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早く起きた朝には
作:sagitta




 その日曜日、あたしはたまたま朝早くに目が覚めたんだ。
 小鳥のさえずる声がして、ゆっくりと目を開ける。
 身体を起こしていつもの習慣で、目覚まし時計に手をかけた。
 あれ? そういえば、目覚まし鳴ってないや。
 まだ半開きだった目をこすり、小学校の頃から使っているちょっぴり薄汚れたデジタルの時計をまじまじと見つめてみる。
 表示された文字は、『05:36』。
「うわ、はやっ」
 思わずつぶやく。
 寝つきのよさだけがとりえのあたしは、毎日学校に遅刻しないぎりぎりの時間にどうにかこうにか起きている。ましてや休みの日はいつもお昼近くまで寝ていて、八時台に起きるのだってめずらしいくらいだ。
 自慢じゃないけど、五時台になんて、思い出せる限りの一番古い記憶をさかのぼったって起きた覚えがない。
 ……うわ、本当に自慢じゃないや。
 とにかく、あたしがこんな時間に、すっきり起きるなんて全く前代未聞のことだった。
 ん? すっきり?
 そういえば、目が覚めてからまだいくらも立ってないのにやけに頭がすっきりしている。
 低血圧気味のあたしは、いつもだったら起きてから数分、場合によっては十分以上ぼーっとしているのに。
 これは、めずらしいこともあるもんだ。今日はなんかいいことがあったりして。
 何も知らないあたしは、その時ふと、そんなふうに考えた。別に本気でそう思ってたわけじゃない。
 まさか本当にあんなことが起こるなんて、その時のあたしは思ってもみなかった。
 とにかく、休みの日のこんなに朝早くに、しかもすっきりと目覚めるなんていう、いつもでは考えられない事態が起きたんだから、せっかくならいつもしないようなことをしよう、とあたしは考えた。
 部屋の南側にある窓に掛かった、あたしのお気に入りの薄緑色のカーテンを開けてみると、まだ目覚めたばかりの太陽の光が、あたしの部屋を満たした。
 窓の外に広がるのは、ちぎった綿菓子のような軽そうな雲がふわふわと浮かぶ、真っ青な空。どうやら、お天気もすこぶるいいらしい。
 よし、散歩でもしよう。
 反射的に、あたしはそう思った。
 あたしは普段、歩くのはあんまり好きじゃない。
 学校までは家から歩いて十五分くらいだけど、いつも時間がなくて走っているせいか、学校に着く頃にはへとへとになってしまう。そんな時はいつも、ああ、どこでもドアがあったらいいのにな、とか思う。
 あたしはきっと、生まれつき歩くということに向いてないのだ。決して、あたしがずぼらだったり、運動不足だったりするのが原因ではない。ないはずだ。
 だけどその時は何故か、散歩をしよう、と思ったのだった。
 きっと、カーテンを開けたときに部屋に飛び込んできた太陽の光があんまり暖かかったから。
 それに、そのときに見た空があんまり青かったから。
 だからあたしは、散歩なんてものをしたくなったのかもしれない。
 とにかくあたしは、さっそくパジャマを着替えて、散歩の準備をし始めた。
 そして何分か後にはすっかり準備を終えて、オレンジ色の紐のついた、白いスニーカーに足を通していたのだった。




 外に出る前に、ふと、家の中を振り返る。
 音はない。痛いくらいの静寂。
 静かなのは、好きだけど苦手。
 耳から入る音ってのは、目で見た映像よりもずっと、心の奥底にズカズカと入ってくるものだと思う。それに、目を閉じるのと違って、耳は簡単には塞げない。
 だから、音がない世界ってのは心の中に邪魔が入ってこない状態。自分で自分の心を、見つめられる状態。
 そうすると心は、どんどん色をなくしていって、透きとおった、純粋なガラスのようになってくる。自分の心が、自分に見透かされちゃうんだ。隠していたいのに。たくさん飾りをつけて、誤魔化したいのに。なのに心はどんどん裸にされて、見たくないものまで見えてしまう。だから苦手。
 幸いにも、あたしは家族と一緒に住んでるから、本当に静かな時間なんてそうそうない。部屋だって薄っぺらいふすま一枚で仕切られただけの、居間に隣接したものだし、そのふすまだって寝るときや着替えるとき以外は基本的に開けっ放しのオープンな家庭だから、どうしたって誰かの声や動く音があたしの耳には入ってくる。
 だから、本当に静かなのは、今みたいにまだみんなが寝静まってる時間だけ。もちろんいつもはあたしも一緒に寝静まってて、あたしが起きる頃にはもうみんな起きてるから、家の中がこんなに静かなのを感じたのは、あたしにとってははじめてかもしれない。
 あたしは、初めて感じた、心が透き通っていく感覚から逃げるように、ドアを開けて外の世界に飛び出した。

 あたしが音を求めて飛び出した外の世界は、けれど、やはり静寂だった。
 早朝、目覚めたばかりの町は、あたしが知ってるのとはまったく別の世界だった。
 空気が違う。まだ少しだけ寒さが残る朝のピンと張りつめた空気。それは力強い太陽の光線をやわらげ、拡散させて、粉々になった光のかけらたちがふわふわと宙を舞っていた。
 それはまるでおとぎ話の中の夢の国みたいに幻想的で、そこが、あたしが毎日見ているあの冴えない町だなんて信じられないくらいだった。
 そんなふうに思った後、静寂のせいで透明になってむき出しになった自分の心を覗き込んで、あたしは泣きそうになった。
 世界ってさ、こんなに綺麗なんだよ。
 あたしのこの歪んだ心にふさわしくなんかないんだ。
 だけどね、あたしは、ああ、思ってしまったんだ。
 ここに、この世界に生きたいって。生きていたいって。




 その時、静寂に慣れきって半ばマヒしていたあたしの耳に、音が飛び込んできた。
 ――泣いているの?
 その音が、声であると気づくまでにはしばらく時間がかかった。
 声? 誰の?
 あわててあたりを見回してみても、寝起きの町はシン、と静まりかえっていて、人影ひとつ見当たらない。
 ――ここだよ、君の足元だよ。
 今度ははっきりと、声が聞こえた。
 ガラスで作った鈴の音のような、高くて透きとおった声。まだ汚れていない幼い子供のような、あどけない声。
 その声に導かれるように、あたしはゆっくりと視線を足元に落とした。
 だが、もちろん足元になんて誰もいるはずがない。
 ただあるのは、ひび割れたアスファルトの道路と、その隙間に懸命に咲く小さな黄色い、タンポポの花。
 そっか、さっきの声はこのタンポポだったんだ。
 納得しかけて、ふと我に返る。
 あたし、何考えてるんだろ。タンポポがしゃべるわけないじゃないか。
 ――どうして、しゃべるわけないの?
 そりゃ、タンポポは植物だからだ。
 しゃべるのは人間だけ。タンポポは人間じゃない。
 ――本当に、しゃべるのは人間だけなの? 君は、僕の声が聞こえるんでしょ?
 だから、これは単なるあたしの幻聴だってば。
 だって、こんなのおかしい。普通じゃない。
 ――フツウってなに?
 普通ってのは、みんなと同じってこと。
 みんなと同じものが見えて、同じ音が聞こえて、同じように笑って、同じように泣いて、それから……。
 ――君は、フツウなの?
 ……。
 そうだった。あたしは普通なんかじゃなかった。
 突然、何もかもが可笑しくなってきた。
 唇の端が上がって、口が笑う形になる。
 頭の奥の方が、氷を押し付けられたように、キン、と痛みを伴う冷たさを感じる。
 顔はすっごく熱いのに、頭の奥だけが、やけに冷たい、ヘンな感覚。
 それから自然と、目から涙があふれてくる。
 頬に、熱いものが伝わってくる。
 あれ、おかしいな。
 あたし、笑ってるのに。
 泣いてるんじゃないのに。
 ――どうしたの?
 あたし、普通じゃないの。
 みんなと同じように笑うことも、泣くこともできない。
 みんなが教室で楽しそうにしゃべりながら笑っていても、あたしだけ教室のすみで本を読むふりをして、じっと俯いている。
 そんなあたしが、みんなと同じなはずがない。
 普通な、はずがない。




 ――フツウじゃないと、いけないの?
 そりゃそうだ。
 普通じゃないとおかしいんだ。
 普通じゃないと仲良くなんてなれないんだもの。
 普通じゃないとみんなと一緒に、生きていられない。
 普通じゃないと。
 私の居場所はない。

 教室の中で、みんなの居場所が決定するのはびっくりするくらい早い。新しいクラスになって一ヶ月もすると、女の子の間にはそれはもう明確なグループができて、それぞれの居場所が決定する。
 誰かをグループに入れるかどうかの基準が、「普通かどうか」だ。みんなが持ってる、それぞれの「普通」の基準に合っているかどうかを照らし合わせてグループを作っていく。
 表面は笑顔で、あくまでも静かに穏やかに、でも心の奥ではみんな必死だ。お互いの心を探りあい、この子はグループに入れても大丈夫かどうか、慎重に検討する。
 そりゃそうだ。一度グループに入れて、「友達」の宣言をしてしまったら、簡単には裏切れないのだから。「友達を裏切る」ってのは、最も許されない、重大な罪だ。友達とはいつでも仲良く、同じ話題で笑い、同じ相手に怒り、同じ事で泣かなくちゃいけないんだ。
 だから、友達になるかどうかの判断はとても慎重になる。あとで気が合わないことに気づくなんて事はあってはならないから、相手に欠陥がないかどうか、しっかり見極めないといけない。何を考えてるかわかんないとか、人に合わせるのが苦手とか、いつも雰囲気が暗いとか、そういう子は慎重に「友達」の候補から外しておく。だってそんな子、後で相手するのかったるいもん。
 そうやって候補から外されて、どこにも行けなくなったのがあたし。
 誰の「普通」の基準にも当てはまらなかった、普通じゃない子。
 それが、あたし。
 



 ――君は、ダメなの?
 タンポポは言った。
 少しの非難も憐れみも含まない、純粋に疑問だというふうな声で。ガラスの鈴のような、高く透き通った声で。
 君は、ダメなの?
 君は、ダメなの?
 君は、ダメなの?
 あたしの頭の中で、その声が渦をまいて、ぐるぐると回る。
 大きくなったり小さくなったり、近くなったり遠くなったり。頭の中が映画館になったみたいだった。
 あたしは。
 あたしは、あたしは……。
「あたしは、ダメじゃない!」
 気がつくと、あたしは叫んでいた。
 声には出さず、でも張り裂けんばかりに。
 なぜか、身体が熱かった。
 本当は、分からなかったんだ。
 自分がダメじゃないなんて、そんな自信は少しもなかった。
 けれど、胸の奥にある何かが、いつもは鍵をかけてしまっていたはずの何かが、あたしの意思に反して、飛び出していった。
 ――誰かに認めて欲しかったの?
 違う、そうじゃない。
 ――認めたくないの?
 たぶん、それも違う。
 ――信じたかった?
 ……うん。
 ――何を?
 あたしを。
 その時あたしは、気づいた。あたしの中から飛び出していったものの正体を。
 それは、あたしだった。まぎれもなく、あたし。
 自分はダメだと決め付けて、そうすることで自分を守って、本当のあたしを押し殺して。
 でも、本当は、いやだった。それでよかったわけじゃない。
 けれど、そうしないと自分が惨めで、耐えられないから、だからあたしはあたしを押し殺した。
 だけど、あたしは死んでいなかった。あたしはあたしの中で、かすかに、でもずっと生きていたんだ。

 ――君は、ダメじゃないよ。
 タンポポは言った。
 やっぱりなんの憐れみも慰めもない、ガラスの鈴のような声で。




 その声はゆっくりと、まだ少し冷たい朝の空気に冷やされてこごえていたあたしの心を、溶かしていった。頭の奥にあった氷の塊が、パキン、と音を立てて砕け、それからすぅっと溶けていく。
 あたしは、震える声を励ましながら、言葉を紡いだ。
「あたしはここに、この世界に、いてもいいの?」
 タンポポは、答えなかった。
 ただ黙って、まだ柔らかい太陽の光を受けて、軽やかにアスファルトの道を駆け抜けるそよ風に揺れている。
 あたしはただ、誰もいない早朝の町に立ち尽くしていた。
 とてつもなく長いような、ほんの一瞬だったような。
 あたしはそのまま、そこに立っていた。
 小鳥が、鳴いていた。かすかな、軽やかな鳴き声が、あたしの周りを覆っていた静寂を穏やかに溶かし、あたりに時間が戻ってきた。
 気がつけば太陽はだいぶ高く昇っていて、柔らかかった陽ざしも力強さを帯びはじめている。張りつめていた空気は静かに緩み、あたしの肌を優しくくすぐる。
 町が、ゆっくりといつもの、あたしがよく知っている町に変わろうとしていた。
 だけどあたしはもう、それを冴えないだなんて思ったりしない。
 そこには、綺麗な、幸せなものがたくさんある。
 あの、ガラスの鈴のような声の、タンポポのように。

 あたしは、うんと伸びをして、くるりと回れ右をした。
 朝の散歩はおしまい。そろそろ家に帰ろう。
 家に帰れば、いつもどおりの、平凡な休日が待っているだろう。
 いつもと変わらない日常。当たり前の日常。そして……大切な日常。
 
 ひゅぅっ。
 日常への帰り道の一歩を踏み出したあたしの横を、一陣の風が通りすぎた。
 その風に導かれるように、あたしは一度だけ振り返る。
 あたしの目が捉えたのは、優しい風を受けてくすぐったそうに揺れる、小さな黄色いタンポポの姿。
 そのガラスのような声が、聞こえたような気がした。
 ――おはよう。


女の子が主人公の小説に挑戦してみました。













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