挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
聖家族 作者:門戸明子
30/32

余白 その9

 パンは生きている。乱れた気持ちは、必ずパンに見抜かれる。
リラックスして、心から楽しんで臨まなければ、おいしいパンになってくれない。

だからみずほは、いつも愛情をこめて生地をこねる。優しく、慈しむように、今日という日の幸せに感謝しながら。

 さあ、今日もおいしいパンができそう。
 幸福な予感とともに、生地をオーブンに入れた時だった。

 ピンポーン……

 インターフォンが聞こえた。
 来客の予定はなかったが……みずほは首を傾げながら玄関を開けた。

「あなた……たしか拓巳と一緒にいた」

 野沢みのりが立っていた。



「すんませんー学校で住所聞いちゃいましてー。これって職権乱用ですね。あ、A定食お願いします~て、それは食券♪」

 ニコニコと笑うみのりをリビングに通して、みずほは困惑して言った。

「ごめんなさい、拓巳はまだ帰ってなくて」

「ええんですー。アタシ、今日はママさんに用事があってきたんで」

「わたしに……?」

 頷いたみのりに、みずほはソファを勧めた。

「ちょうどよかった。これから拓巳の好きなレーズンパンを焼くところなの。焼きたてをぜひ……」

「麻生レナって、知ってますか?」

 唐突に緊張をはらんだみのりの声が、みずほの言葉を遮った。

「……」

 みのりは一枚の写真を取り出し、みずほの目の前にかざした。早苗の自宅から押収された荷物の中にあった、カトレヤの写真だった。

「『カトレヤにて、早苗、レナ、拓巳』て書いてあります。ここに写ってるの、ママさんですやろ?」

「……」

 ふわりと、みずほの唇が笑みを作った。

「麻生レナってね、ホステス時代の源氏名なの。懐かしいな~」

「8年前に殺された仁科大樹社長のこと、覚えてますか?」

「仁科……? ああ、確かお店のお客だったと思うけど……あまり知らないな」

「早苗さん、言うてました。レナは仁科社長とモメとったって。一体何をモメとったんですか?」

「さあ、忘れちゃった。そんなことあったっけ」

 みずほは再び微笑んだ。しかしわずかに、その唇が震えている。
 みのりはそんなみずほから目をそらさず、厳しい口調で、「なら」と続けた。

「どうして明美さんを襲ったんですか」

 予想外の問いにみずほは目を見開いた。呼吸が浅くなっていく。

「何……を……言って」

「アタシ、病院で明美さんを襲った奴と取っ組み合いした時、なんやええ匂いがするなて思ったんです。その時は何の匂いかようわからんかったけど、この部屋に入った時に気づきました。あれは、ここの匂い……パンの匂いやって」


「まさか……だってちゃんと着替え……っ」


 ハッとみずほは言葉を切り、うつむいた。自分が言った言葉を、もう取り戻すことがかなわない言葉をかみしめるように。

「服の匂いやないと思います。髪とか皮膚とか、染み込んでるんとちゃいますか」

 みずほは茫然としてソファに倒れ込むと、大きくため息をつく。

「……やっぱりダメね。わたしって、一人で暴走して突っ走っちゃうから。ボロがでちゃうのね。パパみたいにスマートに計画的に、なんてできない」

「なんで明美さんを……」

 みのりの問いが聞こえたのか聞こえなかったのか、みずほはぼんやりと窓越しに庭を見た。桜のつぼみはまだ、かたく閉じられたまま。花開くのは、まだ当分先のようだ。 

 「生みの親って、やっぱり特別でしょ?」というみずほの言葉は弱々しすぎて、みのりの耳には届かなかった。

「……アタシの推理を言いましょか。ママさんが明美さんを襲ったんは、8年前の中目黒事件が解決されたら困るからや。つまり、あの事件にママさんも関わってたってこと。……ママさん、仁科社長と付き合ってたんとちゃいますか? で、何が原因かわからんけど喧嘩して、別れるどうのって話になって……それがこじれて……」

 しかしみずほは答えない。ぼんやりと庭を見つめたまま、動かない。

 みのりは焦れて、一歩前に出た。

「言うてくださいママさん! 8年前、一体何が」

 言葉は突然音を失った。

 みずほに集中していたみのりは、背後から近づく気配にまったく気づかなかった。

 いきなり後ろからハンカチのようなもので口をふさがれて、みのりはパニックを起こした。
 手を振り回してもがいたが、その腕はガッチリとみのりを抑え込み、外れなかった。
 みのりの意識は、水底のように暗い空間へと落ちていった。

+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ