原作バージョン
ガサラに着いたばかりで一文無しのワタルは、キ・キーマが頼んで用意してくれた小さな一人部屋で、ゆっくりとくつろいでいた。
(一人ぼっちだったら寂しくてたまらなかったけれど、キ・キーマという頼もしい仲間が出来たし、少しだけこの世界が好きになってきたよ。これからいくつもの困難が待ち受けているかもしれないけれど、今は考えないことにしよう。今は何もかもから開放されて、ゆっくり過ごしたい。)
ワタルに大きな心の支えになっていたキ・キーマのことを思い浮かべながら横になっていた。
しかし、事件はその日の夜に早速待ち受けていた。
その日の夜、ワタルが寝付いた頃、北の大地から逃げてきた2人組とミーナはこっそりと彼のいる部屋に忍び込んできた。
彼らの手には事件の証拠がしっかりと残っている布団と、一つの袋が握られていた。
“ねえ、この人にこんなことをしていいの?”
“いいんだよ。誰がどうなろうとかまうものか。しょせん、見ず知らずの人だしさ。”
“こんな下等な赤の他人がどうなったところで、おれ達には関係ねえ。”
“でも…。”
申し訳なさそうに小声で問いかけるミーナに対し、2人は全くためらう様子もなく答えた。
そんなことも知らずにワタルはぐっすりと眠り続けていた。
(誰かも分からないけれど、ごめんなさい。でも、私にだってお父さんに会いたいという目的があるの。こんなことをしていいわけないけれど、許してね。)
彼女が消えない葛藤を抱いている中で、3人はワタルの布団をはがした。
そして袋に入っていた血を体の上に撒き、血のいっぱい付いている布団をかぶせた。
用が済むと、彼らは抜き足差し足で寝室を後にしていった。
「やったやった!大成功だ!これでおれ達が罪人にならずに済んだぞ!」
「あとはあいつが牢屋に放り込まれるのを待つだけだね、お兄ちゃん。」
「その通り!楽しみだな!」
「早く朝にならないかな!」
人影のない場所で喜んでいる兄弟を見ながら、ミーナは未だに収まらない動揺の中で、一人悩んでいた。
(これで本当に良かったのかしら。これからあの人はどんな目にあうのかしら。いくら赤の他人と言っても、そういう人にだって家族がいるのよ。待っている人がいるのよ。あなた達が過去に辛い思いをしてきたからって、こんな考え方が許されるわけがないのに…。)
彼らの考え方はこうだった。
・南の連中はしょせん下等な奴らだ。北にいるアンカ族こそが一番優秀な連中だ!
・他人は自分の持ち物だ。いいように利用しろ!そして役に立たなくなれば始末しろ!
・食うものがないのなら、盗んで生きろ!
・南では信じられるのは自分達だけだ!己を信じて生きろ!誰の言いなりにもなるな!
こんな考え方がまかり通っていいわけがないことは、ミーナも分かっていた。
しかし、お父さんを探し出したいという思いから、仕方なく彼らに手を貸している状況だった。
(どうか、物事が大きくなりませんように。あの人が無事で済みますように。)
彼女は心の中でそう願い続けていた。
しかし、そんなミーナの切なる願いは叶うことはなかった。
翌日、彼女は縄でぐるぐるに縛られたワタルが無理やりに連れて行かれるのを目撃した。
まわりには子供を含めた何人もの野次馬が取り囲んでおり、冷たい視線で一方的に野次を浴びせていた。
「ついに泥棒とヒト殺しの犯人が捕まった!」
「嫌ねえ、こういうような人がいると。」
「世の中物騒なものになったものねえ。」
「でもその世の中を物騒にしていた人がこうやって逮捕されたんだし。」
まわりはみんな敵だった。
その中で、ワタルは縛られたまま、震える声で「僕はやってないよ。」精一杯言い返した。
しかしそれは火に油を注ぐようなもので、野次はますますひどくなった。
(僕は無実だ。僕はやってない。それでも僕は無実なんだ。)
ワタルは周りを見ていられず、うつむきながら心の中でつぶやき続けた。
その光景はミーナの心にも深く突き刺さった。
(こんなことになってごめんなさい。出来れば助けに行きたいけれど…。)
彼女は何も知らない、ただの通りすがりの人として、この場を立ち去りたかった。しかしそう思う度に、良心が立ちはだかってきた。
その間にも心無い感情的な野次は続いていた。
(この言葉は私に向けられているわけではないわ。名前も知らない、あの人に向けられているの。私じゃない、あの人よ。私には関係ない。私は関係ない!関係ない!!)
ミーナは自身の良心が立ちはだかる中で、必死に自分に言い聞かせ続けた。
彼女は一人で悩み続けていた。
盗みとヒト殺しの犯人として牢屋に入れられてしまったワタルは檻に手をかけたまま、力なくへたり込んでしまった。
「僕は………。やって…ないよ……。」
座り込んだままのワタルは、それ以上言葉が続かなくなってしまった。
最初は両手でしっかりと檻をつかんでいたのだが、やがてその手は力尽きるように両ひざの上に落ちた。
ワタルは目の前に突きつけられた現実が受け入れられず、わなわなと震えながら呆然と座り続けていた。
時間は止まることなく流れ続けていた。しかし彼の心の中だけは違った。
(嘘だ…。こんなの嘘だ…。夢だ…。こんなことがあっていいのか…。どうしてこんなことになったんだ…。この世界での人の裁き方なんて、こんなものなのか?)
そう考えながら、ワタルは以前カッちゃんと一緒にプレイしたことのあるテレビゲームのキャラクターを思い出した。
そのキャラは本当は何も悪いことをしていないのに、ゲーム中の悪役キャラによって罪をなすりつけられて賞金首となり、その結果ゲームの主人公からも追われる身となってしまい、逃亡生活を余儀なくされてしまうという状況になっていた。
彼はいつどうなるのか分からない恐怖の中で生きている状況だった。
とは言え、これはゲームの中で起きていることだ。
さすがに賞金のために誰かに殺されてしまうというケースまではないだろう。
しかし、今回は違う。これはゲームなんかじゃない。幻界という世界の中で実際に起きていること、まして自分の身に降りかかってきたことだ。
一体これからどうなってしまうのか。
現世では捕まって牢屋に入れられた後、どうなるのか少しは想像することが出来た。
しかしここは幻界だ。異国の地の法律も知らないし、どのような罪を犯せば、どのように裁かれるのかも全く予測出来なかった。
全く分からないからこそ、余計に恐怖が襲い掛かってきた。
その日の夜、卑劣なワナを仕掛けた2人に同行しながら、ミーナはワタルが懸命に無実を訴えながら殴られて気を失った時のことを思い出していた。
脳裏には、彼がまるで怨霊のように恨みの言葉を言い続けている姿がよぎっていた。
『よくも僕をあんな目にあわせたな!』
『覚えてろよ!この恨みは決して忘れないぞ!お前が忘れたって、こっちは忘れないからな!』
『せいぜい今のうちに幸せに過ごしていろ!あとで精一杯不幸な目にあわせてやる!』
実際には言われてもいないことなのだが、それでも妄想は止まらなかった。
そんな中で、兄弟は薄ら笑いを浮かべながら会話をしていた。
「あのガキ、今頃何をしているんだろうね。」
「さあ…。あのおバカで下等なハイランダーに間違って捕まっただろうね。」
「そして、全身を縄で縛られて。」
「牢屋に閉じ込められて。」
「おれ達の代わりに刑罰を受けて。」
「いやー、思い出すと楽しい!」
「あーーーっ、はっはっはっ!」
「ぎゃーーーっ、はっはっはっ!」
その会話は、ミーナの心にも突き刺さった。
(あなた達、どうしてそんなに他人の不幸を喜べるの?いくら理由があるとしても、冤罪は正しいことではないわ。あってはならないことよ。)
出来れば、その会話をやめさせたかった。しかし逆らえば背中をザックリと切られるかもしれない。しっぽを切り落とされるかもしれない。ナイフを突きつけられるかもしれない。
そう考えると、嫌でも彼らに従い続けるしかなかった。
そんな中で、3人は夜道を一緒に歩き続けた。その時、ふと彼らの耳に何かを組み立てるような音が聞こえてきた。
「ねえ、お兄ちゃん。この音、何だろうね。」
「確かめにいこう。そうすりゃ分かるさ。」
兄弟の会話を聞きながら、ミーナは(何かしら。何か催し物でもするのかしら…。)と考えながら後に続いていた。
3人は、木の生い茂っているところまで来ると、隙間から覗き込んだ。
するとそこには信じられないものが作り上げられようとしていた。
(あれは絞首刑台??ま、まさかあの人を処刑しようとしているの…?嘘…。嘘でしょ?こんなことがあっていいの?このままでは私のせいで、無実の人が殺されちゃう…。どうしよう…。どうしよう…!無実の人が…!たまたまあの場に居合わせただけの人が…!)
ハイランダーの連中をバカにしながら喜ぶ2人のかたわらで、ミーナは気が遠くなるほどの衝撃に襲われて顔が青ざめ、わなわなと震えだした。
彼らが目撃した絞首台は、牢屋の中にいるワタルにも見えた。
それを見てから、心の中では恐怖がさらに増大していた。
(死にたくない…。こんなところで死んでたまるか!)
ただでさえ例えようのないくらいの恐怖の中にいるワタルの脳裏には、さらに人々の冷たい言葉が襲い掛かってきた。
『ついに泥棒とヒト殺しの犯人が捕まった!』
『このガキ!まだシラを切る気か!』
こうなってはもはや誰も信じることは出来なかった。
(思えば、お父さんが田中理香子という魔女と一緒に出て行っちゃって、お母さんがガス自殺しようとして倒れて、勇気を振り絞って幻界への扉を開けて…。そうしたら事件の現場に運悪く居合わせただけで、こんなことに…。幻界というのはこんなに過酷な世界だったの?僕はこれからもこんな目にあわなければいけないの?運命の塔にたどり着くまでに、どれくらいの怒りや苦しみや悲しみを体験しなければならないの?やだよ…。もうやだよ。帰りたい。現世に帰りたいよ…。)
嫌になったのは幻界の人達だけではなかった。もはや幻界そのものが嫌になっていた。
「もう耐え切れない。このまま誰の助けもないまま死ぬんだったら…。」
ワタルはとうとう生きることさえも、何もかもが嫌になるほど自暴自棄になった。
「いっそ、この場で…!!」
そう言い出した、その時…!
「いやー、もう最高!あのガキ処刑されるぞ!」
「ざまあみろ、あのケダモノ!」
「あのハイランダーもアホだな。あんなものなんか作るなんてさ。」
「しょうがないでしょ。思考能力のない下等なノータリンなんだから。」
物陰にいる2人の少年は飛び上がるほどに喜んでいた。
一方、かたわらにいるミーナは(私が望んだのはこんなことなんかじゃない…。止めなきゃ…。止めないとあの人が死んじゃう。)と思いながら震えていた。
出来れば今すぐにでも飛び出していきたかった。しかし、その度に自分で自分に待ったをかけてしまい、結局時間だけが過ぎてしまった。
その間にも、台の建設は進んでいた。
やがて兄弟もミーナの雰囲気を察したのだろう。ギロッとにらみつけた。
「お前、何をそわそわしてるんだよ?」
「まさか、あそこまで行こうなんて考えているんじゃないだろうな?」
「えっ?ち、違うわ。私は…。」
「嘘つけ!とぼけたって無駄だぞ!」
「行くって顔に書いてあるぞ!」
「いいか!おれ達のことチクッたらどうなるか分かっているだろうな?」
「生きて帰れると思うなよ。これでザックリやってやるからな!」
そう言いながら兄は指でKI○○ YOU!!のポーズをし、弟はナイフを取り出してミーナの背中に突きつけてきた。
こうなってはもはやなす術がなかった。彼女は恐怖のあまりに声が出せず、金縛りにあったようにその場に立ち尽くしていた。
その時、どこからか「誰だ?そこに誰かいるのか!?」という声が飛んできた。
「やばい!ばれた!」
「逃げよう、お兄ちゃん!」
2人はさっきまでの笑いから一気にさめ、急に慌てふためきだした。
すぐにその場を逃げ出そうとしたが、次の瞬間、まだ動けずにいるミーナが目にとまった。
「何やってんだよ!さっさと来い!」
「足手まといになる気か!」
彼らは次の瞬間、武器をしまって彼女の両腕を力任せにわしづかみにした。そして無理やりに引きずりながら懸命に逃げ出した。
「てめえ、ただで済むと思うなよ!」
「後でかわいがってやるからな!覚悟しとけよ!」
逃げながらも、2人の口からは次々と冷たい言葉が飛び出していた。
「何だったんろう、あの一言は。どうして僕に謝ってきたんだろう…。」
ワタルは犯人扱いされて縄で縛られて連行されている時に、ミーナが言った一言を思い出していた。
“ごめんなさい。”
さっきまでは生きることすら放棄するほど精神的に追い詰められていたのだが、今はあの一言の持つ意味に関心が移っていた。
「分からない…。僕には、その理由が浮かばない。会っていきなりあんなこと言ってくるなんて…。何故なんだろう…。」
(…でも、もしかしたら、あの猫の女の子にも、何かあったのかもしれない。出来ることなら、会って確かめてみたいな…。その理由を…。)
いつの間にか、死に対する考えは心の中から消えてなくなっていた。
結果的にミーナの言った一言は、枯れて干上がりそうだった彼の心のオアシスとなっていた。
一方のミーナはガサラの診療所で、背中をザックリと切られた状態で横たわっていた。
彼女の顔はすっかりやつれ果て、心はもはや手のつけられないほどボロボロに傷ついていた。
もはや生きる意志さえも消えてしまいそうな気持ちになっていた時、部屋にカッツが押しかけてきた。
「お前、大丈夫か?」
そう言われるとミーナは少しだけ顔を上げた。その時、背中に大きな痛みが走った。
「何を…しにきたんですか…?」
「お前から事件当時の状況を聞こうと思ってな。安心しろ。あたしはあんたを痛めつけたりはしないから。」
「その前に…、一つ…聞いてもいいですか…?」
「何だい?あたしは忙しいんだから、手短に言ってくれ。」
「ヒト殺しの罪で…捕まった人は…、どうなったんですか…?」
「ああ、あいつか。あいつはただ牢屋にいるだけだ。心配するな。」
「では…、あの絞首台は…?あの人…、死んじゃうんですか…?」
「あんた、見ていたのかい?」
「はい…。お願いします…。私はどうなってもかまいませんから、どうかあの人を殺さないで下さい…。あの人は無実なんです…。」
ミーナは痛みを必死にこらえ、涙を流しながら弱々しく訴えた。一方のカッツは腕組みをしながら表情一つ変えずに座り続けていた。
「心配するな。死にはしないさ。あれは作戦で建てたものだ。」
「…。」
ミーナは思いもよらないことを言われたせいで、一瞬内容が理解出来ず、黙り込んでしまった。
「聞こえなかったのかい?あの絞首台は作戦で建てたものだって言ったんだよ!あいつを処刑なんかするわけないだろ!ここにだって裁判ってものがあるんだし、冤罪はあたしだって嫌だからね。…って、あんた本気にしていたのかい?」
「はい…。だって…。」
「大丈夫だ。今からはもう本気にするな。」
ミーナはそう言われると、安心したのだろう。絶望的だった表情が少し和らいだ。しかし一方でカッツの表情は厳しくなった。
「ところで、どうしてあんたはあのガキが無実だって言い切れるんだい?」
「えっ?」
「あんたとあいつはお互いの名前も分からない、見ず知らずの他人だろ?それなのに、どうしてあいつが無実だと分かるんだ?」
「…。」
しばらく辺りには静けさが漂った。
ミーナは今までのことを正直に話そうか迷った。出来れば話したかった。しかし、話したらどうなるのだろうかという気持ちがあった。
今の状況は、言わば犯人に「警察に知らせるんじゃないぞ!さもないとどうなるか分かってるんだろうな!」と脅迫されている状態で警察を呼んでいるようなものだ。
なかなか言葉が口から出ずにいると、やがてカッツがしびれを切らしてきた。
「あたしは忙しいって言っただろ!何か知っているんだったら正直に話しな!」
彼女はそう怒鳴ると、ミーナは驚いてビクッと反応した。その時、背中に大きな痛みが走り、顔が苦痛にゆがんだ。
「分かりました…。」
彼女はそう言うと、痛みをこらえながら真犯人は北から逃げてきた2人組の兄弟であること、ワタルはたまたまあの場所に居合わせただけであること、あの血は自分達で用意したものであること、そしてあの兄弟がワタルが冤罪で捕まったことを知りさらには絞首台まで作られているのを見て、ゲラゲラ笑っていたことなど、自分が知っている情報を全て提供した。
すると、それまで冷静さを保っていたカッツの表情が一変し、「あいつらめーー!」と言いながら急にカッカし出した。
それまでどんな状況になっても冷静に対処する人だと思っていたミーナはまた驚いてビクッと反応した。(そして、また背中に大きな痛みが走った。)
結果的にはこれが後にワタルの釈放につながることになるのだが…。
ワタルが牢屋の中で夢を見ている頃、意識の世界の中で、出口のないおりの中にいる大松香織はじっと助けを待ち続けていた。
現世では彼女は未だに何事にも反応しない、抜け殻のような状態だった。
意識の中で、彼女は何度も何とかしようと試みた。しかし自分ではどうすることも出来ずにいた。
その時、彼女の目の前に別のおりが姿を現した。そのおりには自分のとは違い、扉が付いていた。
中には自分より年下の少年が座り込んでいた。
“君はあの時、幽霊ビルの前で出会った人?ねえ、私を助けて。私、ずっとここに閉じ込められているの。お願い!こっちを向いて!”
彼女の叫びが通じたのだろうか。じっとしていた少年はこっちを向いた。
“気づいてくれたのね、良かった。ねえ、私の話を聞いて。私、恐ろしい体験のせいで、幻界のどこかに心を幽閉されてしまったの。どうかそれを見つけ出して!これは私一人ではどうすることも出来ない。誰かに見つけ出してもらうしかないの!”
その訴えが届いたのだろうか、少年は何かを言ったようだった。しかし香織には聞こえなかった。
“ねえ、何を言ったの?私の言ったこと通じたの?お願い、答えて!一足先に幻界に来た現世の人は、何も聞いてくれなかった。どんなに訴えても、だめだった。自分のことしか考えていなかった。もう、君しか頼れる人がいないの!”
彼女は必死に訴えた。すると、少年がこっちを見つめたまま、また何かを言い出した。どうやらよく聞こえなかったので、確認をしようとしたようだ。しかしやっぱり聞き取れない。
すると、少年は誰かに呼び出されたのだろうか。急に立ち上がると扉を開けて外に出てきた。そして彼女に背を向けて歩き出した。
“ねえ、どこに行くの?私を置いていくの?お願い!私を一人にしないで!どうか助けて!”
訴えてもその歩みは止まらなかった。みるみるうちに後ろ姿は小さくなっていき、やがて見えなくなった。
香織はおりの中でがっくりとひざをつき、その場にへたり込んでしまった。
もはやどうすることも出来なかった。この訴えがワタルの心に届いてくれたことを祈るしかなかった。
まだ背中の大けがが治っていないミーナは、ベッドの上で怯えながら横たわっていた。
(ついに真実を話してしまった。もしあの2人が押しかけてきたら私はどうなるのかしら…。今の状態では私では逃げるどころか動くことも出来ない。覚悟するしかないのかしら…。)
ミーナの脳裏には良からぬ妄想ばかりが浮かんでいた。
その時、ドアをノックする音が聞こえ、続いて扉が開いた。
(まさか…。いよいよその時が…。)
彼女の心には絶望的なまでの緊張が走った。
次の瞬間、目にはワタルの姿が映った。
あの2人ではなかったので、一瞬ほっとしたのだが、またすぐに緊張が走り、ビクッと反応した。それと同時にまた背中に痛みが走った。
(何?何をしに来たの?まさか、復讐に来たの?無実のあなたを処刑寸前にまでした私に仕返しをするために?)
もし仮にそうだった場合、自分が身を守る術はなかった。もはや運を天に任せるしかなかった。
神様!!
極度の緊張の中でミーナは祈った。
その時、ワタルの口からは思いもよらない言葉が飛び出してきた。中でも「ありがとう。」という一言は、ミーナの心に深い印象を与えた。
優しそうに語り掛けるワタルに対し、彼女は驚いた。
(どうして?私のこと、恨んでないの?私はあなたをあんなひどい目にあわせた人よ。それなのに、どうしてこんな私なんかに優しい言葉をかけてくれるの?)
しばらくの間起こった現実を理解出来ず、彼女は唖然としていた。
そうしているうちに、ワタルは彼女に背を向け、部屋を後にしていった。その様子をミーナは痛みを我慢しながら見つめていた。
(信じられない。まさか「ありがとう。」なんて言ってくれるなんて。)
時間が経過してもお礼を言われた理由は理解出来ずにいた。しかしワタルの言った、そのたった一言が、絶望のふちにいた彼女の心に一筋の光をもたらしてくれた。
(あの人に恩返しをしたい。こんな私を許してくれたあの人に。そして出来るなら、あの人と一緒にいたい。)
いつの間にかミーナの心には、生きる希望がわいてきた。そしてふと顔が赤くなった。
まだ彼の名前も知らずにいたが、頭の中ではひたすら優しい表情をしたワタルのことを思い浮かべていた。
ミーナに会ってきたワタルは宿に戻り、承諾を得た上で仕事に取り掛かり始めた。
何かを頼まれれば積極的に引き受け、一度は地に落ちてしまった信用を取り戻すために一生懸命働き続けた。
その中で、彼は冤罪について考えていた。
(今回は本当に怖い思いをしたけれど、世の中には冤罪で苦しんでいる人達が大勢いるんだろう。もうあんなことは2度と経験したくないけれど、せめて冤罪で被害を受けた人や、被害を与えた人がいたら、その人達のために何かしたい。そして生きていればきっとやり直せるって、伝えてみたいな。)
この事件を通じて、彼の心はまた一つ成長しようとしていた。 |