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聖家族 作者:門戸明子
22/32

米倉俊哉の話(中)

 それから3日が過ぎた。

 ともすると苛立ちでひきつりそうになる顔をなんとか笑みで隠し、私は中島孝治江蘇食品日本支社長に頷いた。

「来週の協議後は、黄社長を青山のフレンチへお連れしましょう。ミシュランの星を獲得したレストランですからね、きっとご満足いただけると思いますよ」

「彼も今回の来日を楽しみにしておりますので、なにとぞよろしくお願いいたします」

 中島は身を乗り出した。

「我々が手を組めば、中国、いやアジアでの成功は保証されたも同然ですよ」

 アジアでの成功?
 ふん、アジアだけで満足してたまるものか。
 北米、そしてヨーロッパへ。必ず世界進出を果たして見せる。
 そのためにも、こんなところで躓くわけにはいかない。いかないのだ。
 いかない……のに。
 くそっ……!

「……ですか?」

 中島の視線が、いつの間にかこちらに向いていた。

 しまった……話を聞き逃した。

 一瞬言葉を失った私の傍らから、「マスコミ発表についてでしたら」と江里子の声がした。

「米倉の指示でわたしが進めておりますので、わたしの方から説明させていただきます」

 プレスリリースのプリントを中島へ手渡し、流れるように言葉を繰り出す。
 さすがに江里子は察しがいい。私はあたかも最初から彼女に話をふるつもりだったかのようににこやかに頷いてみせた。
 内心は……汗が流れていたが。
 実は、らしくもないことだが、少し焦っていた。沼田がもたらした報告が芳しくなかったのが原因だ。
 榊原の行動、パソコンメールなど、いくら調べても外部と接触した形跡はなく、銀行預金に不審な入金などもない。
 しかも、だ。美紀は沼田から依頼されたブッキングの内容を記したメモを、その日じゅうデスクの上に置きっぱなしにしていたという。だとしたら、社内の誰にでも盗み見るチャンスはあったということで……。
 千々に乱れていく気持ちを、私は少し扱いかねていた。



 中島をやっと送り出し、一息ついていると、「失礼します」と江里子が入ってきた。

「あぁ、桐生、お疲れ。よくやってくれた。さっきは助かっ……」

 私は言葉を切った。
 江里子が部屋を横切り、コートハンガーにかけられていた私の上着ポケットをさぐりだしたからだ。

「おい、何してるんだ?」

 問いかけると、振り向いた江里子の手が差し出された。そこにあったのは……私の車のキーだ。

「……え?」

「出過ぎた真似をして申し訳ありません。ですが、先ほどの会見でも集中されてらっしゃらなかったようなので、少し気分転換をされてきた方がよろしいかと」

 思わず苦笑が漏れた。
 さすが江里子だ。
 相手が誰であろうと、媚びることなくいうべきことを言う。それが彼女の長所だった。
 近づく江里子から、華やかなフローラル系のパフュームが立ち上る。彼女が好んでつける、ゲランだろう。その甘い香りは、彼女と過ごした夜を思い出させ、毛羽立った私の心を束の間慰めた。
 相性は悪くなかったが……「仕事と混同したくない」と彼女の方から身を引いた。
 彼女も、私との夜を思い出すことはあるのだろうか? それとも、もう新しい男ができただろうか? 彼女が選んだのは、どんな男だろう?
 思わず鍵を持った江里子の手ごとつかみ、引き寄せた。
 ふいを突かれて驚いたのだろう。江里子は、私の腕の中へすんなり飛び込んできた。

「社長っ」

 慌てて体を起こす江里子を拘束したまま、顎をとらえて上向かせ、唇を重ねる。

「や……んっ」

 舌を深くからめてやると、江里子の体からとろけるように力が抜けていくのを感じた。

「しゃちょ……」

 会議室で聞く声とは違う少し甘えた声も、普段とのギャップを感じさせる。
 ふふ。可愛いじゃないか。

「江里子……今夜」

 激しいキスの合間、わずかに離した唇から誘おうとした私の言葉を、江里子が視線で遮った。

「社長」

 腕をつっぱって体を起こす。

「やっぱり疲れてらっしゃいますね。今日はこのまま直帰なさったほうがよろしいのでは?」

 動揺を見せることなく、江里子はきっちりと襟元を直しながら離れていく。しかし……その耳たぶが赤く染まっていることに気づき、私はほくそ笑んだ。



 今週の黄社長との会談が済んだら、江里子を旅行に誘おうか。よくやったと、労う意味でも。実際、彼女の尽力がなければ、ここまでたどり着くのは困難だったのだから。
 さっきのキスの感触なら、おそらく断られることはあるまい。
 私は少しいい気分になりながら、地下駐車場に停めた愛車、458イタリアに歩み寄った。
 ロックを解除し、乗り込もうとした時だった。
 唐突に携帯が着信を告げた。ディスプレイには「非通知」と表示されている。
 嫌な予感がかすかによぎったが、習慣的に私は通話をオンにしていた。

「はい?」

『……』

 ふん、無言電話か。誰のいたずらだろう?

「誰だ? 私は忙し」

『よねくら……』

「え……」

『よねくら』

 この、声は……。

「……ひっ!」

 私は思わず携帯を取り落して後ずさり、車に勢いよくぶつかってそのままずるずると座り込んだ。
 私は震えだした手をきつく握りしめなくてはならなかった。
 なぜなら、電話の声は……

「こ……さかっ……?」

 お、落ち着け!
 小坂は死んだ! 死んだんだ! よく似た、誰かの声だ。それだけだ。
 しかしそう思おうとすればするほど、小坂以外の声には聞こえなかったようにも思う。
 一体、誰がこんないたずらを?

 新条……か?

 もしかして、今もどこかから見ているんじゃないだろうな?
 急に薄気味悪くなり、白色灯に煌々と浮かび上がる静まり返った駐車場を見渡した。……人気はない。
 コンクリートで塗り固められた地下の空間が、私を閉じ込める巨大な檻のように見え始め、息苦しさを覚えて大きく呼吸を繰り返した。
 やはり新条だろうか? しかし、奴がそんなことをする理由はどこにもない……。
 では、新条と組んだ、裏切り者の仕業か? 一体なぜ? なんの意図があって?
 考えても何も答えは出ない。
 自分で事態をコントロールできないという状況は、思った以上に私に精神的負荷をかけ、苛立たせた。

 くそっ……

 気分転換に少し遠くまで走ってみようか。
 どこがいいか……鎌倉あたりか?


――話してみない?


 ふと、脳裏に誘うような声音がひらめいた。私はほとんど無意識にエンジンをかけ、ハンドルを切っていた。



 17階フロアへ下り立つと、ちょうど綾乃の部屋から誰かが出てくるところだった。まだ若い……20代初めくらいだろうか。派手な身なりからして、ホステスだろう。
 すれ違いざまちらりと視線をやると、マスカラが落ちるほど号泣しているのがわかった。
 ドアを閉めようとしていた綾乃が、私に気づいて顔を上げる。

「いらっしゃい。こんな昼間から珍しいわね」

 私は曖昧に笑い、中へ入った。
 通されたリビングは、15畳ほどもあるだろうか。
 植物園かと呆れるほど、棚には青々とした観葉植物の鉢が並び、天井からも何やらシダ系の植物がたれ下がっている。ガーデニングが趣味の綾乃らしいインテリアに、水やりだけでも大変だろうに、などといつも余計な心配をしてしまう。

「客だったのか?」

 綾乃はガラス棚からコーヒーカップを取り出しながら、「彼女ね」と口を開いた。

「付き合ってた彼氏が自殺しちゃったの。すごく愛しあっていたのね。彼の声が聞こえるっていうのよ」

――よねくら

 耳の奥に貼りつくような、小坂の声がこだました。

「……空耳だろう」

「あら、強い思いを残した霊魂は、地上にとどまることがあるのよ」

「気持ちの悪いことを言うなっ!」

 思わず声を荒げてしまった。
 綾乃はただわずかに視線を上げて首をかしげ、私を見つめるだけ。さすが綾乃だ、私は急に自分が恥ずかしくなり、「すまない」と謝った。
 何をどう説明すればいいのだろう? 8年前の事件には触れずに……一体どう説明すれば? 私は言葉を必死で探す。

「……占いましょうか」

 私が顔を上げると、綾乃はいたずらっぽく微笑む。

「あなたがわたしのところに来るときは、何か悩み事があるから、でしょう?」

 落ち着いたまなざしが、私を責めるでもなく、静かに見つめている。
 私は素直にうなずいた。

「あ……あぁ、実はそうなんだ。占ってもらいたい」

 綾乃は私を仕事部屋へと導いた。



 その部屋に入ったのは、初めてだった。
 もっとうさんくさげな、エキゾチックな薄暗い部屋を想像していた私は、少し驚いた。
 そこはごく普通の事務スペースだったからだ。
 ライティングデスクと椅子が2脚……棚に占いについての本が何冊か並んでいるのが、それらしいといえばそれらしい。だが、それだけだった。
 窓からは明るい午後の光が差し込み、なんとも健全な空間だ。
 いささかビクついていた私は、肩の力を抜き、椅子に腰を下ろした。
 綾乃は、黒い布が敷かれたテーブルの上へ、カードを山にして置いた。

「あなたを悩ませるもの、それは仕事がらみかしら?」

「……そう、かな。おそらく」

 私の曖昧な言葉に綾乃の視線が一瞬上がったが、そのままカードを手に取り、シャッフルし始めた。

「じゃ、米倉さんもこのカードをきって。自分がもういいって思うまで、十分にね。そのトラブルについて考えながら」

 私は言われるまま、カードを何度か切り、机へ置いた。

「じゃ、次はそれを3つの山に分けて、そしてまた、1つの山に戻してね」

 言われるように適当なところでカードを分け、そしてまた戻す。こんなことをして、何がわかるのか、だいたいこんなもの、ただの紙切れじゃないか? バカバカしさが頭をよぎったが……まぁいい。時間つぶしにはなる。
 念力でも込めているのだろうか、綾乃は目を閉じ、静かにカードの山に手を置いて……やがてそれらを表にして、並べ始めた。
 1枚1枚、トランプに似た様々な絵柄が描かれているが、意味など私にはさっぱりわからない。
 綾乃は黙ったまま、しばらく広げられたカードを見つめていた。神聖な、侵しがたいような雰囲気に押され、しばらく黙っていたが、しかしあまりに長く沈黙が続くので、さすがに耐え切れなくなり、思わず体を乗り出した。

「おい、どうなんだ? どうなるんだ?」

「そうね……」

 綾乃は言葉を選んでいるようだ。
 なんだ、そんなによくないのだろうか?
 占いなど、とは思うものの、さすがに気持ちはよくない。

「最近周りで、事故があった?」

「え……?」

 綾乃が指し示したのは、『TOWER』と描かれたカードだ。
 ぎくりとした。
 稲妻に打たれ、今にも崩れ落ちんとするその塔が、まるで小坂が飛び降りたビルに見えたからだ。

「思いがけないアクシデントで、あなたが動揺してることが伝わってくるわ。そしてそれは、今まで積み上げてきたものが崩れ去るくらい、強烈な影響をあなたに与えることになる」

「まさか」

 私は小さく笑った。あんな奴が死んだところで、私の何が変わると……

――よねくらぁっ!

 唐突に、夢の中で聞いた、小坂の断末魔が耳の奥にこだました。
 私はごくりと、生唾を飲み込んだ。

「確かにあいつは死んだが、それほど重要なことじゃない」

「その人、事故で亡くなったの?」

「ああ」

 私がうなずくと、綾乃はもう一度カードを全体から見わたし、静かに考え込んだ。

「……本当に亡くなったのかしら?」

 一瞬、綾乃の言っている意味が理解できず、私は逡巡した。

「……なんだと?」

 カード全体を再び見渡しながら、綾乃はため息をつく。

「憎しみを感じるわ。誰かの、強い憎しみよ」

 小坂の……憎しみ? 私への、か?

「混乱に捕らわれてはダメ。その先にある、真実に目を向けないと」

 真実……だと?
 まさか小坂がまだ生きてる、とでもいうのか? バカバカしいっ!
 やはり占いなんていう紛い物に頼ったのが間違いだった。

「もういい」

 白けた気分で立ち上がろうとした私を、綾乃の視線が制した。

「あと1つだけ」

「なんだ?」

「……女性に気を付けて」



 朝日がダイレクトに差し込むキッチンは、私の網膜を焼き尽くしてしまいそうなほど真白く明るい。
 締め上げられるように痛む頭を抑えながら入っていくと、

「おはよう。なぁに、よく眠れなかったの? ひどい顔してるわよ」

 呑気にスマホをいじり続ける祥子が声をかけてきた。すでにフルメイクをすませている。カシミヤのコートが椅子にかかっているところをみると、でかけるらしい。
 リビングには、昨日はなかった新しい紙袋がいくつか放り出してある。ティファニーにプラダにヴィトンか。こんなに増やして、いったいどうするつもりなんだ。イライラと舌打ちした。

「出かけるのか?」

「そう。友達が陶芸の個展を開くの。それを見に行って、それから銀座でランチしてくるわ」

 高速でタップを続ける手元に、つい見とれた。ディオールの腕時計は私がプレゼントしたものだが、あのパヴェリングは……ブルガリか? 見覚えがない。まったく、いつ買ったものやら。

「友達とね」

 大した意図もなく繰り返したが、一瞬祥子の視線が私を捉えた。

「女友達よ。ま、興味ないだろうけど」

 ああ、興味ないね。とはさすがに言わないが。
 エスプレッソをがぶりと一気に飲み下した。寝不足の上、何も入れていない胃には、あまりいい刺激とは言えないが。
 昨夜の綾乃の声が、頭の奥でこだましていた。

――それは、今まで積み上げてきたものが崩れ去るくらい、強烈な影響をあなたに与えることになる。

 本当に、小坂と関係があるんだろうか?
 いや、小坂は死んだ。死んだんだ!

――その人、本当に亡くなったの?

 本当に、小坂は死んだのか? 
 私は浮かんだ疑問を、反芻した。

 例えば……例えばだ。

 小坂が本当は生きていた、としたら?

 小坂が新条と手を組んで、自殺を偽装した、ということは考えられないか?
 最悪のシナリオに、私は思わずこめかみを押さえた。
 小坂は新条を憎んでいる。明美の敵として。私が情報を与えたのだから、間違いはない。だからこそ、小坂は新条を駅のホームから突き落とした。殺すつもりで。
 手を組むなどありえない。
 だが……あのテープの存在を新条から知らされたら……? 小坂の憎しみの矛先は、間違いなく私へ向かうだろう。
 今度は……私を、狙う……?
 思考は、私の想いとは裏腹に、どんどん勝手に、無限に肥え太っていく。まるで底なし沼かブラックホールのようだ。

「くそっ!!」

 カップをキッチンに叩き付けると、祥子が「きゃっ」と顔をあげた。

「どうしたのよ。何かあったの?」

「……」

 その時、インターフォンの音が室内に響いた。

「誰かしら、こんなに早く」

「いい、私がでよう」

 2人きりでいるよりましだ。
 私はモニターで確認もせずに、足早に玄関へ向かうとドアを開けた。庭を抜けた先の門の前に、黒いスーツ姿の男が2人立っているのが見える。

「……どちら様です?」

 2人の男はそろって内ポケットから手帳を取り出し、かざしてみせた。

「警視庁捜査一課の室生剛です」

「新宿署の横井悠人です」

「警察……?」

 自分の顔が一瞬にして強張るのを感じた。
 小坂のことが、まさか漏れたのだろうか? 鼓動が速くなる。
 しかし、刑事が口にしたのは、意外な言葉だった。

「奥様にちょっとお話を御伺いしたいのですが」



 2人をリビングに通し、祥子と並んで向かい側に腰を下ろす。
 警察、と聞いても祥子は少しも動揺を見せない。返って奇妙なほどの落ち着きぶりだ。一体何の話なのか、彼女はわかっているんだろうか? 
 今、この時に、なんだってこんなトラブルばかり持ち上がるんだ? 私は、ともすると苛立ちに揺れてしまう足を抑え、平然を装ってソファに寄りかかった。
 室生と名乗った刑事は、30代半ばくらいか。暗く強いエネルギーを感じさせる目……それはなぜか私を落ち着かなくさせた。
 年少の横井刑事とは、ソファに座った位置関係から、あまり好ましくないコンビ仲が伺えた。

「2月1日、新宿の歌舞伎町で18歳の少年が殺されました。ご存じですか?」

「ええ、ニュースで。……でも、それが妻と何か?」

 室生は祥子を見た。

「被害者の少年を、奥様はご存じですね?」

 驚いたことに、祥子はあっさりとうなずいた。

「何度かお店に行ったことがあるので」

「何度か? 具体的には何度ですか?」

「さぁ……そんなこと覚えてません」

「店の方に確認しましたが、必ず彼を指名していたそうですね。ずいぶん上客だったとか?」

 なんだって……?
 思わず腰を浮かして祥子を見る。浮気していたことは気づいていたが、まさか相手はその殺されたホストなのか?
 祥子はちらっと顔をあげ、「何よ」と不満げに鼻をならした。
 口を開こうとした私を、室生が手をあげて制した。

「2月1日の夜8時ごろ、どこにいらっしゃいました?」

「ちょっと待ってください刑事さん。妻は疑われてるんですか?」

「関係者の方全員に同じ質問をさせてもらってるだけです。ありのまま、正直にお答えくだされば結構」

 祥子を見ると、さっきより少し顔色が悪い。

「その日は……家にいました。ずっとスマホのゲームをしてて。履歴をみれば、残ってると思いますけど」

 室生は小ばかにしたように小さく嗤った。

「携帯のゲームでしたら、どこででもできるでしょうね」

 祥子はうつむいた。

「刑事さん」

 私は強い口調で言い、前へ身を乗り出した。

「彼女を疑うのなら、その時間、犯行現場にいたという証拠を持ってきてください。推測だけで犯人呼ばわりするなら、名誉棄損で訴えますよ」

 室生の暗い目が、私を見据えた。



 門扉まで見送った私に、室生は足を止めて振り返った。その顔には意味深な笑みが浮かんでいる。

「まさか、また米倉さんにお会いするとは思いませんでしたよ」

「……は?」

「米倉俊哉って聞いた時は、奇妙な因縁を感じずにはいられませんでしたね」

「一体……何の話ですか」

 訳が分からず、室生を凝視する。

「お忘れですか、8年前、中目黒で仁科社長が殺された事件……、あなたにお話をお伺いしていたのが自分です」

「……あの時の!」

 そうか、この強く暗いまなざし、どこかで見たと思ったら……。
 さざ波のように、脳の奥底から記憶がじわりとよみがえってきた。
 8年前の取り調べ、ずいぶん険悪な口調で私を犯人だと決めつけた若い刑事がいた。後で上司が謝りにきたほどに。その刑事が……そう、室生とか言っていた。

「会社はあなたが継いだんですね。仁科興産の時代から年商3倍だそうじゃないですか。たいしたものですね」

 一歩下がり、家全体をぐるりと見回している。庭木の細部にいたるまで、目に焼き付けようとするかのように、じっくりと。

「それにしても、奇妙だと思いませんか?」

「何がです?」

「8年前、そして今回、2回もあなたの周りで殺人が起こってる。それも被害者は、女性を巡ってあなたと三角関係にあった男だ」

 一気に、血の気がひいた。
 こいつ……知っていたのか! 私と明美が付き合っていたことを。

「恋人、あるいは妻……自分だけのものにするために、あなたが手を下したんじゃないですか? ちなみに、2月1日はどちらにいらっしゃいました?」

 私は呆れかえって室生を見た。

「もしかして、今回のホスト殺し、ひいては8年前の中目黒事件まで、私が犯人だとでも言いたいんですか? 2月1日なら、大阪へ出張中でしたよ」

 しかし、室生は動じず、笑みすら浮かべて私を見る。

「またまた奇妙な偶然ですね。8年前の時は、北海道に出張中、でしたか」

「それは……本当に偶然ですよ。第一、私は今朝初めて妻とそのホストの関係を知ったんです。嫉妬なんか、したくてもできません」

「本当に知らなかったんですか?」

「いい加減にしてくださいっ!」

 私の怒声を受け流し、飄々と肩をすくめた室生は、「またお邪魔すると思いますが」と言い置いて背を向けた。

「どうして黙ってたんだ?」

 リビングに戻るなり、苛立ちを思わず祥子にぶつけてしまった。

「言う必要ある? あなただって散々遊んでるくせに。わたしのことだけ責めないでよ」

 嫣然と微笑んで言われ、私は言葉に詰まった。慌てて言葉を探す。 

「18なんて一回り以上も年下で、何がいいんだ。まるきり子どもじゃないか」

「ふふ……10代ってほんとかわいいのよ。こっちの話、真剣に聞いてくれて。じいいってね。一瞬……ちょっとだけ本気になりかけた」

「おいっ」

「大丈夫よ。翔也には恋人がいたもの」

「恋人?」

「はっきり聞いたわけじゃないけど。女のカンてやつ」

「とにかく、問題は起こすなよ」

 今はそんなことに関わってる暇はないんだ。

「はいはい。あなたこそ、自分の身辺気を付けた方がいいんじゃないの?」

 身辺? 何のことだ?
 いぶかしむ私の前のテーブルへ、祥子は数枚の写真をばらまいた。
 私と……寄り添って歩く女の写真? 
 女は後ろ姿でその顔はわからないが、同一人物のようだった。
 だがこれは……

「まさかお前……?」

「やだぁ隠し撮りなんて、わたしがそんな暇人に見える? 昨日、ポストに入ってたのよ」

 暖房のきいた、温室のようなダイニングで、私は背筋を冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。

「こんなに大っぴらに連れ歩いて、そのうち闇討ちとかされても知らないから」

「されてたまるか!」

 叫び声は、奇妙にかすれて力なく空中で掻き消えてしまった。
 今の私は、相当ひきつった顔をしているでだろう。椅子をつかみ、湧き上がる震えをなんとか隠した。
 なぜなら、その後ろ姿の女は……

「でもこの人、どこかで見た気がするのよねえ。ま、あなたの愛人になんて興味ないけど」

 微笑んで、祥子はコートを手に出ていった。
 私は焦点の合わない目を、必死に写真へと向けた。
 間違いない。間違いない!

 その後ろ姿の女は……仁科明美だった。

 つまりこの写真は8年以上前の……。
 一体誰が、明美と私との関係なんて……新条も知るまい。
 「いや……」私は首を振る。
 あの刑事ですら知っていたのだ。私たちの関係を知っている奴がいたとしてもおかしくない。そうだ、例えば、小坂とか……



「……ちょう、社長?」

 ハッと顔を上げると、会議室の中央に置かれた円卓を囲む10数名の視線が、私に向けられていた。

「あ……ああすまない、なんだったかな」

「来期、東アジアにおける事業展開について、新規形態の確認ですが」

 江里子の視線が、心配そうにこちらを見ていた。

「ああ、そうだった。続けてくれ」

 私は舌打ちをこらえ、円卓に並んだ連中を一人一人こっそりと見た。

 この中に、裏切り者がいるのだろうか?

 半数は仁科興産時代からの社員で、つまり私と明美との関係を知っていたとしてもおかしくない。
 くそっ……すべての人間が怪しく見えてきてしまう。
 新規事業から外したこいつか? それとも……降格予定のあいつだろうか?
 あぁそれとも……
 自然に視線が険しくなっていくのがわかる。
本革がキュッと悲鳴をあげるほど、力を入れてアームレストをつかんだ。この椅子は私のものだ。私だけの……。

「どうしました社長? お顔の色がすぐれませんが」

 本当に気分が悪くなってきて、「すまないが、続けていてくれ」と言い捨てて、会議室から逃げるように飛び出した。
 慌てて腰を上げようとする社員たちを無視して、私は足早にフロアを横切る。社長室までの距離がやけに遠く感じて、私は足を速めた。
 私の女性関係を暴くだけならまだいい。
 しかし、明美との関係も知っているとなると……あのテープの存在も、知っているんじゃないだろうか?
 もうマスコミに流れてるんじゃないだろうか……テレビをつけたら、自宅が映ってるなんてことはないだろうな?

 社員たちの視線がちらちら私に注がれているような気がして、最後にはほとんど駆けるようにして社長室へ駆け込んだ。
 ドアにもたれ、呼吸を整える。
 何を動揺している。しっかりしろ。
 こんなトラブル、どうということはないだろう! 私ともあろうものが、たったこの程度のことで……っ!



 誰かに見張られているような気味の悪さはその日中私から離れてはくれなかった。
 仕事は全く手につかず、檻の中のライオンのように、私はうろうろと社長室の中を歩き回って時間を過ごした。焦り、それとも……恐怖……?
 ばかばかしいっ!
 私ともあろうものが!
 ふと気が付くと、時計の針は8時を回っている。耳をすますと、先ほどまで聞こえていた話し声はなく、静まり返っている。
 ブラインドの隙間から社内を除くと、フロアには人っ子一人見えない。そういえば今日は水曜日で、ノー残業デーだった。
 私は社長室のドアをようやく開け、続きの秘書室をのぞいた。
 そこには沼田や美紀の姿もなく、閑散としている。
 私は沼田のパソコンへと近づいた。
 状況から考えて、やはり一番怪しいのはこいつだ。こいつが裏切っているのだとすれば、謎は一気に解けるのだ。
 私は沼田のパソコンを立ち上げ、ファイルを一つ一つクリックしていった。
 新規事業、国内事業、海外展開……
 その時、突然デスク上、備え付けの電話が鳴り響いた。

「ひっ……!」

 静まり返った社内で、電話の音だけが、延々と響く。
 不快な予感が湧き上がる。
 とりたくない、とりたくない。
 頼む、切れてくれ!
 しかし私の想いとは裏腹に、電話の音は延々となり続ける。
 汗が額から滑り落ち、ぽたりぽたりとデスクに落ちた。呼吸をしようとするが、うまく酸素が見つからない。

 くそっ……!

 私は何かに操られるように受話器をとっていた。

「……誰だ」

『よねくら……』

「あ……」

 足が、動かない。
 小坂の、声だ。間違いない。

『……俺だよ』

「こ、こさかっお前、生きてっ」

『いるんだろう? そこに?』

「ひ……ぃい!」

 私は受話器を放り出し、駆けだした。

「け、警察……警察に……」

 つぶやいて、しかし室生の顔が浮かび、ついに私は頭を振った。
 ダメだ、警察なんかに連絡はできない。
 では……沼田か……ダメだ、奴が裏切り者だったらどうするんだ!
 ダメだ、誰にも連絡はできないっ!



 青白く照らされた廊下へ飛び出し、無我夢中でエレベーターへと向かって走った。 私の不恰好に乱れた靴音を、毛足の長い絨毯が吸い込む。

――本当にその人、死んだの?

 当たり前だ! 小坂は死んだのだ! 

――強い思いを残した霊魂は、地上にとどまることがあるのよ。

 やめろ! やめてくれ!



 バンッ――


 突然……

 照明という照明が、すべて消えた。
 真っ暗闇の中で、私はフラフラと壁に縋りついた。

「な……なんだこれは!」

 暗がりを、私はみっともなくはいずった。

「おいっ誰か! 誰かいないのか!? 警備員は何をやってるんだ!」

 エレベーターへとたどり着き、ボタンを連打するが、階数のデジタル表示は消えており、動く気配はない。
 くそっ……一体何がどうなっているんだ!
 やっとのことで非常口にたどりつき、汗ばむ手でドアノブを回そうとする。だが汗でテが滑り、なかなか開かない。
くそっ……バンバンと何度もドアをたたきながら、ドアノブを必死でガチャガチャと揺する。
 開いたぞ!
 私はつんのめるように非常階段へ。そして必死で降り始めた。

 薄緑色の非常灯だけが、ぼんやりとコンクリートを照らしている。

 私は必死で降り始めた。

 今……何階だ? あとどのくらい……?

 足がもつれて、転がり落ちそうになるのを必死で耐える。
 早く……早く……下へ!

 その時。

 コンコンコン……

 上から……足音がする?
 私はごくりと生唾を飲み下し、耳を澄ませた。
 間違い、ない!
 誰かが……降りてくる。

 コンコンコン……

 誰だ……
 私は必死に駆け下りた。

 コンコンコン……

 やめろ! やめろおおおっ!
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