといてくれって頼んだよな? なんでそんな簡単なこともちゃんとできないんだよ。オレがどんだけ忙しいか、お前知ってんだろ? 恥かかせんな』

 ガチャン!

 鼓膜にまとわりつく、拒絶の音。体温を感じさせない、ひんやりした視線で受話器を叩き付ける兄さんの姿が、目に浮かぶみたい。私には、イエス以外の選択肢は許されません。だっていつもあなたは正しいから。間違ってるのも、失敗するのも、倒れて入院して、迷惑をかけるのも、いつも私。
 だから、仕方ないの。兄さんがイライラするのは、全部私が悪いから。
 ごめんなさい、ごめんなさい、許して……。
 いけない……呼吸がまた怪しくなって……。
 早めに床に座りこんで、手で口を覆って、来るべき衝撃に備えます。
 思った通り、「それ」はすぐにやってきました。私は床に這うようにしてしがみついて、苦しさに必死で耐えます。
 冷たい汗と一緒に涙がまつげからしたたって、フローリングの床をぽたぽたって濡らしていく。

 やらなきゃ。

 私は汗がにじんで歪む視界を、むりやりこじ開けました。
 こんなの、もう嫌。いつまでも兄さんに、あの家に振り回されて。もうたくさん!
 こんな自分から抜け出すためにも、乗り越えるためにも、明美さんを回復させ、8年前の事件の謎を私が解かなければ。
 兄さんに唯一挫折を味わわせた、あの事件の謎を、私が――。
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