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きみのて

作者: 改札口

空想科学祭2009参加作品です

 音もなく揺れるカーテン。静かに揺れる昼下がりの木漏れ日に、私は黙ったまま目を細める。

 怖いくらい白く一部の汚れも見当たらないこの部屋は、私はあまり好きではなかった。ここに初めて入って以来、一年近く経つがその感情は変わらない。

 ベッドの上に横たわる娘の姿を見ながら、隣の椅子に腰かけた。本来なら元気に外を駆け回っている年齢の娘だ。

 くだらないことで喧嘩して泣いていただろう。

 ほんのささいなことで声を出して笑っていただろう。

 今日生きていることさえ忘れるくらい、何でもない日常に夢中になっていただろう。

 ただそれは全て私の中の実体のない幻想でしかない。

 今ここに在る私の娘は、体中に管を付けて内臓の代わりになる無骨な機械を体の横に侍らせていないと生きていけない、そんな身体なのだから。

 瞳を閉じたままの娘の髪にそっと触れ、私は囁く。


「おはよう、春海はるみ

 

 一年前から繰り返されるやりとりは、やっぱり一年前から変わらず一方通行だ。

 返事をすることのない春海は、目をさますことなくただ静かに息するだけだった。

 パイプ椅子から立ち上がる。

 白い部屋から出た私を待っていたのは、夫の明文あきふみさんだ。

 よほど急いできたのだろう、まだそれほど暑くなる気配のない季節なのに額には汗を浮かべていた。

桃子ももこ。行くなら行くって言ってくれよ。俺も付いていくのに」

「明文さんはせっかくの休みなんだから、ゆっくりしてて欲しかったのよ」

 肩をすくめる私に、明文さんは撫でるように優しく私の頭を軽くを叩く。

「自分の娘に会いに来るのに、忙しいも何も関係ないだろ」

 わかりました次からはそうしますよ。と笑いながら言って、踵を返した私に明文さんは先ほどとは微妙に声色を変えて、私の背中に声を掛けてきた。

「今日もアレに会いに行くのか?」

 きっと明文さんは今苦い顔をして私を見ているのだろう。

 わかっていたけど、気づかないふりをして私はふふっと軽く笑ってみる。

「ちょっと屋上に行ってくるだけだから。それにね……」

 笑って嘘を吐くことは大分慣れて、自信もついた。

「私の気持ちは変わらないよ。後悔もしないし、今更迷ったりもしないから。だから大丈夫」

 背中越しにそう言って、私はゆっくりと歩み始めた。行先は明文さんに伝えたように背の高い施設の屋上だ。

 透き通る青空を想像して笑みがこぼれる。頭の中の空に映る影からは、そっと視線を外したままだったのだけれど。


 予想した通りの青くて遠い空。その下で風に吹かれてゆらゆらと舞う白いシーツやタオル。何もかもが完璧に制御され、無機質な人間と機械に支配されたこの施設で、唯一私が息を吐けるのがこの屋上の一角だった。

 薄い緑色の高いフェンスに手を掛けて、外を見る。

 この場所から見えるものは、緑色が濃くなり始めた山々とあちこちに点在する良く分からない施設と、一本の道路から枝分かれするアスファルトだけ。

 ここも、ここから見える景色も全て所詮人の手によって造られた箱庭だ。

 自分もそのうちの一人なのだろうか。ぼんやりと自分に問いかけ、それでもいいかと思ったとき、ふいに手に鈍い痛みが走って顔をしかめる。

 無意識のうちにフェンスを強く握り締めていたらしい。手のひらにくっきりと赤い線が付いてしまっていた。

 黙ったまま苦笑いを浮かべた私を呼ぶ声がして、振り向いた。

 屋上の入口に、上下とも白い服を着た女の子が立っていてこちらに笑みを向けている。

「こんにちは。今日もいたんですね」

「知ってて来たんでしょ」

 バレたか。と少女は呟きながらくすりと笑った後その場から駆けだす。

 揺れるカーテンのような洗濯物達を掻い潜って、私のすぐ横のフェンスに背中から軽くぶつかりながら寄り掛かる。

 そして少女は満面の笑みを向けて私を見上げた。

「ねえ、今日はどんなお話をしてくれるの?」

 好奇心いっぱいに瞳を輝かせる少女に、私は一瞬戸惑う。

 どこから見ても人の形をしている。しかし少女はこの世界では人と認定されていない。酷く存在が曖昧な、しかし確かに隣にいる『モノ』の名前を私は知らない。

 そしてきっと、これからも知ることはないだろう。


 遺伝子産業革命という文字が日々の日常の中に溶け込んで、日はもう浅くはない。そのような時代の象徴は彼女のような存在だ。

 セックスなしで子どもを持てる。

 気にいった人の精子と自分の卵子を受精させることはもちろん、受精卵の遺伝子を組み替えたり操作することによって好きな外見や優れた才能を持った子どもを『手に入れることができる』。

 そんなことを謳われた遺伝子産業革命当時のデザイナーベイビー達だったが、実際はそこまで顕著な例が出たわけでない。

 現在はもっぱら彼女のようなデザイナーベイビーの利用方法が主流になっている。

 早い話が、臓器提供のために生まれてくるのが彼女たちプロバイダーの役目だ。

 複数の患者クライアントと同じ遺伝子や血液型すべてを兼ね備えてた臓器を持ち、人の何倍も早く成長する彼女らは最高でも五年程度の寿命で、たいていはその半ばで臓器を患者に提供し死んでゆく。

 生まれた時から試験管の中ですごし、名前も与えられず死んでゆく彼女らを、人間扱いする法律はこの世にはない。

 

 それが正しいか否かなんて答えを出せるわけがない。だが、そうした技術で今この国が成り立っていることは事実だ。

 そして私が彼女を利用しているのも、揺るぎのない事実でもあった。

 

 ベッドの上で半分以上を機械に頼らないと生命活動できない体になってしまった春海の為に、春海の体の遺伝子のほとんどを同じようにして造られたのが、今私のなんでもない日常の話を一生懸命聞いている一人の少女だ。

 本来彼女のようなプロバイダーは、私たちのような依頼主とのトラブルを避ける為に、顔は誰にも似せないように遺伝子が組みかえられている。

 また複数人の異なる遺伝子の臓器を持ち無理やり成長を促進されているプロバイダーは、表に出られるような体力もない。大きな試験管やベッドの上で、ただ体の中が空っぽになるのを待っていることが常なのだ。

 しかし今目の前にいる彼女、つまり春海のプロバイダーは欠損部分が多い春海の為に身体の中は春海そのものに造られていて、元気に動き回れることもできる。

 

 彼女のことを「最高傑作」と評した白衣の局員に、白い目を向けたのはずいぶん昔のことだが、今ならばこうして母親である私に研究に協力を要請してきたほどに興奮していたことも頷ける。

 意として顔は似せていない。それでも不意に見せる少女の表情が、仕草が、口調が、思い出の中の春海と重なってしまう。 

「お姉さんは海って知ってる?」

 少女の声ではっと私は顔を上げた。

 意識の半分が途切れていて、何を話していたのか霞がかかったかのようにうまく思い出せない。それども半ば反射的に私は少女の問いに頷く。

「いいなぁ。すっごく広いんでしょ、大きいんでしょ。博士が言ってたもん」

 両手をいっぱいに広げて笑った少女は、まっすぐに私を見る。博士とはきっと私に協力を要請したあの局員のことだろう。

「青くて大きくて広いよ」

 少女の視線から逃げながら、私は付け加える。

「空みたいなものかなぁ。大きくて、青いもん」

 空を見上げながら、すとんと腰を落とした少女に倣って私も少しだけくすんだタイルの上に座り込んだ。

「お姉さんに会って六回目だったよね」

 指を折って数えながら、少女は言った。

「そんなになるかな」

 ぼんやりと答える私に、少女は不満そうに唇を尖らせる。

「そうだよ。博士に洗濯物とるように言われてきたら、お姉さんがここにいたんだよ。私初めてのお使いだったからすっごくどきどきしてたんだから」

 胸を押さえる少女を見て、私は黙って俯いた。

 今から二か月前、私は彼女に出会った。

 でもそれは偶然でもなんでもなくて、出会うべくして出会っただけだ。私が局員に言われてここで彼女を待っていただけ。ただそれだけのことなのだから。

 出会ってからずっとこうして話をする。

 

 自分の愛した娘の為に、死んでいくハリボテのような作り物の命と隣り合わせになって、思い出の話をする。

 人の遺伝子をつなぎ合わせたような命と一緒に笑う。一緒に風に抱かれて、一緒に空を感じる。

 

 そんなことを繰り返して、何になるのだろう。春海の残像と重ね合わせる私は、どうしたいのだろう。

 答えのわかるはずのない悩みから逃げるように視線を彷徨わせた先に、少女の大きな瞳があった。

「私ね、もうちょっとしたらここから出られるんだ」

 少女の言葉に私は顔を上げる。少女は嬉しそうにVサインを私に向けた。

「博士が言ってた。あともうちょっとしたらどこにでも行ける。自由になって遠くに行けるんだって。だからねお姉さんにお願いがあるの――」

 その時の少女の言葉は突然吹いた風にシーツと一緒に飛ばされて、私には聞こえなかった。


 少女に出会って一週間後、春海の臓器の移植に関する最終チェックが終わり「博士」は廊下のベンチに座っていた私と明文さんの前に現れた。

「各器官ともに大丈夫でしょう。手術は明後日、成功しましたら一週間後には市内の病院に移動してもらいます」

 豊かな黒髪を撫で上げて、博士は私たちを見る。私達は頭を下げて「お願いします」としか言うことしかできない。当り前だが私も明文さんも、この場では酷く無力なのだ。

 頷いて踵を返そうとした博士を私は慌てて呼びとめる。

「すいません、少しお時間をとれないでしょうか」

 博士は振り返って、怪訝そうな表情を浮かべた。

 施設の休憩所とも言うような、硬いソファと自動販売機が一台あるところで私と博士は向かい合うように腰かけていた。

「それでお話とは? 晴海ちゃんのことですか」

「ええ、それもありますが……一つはあの子のことです」

 博士は一瞬あの子という存在を思い出せなかったのか、眉間に皺を寄せたがすぐにあぁと呟いた。

「T-609のことですね。春海ちゃんのプロバイダーの」

 私は頷いた。

「御苦労をおかけしました。貴方との接触で、より多くのデータを採取することが出来ました」

 頭を下げる博士を覆いかぶせるように声をかける。

「あの子とはもう会えないのですか」

「そうですね。明日には麻酔を打って仮眠状態にしますし」

「……そうですか」

 自然に声が曇った私に博士は不思議そうな顔をする。

「不満ですか? 春海ちゃんが社会復帰できる第一歩になるんですよ」

「あなたは悲しくないのですか。特別扱いしていたあの子が死んでしまうというのに」

「死ぬために生まれてきたのが彼女ですから。ほんの少し特別だった、ただそれだけですよ」

 博士の表情に一片の迷いは見受けられない。だから私は何も言えなかった。

 この胸の中にうごめく想いも、ぶつけたい言葉もあるのだけれどわからない。まるで思春期の頃のような感覚に、私は戸惑いを隠せなかった。

「それでは失礼します」

「待って下さい!」

 腰を上げて背を向けた博士を、私は思わず叫んで呼びとめる。

「じゃあなんであの子に外に行けるって嘘を吐いたんですか? 本当はデータとか、そんなもの二の次だったんじゃないんですか」

 ピタリと博士は歩を止めて、天井を見上げたる 

「あの子を人間として、人間に触れて欲しかったからじゃないのですか」

「……プロバイダーは人間にはなれませんよ」

 ポツリと博士は呟いて、一歩踏み出しまた立ち止まった。

「あの子に外に出られる言ったのは、何も深い意味などありません……これも実験の一つですよ」

 そう言うと、博士は再び歩き出し今度は一度も立ち止まることはなく、一人残された私のため息だけが誰もいない空間に空しく響いていた。

 

 その日の深夜、白い部屋の大部分は黒く染まりカーテンの隙間から差しこむ白い月明かりだけが、私と春海を闇夜に浮かび上がらせていた。

「春海」

 名前を呼ぶのが一番の薬だと聞いたのはいつのことで、誰からだったろうか。

 春海の乱れてもいない布団をかけ直し、そっと春海の頬をなぞる。ぎゅっと春海に触れた手のひらを握りしめると、春海の温もりが確かにそこにはあってそれが堪らなく愛しくて片方の手でもう一方の手で包み込む。

 明後日の手術でもし失敗したらどうなるのだろうとか、ごく当り前の不安だけじゃなくもっと異質なモノが胸の奥に残り続けているのがとても気持ちが悪い。

 この一年間ずっと春海のことを考えてきた。

 春海を助けるのならば手段を選ぶつもりはなかったし、実際選ばなかった。今でもこの気持ちは変わっていない。

 プロバイダーのあの子に出会ってしまったからだろうか。春海の為に消えていく命を目の当たりにしてしまったからだろうか。それならば気負う必要なんてない。誰だって生きるために何かを、誰を犠牲にしているじゃないか。

 吐き気がして立ち上がり、部屋を出る。

 すると私の足は意識を持ったかのように、ただひとつの場所を目指しふらふらと進んでいく。その場所がわかっていて、私はゆっくりとため息を吐いた。


 空は満天の星空で、吸い込まれそうなくらい暗く穏やかだ。

 屋上にやってきた私は、また高いフェンスに寄り掛かり息を吐いた。

「……お姉さん?」

 暗闇に浮かぶ白いシーツの影から声が聞こえ、驚いて顔を上げた。シーツの向こうから、あの少女がひょっこりと顔を出した。

「何しているの」

「ちょっと抜け出してきちゃった」

 あははっと笑う少女に私は複雑な感情が芽生えた。まさかここから逃げ出そうとか考えているのではないだろうか。と張り詰める感情と、まだ彼女がこの世界にいるという僅かな安堵感。

 きっとそんなものが入り混じった表情が暗闇というフィルターを通しても、少女に気づかれてしまったのだろう。少女は笑うのをやめて、ゆっくりと歩いて近づいてくる。

 少女の姿が月明かりに照らされた時、私はあっと声を上げた。

 少女を包んでいた病的なまでに白い衣服は取り払われ、今は明るいブルーのワンピースが彼女の笑顔を引き立たせている。

「へへ、博士がくれたの。似合うかな」

 くるりと一回転し腕を後ろに回してほほ笑む少女を見て、私は言葉を失った。

「やっぱり外に行く前にちゃんとこういう服も着られるようにならないとって」

 得意げに笑う少女を、私は思わず抱きしめる。腕の中で少女は硬直し、私は力いっぱい彼女の背中を抱いて小さくごめんね。と呟いた。


「ど、どうしちゃったの」

 固まったまま、少女は慌てて上ずった声を上げた。

「ごめん。ごめんね」

 少女が着ていたそのワンピースは、春海が元気だったころにそっくりなものだ。私は、少女の今の姿を見て、気づいた。

 私はきっと謝らなければならないのだ。

 私たちの選択で君は生まれて、明日死んでしまうだろう。

 海も街も友達も親も草の匂いも季節の半分も知らないまま、死んでしまうのだろう。

 それはとても悲しいことで、私たちの選択は彼女にとって苦痛でしかあり得ないことなのかもしれない。

 でも、それでも私は。私たちは――。

「生きて、欲しいんだ」

「もう一度笑って欲しい。私の作る料理を食べてもらいたい。おはようとか、ただいまとかどんな短い会話でも構わないから、生きてる言葉を交わしたい」

 その想いが他の命を弄んだとしても、そう想わずにはいられないのだ。


「だから私は生きて欲しいって、もう一度目を覚まして欲しいって望んでしまうんだ」

 柔らかい風が吹いて、私の髪を短く揺らす。そのコンマ一秒に晴海の姿が瞳の奥に現われて弾ける。弾けた後に残った春海の影は、あの少女そっくりだった。

 今抱きしめている命が中途半端な造りものでも、不完全なものだとしても、私の感情が消えることはないだろう。

 後悔も、悲しみも消えることはない。腕の中の少女が嗚咽を漏らした。

 子どもという生き物は、動物みたいに周りの空気を自然と察知して驚くほど敏感に反応したりする。だからきっと少女もなんとなく気づいていたのではないだろうか。

 自分に訪れる未来のことを。 

 ぎゅっと私の背中を掴んで、私のお腹に顔を押し当て少女は喉の奥から漏れる声を必死に押し込もうとしているが、その半分以上が私の耳に届いて胸が痛くなる。

 声なき命の代弁者は、澄んだ空気と私の頭の中で何度も何度も静かに響いた。


「ああすっきりした」

 吹っ切れたかのように笑う少女は、いつもの彼女と変わりなく屈託のない笑みを浮かべていた。対照的に、私は未だ複雑な表情を作っている。

「初めてギュッてされたんだもん。びっくりしたよ」

 生まれて半年で、少女はここまでの知能や感情を身に付けた。しかしその過程で抱きしめるという言葉とその意味は教わらなかったらしい。

「私ね、夢を見るんだ。お姉さんと、いろんなとこ行く夢。海ってところには雲が浮かんでたりして何かおかしな夢なんだけど、いつも隣にはお姉さんがいる。だから全然寂しくない」

 彼女の最後の言葉は、何かを暗示させ私は瞳を大きく開いた。

「お姉さんが隣にいるのなら、きっと私は大丈夫。何にでもなれる、なりたいって思う」 

 そう言いながら少女は立ち上がって、何億という星空を背景にとびきりの笑顔を私に向けて口を開いた。

「だから、心配しないで」

 反射的に私は少女の手を掴む。

 少女の手のひらの温度は、春海の手のひらと同じ温度でそれに気づいた瞬間満天の星空が涙で滲んだ。

「色んなところに行こう。海も街も見たいもの全部見せてあげる、約束する」

 一瞬少女の表情が崩れかけるが、すぐに笑って少女は大きく頷く。その拍子に涙がこぼれたことを私は見逃さなかった。

 強く、強く少女の手を握る。

 晴海と同じくらいの大きさで確かなぬくもりを保つ少女を両手で包み込んで、私も笑った。

「約束、ね」

 少女はもう一度頷き、名残惜しそうに手を離しゆっくりと歩きだした。途中でいったん立ち止まり、少女はポツリと呟く。

「いってきます」

 いってらっしゃい。なんてこと残酷なこと、私には言えなかった。

 それでも少女は走り出した。すべてを振り払うかのようにすべてがここに置いて行くように。

 残された私はぎゅっと手を抱える。

 先ほど感じた彼女の温もりは、もう私の温もりと一緒になってどちらが彼女の温もりなのか判別しくいほど、溶けあってゆっくりと同じ温もりに変わっていった。



「経過も順調。明日には市内の病院に移っても大丈夫でしょう」

 博士にそう通告されたのは、最後に少女に出会って八日めのことだった。

 手術は成功し、この八日間で晴海の生命を維持してきた機械のほとんどはこの部屋から消え去った。劇的な変化に正直私たち自身が戸惑ったくらいだ。

「今までありがとうございました」

 頭を下げる私に、博士は構いませんよ。と返し、じっと私を見つめていきた。私は首を傾げて、眉をひそめる。

「私も謝らなければいけません。あなたには黙っていたのですが、T-603と接触するたびにあなたのデータも無断で採らせていただきました」

 博士は軽く頭を下げ、言葉を続ける。

「それを踏まえたうえで貴方に最後のデータを採らせて頂きたい」

 博士は視線を春海に移しながら、トーンを落とした。

「この子は、誰だと思われますか?」


「え?」

「春海ちゃんか、T-603のどちらかということです。脳や記憶は確かに春海ちゃんですが、五臓六腑から皮膚の一部までT-603のものです。彼女はいったいどっちだとあなたはお思いになりますか」

 昼下がりの風が窓から入り込み、私と博士と春海を優しく撫でる。

 顔にかかった髪をそっと撫でて直しながら、私は春海の手をそっと握って口を開く。

「この子は春海です。でも、あの子でもあるんです比重とかそんなことは分かりませんが私はそう考えています」 

 春海の手のひらを優しく握る。あの子と同じぬくもりがそこにはあった。そうですか。と博士は呟き立ちあがった。白衣の裾が柔らかな空気を切り裂きながら宙を舞う。

 誰もいなくなった部屋で、私はベッドに横になる春海にそっと語りかける。

 

 春海が目を覚ましたら、どこに行こうか。約束した通り海に行こうか。きみはずっと行きたがっていたもの。

 春海が目を覚ましたら、なんて言おうか。久しぶり、とかこんにちは。がいいかもしれない。

 それとも、ごめんなさい。初めましてだろうか。

 二つ重なった命の名前は私にはわからない。


 春海が目を覚ますまで、いや覚まして以降もずっと私は迷い続るだろう。

 

 答えを求めるように握りしめたきみのては、ひどく温かった。 

 

  


 


 

 

本来のデザイナーベイビーとはかなり違うというか、かなりの飛躍させた設定となっております。

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― 新着の感想 ―
[一言] 設定がどうとか、文章がこうとか、難しい事は何一つ分からない人間ですが、母親と少女のやりとりに胸を打たれました。大好きなお話です。 感動をありがとうございました。
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