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 一時の休息。
 自らを取り巻く世界から一時だけ目を逸らして、少年はただ、その楽しい時間の中へと身を沈めていく。
〔三十二話〕 遊戯、開始
 その一日は本当に、騒がしいだけの一日となっていた。

「まてぇぇぇぇえ! その首もらったぁああ!」
「いや、ちょっと待てよ! うぁぁああ、やばいってこれ! 何? 何なんだよ!? どう考えても学校の競技じゃねぇぞ!」

 追われる天一と、鬼のような形相でそれを追いかける恵理。どちらかというと天一の援護に回っている康。

 校舎全体を使った大レースに、真紅と空はただただ呆れることしかできなかった。


 唐突に担任の叶から言い渡された事例、もとい命令はいたってシンプルなものだった。

『普通科の校舎で開催される出し物に参加してきてください』

 特別科の中でもえりすぐりの身体能力、それがなければ役に立たないということで選び出されたのが真紅と空だった。愛美も参加したいといって聞かなかったのだが、特別に観戦できるという条件を飲んで、今はどこかの実況席で遊んでいることだろう。

 しかし出し物の内容を聞いたときは度肝を抜いた。

『普通科全生徒参加種目、大鬼ごっこ』

 名前こそ力が抜けるようなものだったが、その内容を聞いたときは真紅も空も、本当に大丈夫なんだろうかと不安に思ったものだ。

 鬼ごっこ、その名の通り鬼ごっこだ。しかしその実態は、少々特殊なものであるといっていい。

 鬼はほぼ普通科全生徒。その中で選び出された生徒十一名が頭にプレートのついた鉢巻きを巻いて逃げ回る、といったもの。精鋭ぞろいの普通科の中でそんなことをしようものならば、一発で袋叩きにあいそうなものだ。

 鉢巻きを取られた場合、取った相手から一つだけお願いを聞かなければならない。お願い、とはマイルドに言っているだけで、ようは単なる命令だ。実現可能なものに絞り込まれるが、人によっては非常に魅力的なもの。

 対照的に最後まで逃げ切った場合、その生徒には相応の景品が送られる。これもまた学園側が実現可能なものならば何でもいい。

 鬼たちの大半は面白い出し物に参加する気分だろうが、恵理のように個人的な感情で動く生徒も少なからず存在している。

 問題はその十一名の中に、真紅と空も含まれているということだった。

「いや、流石に死ぬだろ」
「大丈夫ですよ。朝凪くんと御子柴くんなら、きっと死地を乗り越えてくれます」
「……死地って思いっきり言ってるな」

 最初は乗り気ではなかった二人だったが、叶の出した”景品”を聞いた途端、考えが一転した。

 空には捜し求めていた銃を、真紅には祖父がよく話していた名刀を。それを学園の経費で買ってくれるというのだ。無論逃げ切ったらの話だったが、二人はすぐにオーケーを出していた。


 現実は、されどとても非情なものだ。

 味方、逃げる側に天一がいたことは幸いだった。最初に逃げるルート、手薄な包囲網の位置、敵の種類などを正確に把握でき、対処法もそれなりに練ることができた。

 問題は――


 敵側に鷺村 恵理という化け物が存在していることだった。


「真紅! 空! こっちは一応引きつけておいてやるから、お前たちはさっさと逃げろ!」
「わかった。天! 捕まるんじゃないぞ!」
「わかってるって――の!」

 恵理の拳を中空で蹴り返しながら快活な笑顔を浮かべる天一。それをフォローしているのは敵側のはずの康だった。

『俺の”力”は少し特殊だ』

 彼らが持つ特殊な力、それについて教えられたときは信じきれていなかったが、今の天一を見てみると納得がいく。

 今、天一は何もない場所を足場にして、一気に人垣を抜けていた。

 天一自身は今力を失っている。だからこれは康の力。

 空間を固定し、隔離し、圧縮する。”空間”そのものに干渉する力。手品のようなその力は、しかし使い方によっては最悪の凶器になりえる。

 そんな力を気づかれずに使って見せるあたり、康のサポート能力は相当のものだった。

 そこまでして景品が欲しいのかと天一に聞いたが、彼は快活に笑いこう言った。

『ちょっと恵理と賭けをしててな。負けるわけにはいかねぇんだ』

 どんな賭けをしたのかまでは聞いていないが、どうやら天一にとっては重要な賭けらしい。

 そのために人外の力まで駆使するあたり、常識はずれもいいところだった。だが真紅はそれほど常識がわかるわけでもなく、ばれなきゃいいんだなぁと何とはなしに納得してしまっていた。

「俺は上に向かう。そっちは下に」
「わかってる。気をつけろよ、空」

 三階の階段付近で空と別れ、手すりを伝って階下へと向かう。どこに罠が仕掛けられているか、どこに敵の塊があるかなど、耳元の小型マイクから康が指示をくれる。

『そこを左だ。そっちには簡単にくぐれるトラップと、運動部ではない生徒の部隊がある。そこを抜けて二階の窓から野外へ出るといい』
「わかった。他の二人は?」
『どっちも無事だ。空は屋上からダイブするつもりらしい。天の阿呆はまだ恵理ちゃんと交戦中。でももうそろそろ仕掛けに引っかかる頃だ。心配はない』

 どんな仕掛けなのか一瞬想像しかけたが、蜘蛛の巣のように張り巡らされたネットを手刀で切り裂くことに気を取られ、すっかり思考の外に追いやってしまった。

 十数名の生徒を難なくいなして窓を開け、飛び降りる。幸いなことに地面にトラップはなく、軽やかに着地すると上へと視線を向けた。

 もうそろそろか、そう思った直後、真上から威勢のいい声がいくつも聞こえてきた。

「おらぁ! ここまで追ってこられたら――お前らすごいぞ」

 最初は小さな影だった。それがだんだんと大きくなっていくにつれ、真紅は両足に力を込め、両手を大きく広げた。

「ヒャッホーー!」

 奇声を上げて落下してきた空の体を両手で受け止める。衝撃を少しだけ緩和して、空は一回転を披露し、体操選手のような華麗なポーズをとって見せた。

「どうよ?」
「むちゃくちゃだな、おい」

 もし真紅が衝撃を殺していなかったら、少なからずこの後の行動に支障をきたしていただろう。真紅が受け止めてくれると考えたからこそなせる技だった。

 ふと耳元のマイクから不穏当な言葉が聞こえる。

『すまん! 少しミスった。今からそっちに天が行くから、できれば援護してやってくれ!』

 慌てたような康の声に真紅は三階の窓へと視線を向ける。なにやら大きな音と共に窓が列を成して割れていく。

 破片を避けるためにその場を飛びのくと、三階の窓から一人の生徒が勢いよく飛び出してきた。

「やばっ! 真紅、空! 逃げろ!」

 宙を舞いながら必死で体勢を整えようとする天一の姿がある。それを二人同時に確認した瞬間、逃げようとした体が硬直した。

 天一を追って窓から飛び出してきた恵理。その姿と表情はまさに鬼。実際に追われているわけではない真紅たちですら戦慄を覚える追手に、天一への同情を禁じえなかった。

 空と目配せをして一瞬で作戦を練る。最良だと思える手段を一つだけ引っ張り出して、真紅は空に手を広げるように指示した。

「ちょっと我慢してくれ……行くぞ」

 空の両腕を利用して高々と跳躍する。落ちてくる天一に手を伸ばし、つかんだ瞬間後ろへと引っ張る。天一の代わりに宙へと取り残された真紅だったが、むざむざ鬼に食われてやるために飛び出たわけではない。


 一瞬だけでいい。


 その言葉が耳に木霊した瞬間、真紅は全身の筋肉という筋肉を総動員して一発だけ本気の蹴りを見舞った。

 流石の恵理でも防御しないわけにはいかない。空中で左腕と足を固め、防御の型に転じる。

 攻防がぶつかり合った瞬間、互いの体が逆の方向へと押し出されていく。

 ただ予想外だったことが、一つだけ。

 恵理は防御しながらも、しっかりと反撃を食らわせていた。防御した腕とは逆側の腕、反動を利用して放たれた拳は真紅の右足を強打していた。

 鈍い痛みが脳のどこかに伝わってくる。だが自分のすべきことは、しっかりとやり遂げて見せた。

「――今だ、康!」

 腹の底から声を張り上げて、どこにいるかもわからない仲間に合図を送る。


 瞬間――



――世界そのものが、凍りついた。



 凶器を突きつけられたときのような寒気。その元凶は見えない線をなし、恵理の周囲に四角い”檻”を形成していく。

 猛獣を封印する、絶対の檻。それが世界に影響を及ぼすとき、世界そのものが軋んでいく。

「うそ……け――」

 恵理の表情が色を失う。それと同時に金属がはまったような甲高い音が木霊し、恵理の声が最初からなかったように静寂へと飲み込まれていく。


 一瞬の出来事だった。


 恵理の体は霧に包まれたように一瞬だけ見えずらくなり、その後完全に消失した。

 何が起こったのか定かではない。ただ恵理の華奢な体が完全に世界から断絶された、その非現実的な事実だけが彼らの前に残っていた。

「恵理を隔離したのか、康?」

 着地すると、真紅たちと同じようにイヤホンをつけている天一がそれに向かって声を投げている。

『ああ。だが、そう長くは持ちそうにない。全力で押さえつけてるんだけどな、長くて五分が限界だ。その間に見つからない場所まで逃げてくれ。力を失っているお前や真紅たちなら簡単には探知されないはずだ』
「わかった。わりぃな、無理を言って」
『お前の無理は今に始まったことじゃないだろ? 早く行け。思っていた以上に成長してるな、恵理ちゃんは』

 何事もなかったかのように会話を続けていく天一と康。その内容を自分のイヤホンで聞いていて真紅はただ絶句するしかなかった。

「急ぐぞ、真紅、空。康の力でも少ししか持たないってのは、間違いなく恵理のやつキレてる。隔離がとけたらどうなるわからん」
「……大丈夫なのか? あれ」
「問題ないよ。死ぬほど強力な結界じゃないはずだし、なによりあの程度で死ぬほど恵理はやわじゃない」

 他にもいろいろと気にしなければならないことがあったはずだが、押し寄せていた敵に気を取られすぐに頭の中から消えていく。

 三人は足並みをそろえ、急いでその場から離脱するのだった。

 学園の出し物とは思えないほど過激なものゲームですね、ほんと。

 さて次話からはこの鬼ごっこを舞台に話が進んでいきます。

 ではでは〜。


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