戦闘の原則その五・「機動の原則」って何?
みなさん、軍事で「機動」と聞くと何を思い浮かべるでしょうか?
現代戦、特に第二次大戦初期のドイツによる「電撃戦」を思い浮かべる方や、コッポラの「地獄の黙示録」ヘリによる襲撃と兵員輸送、八輪トラックや兵員装甲車による部隊移動などを思い浮かべる方も多いと思います。え?機動戦士ガンダX?まあ、モビルスーツを装甲戦闘車輌の未来図と考えるのなら、それも間違いではありませんね。
しかし、戦闘の原則で言うところの「機動」とは、これら近代的な移動手段や攻撃の事だけではありません。
今日はいきなり戦例から入りたいと思います。二つの例を上げましょう。
羽柴秀吉による「中国大返し」と、史上唯一の電撃戦と言われるナチスドイツ軍による「ベネルクス・フランス侵攻」です。まずは秀吉の中国大返しから。
天正十年(1582年)六月三日、備中(岡山)高松城を包囲攻撃中の羽柴秀吉の下に驚愕の知らせが届く。主君、織田信長が明智光秀に討たれたというのだ。
当時、秀吉は史上有名な「備中高松城の水攻め」(映画になった「のぼうの城」忍城の石田堤はこの備中高松攻めの再現を狙ったものです)を敢行中。攻められた毛利方の清水宗治も敗北を認め、開城やむを得なしという頃合いだった。
秀吉の判断は素早かった。後衛を残し全軍反転、明智征伐を決意する。
秀吉は直ちに使者を送り毛利方と和睦、高松城主清水宗治の潔い切腹を見届けると、毛利方にばれぬよう慎重に反転の準備に掛かった。
二万を遥かに超す軍勢が備中を発ったのは六日のこと。まずは八十キロ東にある秀吉の拠点、姫路城を目指す。運悪く台風が接近し暴風雨の最中だったという。
羽柴軍が姫路に着いたのは何と翌日七日夕刻。
ここで秀吉は強行軍で疲れ果てた軍勢を到着順に休ませ、心機一転、二日後の九日に全軍姫路を発つ。
さすがにその頃には毛利方も異変に気付き始めており、反撃も心配された。しかしさすがは秀吉、抜かりなく手を打っており、もしも毛利が動けば背後の山陰から織田方軍勢が襲い、また備前(岡山)には秀吉配下の宇喜多勢を後衛として配置する。
後背の憂いを払拭した秀吉は、不退転の決意を示すためか、姫路城を空っぽの状態にして発ったという。
秀吉軍は備中高松から姫路を目指した一日目よりはペースを緩め、十一日の午後、兵庫の尼崎に到着。
備中高松から尼崎までは百五十キロ。これを休止二日を引いて三日半で踏破した計算になる。日に換算すれば三十キロ強の速度。これは二十世紀の歩兵とほぼ同じ行軍速度と言える早さだった。
翌日六月十二日には京の入口山崎の地で明智軍と対峙、翌十三日、天王山の戦いとも呼ばれて有名な山崎合戦を行い羽柴軍は大勝利、秀吉は天下取りの門を開いた。これが世に言う明智の三日天下だった。
それにしても、まさか光秀も信長を討った一週間後に天下が自分から逃げてしまうとは想像も出来なかったことでしょう。この秀吉の「中国大返し」は、戦国時代の数あるエピソードでも一二を争う歴史的偉業だと思います。
さて、時と所は打って変わり……・
1940年5月15日。第二次大戦が始まっても西部戦線は両軍対峙のまま九ヶ月が経ち、まやかし戦争等と揶揄されていたが、遂にドイツ軍が先に動いた。
三個軍集団に分かれたドイツは北方の軍が中立国オランダに侵攻、南方の軍はフランスが誇る大要塞ベルト地帯「マジノ線」からのフランス軍侵入に備え守備を固める。そして中央では。
中央の軍(これをA軍集団と言います)の前にはベルギー領アルデンヌの森が広がっている。ここは常識的に戦車や装甲車が通行するには困難な土地と言われていた。
道はくねくねと九十九に折れ曲がり、流れる川は渓谷を作りその川岸は深い崖、車一台がようやく通れる石橋でつながれ、その周辺は起伏のある深い森林地帯だった。
そんな森林地帯の北、フランドル平原は戦車に最適な広い田園地帯が広がっている。ならば第一次大戦でもそうであったように、ドイツ軍はベルギー北部を通ってやって来るに違いない。そう考えていた連合軍(フランス・イギリス)は、ドイツ北方の軍(B軍集団と言います)がオランダとベルギー北部に侵攻するや一斉にベルギー国内へ進出、ベルギー軍と並んでドイツ軍を迎え撃つ態勢を取った。しかしその頃、突破困難と思われた森では……
ハインツ・グデーリアンはドイツ軍気鋭の将軍で、電撃戦の父とも目された人。この時、ドイツ軍中央のA軍集団において最強の機甲軍団の指揮を任されていた。
彼はアルデンヌの森を配下の三個戦車師団や他の機動部隊で見事に突破、フランス軍の軍管轄境界線にあったセダンの街を急襲する。
ここはフランス軍に属する二つの軍の、いわば縄張りの境目。軍の境界は互いに譲り合ったり牽制しあったりが発生する弱い場所と見られていた。
それでもフランス軍は頑強に抵抗し、グデーリアンはセダン前面に流れるムーズ川を渡るのに損害と時間を費やしてしまう。
フランス側はドイツ軍が戦車を渡河させる前に自軍の戦車部隊を送ってドイツ軍を粉砕しようとした。ところが、せっかくの戦車部隊の到着を待たずにとんでもないことが起きる。
セダンの南にいた砲兵部隊にセダン方面から逃げて来た兵士が告げた。
「ドイツの戦車部隊が川を渡ってセダンを攻撃している。セダンの街中はドイツの戦車で一杯だ」
兵士はそう言うや一目散に南へ逃げていった。すると砲兵部隊にも不安の虫が湧いて来る。大砲は動かすのに時間が掛かるし戦車部隊と接近戦を戦うようには出来ていない。戦車が来る前にもっと後方に下がっておいた方がいいのでは?
砲兵部隊が下がってくるのを見たフランス軍戦車部隊。
「そんなに慌ててどこへ行くんだ?」
「ドイツ軍がセダンを突破した。戦車がやってくるぞ!」
そう言いながら砲兵部隊は下がっていった。
戦車部隊の指揮官も不安に駆られる。セダンの街まで行って戦えという命令、そのセダンが陥落したのならむやみに進まずここで防御の態勢を取った方がいいのでは?
その頃、当のセダンは陥落などしていなかった。しかし、叱咤激励しながら渡河の準備を進めたグデーリアンは、ようやく最初の歩兵部隊の渡河を始めることが出来た。
片や、フランス軍。頼みの援軍、特に戦車は一向にやって来ない。やがてドイツ軍歩兵の敵前渡河が本格化するとここでも恐慌が始まる。ドイツ軍の渡河を見た兵士が、「戦車がやって来る」と叫びながら逃げ出す。それは次々と兵士の間に伝染し、自然と全面退却につながって行った。
遂にセダンの川岸はドイツの手に渡り、ムーズ川には鉄の仮設橋が架けられ「本物の」戦車が渡って行った。
セダンのムーズ河を渡れば、その先は戦車指揮官が夢に見るような道路の整備された広い土地。グデーリアンは自ら装甲車に乗り、部下と共に出せる最高速度で街道を突っ走った。
その異常なほどの速度はフランス軍ばかりでなく彼の上官ですら慌てさせるに十分だった。
上官のドイツ軍司令官は「砲兵部隊が追いつくまで停止しろ!」と爆走するグデーリアンに停止命令を出すが、彼はなんと命令を再三無視、先へ先へと戦車部隊を駆り立てて行く。
その速度は逃げる民間避難民を追い越し、視察に来たフランス軍高官を捕虜にし、退却するフランス軍すら追い抜いてしまうといった勢いだった。
立派な舗装道はドイツ戦車のハイウェイとなり、沿道のガソリンスタンドは格好の戦車の給油所となった。こうして後方からの燃料補給を待たず、戦車部隊はどんどん先へと進んで行く。見慣れぬ戦車が走って来たかと思えば黒い制服に身を固めた戦車兵がふざけて手を振る。それを見てフランス住民は即座にフランスの負けを悟ったのだった。
味方の援護を頼めないほど先に進み過ぎた部隊は、孤立して敵に包囲されるもの、という常識も、グデーリアンには通用しなかった。フランス軍はドイツ軍のスピードに合わせることが出来ず、包囲はことごとく失敗してしまった。
そして遂にドイツ軍はドーバー海峡へ到達。カレーやブローニュと言った港町は次々にドイツ軍が占領してしまった。これでフランス軍、イギリス軍、ベルギー軍が包囲されてしまった。
包囲されたベルギー軍やフランス軍は降伏し、英軍は有名なダンケルクの奇跡(ダイナモ作戦)で武器装備を大量放棄して命からがら英国に逃げて行った。
これが史上唯一の電撃戦成功例として語り継がれています。
ドイツの電撃戦については別の原則で再び検討しましょう。
秀吉の中国大返しは、機動の原則の良い例と言えます。敵が驚くほどの速度で軍を決勝点(軍事で決戦の舞台・時点のこと)へ導く。これは「集中の原則」に通じ、「主動の原則」とセットで爆発的な威力を発揮します。明智光秀を暗澹とさせた秀吉のスピード。フランス軍が恐慌に陥ったドイツ軍のスピード。敵が対応に苦労するスピード……
「機動」とは「主動」と「集中」に欠かせない要素であり、攻撃側は速度を重要視します。
しかし機動は攻撃だけでなく防御側も考慮すべき原則です。「戦力節約の原則」とセットで、守るべき決勝点に最良の軍を注ぎ込む。攻撃側が動く前に素早く無駄なく動く。これを「機動防御」と呼びます。
しかし、このように壮大で一見無茶苦茶な行動が成功するには次の第六の原則が関わって来るのです。
その原則とは「指揮統一の原則」。これについてはまた次回お話ししましょう。
こぼれ話
ある将軍の話
彼は1891年11月15日、ドイツ帝国ヴュルテンベルク王国の数学教師次男として生まれる。
第一次大戦では歩兵将校として西部戦線で戦い、後に山岳歩兵部隊へ異動、ルーマニアやイタリアで活躍、ドイツ帝国の殊勲章プール・ル・メリート章を受ける。
第一次大戦敗戦後の困難な時期、エリートしか残れない縮小した軍隊に残り、実戦経験のある優秀な将校として兵学校の教官勤務をする。自分が勲章を獲得した時の戦闘を豊かに表現し、彼の授業は大人気だったらしい。後にその講義のメモを一冊の本として発表、ベストセラーとなる。
教官勤務を終えた後は1934年、山岳歩兵大隊長に昇進。そこで運命の出会いがあった。ドイツ首相がある祭りを見学することになり、その護衛を彼の大隊が務める事となり、首相はその大隊長が気にいった。その後、首相は大統領をも兼務する「総統」となる。総統の名はアドルフ・ヒトラー。ヒトラーは度々自分の護衛を卒なくこなした彼に総統護衛大隊の指揮を任せる。
第二次大戦開戦直後のポーランド戦でも彼がヒトラーの護衛を務め、ヒトラーは前線を視察したりした。
その際、護衛大隊長はヒトラーにおねだりをする。自分を最新の戦車師団長にしてくれ、と言うのだ。
ヒトラーは、参謀勤務も陸軍本部勤務もせず、山岳歩兵や護衛兵しか指揮をした経験がなく、戦車は全く専門外だったこの男の願いを聞き入れ、ポーランド戦後に再編された第七戦車師団の師団長に命じた。
師団長となった彼は最新の機甲戦理論を猛勉強、特に戦車のエキスパートだったグデーリアン将軍の考える「電撃戦」を知る。
やがて、彼が実戦再デビューする時が来た。ドイツ軍の「ベネルクス・フランス侵攻」の開始だった。
彼の第七戦車師団はグデーリアン軍団の北側、ホート将軍の軍団に属し、アルデンヌの森の北辺を西へ突進、最大の障害だったムーズ川を渡河する。
その際、隣の師団に用意された架橋資材を勝手に使い、終いにはその師団の一部部隊まで自分の指揮下に加えてしまう。もちろん隣の師団長は激怒して上に訴えるが、彼は涼しい顔をして「隣がグズグズしているから」と取り合わない。
ムーズ川を越えた彼も、南側を同じく西へ行くグデーリアンと競うかのように突進、同じように上からの停止命令を無視して突っ走った。
余りの速さにフランス軍は驚き狼狽し、攻撃もそこそこに逃げ出す者もいた。彼の師団を止める筈のフランス軍の機甲師団は、貨車から戦車を降ろしている最中に襲撃され、そのほとんどの戦車が一発も大砲を撃つ間もなく破壊されてしまう。
海岸までの途中、アラスという町でイギリス大陸派遣軍の戦車部隊に攻撃されるが、これも陣頭指揮で防御、イギリス戦車を撃破し撃退した。
それまでの目覚ましい戦い振りは、彼自身が常に携行していたライカ(カメラ)によって撮影され、ヒトラー達上層部にアピールする。自分用に用意された偵察観測機に乗り、空から陣形や進路を確認したり、撮影したりした。何より攻撃の勢いを大事にした彼は、自分の部隊を常に走らせ、いつしか第七戦車師団は神出鬼没から「幽霊師団」とあだ名されるようになる。
この成功でナチス党上層部ばかりでなく国民からも大人気者となった彼は、後に北アフリカでイギリス軍相手に勝利を重ね、「砂漠のキツネ」とあだ名されるようになる。
彼の名はもっとも有名な軍人として、誰もが(軍事に詳しくなくとも)一度は聞いたことがあるはずだ。
彼の名はエルヴィン・ヨハンネス・オイゲン・ロンメル。あのロンメル将軍その人である。