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36・覚悟
 氷室慎司が退室した後も、アリアは籠の鳥のように大人しく部屋に閉じこもり、窓辺に椅子を持ってきて、水広宝珠の書斎から借りた画集を眺めていた。だが、その瞳は虚ろで生気がないのだった。
 これから先は何もない。
今までのしがらみは何もかも断ち切られる。ヒロとの関係に悩むこともない。昇や十無の邪魔になることもない。柚子の将来を壊してしまうのではと悩むこともない。もう何も考える必要がないのだ。
「これでいい」
アリアは顔をあげて窓の先の裏庭に視線を移した。
 十月の涼しげで爽やかな景色もぼんやりにしか目に映らない。緑の芝も青い空も色褪せたように感じ、小鳥のさえずりさえ、ざらざらとした味気のない耳障りな雑音でしかなかった。
 氷室慎司に池袋駅で腕を掴まれてから十数日しか経っていないのだが、その間に起こった目まぐるしい出来事は、アリアのこれからを大きく決定することになってしまったのだ。
 あのとき、氷室慎司をターゲットにしなければ。いや、違う。氷室慎司はターゲットに選ばれるようにわざと近づいてきたに違いない。その罠にまんまと引っかかってしまったのだ。完全な敗北なのだ。
 そう諦めて、氷室と一緒になると覚悟を決めたはずなのに、どうしても気持ちが沈んでいく。
 アリアは視線を膝の上の画集に移した。さっきから同じページがずっと開いたままになっていた。
「馬鹿なことを考えているアリアちゃん」
 唐突な声に、アリアは椅子から飛び跳ねそうなくらいに驚いて、画集を落としそうになった。
 確かに室内から声が聞こえたのだが、何処からなのか見当がつかず、アリアは画集を閉じて立ち上がり、部屋中を見回した。
「D、何処にいるの」
 アリアは声を殺して姿の見えない相手に話しかけた。
「うふふ、上よ」
 アリアが天井を見上げたと同時に、四角く開いている暗い空間からすらりと長い足が伸びて絨毯に音もなく降り立ったのだった。
「この屋敷って屋根裏が広いのよ。古いから天井板も簡単に外せるのよね」
 余裕の微笑みをたたえながら、Dは衣類についた埃を軽く払い落とした。
 呑気なDとは裏腹に、アリアは顔を青くした。
「危険だ! 早く部屋から出て。私と中野和美の接点があってはいけない」
「大丈夫よ〜。同じ屋敷に泊まっているのだから、多少仲良くしたっておかしくないわよ」
「でも、あまり親しくないほうが良いに決まっているでしょう!」
「心配症ね」
 と言って、Dは眉を寄せたのだが、「そうねぇ、アリアちゃんもやっぱり心配よねえ」と小首をかしげて少し考える仕草をしてから自信に満ちた顔でこう続けたのだった。
「安心してもらうのに、一ついいことを教えてあげる。私たちには心強い協力者がいるのよ」
「協力者?」
「そう。でね、あのお坊ちゃん刑事をぎゃふんと言わせるの」
 Dは両手を合わせて満面の笑みを浮かべた。
「……楽しそうだね」
 アリアは苦笑した。
「あら本気にしていないようね」
「いや、そんなことはないけれど」
「それと、アリアちゃんも助けだすから」
 アリアの表情は一瞬で硬くなった。
 誰も巻き込みたくない。自分のために誰かが危険な目にあうのは見ていられない。
 アリアは一呼吸置いてから穏やかに言った。
「私のことは気にしないでいいから」
「そんなことできるはずがないでしょう! 見てらっしゃい、あの氷室慎司をとっちめてアリアちゃんに手出しできないようにしてあげるから」
 Dははじかれたように反論した。
「いいよ、私が北海道へ戻ればそれで済むこと――」
「本気でそう思っていたら、怒るわよ! いい? アリアちゃんがいないとみんなが困るのよ。柚子もヒロもあの双子も困るの。こんな中途半端で姿を消したら、私も困るのよ! きっちりかたを付けてくれないと、ヒロはこの先ずっとあなたを心に住まわせてとりつかれてしまうのよ」
 アリアが言い終わらないうちに益々エキサイトしたDが怒りを爆発させ、その剣幕に圧倒されて、アリアは俯いて押し黙った。
 そんなふうに言われても、アリアはどうしてもDに同調できなかった。
 ヒロにはDがいる。傍に自分がいなければヒロはDを頼るから、何ら問題はない。アリアはそう思っていた。
「まだわからないの? 今朝、ヒロは窓辺にいる氷室とあなたを見て動揺していた。その前から屋敷にいる間中、ヒロはあなたのことばかりをずっと考えていた。私はね、ヒロをいくらでも待つわよ。でもね、アリアちゃんが幸せにならない限り、ヒロはあなたから離れようとしない」
苛立った言葉の端々に、Dの切ない感情が滲んでいる。その瞳が悲しみに陰っていることもアリアにはっきりとわかった。
だが、この屋敷でヒロは動揺した素振りをアリアには一切見せていないのだ。まさか。ヒロがそんなことで動揺するはずがない。
アリアはDの言葉を鵜呑みにできず、心の中で否定した。
「いいわ。アリアちゃんがどう思おうと氷室から救い出すことには変わりないから。アリアちゃんのためじゃない。これは私のため」
 アリアの内心を読み取ったDは、挑戦的な視線でアリアの瞳を捉えた。
 逃げないでね。
 そう言っているように、アリアには思えたのだった。
「ま、あのお坊ちゃん刑事も可愛いところがあるから、アリアちゃんがどうしても一緒になりたいって言うのなら仕方ないけれど」
「か、可愛い? どこが」
 意外な表現。気難しそうでとても可愛いなんて思えない。アリアは肩をすくめた。
「あら、素直じゃないところが可愛いじゃない。感情の表現が下手よねえ。小学生の男の子みたい」
「Dにかかったら、警視庁刑事も小学生か」
「ふふふ」
 目を細めて意味ありげな含み笑いをしたDは、元来た道筋を引き返すべく、天井にジャンプし、暗闇に消えたのだった。
 Dが何を企んでいるのか計りかねたアリアは、さっきまで暗闇が広がっていた天井を見つめた。
「強引なんだから」
 壁に寄りかかって腕組をし、アリアは苦笑いをした。
 自分もあんな風に素直になれたら。でも、感情を出した後のことを考えると、怖くて絶対にできない。感情の赴くまま相手にそれをぶつけることなど。
 何重にも自分を隠す生活に慣れてしまった今、自分の本当の気持が何処にあるのかすら忘れそうになる。
いつも自信に満ち、行動しているDが羨ましく思えたのだった。
 どうか十月八日が何事もなく過ぎますように。
 水広宝珠の誕生日まであと三日。アリアはそう願わずにいられなかった。