迷い狐
あまりの寒さに目が覚めた。意識がはっきりとするほどにその寒さがじわじわと身に染みていく。
上体をゆっくりと起こす。今日は何故だろうか頭に鉛が付いているかのように重く、身体を起こすのがいつも以上に辛い。
後ろに重心が傾くのをむりやり前のめりになることでなんとか重心を前へとかけ直す。それだけで息が切れる。呼吸を整えてからそのまま首を庭の方へ曲げる。
今日はやけに霧が濃いようで庭先にある寒椿の木がこの部屋からは見えないほどであった。
どのくらい霧は濃いのであろう。
布団から出て寒さに身震いしながら、近くにある机を支えにして立ち上がり、よたよたとガラス戸へ向かう。
重いガラス戸がぎぃい、と鳴きながら徐々に冷気が部屋の中へ流し込んでくる。近くにある寒椿の花を愛でようと庭先に足を降ろそうと思った時、ふと目の端に茶色い毛並みを見た。
猫か何かが庭に迷い込んだのかとそちらへ顔を向けると、霧の中にいつからいたのか、椿ほどの濃い紅色の上着を羽織り、その中に白い布地の着物を着た長身の男の姿がいた。
茶色いものを見たような気がしたのに、少し不思議な心地になり、思わず目を見開いた。
こんな寒い中一体何のようかと
「……どうなされましたか」
そう一言かけてみた。
申し訳ありません、そう呟いた気がした。霧に呑まれるように声は私の元に届くまでにいくらか小さくなったように感じた。男がなぜそのような言葉を口にしたのかは私にはわからない。
私の声に怪訝さが滲み出ていたからかもしれない。
その男は端正な顔つきが見えるほどに私へとゆっくり歩み寄って来てから口角をにったりと上げて
「道をお尋ねしたい」
と言った。
「…あ、この辺は道が入り組んでいますから迷いやすいですからね」
「昔からここいらに来る時はいつも迷ってしまうのです」
「そうですか。では簡易的ではありますが地図をお書きしましょう。少しおまちを……紙を取りに」
「貴方には外は寒いでしょう」
「……では、どうぞ部屋にお上がりください」
「私もいいのですか?」
「ぜひ」
私も男のように優しく笑った。
中へ入れると布団に入っていいと言われ、失礼だとは思ったが寒さに耐えられず、男に甘えて布団へ入り、引き寄せた机の上で地図を書こうとする。
さて、と男にどこへ行きたいのかと聞く前に、
「貴女はそんなに薄着で寒くはないのか」
と私の断りも入れずに、濃い紅色の上着を私に羽織らせる。
「申し訳ございません……」
「こういう時はお礼を言いなさい」
その言葉の通り素直にお礼を言えば、男はまた優しく笑いかけてくれた。
途端にごほんごほんと咳き込み、心臓を握りつぶすかのように締め付けてくる胸の痛みに思わず着物を握りしめ背を曲げる。
男はそんな私の背をさすって、嘔吐くように咳き込む私の目尻に涙が溜まっていたのを拭いながら
私が落ち着いたのを見計らった。
そしてかぜですかと男は訪ねた。
「これは、不治の病というもので、やっかいなことにもうずっとこのまま…で………あ、ごめんなさい。あなたにそんなことを」
「……こちらこそ失礼致しました」
「はい」
すぐに言おうと思った言葉を飲み込む。この人に言うべきではないと思ったから。
「いえ、どこに向かわれるのかと」
「そうですね……貴女は道に迷ったことはありますか」
突然の質問に私は少し首を傾げた。どういう意味であろうか。
「道に迷ったことですか?」
「私はいつも迷ってしまうのです。どうするべきかわからなくなった時、こうだとはっきりには決められず結局こうして迷子になっているのです」
「……おかしな人ね、迷ったなら誰かに相談すればいいわ。今あなたが私にこうしているように」
「そうですね」
また彼は笑って
静かに立ち上がり、ついでというように私の頭をゆっくりと撫でた。
「外にある椿を一つ貰ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
それから彼は霧に呑まれ、寒椿の花を一輪持って来て、私の部屋へと帰ってきた。
その花を私の髪に飾りながらぼそりと呟く。
「花は短命」
びくりと私の肩が動く。
私を切なそうに見つめる彼はどんな気持ちでその言葉を口にしているのだろうか。
「知っていますか。椿は花自体がぽとりと落ちていくのに対して寒椿は花びら1枚1枚舞い落ちていく。1枚1枚散っていく様子はまるで、貴方の儚さに比例しているように感じる。だから寒椿は…あなたにぴったりだと思うのです」
「私はあなたの目に儚く写るのでしょうか」
「いえ、けしてそんなことは…………」
長い沈黙の後に彼はそんなことは、ともう一度言った。
更に長い沈黙の後で彼は本当にゆっくりと立ち上がり私に背を向けた。
「もう決まりました。貴方のおかげで行くべき道はしっかりと」
その背中に思わず声をかけてしまった。
「あ……なたは知っていますか」
「何をですか」
「……いえ、やはりなんでもありません」
これは言うべきではないか、言うべきではないのだ。
「はい」
彼はそのまま振り返らずに
「さようなら」
と告げてあっという間に霧の中に溶けていった。
彼の去った後で私はすぐにその場に崩れた。
朝から感じていた身体の不調に、ついにか…と思った。
「会いに……きてくれたのね……」
誰にでもなく私は冷たい畳の上で呟く。
どたどたと世話役たちが近づいてきて私に何かを聞いてくる。よく聞こえない。
人間の私は病弱で短命でどうしようもなく儚い存在。私がこの不治の病に罹ってから貴方を私の死から遠ざけた。
大切なものが失われる辛さを嫌と言うほどに私は知っている。
だから私よりも遥かに長く生きる貴方が少しでもその苦痛を味合わないように……。そう思ったのだけれど。
それに怖かった。醜くなっていく私の姿にあなたの心が離れていくのが。だから私から離れて欲しかったという気持ちも多少はあった。
開けたままのガラス戸から部屋に流れ込んでくるのか霧が更に濃くなって、世界がもやもやと白く濁っていく。その中に茶色の狐の姿を見る。
結局、あなたは私の死に触れることを選んだのね。変わらず私を愛し続けていてくれたのね。
身体の力が抜けていく中でさっき言えなかったことを言った。ちゃんと伝わったかは、もうわからないけれど。
「狐は迷子になんてならないのよ、知っていたかしら」
博識な彼は知っているとは思うけれど。
どうせ最初からこのつもりだったのだ。彼はそういう男だ。優しい狐だったのだ。私はそんな優しい彼を
どうかあなたが、幸せでいられるように
閲覧ありがとうございます。
短命×長寿を書きたいと思っていて思いついたものです。
すべての言葉に意味がある文章を書くのはなかなか難しく試行錯誤しました。
狐さんには幸せにってもらいたいです。