9. 合流
とりあえず暇だったので、俺は思いつくままに無重力下での注意事項を、ライダー・プールのマム(マザ・コンピュータ)に頼んで、照会しやすい画面に置いてもらった。突っ込み野郎どもも、学生時代にゼロGで課題の作業をやらされているだろうけれど、関係ないことはキレイさっぱり忘れるように人間はできている。リマインダーとしてもあった方がいいだろう。
質量がある物質がある限り、厳密な意味で無重力というのは存在しないのだが、気取って微細重力などと表現しても分かりにくいだけだ。正確というのは大切だけど、受け取り手のレベルを越えた場合、意味がない。まさかライダー・プールに小学生は居ないだろうが、こういう場合は専門用語を殺して、パンレベ(一般レベル……も、こうは言わないのかな?)の表現にしておく方が良い。
質量差がものをいう世界なので、常に自分の質量とぶつかる相手の質量を忖度しなければならない。浮いているからといって軽くない。テラG環境の人間は、その感覚が分からない。浮いているものは軽く動かせると思いがちだ。ふわふわ浮いているもののそもそもの動かし難さや、一度動いてしまったときの破壊力を想像するのは、実感としてとても難しい。
ふわふわと移動を始めてしまえば、大きな質量のものは、その大きさに相応しいだけの慣性の力を得てしまう。摩擦抵抗がない所で慣性の力がどれだけ威力があるかというと、衛星軌道で周回している人工衛星やシャトルを思い出せば簡単に察しがつくはずだ。時速二万キロ超を維持するのに、推進力発生装置をつかっていないという事実が分かりやすいだろう。
衛星軌道というのは、実は、完全に地球の重力影響圏内だ。だから、常に引力――地球に向かって落ちようとする力が働いている。人工衛星などは円から外に向けて飛び出していく方向に推進力をかける。速度が自然落下を振り切れるレベルに達すると、結果として常に落ち続けるが常に飛び去ろうとし続けるので、同じ高度を維持することができる、ということになる。頭の体操いいですか?
この状態に上手くもっていけば、エンジンを切っても落ちることはない。実際、静止衛星なんかは、そもそもエンジンを搭載すらしていないのだ。恐るべし慣性力。
話を戻そう。質量が大きいものに慣性が働く。それがオープンスペースなら問題はない。その移動する物体に体を添わして自分もその慣性の影響下に入れてしまえばいいのだ。だけどプールの中は壁だらけだ。壁に向かって質量の大きいものが漂ってきたら、その間からどんな手段を用いても、即刻逃げ出さないといけない。逃げ後れたら、ぺしゃんこ……だ。
いくらライダー・プールがテラGでも、宇宙空間にいることは変わりないのだから、精密機器が防水もされないまま剥き出しになっていることはないだろう。生活廃水(トイレも含めて)もキレイではないかもしれないが、基本的に表面張力で丸くなるから、水でできたボールに完全に取り込まれて溺れるというような、見事なボケをかまさないかぎり大きな問題ではない。
問題は細かい浮遊ゴミだ。目や呼吸器に入ってしまうと、ちょっと嬉しくないことになる。台所で小麦粉の類を使っていた奥さんたちには特に、マスクを使うか、金魚鉢をかぶるように指示しとかないといけないな。
プールのマム・コンピュータには、開設したばかりのオープンチャットスペースにアクセスがあった場合、先ず、無重力下での動作に慣れていない人間が、注意事項を照会できる画面に飛べるようにアイコンを作っておいてもらおう。
「ねぇ、タカさん……。どこにいるのか、教えてくれない?」
ザキさんの声に呼ばれて、皆にオープンスペースチャットに切り換えるように言っておきながら、自分の端末は通信に負荷をかけっぱなしだったのに気付いた。余計なことまで考え込んでいてすっかり忘れてた。
「ねぇ、ザキさん。料理する人?」
俺の質問は唐突すぎたかもしれない。人間は皆言葉を文脈の中で理解するのだということを忘れていた。
「タカさん、真面目になってよ。今、私をリサーチしてどうするのよ」
怒られても咄嗟に反応できなかった。思ってもいなかった角度から突っ込みがくると人間、一瞬何を言われたのか分からないことがある。暫く考えて、漸く、嫁さん探しのナンパ男のセリフと理解されていたのだと気付き、苦笑する。ザキさんは、たしかに魅力的だけど、パンピー柏木とタイマン張る度胸と体力がないと、アプローチするのだって命懸けになる。第一、ちっとお元気すぎる。もちっとか弱くないと、俺が腎虚になること間違いなしだ。
「ちゃうちゃう。ザキさんの手料理は食べてみたいけど、そうじゃなくて、小麦粉とか、パウダーシュガーとか普通に使う人だったら台所立入禁止ね。肺に吸い込んじゃったら、かなりやっかいだから」
思い切りが良いいつものザキさんの即答がない。きっと勘違いを照れているな。
「大丈夫。今日は調理済みのものしかないから」
パンピーに、ザキさんゲットするなら、料理の腕を磨いておくよう、今度会ったらさりげなく教えておいてやろう。
「それはよかった。水は全部タマタマになってるでしょ? 下手に衝撃与えると、分裂して霧よりはデカイ水玉ができちまう。そいつを吸い込むと、肺がむちゃくちゃ痛いし、後で肺炎になりかねないから、できるだけ水には触るなよ。安全の為に、持ってたらでいいけどスペジャケ着て金魚鉢かぶった方がいい。金魚鉢持ってなかったらマスクか、タオルで口の周りをふさいで、強盗ファッションになってね」
俺が思いつくままに喋ると、向うで例のコロコロ笑いが聞こえた。笑っていられる内は人間なんとかなる。
「了解。さすが宇宙人。頼りになるわ。で、どこにいるの? 一緒に居て良い?」
この場合の『一緒にいたい』を、異性に対する並々ならない野心と勘違いするほど、俺は間抜けではない。俺だって、女の子じゃなくても、誰かと(できれば頼りになる奴がいい)一緒の方が今よりはずっと心強い。特にマッチョな人が一人居てくれると助かる。喉の渇きは本格的に耐えがたくなってきている。
「俺もザキさんに会いたかったんだ。もしかして、飛竜の部屋に連れ込まれたことある?」
「場所は知ってるわ。柏木さんの所と一緒でしょ? 連れ込まれたことはないから、コンパートメント・ナンバーまでは知らないけど」
ザキさんが律儀にコロコロ笑ってから答える。なんだ、ザキさん。そこでパンピー柏木の名前がでてくるじゃないの。パンピーちゃん、結構脈あるよ。君に足りないのは質量に相応しいだけの度胸とみたね。
「場所はどの辺?」
俺にはザキさんの検索権利がないから、さっき位置情報を得ようとして、マムに弾かれている。
「そんなに遠くはないけど……。ちょっと、部屋の外に出るの……怖くて」
無理もないか。部屋の中の惨状が、どこまでもつづいている外なんて、普通の感覚では見たくないだろう。ライダー・プールは時差を作るほど規模が大きい施設ではないから、地球時間の日本県の伝統的標準タイム、明石タイムを採用している。この事故(事件?)が夜中から明け方に起こったのは、それでも僥倖と言えるのだろう。繁華街の中華料理屋で、炎がじゃんじゃん立っている時に、ゼロGで振り回されたら……。小料理屋の女将さんがてんぷらを揚げているときに、こんな事態になっていたら……。いやいや、妄想を暴走させるのは止めておこう。
一緒に居たいというニーズを現実に反映させるには、どちらかが移動しなければならないという、基本的条件を無視することはできない。俺はマッスル階級として奴隷以下ではあるが、年齢と性差でリスクを多めにとるのは、俺の方で順当だろう。
「じゃぁ、悪いけど、ザキさんの位置情報検索許可、俺にくれる? なんとか移動してみるから」
「嬉しいけど……。タカさん、大丈夫?」
その大丈夫は、俺の体を心配しているというより、辿り着けるかどうかの能力の方を心配している感じだった。俺は大いに安請け合いをした。
「宇宙人を信じなさい。何度も言ったでしょ。ゼロGは俺のフィールドだよ」
軍服でのこのこ街を泳ぐ愚かを、このときの俺は忘れていた。
* * *
他人様の家を訪なう時は帽子を脱ぎましょう。俺は、几帳面に金魚鉢を脱いでから、インタフォンを鳴らした。途端、速攻で外開きの扉が開いた。訪問者の確認くらいしてから開けた方が良いと思いつつ、意表をつかれた俺は思いっきり弾き飛ばされそうになった。ドアノブに手を伸ばしてなんとか掴む。
良い子のザキさんは俺の言うことをちゃんと聞いて、スペース・ジャケットを着込んでいた。肉体美を見せびらかすようなライダータイプのスペジャケは目の保養になるというか、やり場に困るというか。まぁ、サービスだと思って堪能させてもらいます。
驚いたことにザキさんは、幽霊でも見定めるような目つきで俺をじっと見た後、いきなり抱きついてきた。余程不安だったのだろうか顔色が悪い。
「遅かった……。遅かったじゃない! 心配したのよ。どっかで潰れちゃったのかと思って……」
こんな役得が待っているなら、スペジャケを着とくように言うんじゃなかった。流石に金魚鉢は持っていないのか、見掛けより柔らかい髪の毛が頬をくすぐってきた。若い女の子の匂いは、本当にいいなぁ……。
「柏木さんが、タカさんのこと、軍人さんだって言ってたの、眉唾だと思ってたけど、本当に……そうだったのね。いやだ……似合わないわ」
ちょっと涙ぐんだ目を瞬きだけで誤魔化したザキさんが、俺に抱きついたことを失策だったと思っているのか、俺の胸から腕を突っ張って体を引き剥がしてから言った。えらい言われ様だ。官服が似合わない男ってのは、どういう意味だろう。大体、かなりの不細工が着ても、男振りが二、三割り上がって見えるのが、軍服って奴の唯一の利点だった筈だが……。
「……タカさん? なんか、酷い顔色よ……。どこか怪我でもしたの?」
ザキさんに顔色を指摘されたせいで、俺はここに来るまでに目撃したこと、経験したこと、全てが一斉に脳裏に甦って押し寄せてきた。
* * *
体の半分が潰されたようになって苦しんでいた若い男が、震えている手を差し伸ばしてくる。彼を取り囲んでいる細かい赤い霧は、彼から失われた血であり、それを吸い込んだのか、苦しそうに顔を歪めて、かすれた声で呟いた。
――楽に……してってくれ……よ……
「できない」
――殺すのが……てめぇらの商売……だろ?
「できないものは、できない」
――じゃぁ……助けて……くれる……のか?
この問いかけにも、俺は同じ答しか持っていない。『できないものは、できない』と。でも、それを俺は口に出して言えるのか? この重傷を負った男に。助けることも、引導を渡すこともできないと。
泳ぐように、逃げ出した背中から聞こえてきた声。
――税金……泥棒……
――殺していけっ!
ザキさんのコンパートメントがある場所目指して、色々な取っかかりを蹴飛ばしながら移動する俺の足首をいきなり掴んできた男が居た。
――なんとかしていけよっ。軍人さんよぉ。あんたらなら、なんとかできるんだろ?
――知らん顔して、通りすぎてくな。なんとかしていけっ。
泳ぐ。取っかかりを探して(できれば構造物にしっかりと固定されている奴がいい)、質量が大きいものに運動エネルギーを与えないように気をつけて……。
――このタコっ。この惨状見て、素通りできるのか。お前はっ!
逞しい大男。筋肉があって、ちゃんと骨に中身が詰まっていて、普段なら豪快に俺なんかを捻り潰せる男たち。なんで軍服を着ているだけで、こんなふうに頼られなきゃならないんだ。
男。男。男。どこまでいっても壮年の男たちばかり。全く。男ばっかりで、色彩感に欠ける街だ。
それでも人間だから、自分や知り合いや、見知らぬ者であっても同じ人間が、潰され、苦しみ、為す術もなく死ぬ行く場所で、自分が何もできないのはあまりに辛くて……。誰だって、なんとかしたいのに、なんともできなくて。
奴らだって、多分分かってる。軍隊っていう集団だったらとにかく、一匹ではぐれている税金泥棒虫は自分と同じように無力だと。けれど、この服を着た人間が、何もせずに通りすぎていくのをみれば、行きどころのない怒りをぶつける格好の的になる。
何度も、何人も、何度も、何人も……伸ばされる手。怒声。弱々しい命の炎が消えようとしている瞬間に直面した溜息。怒り。絶望。
ゼロGでの身のこなしに慣れていない奴らから逃げるのは、テラGで連中が俺をとっつかまえる程度にたやすいことだ。俺は落ち着いて壁を蹴る。怒声が追い掛けてきた。
どこまでも。いつまでも。そいつらは重なっていく。足されていく。大きくなっていく。何もできない俺を責める。
* * *
「……肩……、貸してくれ」
俺はザキさんの肩に手をかけ、彼女をとっかかりに体を移動させて、背後に回り込むと、その細い……と言いたいが、俺よりは数倍みっしりと鍛え上げられた逞しい肩に、顔を押しつけた。パンピーちゃん、悪い、ちょっとザキさん貸して……。
「三十秒……でいい」
何ができる? 俺だってちゃんと一人前に無力だ。
三十秒以上は簡単に過ぎ去ったろう。けれど、俺はまだザキさんの肩に顔を埋めていた。もちろん、俺だって胸の方が好きに決まってるけど、そこはそれ、ザキさんは俺のママでも女房でもない。一応、理性くらいは保っている。
女の子ってのは、誰かが弱っているときには、やさしく我慢強くいてくれる。だから、好きだ。野郎はこういうときに、三十秒過ぎたなどと平気でほざくのだ。
――だからって、甘え続けるのは、男らしくないよね。高柳君。
俺は自分に言い聞かせた。できることを、できるだけやってみる。ベターをかき集めて重ねてベストにする。こいつは、学校のおちゃらけた訓練じゃあない。
「……インストラクターの……オザキ先生……」
「何? いきなり改まって」
「今……で、何秒……?」
「……85秒くらい……かしら?」
「御免、時間オーバーした」
俺は顔を上げる。30秒は人間やってる俺の権利。残りの55秒は只の無駄。反省します。俺はザキさんの部屋に押し入って、灰色のままの総合端末に直行した。やっぱりザキさんはLANモードで再起動するという意味そのものが分かっていないようだ。ケイタイ握りしめて、メールを打ちまくっていたのだろう。
ホント。俺の馬鹿。随分時間が経ってしまった。いい加減そろそろ、マムのオープンチャットスペースに、新しい情報が入ってきている筈だ。俺はまだ一人だ。こいつをなんとか乗り切るには、やっぱりチームがいる。飛竜……。歩ちゃん。お前たちが湧いて出てくれると……めちゃ、助かるんだけどなぁ。あと、アゴで使える実動部隊も欲しいし……。できればゼロGで動き慣れた奴。加悦さんとか、ジョーとか。まぁ、手近にいそうなパンピー柏木ちゃんが、『ザキさんは人質にとった』の呪文で、湧いてくれてもいいよなぁ。
俺は好き勝手な事を考えながら、さっさとコンソールパネルを弄った。そういや、まだ、ライダー・プールのマザ・コンの名前を聞いてない。繋がったら最初に聞かなきゃな。頼りになる、最初のチームメイトだ。


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