六花世界の背信者
夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。
一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。
音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。
それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。
男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。
青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。
急がなければ――。
力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。
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中央大陸を分断する大いなるガルバ山脈の麓。
そこに人口約二千人ほどの凡庸な町パタがあった。
大陸北部にあるその町は、毎年一年の半分以上を雪と共に過している。
だが、常冬と称されることの多いパタの町にも、ほんの三月ほどではあるが春が存在していた。
現在はそんな短い春が終わり、再び冬が訪れ始めた時分である。
薄っすらと白に染まり始めたパタの中央レンガ通りでは、町が雪に埋もれてしまう前にと冬支度に勤しむ人々が行き交っていた。
その道の端で、買い物籠を下げた女たちがヒソヒソと他愛の無い噂を囁き合っている。
「ねぇ、お聞きになった?
春先に引っ越してきた西通りのところの家の奥さん、死んじゃったんですって」
「えっ、そうなの」
「何でも、山で雪に足を滑らせて崖から転落したそうよ」
「んまぁー。まだ若い身空で……ねぇ。可哀想にねぇ」
「残された旦那様が本当お気の毒で」
「あぁ、そうよねぇ。確か、とても仲の良いご夫婦だったものねぇ」
「そうそう。若いと言えば、今度教会に新しく……」
言葉ばかりに同情を示しつつも特に珍しくも無い雪の事故の、そう親しくもない人間に対する関心は薄かったようで、彼女たちの話題はすぐに塗り替えられていった。
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黒髪の女を抱えた男が自身の治療院を訪れた際、老人は腰が抜けるほどに驚いた。
どのような怪我を負おうと表情ひとつ動かしたことのない、主の命令を除いたこの世の全てに一切の興味を持たない無感情のこの男が、己以外の治療のために老人の元を訪ねて来るなど、その上、荷物のように肩に担ぐわけでもなく両腕で抱えているなど、とてもではないが信じられる光景ではなかった。
老人が呆然としている間に、男は無言で女を診療台に乗せる。
次いで、懐からこぶし大の袋を取り出しつつ老人の傍へ歩み寄ると、無造作に腕を突き出した。
ようやく意識を取り戻した老人は、男の手から袋を受け取り紐を解いて中身を覗き見る。
ある程度予測はついていたが、そこには大量の金貨が詰まっていた。
多すぎる、そう思ったが老人はそのまま袋の口を閉じ袖の下に収めた。
厄介事であるのならば口止めや迷惑料が含まれている可能性もあるし、そもそも何の治療が必要であるのかもまだ分かっていない、よしんば返そうとしたところでこの男が受け取るはずもないのだから、無駄に時間を浪費する必要はないだろうと彼は考えたのだ。
老人が診療台へ歩み寄れば、男はやはり無言のまま治療院から去って行った。
それを回復後の面倒まで見るつもりはないという意思表示であろうと判断して、彼を引き止めることなく老人は女の診察を開始する。
大方の予想に反して、彼女の治療はすぐに終わった。
凍傷にこそなりかけていたがそれだけで、他に外傷も何もありはしなかった。
拍子抜けしたような気持ちで、老人は治療院奥、入院用の個室のベッドへ女を運ぶ。
後は彼女が目覚めるのを待ち、男から預かった内の余剰分の金貨を渡せば、彼の役目は終了するだろう。
知らないことで守れる身があるのならば、賢明な老人が女の事情になど興味を持つこともない。
その数時間後、女は意識を回復させた。
だが、そこで想像だにしない衝撃の事実が老人を襲う。
彼女は自身の全ての過去を、記憶を失ってしまっていたのだ。
幸い着用していたスカートから刺繍入りハンカチが発見されたことで、彼女がリシェイラ・イグレインという名を持つことだけは不確定的に決定した。
老人は、自身の置かれた状況にひたすら困惑するリシェイラを、何とか諌め宥めて再び寝かしつける。
しかし、患者の手前平静を装っていた彼もまた、窺い知れぬ男の真意にただただ困惑しきっていた。
明くる日の早朝、男が再び老人の元を訪れる。
リシェイラの持つハンカチの刺繍柄からとある事実に気が付いていた老人は、訳知り顔で頷いて彼を招き入れた。
もし、彼女の正体を知った上で助けようとする意志が男にあるのならば、必ず姿を現すだろうと思っていた。
すぐにリシェイラの病室には通さず、老人は男を引き連れ己の私室へと足を踏み入れた。
扉に鍵をかけ開けていた窓を閉めてカーテンを引き、近くの椅子を引き寄せ腰かける。
男は入り口付近に立ったまま、常のごとく無表情に老人を眺めていた。
勧めたところで彼が椅子に座ることなどないと理解していたので、そのまま話を始めるために老人は口を開く。
彼の表情はひたすら神妙で、周囲には重苦しい空気が満ちていた。
「儂は何も言わんよ。
元より熱心なダラマーナ教徒というわけでもないからの」
ため息とともに吐き出された言葉。
しかし、男が反応することはなかった。
そんな彼の様子を気にすることなく、静まり返る室内に再び老人は声を響かせる。
「じゃが、イズラフィエル・マグダライト。
分かっておるのか。他でもないお前さんが、アレを生かすことの意味を。
全て理解した上での行動なんじゃろうな」
問いかけるも、やはり男は黙ったままだ。
「ふん。お前さんがここに立っておる時点で愚問というわけか。
じゃが、正体を知った以上、アレはここには置いておけん。
幸いなことに、彼女は過去の記憶を全て失っておる。
お前さんが何を思って愚行に走ったのかは知らんが、いずれ必ず訪れる破滅までの一時、せいぜい面倒を見てやるが良いわい」
苦々しい顔でそう言い放って、老人は椅子から立ち上がった。
男はただ無言で老人を見ていた。
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老人が男を連れ立ってリシェイラの部屋を訪れれば、彼女はすでに起き出していたようで、ベッドの端に腰掛け俯いていた。
扉の閉まる音に反応し不安に揺れる瞳を老人へ向ければ、その背後の男の存在に気付いて驚いたように目を見開き、小さく腰を引く。
「あぁ、お嬢さん。怯えることはない。
この男は貴女をこの治療院まで運……」
「行くぞ、リサ」
「は?」
「え?」
男が唐突に声を上げたことで、数年ぶりに聞いたソレに驚愕した老人と、おそらくリシェイラの愛称であろう名を呼ばれた女は、揃ってポカンと間の抜けた表情を浮かべた。
先に立ち直ったのはリシェイラの方で、彼女はベッドから立ち上がると祈るように両手を握り込んで、人形のごとく無表情な男に近付いていく。
「あ、あの、今、リサって……貴方は私のことを知っているんですか。
知っているのなら、教えてください。
私はどこの誰で、どうしてここにいるんですか」
目の前に迫る女に感情の見えない視線を向けながら、男がゆっくりと口を開いた。
「……名は、周囲の者がそう呼んでいるのを耳にしただけだ。
ここには、雪山の中、目の前で倒れたお前を俺が運んだから、いる。
お前の生まれ育った集落はすでに滅び、故にどこの誰だという問いには答えられない。
そして、これから俺がお前の身を預かることになった。
理解したのなら来い」
「っきゃあ!」
言い終わると同時に、男はリシェイラの腕を掴み外へと続く扉へ向い歩き出した。
「やっ、待って、待ってください! 放して!」
「あ、おい、イズ! 何をやっとる!」
女の叫びにも、今さら正気を取り戻した老人の叱責にも、男が応えることはない。
片手で引きずるリシェイラに器用にももう片手に所持していた毛皮の外套を被せて、イズラフィエルは舞い散る雪の中へ彼女を連れ出して行った。
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初日こそ彼に怯えていたリシェイラだったが、2人きりでの生活に慣れるのは存外早かった。
イズラフィエルがあまりに彼女に無関心だったからだ。
なぜか必ず日に一度手ずから入れた不味い紅茶を勧めて来る以外は、彼はまるで彼女をいない者のように扱った。
それでも、完全に無視をされているというわけでもなく、リシェイラから話しかければ顔を向けるし、頼めば大抵の物は用意してくれる。
一応イズラフィエルにも仕事があるらしく、一日中顔を付き合わせているようなこともなければ、帰って来たところで全く自分を意識していない相手に対し気を使うこともない。
むしろ、彼との日々は快適とすら言えた。
その内、彼女はいかに彼を人間らしく振舞わせるかなどという遊びに興じるようになった。
宿生活なので、食事や掃除、洗濯等といった雑事の一切が不要で、初期のように緊張することをしなくなったリシェイラは、とにかく毎日が暇で仕方なかったのだ。
さて、彼女が遊びを始めて最初に彼に覚えさせたのは挨拶である。
朝はおはようと行ってきます、外から帰ったらただいま、就寝時はおやすみ。
最初はリシェイラから毎回催促することでほとんど無理やりに言わせていたが、パターンを把握したのか、一週間も過ぎる頃には自分から口にするようになっていた。
これだけで随分人間らしく見えるようになったとリシェイラは思っている。
その後も、少なくとも朝は一緒に食事を取ってくれるようになったし、菓子を作れば美味い不味いが分からないなりに食感を述べてくれるようになった。
話しをすれば相槌を打つようになったし、一緒に買い物に出るようにもなった。
そうして共に過す時間が増える内に、リシェイラ自身も彼の無表情の中の感情を読み取ることが出来る様になっていった。
面倒なままごとに付きあわせているようだったが、イズラフィエルがそれに文句を言ったことは一度たりともなかった。
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二人の関係が大きく変わったのは、やはり雪の日のことだった。
常よりも遅いイズラフィエルの帰りを待ちわびていたリシェイラは、扉の開く音が聞こえたような気がして玄関口まで小走りで駆けていった。
彼女の予想通り、そこに帰宅を果たしたイズラフィエルがいたのだが、しかし、彼は全身を真っ赤に染めあげた姿で床に倒れ伏していた。
刹那、リシェイラの脳裏に赤と白の凄惨な光景が過ぎり、直後、激しい頭痛に襲われる。
だがそれも一瞬のことで、彼女はたった今起こったばかりの不可思議な現象を意識の奥底に埋めて、叫ぶようにイズラフィエルの名を呼び傍近くに膝をついた。
リシェイラの存在に気付いたのか、彼は朦朧とした状態でありながら口から教え込まれた挨拶の言葉と少しの血液を吐き出す。
瞬間、目の前が真っ暗になってしまうほどの絶望感がリシェイラを襲った。
今、最も恐ろしいのは、永遠に彼を失ってしまうことなのだと、この時彼女は初めて気がついた。
自身でも知らぬ内に、リシェイラは無表情のその奥に不器用な優しさを隠す男を、イズラフィエルを愛してしまっていたのだ。
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「おかえりなさい、イズ。今日は早いのね」
「ただいま」
笑顔と共に軽く触れ合わせる程度のキスを贈れば、彼は相変わらずの無表情のまま彼女の頭にポンポンと二度手を乗せる。
珍しくも渋るイズラフィエルを強引にねじ伏せ婚姻にまで漕ぎ着けたのは、あの日の傷が完治した数ヶ月後のことだった。
結婚を期に宿住まいを止め、これといった特徴の無い山裾の町に新居を建て二人で生活を始めて数週間。
リシェイラは日々のあまりの多幸感に、目眩を起こしそうだった。
その反面、彼女の身の内には常に不安の感情が巣食っている。
記憶。
それが戻った時、全てを失ってしまうことに彼女はいつも脅えていた。
ある頃から、リシェイラは夢を見始めるようになった。
一面白に覆われた極寒の山の中、姿の覚束ない誰かと会話するという夢だ。
『こんなところでどうしました。
もしかして、道に迷ったんですか?』
その中で話しているのは、主にリシェイラだった。
そして、彼女がその夢を見ている間中、もう一人の別の誰かがどこかで拒絶の言葉を吐き続けている。
『でしたら、村に泊まりませんか。
何もない所ですが、暖くらいは取れますよ』
朝、目覚めればリシェイラの心臓は痛いほどの鼓動を繰り返していた。
暑くもないのに、額から汗が流れ落ちていく。
「……リサ?」
彼女が半身を起こした振動で眠りから覚めたらしいイズラフィエルは、己の隣で息を荒げる妻の姿を認識し安否を気遣うように名を呼んだ。
そんな彼の言葉に、随分と人間らしくなったものだとリシェイラは思う。
イズラフィエルを見ている内に、彼女の呼吸も落ち着きを取り戻し、顔には自然と笑みが浮かんでいた。
「大丈夫。ちょっと、怖い夢を見ただけ」
そう呟く様に返して身を寄せれば、夫はただ黙ってそれを受け入れた。
それから毎日のように繰り返される夢は、少しずつ少しずつ先へ先へと進んでいく。
『雪、大丈夫ですか?
暗くなって来ましたし、足元気を付けてくださいね』
どれだけ振り払っても纏わり付く夢の残滓は、やがてリシェイラの現実までもを蝕んでいった。
『身体、冷えたでしょう。
待っててください。今、お茶を入れてきますから』
「飲め」
「ありがとう」
今や毎朝の日課となったイズラフィエルの上達しない不味い紅茶をすすれば、正体不明の焦燥感がいや増していく。
妻の不調に気付いているのかいないのか、夫の態度が変わることはなかった。
『…………どうして』
「ねぇ、イズ。
明日からしばらく、仕事お休みなんでしょう?
私、山へ行きたいわ」
そして、悪夢の全てが明らかとなった日。
リシェイラはうっそりと微笑んでいた。
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「お久しぶりね?
万死の断罪官、イズラフィエル・マグダライト」
どこか慣れたような足取りで雪積る山道を進んでいたリシェイラは、とある場所にさしかかった時、唐突に背後のイズラフィエルへと向き直り、暗い笑みを浮かべて言った。
豹変した妻の態度にも表情を変化させることなく、彼はポツリとこう返す。
「……記憶が戻ったのか」
「えぇ、そうよ。全ての記憶が甦ったの」
そこで、リシェイラは笑みから一変、憎悪に満ちた瞳でイズラフィエルを睨みつけた。
「私の目の前で大事な家族を、優しかった村の皆を、貴方がその剣で容赦なく切り殺してくれた記憶がね」
ギリ……と、喰いしばった歯から音が漏れる。
「イズ、いえ、イズラフィエル。
貴方、どうして私を助けたの。
私を助けたのなら、私を助けられたのなら、どうして皆を助けてはくれなかったの」
妻とまでなった女に負の感情をぶつけられても、彼が無表情を崩すことはなかった。
しかし、彼女の目にイズラフィエルの眼差しはどこか諦観の色を抱いているようにも見える。
数秒の間の後、彼が静かに口を開いた。
「神の教えに背いた者は粛清されて然るべきだ」
漠然と、彼女はこの答えを想定していた。
イズラフィエル・マグダライトという男は、ダラマーナ教の教皇に飼われ、主に命じられるまま背信者を屠り続ける粛清者だ。
そして、リシェイラ・イグレインという女は、ダラマーナ教の聖獣であるアヌパと呼ばれる鳥の血をすすり生きる、産まれながらの背信者イグル一族の娘だった。
罪深き一族の所在を嗅ぎつけたダラマーナ教皇は即座に猟犬を解き放ち、世界を物語の中でしか知らぬ清廉な村娘はその優しさ故に自ら死を引き寄せた。
「私たちイグル一族がダラマーナの罪人であることは否定しないわ。
例え生きるために仕方のないことだったとしても、ね。
でも、それじゃあ私が生かされた理由にはなっていない」
目を細めて男を見やる。
最初に殺されたのは彼女の母親だった。
彼を村に招き入れ、無防備にも家に通し、もてなすために席を立った隙に、彼女の家族はいなくなっていた。
「いっそ、あの時。皆と一緒に殺してくれたら良かったのよ」
「……そうか」
事実を受け入れることが出来ず立ち竦む彼女を一瞥し、彼は家から去り村人を蹂躙し始めた。
開いたままの扉から、凄惨な悲鳴が、赤色の飛沫が、止め処なく流れていた。
イズラフィエルが憎いのと同じくらい、リシェイラは愚かにも死を運んだ自らを憎んでいた。
だが……。
「ねぇ、どうしたら良い。私、どうしたら良いの?
皆の仇である貴方のこと、今すぐこの手でズタズタに引き裂いて殺してやりたいほど、心の底から憎くて憎くてたまらない」
そこまで言って、彼女は嘲笑にも似た表情を浮かべ、声を震わせながら慟哭する。
「なのに、それと全く同じ場所で、全く同じくらい貴方を愛しいと思ってしまう自分がいるのよ」
途端、リシェイラは狂ったように笑い出した。
焦点の定まらない瞳には、薄らと涙が溜まっている。
「ねぇ、私一体どうしたら良いの?
苦しいのよ。どうしたら良いのか分からなくて、頭がおかしくなっちゃいそうなの。
こんなに恨めしいのに、教会で誓ったあの時の気持ちがね、消えてくれないの。
ねぇ、イズ。旦那様。私、どうしたら良い?
答えて………………答えてよっ!」
潤む視界の幻か、一瞬、動かないはずの断罪官の表情が彼女の目に動いたような気がした。
「……抵抗はしない。殺したければ殺せ」
「っ最っ低!!」
吠えながら、彼もまた死にたかったのだろうか、とリシェイラは思った。
命令のままに、無感情のままに人を殺し続けていたはずの彼も、どこかで自らの罪に苛まれていたのだろうか、と。
では、イズラフィエルを許せるのかと問われれば、それは有り得ないことだ。
しかし、リシェイラは彼の言葉の通りに男を殺してしまいたいとも思っていなかった。
ただただ皆の死が悲しくて、許せない。それだけなのだ。
どうすれば良いのか分からなくて、彼女は意味がないことを理解しながら彼に向かって叫び続けた。
「返してよ! 母を、父を、弟を……皆を返してよ!」
「死んだ者は甦らない」
「だったら、今からでもいい! 私を殺してよ!
今すぐ皆と同じところに行かせて!」
「…………それは……出来ない」
「どうして!」
表情のないイズラフィエルの目に、悲しみの色が宿っている。
それを、彼の妻であったリシェイラだけがはっきりと理解していた。
理解して……その事実に唇を噛んだ。
「ねぇ、どうして。どうして、私と結婚なんてしたの。
記憶のない私がそう頼んだから? 贖罪のつもり?
まさか、そんなわけないわよね。
知ってるわ、貴方が許されたいなんて思っていないこと。
夫婦だったんだもの、知っているわ。
ずっと隣にいたのだもの。誰より近くで貴方を見てきたのだもの」
リシェイラの言葉に、イズラフィエルは少し驚いたようだった。
やはり彼のごくごくわずかな感情の動きを読み取ってしまう自分自身に呆れ、自嘲の笑みが漏れる。
やがて、彼女は伏し目がちにイズラフィエルから視線を逸らし、問いを発した。
「愛している、とでも言うつもり?
私の大切な人たちを悉く殺してくれた貴方が」
返答は初めから求めていなかった。
彼女の中にすでに答えは存在していたし、それが例え事実と違っていたとしても、彼女は信じたい答えだけを信じていたかったのだ。
だから、リシェイラは夫の顔を見ることをしなかった。
「でも、そう。そうね。
あの日、貴方が誓った愛に、ほんの僅かにでも真実が含まれていたと言うのなら……これが私の復讐よ。
大切な人間を失う悲しみを、私の受けた絶望を、その身をもって知るがいいわ」
そして、彼女は満面の笑みを浮かべた。
何の含みもない、記憶を取り戻す以前の彼女と寸分違わぬ笑みだった。
「さようなら、イズ。愛してる」
躊躇はしなかった。
彼女は知っていたのだ、すでに彼が背信者であることを。
リシェイラが生き続けるためには、聖獣の血が必要だった。
しかし、記憶を失った彼女に、それが出来たはずがない。
出来たとすれば、ただ一人、常に彼女と共にあった人物に他ならない。
だから、最期に彼女は笑うことが出来た。
これからの彼のことを考えると、憎しみに囚われたリシェイラの心も、彼を愛したリサの心も、どちらも深く満たされるのを感じていた。
彼女の意図をほんの数秒掴み損ねたことで、彼の運命は決定付けられる。
男の数歩先に立っていたはずの女の身体が傾いで消えた。
生まれて初めて目を見開いて、ようやく駆けつけたその先で、イズラフィエルは崖を勢い良く転がり落ちる妻の身体が幾度と岩肌に叩き付けられ、いびつに歪んでいく様を見る。
彼女の首が壊れた人形のように折れ曲がった時、彼は力なくその場に膝をついていた。
全ての背信者は平等に断罪されなければならない。
彼は彼女を、最愛の妻を永遠に失ったのだ。