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38・ゆらぎ
 昇が人生を左右する決定を迫られていた頃、アリアは未だ籠の鳥だった。
 アリアは足を止め、置時計に目をやった。
 まだ午後二時。
 こうやって時計を見たのはもう何度目だろうか。遅々として時は進まず。
Dが部屋に突然やってきてからまだ半日しか過ぎていない。まだ五日なのだ。アリアは八日までがとても長い時間に感じていた。
 昼食は部屋に運ばれてきたが、テーブルの上で冷めていた。水広宝珠夫人から借りてきた画集や小説も目に入らない。落ち着かず、檻の中の熊のように部屋の中を行ったり来たりする現状が続いていた。
 氷室と一緒に北海道へ消えてしまいたい。皆に迷惑をかける前に早く姿を消してしまいたい。
 水広宝珠の誕生パーティが終われば、氷室は自分を北海道へ連れて行くだろう。それで全てが終わる。
 考えても仕方のないことだが、そのことしか考えられないのだ。
 Dはアリアを救い出すと言いきった。だが万が一、ここからアリアを連れ去ったとしても、氷室はアリアの窃盗の証拠を握っているのだ。アリアを追ってくるだろう。そうなればDをも危険にさらすことになる。柚子は東十無と昇がうまく保護してくれるだろうが、ヒロも巻き込むことになるかもしれない。
 自分の失敗に誰も巻き込みたくない。
 しかし、Dの動向が全くわからない今、できることと言えば誰の迷惑にもならないように静かに過ごし、時の流れに身を任せることくらいだった。
自分の置かれている立場にもどかしさを感じながらも、アリアはその時が来るまで、この部屋でただ待つしかないのだった。
 そんな中、誕生会の会場作りは着々と準備が進められていた。
 料理の手配、会場のセッティング、室内や庭園の華やかな生花の飾りつけなど、それらは執事である中野と執事見習いとなっている中原洋こと、ヒロが取り仕切っていた。
 部屋を出て屋敷内をうろうろしていれば、ヒロと出くわしてしまうだろう。今ヒロに会えば、飛びついていって抱きしめてほしくなる。大丈夫、もう心配ないからと笑ってもらいたくなる。きっと、そんな衝動を抑えられない。
「もう少しの辛抱。これが一番良い方法なのだから」
 アリアは自分に言い聞かせるように、そう声にしたのだった。
 頼る者が誰もいない今、気持ちを奮い立たせるために上げたはずのその声は、アリアの耳に空しく響いたのだった。
 心細いというのがアリアの本音だった。
ヒロのように支えてくれる人がいなければアリアは生きていけないのだ。それは自分でもよくわかっていた。
「入りますよ」
 氷室の声がアリアを再び現実に引き戻した。
 朝もアリアの心をかき乱しに来た氷室。また何をしに来たのか。アリアは窓辺に視線を残し、「何か用ですか」と、冷ややかな声だけで氷室を迎えた。
「つれないですね」
 氷室は穏やかな落ち着いた声で、むしろ寂しげに聞こえた。
 アリアの背後まで近寄り、氷室は小さくため息をついた。
「七草さん、和美さんとは本当に面識がないのですか」
 氷室は唐突にDのことを話題にしたのだった。Dがこの部屋へ来たことを知っているのではと、内心、アリアはどきっとした。
「答えてください」
「知り合いではありません」
 アリアは氷室のほうに向きなおって即答した。
「……そうですか。では、和美さんのことをどう思いますか」
「どうって……」
 不審人物だと考えているのか。それとも単に扱いにくい居候と考えているのだろうか。どちらにしても氷室にとって厄介者には違いないが、何を探っているのか。
 氷室は銀縁眼鏡を通してアリアの瞳の奥を探っているように見つめていたが、ふいと視線を足元へそらし、ズボンのポケットに両手を突っ込んでアリアに背を向けた。
「彼女は威勢が良いですね。あなたとはまた違った意味で。何か引っかかっていましてね。ああいう挑戦的な女性は今までに会ったことがない。興味があるというか……」
 感情を顔に出さない氷室が、わざわざアリアに背を向けて話している。人が心情を知られたくない時の無意識の行動。だが、アリアには氷室の心の動きまでは推し量れなかった。
「……何を答えればよいのか分かりませんけれど。何か困っているということですか」
「いや、申し訳ない。とりとめのない話ですね。いいんです。自分でもよくわからないので、ははは」
 氷室は肩を揺らして笑っていたが、無理に笑っている感じがした。
 何を考えているのか益々分からなくなったアリアは、その表情をとらえようと氷室の横に歩み寄った。
「何かあったんですね?」
「いいえ、何もありません」
 氷室はそう言いながらアリアを抱きすくめたので、アリアは氷室の表情を読み取ることができなかった。
「……とにかく、あなたが私に気持ちがないとしてもあなたを大事にしますから。心細い思いはさせません。それを言いに来ました」
 それは、朝に無理強いしたやり方ではなく、そっと優しく包み込むような抱きしめ方だった。
 氷室もまたこの計画に何らかの迷いがあるのではないか。冷徹な敵だと思っていたが、自分と同じように弱い部分を持っている氷室を見たような気がして、アリアは少しほっとしたのだった。
氷室のぬくもりが心地よく感じるほどに。
偽りでもこの優しさに頼ってしまった方が楽なのかもしれないなどと思ってしまうほど、自分が追い詰められていることに、アリアは気づいていないのだった。
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