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夢コロガシ
作者:猪原賽
ジャンルは「童話」に設定しましたが、「児童文学」として執筆しました。


   ◇◇◇ プロローグ ◇◇◇

 散る桜が闇を舞っている。
 風は一方向に走るのではなく、空き地の中を縦横無尽に走っていた。花びらがその風の軌跡を描いていた。
 音はなかった。夜の空気は春先にも関わらず冷たかったけど、身体の芯は春めいたままで、さすがに冬は過ぎ去ったのだと実感できた。
「明日の手術、失敗するかもしれない」
 言葉の意味とは裏腹に、少女はにこやかにつぶやいた。
 東京にはもうめずらしくなった空き地と、その真ん中に積み上げられた土管。そのてっぺんに座って、少女は星空を見ていた。
 少女はパジャマ姿だった。肩から薄いカーディガンをはおり、そのそでが花びらと同じ方向に揺れていた。
 土管の側面に少年が身体をあずけ、立っていた。野球帽をまぶかにかぶり、少女と微妙な距離感をたもったまま、つまらなそうにグローブとボールをいじっていた。
 少女が少年に目を向けた。少年が無言のままなので、気にしたらしかった。
「予感よ、予感。大丈夫、あたしの予感、外れるの」
 にこやかな表情は変わらなかった。
 少年は振り向き、少女に何かを言いかけた。
 ――が、少女の行動がそれをさえぎった。少女はいつの間にか手にしていた卵、を少年に放り投げたのだ。
 少年はグローブで卵を受け取った。
「ナイスキャッチ」
 と、少女はウインクした。
 少年はその卵を手にした。
 ただの卵ではなかった。握ればカンタンにつぶれそうな、殻だけのものだった。ただ、赤や黄色の顔料で何か幾何学的な模様が描かれていた。
「それ、預けとく」
「何これ?」
「ピサンカ」
「?」
 少年は卵――ピサンカをのぞきこむ。よく見れば金や銀の染料も使っているらしく、細かい模様は見れば見るほど見事なものだった。
「イースターエッグとも言うわ。キリスト教の感謝祭の飾りなんだけど、ホントはウクライナのお守りみたいなものでね、新しい生活とか春の始まりを象徴する希望のお守りなの」
「お守り?」
 イースターエッグは、旧ソ連のウクライナ地方に発祥するもので、もともとウクライナ語でピサンカと呼ばれていた。(ちなみに複数形だとピサンキと言う。)卵は新しい生命を生むもの。だから卵には神秘的な力が宿るとされていた。新しい希望、新しい生活を象徴し、その卵に装飾や色付けをして飾ることで、繁栄を祈るためのお守りとしたのだった。
「うん。手術終わったら返してもらうけどね。病室にしばらくいなくちゃならないじゃない? だからお守りだけでも孝太と一緒に。外にいたいから」
 二人は見つめあった。孝太と呼ばれた少年の神妙な顔に対して、少女は笑顔を絶やさなかった。
「……そのピサンカはあたし(・・・)。自由な生活を夢見て、中で冬が去るのを待ってるの。だから孝太が持ってて」
 孝太はピサンカを、割れない程度に力強く握りしめた。その決意の表情に満足したのか、少女はまた空を見た。桜の花びらがいっそう舞っていた。
 星空に風が見えた。
 孝太は少女の栗色の髪に風を見た。少女の柔らかい髪は風にさわわ ……となびいていた。
「あたし、前からずっと旅人になりたかったの。見える? この風」
 その言葉に、孝太は初めて空を見た。
「……?」
「世界にはいろんな風が吹いている。これは、ココでしか見れない風。それと同じように世界中のいろんなところで、ここでは決して見れない風が吹いてるの。空気の色も、温度も、味も、どことして同じものは無いのよ。だから、あたしはその全部を感じたいの」
 空を見ていた孝太は、ハッと気づき、さっきまでいじっていたボールを取り出した。そしてそのボールを少女に差し出した。
「これ、やる」
 少女は不思議そうにボールを両の手で受け取ったが、ボールを転がし見て再び笑顔を見せた。――ボールには汚い字で、孝太の名前が書かれていたのだ。
「俺のサインボール! 手術のお守りのつもりで持ってきたけど …」
 少女はボールから孝太に視線を戻した。表情は変わらず、にこやかなままだった。
 孝太は言葉を続けた。
「おまえならそれ、売っていいぞ!」
「え?」
「将来プレミアつくんだ、それは。歴史に残る日本人メジャーリーガーが書いた初めてのサインボールだからな! だから本来は売っちゃいけない貴重品だけど、おまえなら売っていい! 売って旅の資金にしてくれ!」
 常ににこやかだった少女の顔は、今夜一番の笑顔になり輝いた。
「……ありがとう……!」
 一段と大きな風が吹いた。
「だから、がんばれよ! 真美!」
 真美と呼ばれた少女は大きくうなづいた。
 その瞳からこぼれた雫は、桜の花びらと共に風を描いた。
 風は二人のまわりを旋回し、夜空へ大きく舞い上がった。


   ◇◇◇ 一・夢不況の町 ◇◇◇

 孝太はカーテンを閉めようとした。
 朝起きた時開けたのに、またすぐ閉めるのは変な気がする。でもそうしないと学校から帰って来た時、部屋の中が異常に暑い。お母さんは孝太が中学生になったとたん、「自分のことはできるだけ自分でしなさい」と言って掃除をしに入ってくることもなくなったので、自分の部屋に限って掃除も窓の開け閉めも孝太の仕事だった。(そもそもお母さんは夏に入ると二階が暑くなるのは充分承知していて、家事以外の時は、昼間はたいていエアコンの効いたリビングで、ワイドショーとかのテレビを見て過ごしているようだ。)だから孝太は学校に行く前にカーテンを閉める。
 窓の前に立ち、ふと窓の向こうを見た。窓の向こうは隣の家の子ども部屋。
 向こうもカーテンが閉まってるけど、そのカーテンはこの一年と三ヶ月、一度だって開いたことがない。
 孝太はカーテンをつかんだまま、ちらりと自分の机の上を見た。
 孝太は机に自分が座った時の目の位置に、ピサンカを置いて飾っている。小さな置物用座布団にのっけているのは、もちろんピサンカが転がらないように。
 ピサンカ。イースターエッグとも呼ばれる、ウクライナの卵のお守り。
 ウクライナってどこ?
 それはまぁ、あんまし子どもが知っている場所じゃあないか。地中海の右のほう、黒海という内海の上に位置する、元ソ連邦だった東ヨーロッパの国なんだけど、孝太ももちろん名前を聞いたことがあるくらい。
「どっか、国!」みたいな意識だった。
 国がどうとか特に興味もなかったし、ピサンカを返すとき気になったら訊けばいいやくらいの感覚。でも返す機会のないまま、一年と三ヶ月が過ぎていた。
 退院したらピサンカを返して欲しいと言っていた真美は、退院はしたものの、自宅療養をしていた。
 桜舞うあの晩から、孝太は真美を一度も見ていない。
「あの部屋にいる」、そう親に聞かされただけで、カーテンの布地以上の真美っぽいところは見ていないわけだ(真美はピンクっぽいものと花全般が大好きで、カーテンもピンク地に何かツタで連なる花びらが描かれていた)。
 近頃では本当にあのカーテンの向こうに真美がいるのか、正直自信がない。親はお見舞いにも行かせてくれないし。
 ピサンカは真美自身だと真美は言ったが、確かににそうだった。
 だって(・・・)孵らないまま(・・・・・・)ずっとそこにいる(・・・・・・・・)のだから。
 孝太はカーテンを閉めた。まだ七月だというのに、朝からもう首筋にじっとり汗をかいていた。
 孝太は扇風機のスイッチを入れた。納戸から出したばかりの扇風機。じっとりとした肌に風が当たるとすごく涼しい。
「ああああ……♪」
 ついでに無意味に声を震わせてみたりして。
 扇風機が涼しいのは汗の「気化熱」のためだと習ったのは去年だったかな。つまりこの閉め切った部屋は、どんなに扇風機が回っても気温が下がるわけじゃあない。
「役立たずめ」
 孝太は扇風機のスイッチを切ると、なんとなくその頭を殴った。
 変に満足した孝太はカバンを持って下に下りて行った。
 閉め切った部屋からも、
「いってきまーす!」
 と、孝太の声はよく聞こえた。

 孝太の通学路。学校までの一直線の道、その手前の角。
 そこに急に現れた、人だかり。
 人、人、人。
 ただし中学生だけ。学生服とセーラー服の人だかり。
 この角にあるのは小さな公園だ。もとはと言えば孝太の思い出の空き地だったんだけど、この年の春、小さな公園に生まれ変わっていた。
 空き地だった時とひとつだけ変わらないのは、真ん中に立っている桜の木だけだった。土管は当然、もうない。
 通勤してるサラリーマンはさっさか駅まで歩いて行くし、まだ幼児を連れたママ達は朝ごはんの片付けをしてるはず。あと小学生の通学コースはちょっとだけズレている。
 だから朝の公園は誰もいない。
 だから人だかりはめずらしいが、それが中学生だけってのは、もし人だかりができるようなことがあるなら、それは当然だった。
 そして中学生に囲まれた真ん中に、頭ひとつ突き抜けた男が一人。
「ほッ、ほッ、ほッ」と、掛け声と共に身体を揺らしていた。
 そこを無視して学校へ行けるほど、孝太は冷静な中学生じゃなかった。
 孝太は同年代の子供に比べて背が低いほうだ。人だかりに駆け寄ったまではいいが、中で何やってるか、まるで見えない。
 最初は何回か飛び跳ねて見ようとしたけど、すぐそれは無駄だと思った(男がみすぼらしい、つばの大きな帽子をかぶっていることがわかっただけだった)。
 孝太はおもむろに四つんばいになり、皆の足もとを割って入った。
 足の下から見上げると、そこには例の帽子をかぶった大きな男。
 男はこの暑いのに、帽子と同じ色の、みすぼらしいマントをはおっていた。でももう何もしてなかった。うやうやしく皆に礼はしてたけど。ちょうど今、何かが終わったらしくて、皆はまばらに拍手をしていた。
 孝太はそれにつられて、何も見ていないのに拍手をした。そして男の手を見た。
 男の右手にはウサギのパペット人形。
 男の左手にはカメのパペット人形。
 男は礼をやめると、大袈裟なそぶりで人形に話しかけた。
「上手いねぇ、キミ達は。おかげでオジサンは拍手をもらえたよ。ありがとう。……でも、五つだとどうかな?」
 男と会話するように、人形の口はパクパクパク。
「大丈夫ダヨ、五ツクライ余裕サ」
「余裕サ」
 ウサギのセリフに続き、カメが言葉を繰り返す。腹話術ってやつだ。男はこれがすごく上手い。口が見事に動かない。しかも二体の人形の声は、きちんと別個性。声色が完全な別物。
「…すげぇ」
 思わず孝太はつぶやいた。
 大道芸人を見るのは初めてだ。
「みんなも見たいかい?」
 男は「イエス」の言葉を期待して皆を見回したけど、何か照れくさいのか皆は無言。でもまばらに拍手をした。……孝太だけはひときわ大きく拍手をした。
 男はまた大袈裟にうなづいた。
「じゃあ見せてあげなよ、ハンプティ! ダンプティ!」
 そう言うと男は、
――ぽん!
 と卵を、口から産んだ。
 孝太はつい、
「うわ!」と声を上げてしまった。
 たぶん孝太が来る前も同じ芸をしたんだろう。孝太はまわりの皆に失笑されてしまった。
 急激に顔が熱くなる気がしたが、
「どうもありがと!」
 と、男が孝太にだけウインクしてくれたので、孝太はなんだかホッとした。
 男の口から産まれた卵は、ウサギの人形に落ち、すぐその手からカメの人形に。
「OK! 行クヨ! ハンプティ!」
「行クヨ! ダンプティ!」
 カメは受け取った卵を空高く投げた。
「ハイッ」
「はいッ」
ここで孝太がわかったのは、カメの名前がハンプティで、ウサギの名前がダンプティだということ。
 ハンプティとダンプティ、そして男は目まぐるしく手を雨後がした。
 卵一個だったジャグリング。卵がダンプティからハンプティを経由して、再びダンプティに帰って二周目に入る時、男が口から卵を産んだ。その卵もダンプティからハンプティへ渡され、二周目に入った時、三個目の卵が男の口から産まれた。そうして立て続けに産まれた卵が最終的には五個。
 五つの卵でのジャグリングが難しいのは当然として、その上この男はパペット人形の()でしている。つまり人形の中の親指と小指で卵をやわらかく受け取り、投げている。
 それだけでも充分タイヘンそうなのに、男は時々卵を口で受けて飲み込んだり、出したり。ジャグリングの輪の中の卵を四つにしたり三つにしたり、五つに戻したりと、リズムも単調じゃなくて、()は見ていて飽きなかったし、その証拠に「おおおおおおお!」と、拍手が自然発生した。孝太も心から男に拍手を送った。
「はいッ」
「ハイッ」
「ハイッ」
 と、男とハンプティとダンプティがほぼ同時のタイミングで掛け声をかけると(腹話術で、だ!)、男の口に卵がひとつ、ハンプティとダンプティの口には二つずつの卵が収まった。そして次の瞬間、
――ぽん!
 と音がすると、三人(一人と一羽と一匹?)は口の卵を飲み込んだ。いや、飲み込んだように卵が消えて無くなった。
「おお~~~ッ」と観客はどよめいた。
「さて」
 男の背後、公園の壁にはスーツケースが立てかけられていて、男はそれを自分の目の前に持ってきた。いや、パペット人形をはめたままだから、ハンプティが持ってきた。
 ダンプティがケースを開けると、そこには棒が何本か。男はその棒を手なれた様子で……、いや、しつこいがハンプティとダンプティが手なれた様子でやぐらのようなものを組み立てて、その上にスーツケースを乗せた。すると瞬く間に簡易的な机の完成。
「お疲れさん、ハンプティ、ダンプティ」
「ナーニ、気ニスンナ」
「気ニスンナ」
「コレガ俺達ノ仕事ダ」
「仕事ダ」
「じゃあほら、並べないと」
「ソウダナ」
「ソウダナ」
 並べる? 孝太はもちろん、他の皆も「何を並べる?」って思った瞬間。
 ハンプティの口から卵がポン!
 ダンプティの口から卵がポン!
 さっきのジャグリングで使ったものだろう、ハンプティとダンプティの口から立て続けに卵が産まれ、ごていねいに彼らの()で卵がスーツケースに並べられた。
 皆はこれが大道芸の一連の流れだと思ってた。ボケを期待してたんだ。まぁそれはその期待どおりに、ある時ハンプティは卵が出てこなくて困った顔をした(ように見えた)。意味深なゆっくりしたモーションで、ハンプティは男を振り返り見た。すると男の口から、
――ぽん!
 と、卵が出てきた。ハンプティはあわててその卵を受け取って、間髪入れずにダンプティに放った。ダンプティも自分が出した卵をハンプティに放り、彼らが投げた卵は男の目の前でクロスオーバー。
 これが無意味にクドい演出をするアクション映画なら、スローモーションにするところだ。
 お互いが投げた卵をお互いが受け取って、またスーツケースに並べた。
 この時も軽く拍手が起きた。
 結果的にジャグリングで使った数より多いと思われる卵が、スーツケースにびっしり並べられたところで。
「さてお立会い!」
 急に男の口調が変わった。
「ここにありますタマゴたち! 誰が呼んだか魔法のタマゴ! ハンプティダンプティとはこのタマゴのことでございます!」
 皆はなんだか空気が変わったことに気が付いた。いやいや、最近の中学生は目ざとい。そうカンタンにだまされはしない。
 男はすぐ気がついたはずだ。皆の顔が、テレビで芸を見る顔でなく、通販番組を見る顔に変わったことを。
 でも男は冷静に、見た目だけは冷静に芸を続けた。続けるしかない。続けなければならない。
 男がスーツケースの中の卵を「ハンプティダンプティ」と呼んだから、パペット人形はこう言う。言うしかない。言わなければならない。
「オイ、ソレハ俺達ノ名前ダゼ」
「名前ダゼ」
「いやいやこれは、ハンプティでもダンプティでもありません! ハンプティダンプティでひとつの名前! ハイそこのあなた!」
 男は両腕がパペットなので、指差すわけにはいかないんだけど、男の視線で誰が「あなた」と呼ばれたか、だいたい想像がつく。孝太の隣に立っていた少年だ。
 急に「あなた」と呼ばれ戸惑ってる少年に、今度は確かに、ハンプティが指を差す。
「ソコノキョロキョロシテル、オマエダヨ」
「オマエダヨ」
「……え? ぼく……」
 これで「あなた」と「ぼく」は一致。男はうなづくと、
「あなたの〝夢〟は何かな?」と質問。
「……夢?? えーっと……」
「ハイそこまで!」
「……え?」
 最初から答えなど期待していない。そんな間で、男は回答時間を打ち切った。
「答えはけっこう。わかる。ボクにはわかる! 少年、どうせ大した夢なんか持ってないんだろう?」
「………」
 答えをさえぎられた少年は、不機嫌な顔をしたものの、言われたことは事実だったらしくて、肯定の無言。
「キミ達、夢はお持ちかな。夢と言ってもいろいろあるよ。夜中に寝て見る荒唐無稽な夢話。アレになりたいコレになりたい将来自分の就きたい仕事も夢ならば、サンタや魔法を信じる心もこれまた夢。ところが最近この夢を、どれもこれも失った人ばかり。目が覚めれば夢なんか見なかった。将来なりたいものなんかない。サンタ? 未だに? 知ってるかい。こういう世相を――世相。わかる? 世の中の流れ。こういう世相を〝夢不況〟って言うんだよ。はぁ……、情けないよオジサンは」
 完全に皆はシラケムード。察していない男でもなさそうだけど、途中でやめるわけにはいかないのがこういう状況。注文電話がかかって来ないからといって、通販番組の放送を中断するわけにはいないのと一緒。
「さてそこでこのタマゴ!」
「何ノ因果カ俺ラト同ジ、名前ハハンプティダンプティ」
「ハンプティダンプティ」
「キミらの無くした大事な夢を、山ほど詰めた魔法のタマゴ!  ……ま、実はゆで卵なんだけどね」
 それまでリズム良く啖呵を切っていた男は、急に普通のことを言った。パペット人形のハンプティとダンプティはズッこける身振りをしたが、もはやシラケムード全開の中学生達は、クスリともしなかった。
「ソレヲ言ッチャア、オシマイヨ!」
「オシマイヨ!」
「いやいや、いーんです。これはゆで卵。――ただし! 食べると見れる、夢一夜。これでもう〝夢不況〟は怖くない! 乗り切った! 感動した! キミらに夢を咲かせましょう。失くした夢はハンプティダンプティがキミらに見せてくれるんだ。キミだけに、黄身だけ食べよう、夢タマゴ」
 引き気味だった皆の空気が、一気に沖まで引き切った。駄目だこんなダジャレは。ていうかそもそもフレーズがいちいちまるで古くてダサい。
 さすがに男も気がついた。場の涼しさが最高潮に達したことを。(急激な引き潮からの津波かな? お、うまいね。)
 不思議と冷や汗を垂らしたパペット人形、カメのハンプティとウサギのダンプティも、顔を見合わせる。
「……黄身ダケジャ駄目ダヨ、オッサン!」
「……駄目ダヨ、オッサン!」
「……あ、そうね」
 人だかりの後ろのほうで見ていた中学生が、失笑まじりで去って行く。
「ちょ、ちょっと待っておくれよ皆々様。ほら見て、見て見て見て、魔法のタマゴ、ハンプティダンプティだよ! 今なら一ツ三百円!」
「たっけ!」
 うん、たぶん相当高い。ゆで卵としては。
 すでに去り際を探していた皆は、これを合図にぞろぞろぞろと離れていった。
「ちょ、ちょ、ちょっと待っておくれよお富さん。一ツじゃケチだったかな。物の始まりが一ならば、国の始まりが大和の国、島の始まりが淡路島、泥棒の始まりが石川の五右衛門なら、ケチの始まりがこのあたし!」
「ケチダ、コノオッサン!」
「ケチダ!」
 腹話術も自嘲的になってきた。
「一ツデ三百円? 二ツで三百円ハドウダ、オッサン!」
「ドウダ、オッサン!」
「二ツ? 三ツ…、いや四ツでどうだ。四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れる御茶ノ水、イキな姐ちゃん立ち小便。白く咲いたか百合の
花、四角四面は豆腐屋の娘、色は白いが水臭いってね」
「そしてオッサン、ケチ臭い!!」
 間髪入れずにツッコミの声が上がった。
「!!」
 正直、男はビビッたようだった。
 ツッコミを入れたのは、孝太だった。
 いつの間にか、男の周りの人だかりは完全に消え、孝太だけが目の前に座って見ていた。
 二人の間に、夏だというのに秋風が吹いた。いや、男には寒い風だったが、孝太にとっては熱い夏の風だったようだ。
 孝太は非難や叱咤のためにツッコんだんじゃなかった。つまり、本当にその場が楽しくて、ワル乗りしただけ。大道芸を見るのは初めてだったし、流ちょうに転がる啖呵売(たんかばい)(もちろん孝太はそんな単語知らないし、啖呵売のセリフの意味も理解していないけれど)も聞いてて心地よかったし、何より男の売ろうとしている夢タマゴ ――ハンプティダンプティが欲しくてたまらなかった。
「買うよ、買うよオッサン!」
 孝太はポケットをまさぐった。 
「俺こーいうの大好き!!」
 ポケットから出した小銭を数える孝太。
 その手にカメのハンプティとウサギのダンプティが近づき、のぞきこむ。
 孝太の手には、五十円未満の小銭が数枚あっただけ。それを指でいちいち指しながら、金額を調べてるけど、誰の目が見てもこりゃあ絶対足りない。
 男はタメイキをついた。
 孝太は男の意気消沈にも気づかず、声に出して、
「十円、二十円、……七十円、七五円、あ、もう一枚五十円玉だ、百二十五円……」と数えている。
「……あげるよ」
「え?」
 孝太がお金を数えている間に、きっと片付けることも慣れてるのだろう、男はスーツケースを畳み、すでにこの場を去る準備が完了。ハンプティとダンプティさえも仕舞われ、男の右手には一個だけ、彼の言うところの夢タマゴ ――ハンプティダンプティが握られていた。それを孝太に「あげる」と言ったのだ。
「いーの?」
「あぁ、ちょっと待って」
 そう言うと男はタマゴを空に掲げ、光に透かして見た。中身が見えるのだろうか。
 そして軽くうなづくと、
「タダでいーよ。大した夢じゃないし」
 と、孝太にタマゴを手渡した。
「やりぃ!! あんがと! オッサン!」
 孝太はぞんざいに礼を言うと、走って学校へ向かって行った。
 男は浮かない顔で孝太を見送った。
 そしてまたタメイキをついた。
「もうこの商売も潮時かなぁ……」
 いつの間にか、男の背後には一人の少女が立っていて、男のマントをグイッと引っ張った。
 年の頃は孝太と同じだろうか。ボブカットの黒髪に、「天使の輪」と呼ばれる艶やかな光沢がきらめいていた。顔は色白というよりは蒼白と言ったほうが正解かもしれない。そんな肌色。だけど、不思議と不健康な感じはしない。変に大人びた表情をしていた。
 男はその少女の頭を撫でた。
「〝夢不況〟だってわかってたのに、またこの町に戻って来ちゃった。あいかわらずだ、この不況っぷりは。オジサンの仕事は本当に潮時なのかもしれないな」
「……でも、」
 少女は小さな声で、一言言った。表情は曇っていた。
「……そうだな」
 男は空を見た。大道芸をしていた時のおどけた顔はなく、何もかも見透かしているような、大人の、真面目な目。
 風が吹いた。
 それは男がスベった時の冷ややかな風じゃなかった。
 公園の落葉樹がざわめき、葉が舞い散った。
 男のマントが大きくはためき、渦を描いた。
 そのマントの内側に、男も、少女も、消え去った。
 誰もいなくなった路面に公園の葉が小さく舞った。
 この町の名前は、夢喰町むくろちょうと言う。


   ◇◇◇ 二・夢タマゴ、そのお味 ◇◇◇

 ――昼休み。
 話をハショり過ぎだって? いやいや、その間、実際大したことは起きていない。いつもどおりの事だ。いつもどおりに孝太は授業を受け、いつもどおりにちょっと昼寝をして怒られ、いつもどおりに給食を残さず食べた。
 それでもここであえて取り上げろと言うのなら、孝太の担任の先生は美人だ。
 野崎ヒカル。大学を出て四年目に孝太達のクラスを担任した、文字通りの美人教師。
 スリーサイズは 90・60・90。美人なだけでなくて完璧なスタイルも持ち合わせている。いつもタイトなミニスカートをはいていて、男性教師の目の保養になっていることは間違いない。
 男子生徒の間でも野崎先生が好きな奴は少なくないが、なぜかみんなあんまり口にはしない。好きだということを公言すると、「トシマニア」なんて呼ばれるらしい。(つまり年増好きの年増マニアの略だけど、今どきなんて造語だ! それにほとんど略していない。略したのは「ま」だけだ。)
 もともと誰か中年の男性教師が口走った単語が一人歩きしてるだけという噂もあるが、どっちにしろ中年教師が新卒社会人を指して「年増」などと言うこともおかしいので、噂は噂でしかないのだろう。
 女生徒の間でも評価は二分されていて、好きな者はカッコイイ大人の態度にあこがれると評するし、嫌いな者は単純に「エロおんな」とあだ名つけたりしている。
 少なくとも、女性としての武器を惜しみ隠さず発揮する、若いわりには、やり手の女教師と言えるかもしれない。事実生徒にも上司にもへつらうことなく、フェミニンを越えたスーパーセクシーでありながら、女言葉を一切使わない理論派の教師だった。はっきり言って矛盾。
 しかしその二つを武器として自分の意思を通さなかったことはないというから、声を小さくして言うが、ファンは〝M〟の人かもしれない。(ちなみに〝M〟ってのは「まったく、たまりませんな」の略。ホントだよ)
 ただし、孝太だけは野崎先生のことを評価も批判もしていなかった。セクシーなのは認めるが、あんましそういったものに興味はないお年頃。まだまだこれからです。
 話を戻そう。――昼休み。
 孝太のクラスの次の授業は体育だ。
 クラスメートはこの時期の体育と言えば、自然とプールの話になっていた。
「あっついよなぁ!」
「早くプール入りてぇよなー」
「掃除まだだっけ?」
「あぁ、なんか二組の奴が来週だって言ってたぜ」
「プールはいいけどプール掃除は勘弁だなー」
「今年はウチのクラス担当じゃなくて良かったよなぁ」
 クラス替えは毎年するのに、プール掃除は毎年持ち回り。つまり運が良ければ一度も掃除しないし、運が悪ければその逆もあり。
「しっかしあっついよなぁ」
「プールなぁ……」
「あの……」
 そんなどうでもいい会話をするクラスのカタマリに、眼鏡をかけた地味な生徒が一人加わった。
「…みんないいよな。…ぼく近眼だから」
「?」
「?」
「?」
「……ほら、体育は男子と女子とに別れるでしょ。同じプールにいても、端と端に分かれてさ。……眼鏡外さないとプール入れないでしょ? ぼく全然見えなくて」
「な、か、ね~」
 勘のいい男子生徒はもう意味がわかったようで、ニヤけながら「中根」と呼んだ眼鏡の生徒をひじで突っついた。
「??」
「?」
 他のまだわかっていない様子の生徒達のために、中根くんは言葉を続ける。
「……女子なんていーんだよ、あんなガキんちょの水着なんて見たってさ。……だけど先生の……」
 他のわかってなかった生徒もそこまで聞けばわかったようで、みんなで盛んに中根くんを突っつき始めた。
「このトシマニア!」
「中根はトシマニア!」
「……だって先生の水着見たいじゃん、いいなー! いいなーみんな! その目をくれよぉオォ!」
 中根くんは地味な生徒だったが、「トシマニア」という称号を得てクラスメートと仲良くしているようだった。みんなに突っつかれ、
照れ、
「何だよォお、もう!!」
 変なテンションで突っつき合いを始めた。
 それを遠巻きに見るアンチ野崎の女子生徒は、
「エロおんな好きのネクラとバカが……」と非難をささやき合ったり。
 中根くんのようにカミングアウト出来ない隠れ野崎ファンの男子は、変に野崎先生の水着姿を想像して顔を赤くしてたり。
 そこで孝太はどうかというと……。
 そんな喧騒とは無縁に、朝通学路で大道芸人の男にもらった夢タマゴ ――ハンプティダンプティを取り出して眺めていた。
 見たところ、ただのゆで卵だ。孝太は、
(ピサンカみたいに装飾がありゃ、それっぽいのにな)
 と、ぼんやり考えていた。
 ――ピサンカ。孝太がお隣の幼馴染の真美にもらった、ウクライナのお守り。
 ふと隣の席を見た。いつ、真美が帰って来てもいいように、そこは真美の席として空いたままだった。
 プリントや配布物があった時、机の上に置かれたそれを勝手に取り、真美の家に届けるのが孝太の役目。この一年と三ヶ月の間ずっとそうだ。
 だから孝太の隣は、この一年と三ヶ月の間ずっと真美の席だった。――そこに他のクラスメートが座ることはなかった。必ず空席……いや、真美の席。プリントのたぐいしか置かれたことがなく、それもすぐ孝太がカバンにしまう、それだけの席。
 再びタマゴを見た。ピサンカのような装飾の無い、ただのタマゴ。
 確かに、ただのゆで卵でなくピサンカのような装飾でもあれば、三百円という値段が高いとはそうカンタンに思わないだろうし、ジャグリングの芸も見栄えがするかもしれない。
(でもな……)
 ピサンカみたいなものだったら、割りたくなくなるだろうなとも思う。食べたくても割るのがもったいないよ、たぶん。
 事実、今孝太はトシマニアの中根くんを中心にしたクラスの喧騒の隙になら、この夢タマゴを食べられそうな気がした。だったら殻を割らないと。ピサンカみたいだったら、たぶんそれにちゅうちょすると思う。
 ちょうどその時。
 野崎先生をエロおんなと言ってはばからないクラス委員長の女子が立ち上がり、
「ちょっと男子ィ!!」と叫んだ。
 突っつき合いがこうじてバタバタと追いあけっこになりかけてた男子の一団が、その声に動きを止めた。
「いいかげんにしなさいよね! 次体育なんだから、そろそろ準備しなさいよ!」
「うっせぇ、ブス!」
「な!?」
 ブスと揶揄されたクラス委員長の女子は驚いた。それはブスと呼ばれたからじゃなくて、ブスと揶揄した男が、トシマニアの中根くんだったからだ。繰り返すが中根くんは、クラスで地味なほうだ。トシマニアという特殊なキャラを付けてからでないと騒ぎに参加できないタイプの人間。普段はネクラで通ってる。
「ブスなガキが嫉妬してるんじゃねーよ! 先生のことさんざエロおんな呼ばわりしてよ! くやしかったらそのウエスト半分にしてみろ、土管女!」
 中根くんは今、あきらかにおかしい。
 ブスな上に土管と呼ばれたクラス委員は、スーっと青ざめたかと思うと、目に手を伏せて廊下へ向かって駆けてった。
 チャンス! クラスの騒ぎをいいことに、孝太はタマゴの殻をむき、口にほうばっていた。
 味? 味は普通のゆで卵だった。
 なんか拍子抜けだった。
 教室のドアが開いた。
 まさに廊下に出ようとしていた涙まじりの委員長は、またタイミングが悪いことにドアを開けて入って来た野崎先生に正面からぶつかった。
――ぼゆ……ん
 委員長の顔は、うまいこと野崎先生のバストに埋もれた。
「あ……!!」
 と間髪入れずに叫んだのは、当然中根くんだ。
 一度顔の埋もれた委員長は、一瞬の間を置いて、進行方向とは逆に跳ね飛び、しりもちをついた。
 中根くんと突っつき合っていた男子達も、委員長が野崎先生にぶつかって跳ぶまでの一瞬のタイムラグを材料に、先生のバストの感触を計算したらしく、すかさず、
「お……!」と感嘆の声を上げた。
「?」
 野崎先生はクラスの様子がつかめないようで、とりあえず目の前でしりもちをついた委員長を立たせると、廊下でなく、席に返した。そしてドアを閉め、教卓に立った。
「おまえら、次の授業だが」
 クラスメートが全員席に着くのを待つために、言葉を切ったまま、野崎先生は動かなかった。その高圧的な生徒コントロールは野崎先生のいつもの手だ。みんなすごすごと各々の席に戻った。静かな教室に、委員長のすんすん泣く声が異様に響いた。
「――暑いな」
 不意に野崎先生はつぶやいた。なぜかクラスのみんなは、ゴクリとノドを鳴らした。
「あー暑い、暑い」
 野崎先生はブラウスの第一ボタンを外した。そして、
「今日はなんでこんなに暑いんだ」と、こぼしながら、まるで踊るかのようにブラウスを脱ぎ、床に捨てた。
 ――当然上半身はブラ姿になった。
 教室の、校内放送用スピーカーから、軽妙な音楽が流れてきた。
 音楽に合わせて、野崎先生は本格的に踊り始めた。
 孝太は戸惑った。なんだこりゃ。
 まわりを確認してみた。孝太のななめ後方で、中根くんが鼻血をこぼすがままにしていた。血の池が広がる中根くんの机。
 野崎先生は教卓の上に座り、足をまっすぐ天井に伸ばした。さらにスカートに手をかけ、脱ごうとした。それに興奮した中根くんが、
「お、お、おお……」
 と声を出したのをきっかけに、教室がドッと沸いた。
 エロへの期待に、男子は、
「先生ッ! 先生ッ!」
「最高ッ!!」と、感嘆と歓迎の言葉を上げ、
――ピィピィーッ
 と口笛で先生をあおった。
 先生はスカートを下ろし、ギリギリのところで指を止めた。
――ピィッ! ピィーッ
 中根くんも顔を真っ赤にして指笛を吹いた。
 先生は中根くんに目線を向けた。そして「しぃっ」と指を立てると、スカートを戻した。中根くんだけでなく、クラスのいろんな場所から、あからさまに失望した声が上がった。
「セクハラよ!」
 失望の声のタイミングに合わせて、女子の声が響いた。さっきまですんすんと泣いていた委員長が立ち上がったのだ。
 それまでただ黙っていた女子達が、委員長の声を合図に、口々に文句を言い始めた。
 右から左から、野崎先生のストリップ擁護派と非難派の怒号が聞こえ、孝太は困っていた。
 なんだこりゃ?
 孝太はまたそう思った。
 孝太は擁護も非難もしないで、ただ、机について硬直していた。
 女子の金切り声が、もうすでに日本語と認識できなくなった頃、先生が一際大きな声を張り上げた。
「うぅぅるッさい! もう今日はプール! 掃除は先生達でしておいた! 次の授業は水泳だ!」
 クラスのみんなが先生を見ると、先生はすごくエロい水着を着ていた。マイクロ水着、なんて言葉がバカらしいくらい、布の面積が少ないビキニのやつ。後ろを向いてないからわからないけど、たぶんTバックだ。中学生(コドモ)には刺激が強いから見せません。
 とにかく孝太は目線に困った。興味ないとは言ったって、そのへんは男の子。ま、まったく見ないってこともないけど、一番の策として取ったのは、机の上を見ることだった。
 クラスメートと言えば、先生のエロ水着もそうだけど、プールって言葉が何よりうれしかったんだろう。(しかもプール掃除が済んでるんだって! こんなラクちんなことはない。)さっきまでエロいだのセクハラだの言ってた皆がてのひらを返したように、一丸となって大喜び。
 孝太はなんだか皆と一緒にはしゃげなくて、じっと机の上を見たままだったのだけど、気がつくと先生は孝太の目の前にいた。
「あ」
「どうした、孝太?」
 孝太はつい、先生の胸を見た。孝太にとって先生はどう見ても、やっぱり裸同然で、とにかく凝視してられるものじゃなかった。
 おっぱい。いやいやいや、良くないって。目線を落とす。
 まっすぐ目の前、そこは先生のおヘソ。
 なんと、ピアスだ。へそピアス。孝太は視線に困ったまま、
「大人だ…」なんて思ったりして。
「何照れてる? ほらオマエも脱げ」
 驚いたことに先生が、孝太のシャツに手をかけて、ぶちぶちとボタンを外し始めた。
――わー、わーッ……
 クラスは大騒ぎだった。
「え、ちょっと、先生、これはさすがに……」
 孝太は先生の手から逃れようとしたが、先生はどんどん密着してくる。
「みんなも脱げ、脱げ! 今日は残りの授業全部プールだ!!」
 先生は落ち着いたものだ。あっという間に上半身が裸の孝太。しかしそれだけじゃ終わらない。先生は今度はベルトを外しにかかった。
「え、まずいよ、先生これは……」
 孝太は本気で抵抗した。もみ合う二人。
「ちょ、せんせ、やめ、ちょ……」
 もみ合うって言っても、変な意味じゃない。脱がすの脱がさないの、ちょっとしたやりとり。手の応酬。……変な意味じゃないけど変なことだ。
「お」っと、小さく声を出して、先生の動きが止まった。
 手が滑った。――孝太の手が先生の胸の布の下に滑り込んだんだ。
 これじゃ変な意味のほうのもみ合いだ。いや、一方的にだから、もみだ。
「うわぁッ」と叫んで孝太は手を抜こうとした。でも先生はその手をおさえて離さない。
「おい、どうした孝太?」
 どうしたもこうしたも、先生、一体なんですか、この状況は。
 と、その時。孝太の背後に感じる、ちりちりとした熱視線。気が進まなかったが、孝太はゆーっくり振り向いた。
「……ひッ」
 孝太の小さな叫び声。だって、中根くんが嫉妬に狂った憤怒の鬼の顔でこっちを見ていたからだ。
 返事をしようと思ったけど、ヘビに睨まれたカエルのように、孝太は動けなくなっていた。
「おい」
 それは中根くんの声じゃなかったけど、その声の主へと振り返った途端に、中根くんに殺されるかも。そんな恐怖心で動けない、返事もできない。
「おい、孝太」
 今度は名前を呼ばれて、一瞬クラスの景色がぐらっと揺れた。
「……ん?」
「孝太はそういうことしない奴だと思っていたが」
 ハッとした孝太は、中根くんのヘビの視線から逃れて正面を向いた。
 野崎先生だった。孝太の手は、確かに、先生のおっぱいをわしづかみ。でもなんかさっきと違うのは、ブラウス越しだった(・・・・・・・・・)ことだ。
「え?」と間抜けな声を出したのは孝太。
 先生は、さっきまでの積極的な先生じゃあなかった。孝太は先生の眼鏡の奥の瞳に、百パーセント自分に向けられた冷たい批難とわずかな怒りを感じてぶるぶるした。(本当はもっともっとわずかにだけど、羞恥心が混ざった瞳をしていたのだ。ただ、それに気づくほどのオトナはこのクラスにはいない。もちろんだ。いたらちょっと困る)――つまりいつもどおり(・・・・・・)の先生だった。
 もちろん、服装も。タイトなミニスカートに清潔なブラウス。そのブラウスを押し上げる、中根くんがマイってるであろうオトナな所を、孝太は「むんず」とつかんでいたのだ。
「え??」
――シッ!
 と走る黒い影。
――バシッ!
 影は鋭いを立てて走り、孝太のおでこにヒット!
「つッ!!」
 それは先生の黒革の手帳。先生が常に持ち歩き、時には武器になる手帳。この武器は金属の埋まった背表紙に紙の重さが加わった、警察に職務質問されても捕まらない、先生ならではの武器だ。
「……あれ? 先生水着……?  プール……」
「はぁ??」
 あきれ顔の先生は踵を返して教卓へ向かったが、先生のおしりはまぎれもなくいつものタイトスカート。Tバックの水着なんかじゃあ、ない。
 あはは、とクラスに軽い笑い声が響いた。
 笑ったら先生に悪いとかいうもんじゃなくて、笑ったら怒られそうっていう遠慮の意味での小さな笑い声。
 でも孝太は事情がのみ込めなかった。
 孝太の目の前には、卵の殻が散乱していた。孝太はその殻をつまんで凝視した。
「まさか……」
 ――夢……?
 タマゴの……?
 孝太は思い出した。憤怒の鬼の表情をした中根くんを。ふと振り向いた。
 怖い、怖い。
 夢の中と同じ鬼の顔で、中根くんがこっちを見ていた。


   ◇◇◇ 三・夢の途中? ◇◇◇

 教室にはまだ忍び笑いが残っていた。
――バンッ!
 野崎先生は乱暴に、黒革の手帳を教卓に置いた。生徒に「静かにし、注目せよ」と言う、これが先生のいつもの手。
「えー、授業の前だが、今から進路調査票を配る。来週までに書いてくること!」
 黒革の手帳を開くと中にはプリントの束がはさんであって、先生はそれを全部取り出し、教卓の目の前の生徒に渡した。そいつはプリントを適当に三分すると、右と左と、後ろに回した。
 未だ納得のいかない孝太は、自分のてのひらを見たり、殻を突っついたりしていた。前の生徒からプリントが回ってきたのにも気づかずに。
 いつまでも受け取る様子のない孝太に、前の奴は「ほれ」と声をかけ、「あ、ごめ」とあわてて、孝太はプリント束を受け取った。それから自分の分の一枚抜いて、続いて束を後ろに回した。
 そしていつものように、隣の真美の席のプリントも取ろうとした。
 ――が、無い。真美の机の上には何もない。
 孝太は真美の前の席のやつを見た。つまらなそうに進路調査票を見ていた。
 真美の後ろの席のやつを見た(ちなみにこれが中根くん)。中根くんは自分の分の一枚を取り、さらに後ろの者に渡していた。
 何か孝太の心には、むくむくと怒りのトゲが生まれて来た。ぞわっと身体中の血が逆流する感じ。
――ガターン!
 急に立ち上がった孝太は、そのまま中根くんの机に、
――バン!
 と手をついた。
 ビクッと、中根くんは振り向いた。孝太は冷たい声で一言、
「一枚」
「はぁ?」と、中根くんは戸惑った。さらにこう、こめかみがぴくぴくする感じ。孝太は感情を制御できない感じ。
「おい、確かに俺がオマエ怒らせるようなことしたのは認めるよ。だけどよ、そのやり方は汚ねぇだろ!?」
「……な、なんだよ」
「つまんねぇ嫌がらせすんなよなぁ。渡せよ。真美の分!」
「……はぁ??」
「いつもぼくが真美の分持ってってるじゃんか。一枚寄越せよ!」
 教室がザワついた。
「…マミ??」
「マミ?」
「……マミだって?」
「……マミって誰だ?」
「何言ってんだ、あいつ」
 下品な笑い声と共に、こそこそとそんな声がする。
 おいおいおい、なんだそりゃ。孝太は怒りを通り越して、寒気すらした。
「……おい、今なんて言った?」
 このクラスの雰囲気は、ちょっとした嫌がらせとか、そんなもんじゃない。すごーく嫌な感じがした。誰か一人、クラスの仲間を仲間と思わず、一致団結してハブにする雰囲気。
「……そりゃあ真美はずっと学校来てないさ。学年も変わっちまって、真美のこと知らないやつもいるだろーさ。長く休んでる。一年以上もだ。進路も調査も意味ないかもしれねー。 ……でも、そりゃあねぇだろう? なんだ? 『誰だ?』って?」
 またどこかで笑い声がした。
「真美って誰ですかー?」
 ヒトの怒りを冗談でいなす、そんな感じの質問。孝太は逆立つ毛を感じた。なんか、視界が真っ赤に見えてもおかしくない。どこまでヒトをバカにすれば気がすむんだ。
 孝太は自分の進路調査表を握り締めた。
「……先生」
 押し出すようにつぶやき、先生のほうを見た。先生も孝太を見ていた。孝太は憮然と手を差し出し、
「真美の分、いつもどおりアイツんとこ持って行きますから、もう一枚ください」と言った。
 もうクラスメートに関わるより先生だと思った。だが先生は、
「真美って誰だ?」
 え? 何だって?
 今、先生何て言った?
「わけわからんこと言うな。孝太」
 ――とぼけている声ではなかった。孝太はもう怒りというよりは、完全に不安だった。
 孝太は誰に答えるというわけでもなくつぶやいた。口に出すことで、しっかり自分で記憶をたどるように。
「俺の家の隣りの……、幼馴染みで……、しばらく病気で学校来てなくて……、俺の席の隣に……」
 ふと真美の席を見た。
「もらってるよ、アタシ」
「え?」
 真美の席に少女が座っていた。
 孝太の知らない少女。
 さっきまで誰もいなかった真美の席に、いつの間にかその少女が座ってた。
 少女はボブカットの黒髪に、「天使の輪」と呼ばれる艶やかな光沢がきらめいていた。顔は色白というよりは蒼白と言ったほうが正解かもしれない。そんな肌色。だけど、不思議と不健康な感じはしない。変に大人びた表情をしていた。
 ――この日の朝、怪しい大道芸人、孝太にハンプティダンプティと名のついたゆで卵をくれた男と共にいた少女だ。もちろん、孝太には面識がない。というか、クラスメート全員も知るはずもない少女。――しかし。
 少女は当たり前のように真美の席に座り、進路調査票をひらひらさせ孝太に見せつけた。
「……だ、誰……!?」
 少女は表情を変えなかった。
「……だ、誰だよ、こいつ……」
 はぁ? 何言ってるんだ? というクラスの目線が一斉に孝太に注がれた。そしてはやし立てた。
「ひどいじゃん、そんな言い方」
「何言ってんだ? おまえクラスメート忘れたのかよ?」
「てゆーか、お隣さんだろ?」
「お似合いの夫婦です」
「よッ! お二人さん! ケンカは駄目よ♪」
 戸惑うのは孝太だ。少女にも。クラスメートにも。何……? 一体何が起きてるの?
 クラスメートは少女を擁護――というより孝太への揶揄に近いかな。しかし孝太にはわけがわからない。
 本当にこの少女が誰か、わからない。
――バンッ!
 再び黒革の手帳の「注目せよ」の合図。
 ざわつきつつも、クラスは野崎先生を注目。
 野崎先生はまた孝太の目の前まで来た。
「……どうした? 孝太。今日のおまえ、少し変だぞ?」
「……いや、変なのは……」
 先生の顔と、隣の少女の顔を交互に見やり、しかし孝太は続ける言葉が見つからず、
「……その、……あの、ぼくって言うか……」と、無意味に発言を伸ばした。
 しかし戸惑いが消えるはずもなく。
 先生は孝太のおでこに手を当てた。珍しく優しい〝女性〟を垣間見せた瞬間だ。(もちろん中根くんは「ひッ」と小さくつぶやき、自分にも熱が無いか自らおでこに手を当ててみたが、特になんともなくて落胆した。)
「孝太。いいか? おまえの隣の子はメイコ。不知火(しらぬい)メイコだ。おまえの席の隣でもあり、家も隣だ。もちろん毎日学校に来てるし、通学も帰宅もおまえはいつも一緒で、正直仲良すぎて心配しているくらいだ。おまえは今見たとこ熱もなさそうだが、夢でも見て、まだ半分起きてなくて、現実とごっちゃになってるんじゃないか?」
「……夢?」
 そうか、まだもしかして、これはタマゴの夢……?
 孝太は自分の頬をつねった。あんまり痛くなかった。……と思ったら、野崎先生がもう片方の頬をつねってきた。突然だったし、先生は自分の頬ではないもんだから、遠慮なくぎゅううううううううッっと。
「いだだだだだだだだだだだだだッ!!」
「よし、目も覚めたろ? さっさとプリントしまって、次の授業の準備をするように!」

 次の授業は校庭でサッカー。当然プールじゃなかった。
 ボールが来なくて手持ち無沙汰の時、孝太はまた頬をつねってみたが、やっぱり夢じゃなかった。
 それから、ぼんやりしてたらロングパスが見事に孝太の顔面に命中して一瞬失神しかけたけど、授業が終わると隣の席には依然として不知火メイコが座っていた。
 こいつは本格的に寝て起きないとか?
 そう思った孝太は仕方なく、とにかく家に帰って早く寝てしまおうと思った。
 この日孝太は初めて、体調も悪くないのに野球部の練習を休んだ。みんな今日の孝太はちょっと変だと思ってたし、事実サッカーボールを受け損なうとかいう失敗は、孝太にはあり得ないことだったので、勝手に「体調不良」ということにして、別段気にしなかった。


   ◇◇◇ 四・夢芝居、人形劇場 ◇◇◇

 孝太の帰り道。
 朝、あの大道芸人の男がいた場所。
 もちろんもう誰もいない。
 だけど孝太は足を止め、まわりを見回した。
 砂場や遊具で遊んでる小学生や幼児。
 立ち話をしている若奥さん達。
 暗い顔でうつむいてベンチに座ってるサラリーマン。
 サラリーマンにはなんか気の毒だけど、公園の中はいつもどおりだった。
 ――しかし。孝太のすぐ後ろに不知火メイコがついて来ている。これだけは孝太にとって、いつもの光景ではない。断じて違う。
「なんだよ」
「……」
「なんでついて来るんだよ」
「……方向が同じだから。ってゆーか家隣だし」
 ちっ、と孝太は舌打ちをした。
「おまえ誰だよ! 俺の隣は真美の家!」
 どんなに声を荒げても、不知火メイコの表情は変わらない。しばしの沈黙のあとに、
「何言ってるの? 先行くよ」と、探る様子もなく孝太の家の方面へぽくぽく歩いて行った。
「……ッ!!」
 孝太は頭を掻きむしった。
 悪い夢は早く覚めろ。
 それとも、なんだか知らないうちにパラレルワールド、とかいうものに入ったのだろうか。孝太には、ココが現実の世界かどうか、もう確信が持てない。
 ――パラレルワールド。子供の頃マンガで読んだ、本当の世界とは少しズレた次元の世界のこと。というか本当の世界なんてなくて、今この瞬間も世界は、誰かの選択によってどんどん枝分かれしていってる。例えば今、この一歩を踏み出す時。ぼくが右足を踏み出す世界と、左足を踏み出す世界。そんなふうに世界は枝分かれする。右足で歩き出し、犬のウンチを踏んでしまったとする。ということは左足で踏み出し、ウンチを踏まずにすんだ自分がいる世界もあるはずだと思う考え方。それがパラレルワールドだ。
 ……だったらもしかして、ぼくの家の隣には真美がいなくて、代わりに不知火メイコがいる世界があって……、ぼくはあのタマゴを食べた拍子にその世界のぼくと入れ替わった……??
 いやいやいや、ということはだよ。ぼくはタマゴを食べたけど、食べなかった世界もあるはずだ。……ぼくは本来そっちのぼくなんだけど、食べたぼくのせいでこっちの世界に……。
 いや、いやいやいや、そもそも不知火メイコって誰なんだ?
 真美はどうした?
 ぼくは……この世界はどこまでさかのぼれば不知火メイコが現れる瞬間に立ち会える?
 プリントのことでキレて、中根につっかかった時、何かが変わった?
 だってそれまでいなかったじゃん。いなかったからプリントがないことで中根にキレて…………。
 …………………………。
「あああ! ワケわかんねえ!」
「そうだな。でもちょっと考え過ぎだな。ことはもっと単純だ」
 孝太の背後、ほんのニ、三十センチから響く低い声。
「うわッ!」
 孝太は飛びのいた。
 そこには今朝の、大道芸人が立っていた。
 孝太の、今日のおかしな一日の、たぶん元凶。変な夢タマゴ『ハンプティダンプティ』をくれやがった大道芸人!
「お、おまえ……!!」
 男は落ち着いて、大袈裟な身振りで「しぃ……ッ」と口許に指を立てた。
 食ってかかろうとしていた孝太の勢いをそぐ動き。なんかすごく芝居がかっていて、つい孝太は素直に食いかかるのをやめてしまった。 それを確認すると男は、
――ニィ……ッ
 と笑い、ぶらりとさせた手で大きく弧を描くと、公園のほうを指差した。
「え!?」
 男が指差す方向にあったのは、さっきまで確かに公園のはずだった。
 だけど、今、そこには空き地がある(・・・・・・)孝太と真美の(・・・・・・)思い出の空き地が(・・・・・・・・)
 幼児も小学生もいない。
 若奥さんもいない。
 元気のないサラリーマンもいない(元気がない、は余計か)。
 桜の木だけが公園と同じで、木の下にはやはり思い出の土管が積んであった。
 しかも、いつ移動したのか、男はその土管のてっぺんに座っている。
 どういうことだ。
 ぼくはまた、パラレルワールドに……、それともタイムスリップを……。
 ともかく、こうなると絶対怪しいのは目の前にいるあの男だ。あいつのおかげで今日は散々だ。散々どころか、おかしなままだ。
「お、おいオッサン!!」
 と、男のところまで、つまり土管の手前まで孝太が駆け寄ると、男は汚いマントを大きくひるがえした。
 マントが孝太の視界をさえぎり、バサリとはためいて、男の身に戻った時、男と孝太の間には人形劇の小さなステージが現れていた。「え!」
 マジック? イリュージョン?
 視界をさえぎられた一瞬のうちに、そのステージは現れた。
 まぁステージと言っても、木でできた大人一人がかろうじて隠れることが出来そうなくらいの、縦に長い箱だった。その上の部分が、紙芝居の木枠のような大きさのステージで、そこから下は布が張ってある木枠。スピーカーのようにも見えるけど、全体の材質や質感、年季の入った汚れ具合から見ても、とうてい電気的な何かが入っているような感じはしない。
 とはいえ、やっぱりそんな物体が急に現れたことにはビックリだ。で、素直に驚いて声も出せない孝太に、男は満足そうに笑顔を見せると、スッとそのステージの後ろに身を隠した。
 サーカスで聴くような、軽快なオルゴールの音が響き、ステージの緞帳が開いた。
 オルゴールの音はスピーカーっぽい布の後ろから聴こえてるみたいだ。
 ステージに、今朝男の手にはめられていたパペット人形のハンプティとダンプティが現れた。
「ソレデハ特別公演、始メサセテ頂キタイト思イマス」
「思イマス」
 ステージの端に、小さなミニチュアっぽいメクリがついていて、ハンプティがそれを一枚めくった(メクリというのは例えば落語の演目とかを順番に書いておいて、ひとつ終わるたびに一枚ずつめくって、次の演目を表示するアレだ)。
 つまり、有無を言わせず人形劇が始まった。客は孝太たった一人。
 ステージの中にピンク色の紙吹雪が舞った。
 メクリにはこう書いてあった。
 ――『夢コロガシ』。


 『人形劇・夢コロガシ』

  時は一年と少し前。春の夜空に桜舞い。
  歳の頃は十ニ、三。
  少年と少女が、夜更けの逢瀬、そのお話であります。

ウサギ「明日の手術、失敗するかもしれない」
カ メ「……」

  少年と少女は向き合わず、ただ少年は黙っておりました。

ウサギ「予感よ、予感。大丈夫、あたしの予感、外れるの」
カ メ「……」

  何かを言いかける少年、しかし。
  少女はそれをさえぎって、手にしたタマゴを放り投げた。
  あわてて受け取る少年。

ウサギ「ナイスキャッチ」

  タマゴをじっと見る少年。
  タマゴには見慣れぬ模様が。

ウサギ「それ、預けとく」
カ メ「何これ?」
ウサギ「ピサンカ」
カ メ「?」
ウサギ「イースターエッグとも言うわ。キリスト教の感謝祭の飾りなんだけど、ホントはウクライナのお守りみたいなものでね、新しい生活とか春の始まりを象徴する希望のお守りなの」
カ メ「お守り?」
ウサギ「うん。手術終わったら返してもらうけどね。病室にしばらくいなくちゃならないじゃない? だからお守りだけでも孝太と一緒にいる。外にいたいの」

  少女を見つめる少年の目。
  対して少女は笑顔のまま。

ウサギ「……そのピサンカはあたし(・・・)。自由な生活を夢見て、中で冬が去るのを待ってるの。だから孝太が持ってて」

  少年はピサンカを握り締めた。
  少女はにっこり空を見上げた。
  さわわ、さわわ……
  舞い散る桜は星空に、風を描いて消えてゆく。

ウサギ「あたし、前からずっと旅人になりたかったの。見える? この風」

  空を見上げる少年。

カ メ「……?」
ウサギ「世界にはいろんな風が吹いている。これは、ココでしか見れない風。それと同じように世界中のいろんなところで、ここでは決して見れない風が吹いてるの。空気の色も、温度も、味も、どことして同じものは無いのよ。だから、あたしはその全部を感じたいの」

  少年は、ボールを少女に差し出した。

カ メ「これ、やる」

  ボールには、彼の名前が書かれおき、それはすなわち……、

カ メ「俺のサインボール! 手術のお守りのつもりで持ってきたけど……。おまえならそれ、売っていいぞ!」
ウサギ「え?」
カ メ「将来プレミア付くんだ、それは。歴史に残る日本人メジャーリーガーが書いた初めてのサインボールだからな! だから本来は売っちゃいけない貴重品だけど、おまえなら売っていい! 売って旅の資金にしてくれ!」

  少女の今宵、一の笑顔が輝いた。

ウサギ「……ありがとう……!」
カ メ「だから、がんばれよ! 真美!」

  少女の涙と桜の花が、夜空を駆ける風を描いた。

 ――暗転――

  しかして翌日!
  少女の手術は終われども、少女は一向に目を覚まさぬ!
  手術は成功したのだが、これが成功と言えようか! 
  泣き濡れるは少女が父母(ちちはは)
  幼馴染みと言えども、少年は面会叶わず。

カ メ「会わせてくれよ!」

  ただ首を振る、少年が父母。
  他に問題あらずとされて、退院したは良いけれど、目を覚まさぬ少女の身体に、意識もあらず、魂もあらず。
  少年も二度と、会うこと叶わず。
  ただ部屋の、窓掛けの向こうにいるを信じ、毎日毎朝欠かさず見るも、窓掛けは一度たりとも開かず、そして一年と少々。
  少年は……


「やめろッッッ!!」
 孝太はその人形劇を拒否した。劇は中断してしまった。
 孝太は泣いていた。
「真美をどこへやった!? オッサンのせいなんだろ? あのタマゴのせいなんだろ!? 誰だよメイコって? 変な夢見せるんじゃねぇ。
こんな悪夢、早く目ェ覚まさせてくれよ!!」
 人形劇はまだ途中だったが、緞帳は閉まった。
 ステージの横から男が現れ、たった一人の客――孝太に礼をした。
「……これにて、終演」
「うっせー!!」
 孝太は地面の砂を蹴り払った。
「すまんな」
 急に男はよそよそしい態度をやめ、哀しい目をして謝った。
「うっせー! うっせー! うっせー!!」
 孝太は砂を蹴り続けたが、急に風が吹いて砂ぼこりが孝太に振りかかった。
「……つッ!!」
 顔をそむけた孝太が、視線を戻した時、そこには誰もいなかった。
 それだけじゃない。
 そこは公園だった。
 幼児がいた。小学生がいた。
 若奥さんがいた。
 サラリーマンがいた。
 桜の木はそのままだった。
 土管はなかった。
 そして、空き地に足を踏み入れたはずの孝太は、道路のアスファルトの真ん中に立っていた。(車通りの少ない道路で良かった。)
「……くそ」
 また夢かよ……。でも孝太の耳に「すまんな」という言葉が妙にリアルに残っている。それに――孝太は腕で涙をぬぐった。
「すまんな」。その言葉は、タマゴが見せた悪夢についてなのか、人形劇についてなのか、それとも……。
 孝太は振り向いた。また背後にあの男がいたりしないかと思ったのだ。しかしアイツはいなかった。
 行く手に振り返ると、ちょっと先に不知火メイコの背が見えた。
「……くそ」
 もう頬はつねらなかった。

 その後孝太は、不知火メイコをコソコソと後をつけた。メイコは気づいていたようだけど、まわりから見れば相当に怪しい。
 事実買い物帰りの主婦などが、電柱や人の家の門扉に身を隠す(と言っても全然丸見えなんだけど)孝太の姿を見て、振り返ったりした。別にいいと思ってた、孝太は。第一、メイコに気づかれてることは孝太にもわかってる。それでも孝太は、メイコと並んで歩いたり、ましてや先に行くことはイヤだった。
 ――確認することがあるんだ。
 クラスメートは不知火メイコをぼくの隣人だと言った。それが本当かどうか。だって、孝太の隣家は真美の家だから。
 真美が住んでいるはずの家に、不知火メイコが入ったなら、それは一体どういう意味?
 そんなの頭じゃわかり切っていたが、孝太はそこはあえて考えないようにした。
 答えが重要なんじゃない。不知火メイコが真美の家に入るかどうか。その事実だけが今は重要。
 で。――入ったら?
「……どうしよう?」
 不安は独り言になってもれた。
 もうそこの角を曲がったら孝太の家だ。
 そしてその隣が真美の家だ。
 不知火メイコは角を曲がった。
 追って孝太も――角から首を出した。
 しかし何のためらいもなく、遠くから覗き見ている孝太を気にかけることもなく、不知火メイコは当たり前のように真美の家に入って行った。
「……どうしよう……」
 孝太は力なくつぶやいた。

 その晩。
 孝太の家庭の夕食は、いつもどおりの風景だった。
 お父さんはほんの少しだけ遅く帰宅し、孝太とお母さんにちょっと遅れて晩酌を始めていた。
 ナイトゲームがなくてお父さんにとっては残念な日だけど、その代わり食卓には、テレビに出てる芸能人があーだのこーだの、昼間お父さんが見ることのできないワイドショーのネタが、お母さんの口から一方的に流された。
 ま、いわゆる人間テレビだね。見たいか見たくないかは別にして、流しっぱなし、聞きっぱなし。返事は別にする必要ない。
「それでね、あの俳優さんが結婚間近なんじゃないかって! 再婚よねぇ、たしか三回目の。こりないのよねぇ男って。 たとえ顔が良くってもさ、そうそう、隣の奥さんが言うのよ」
「ねぇ」
「もう流行らない顔じゃないのって! 笑っちゃった、奥さんあの人のファンだったじゃない? でもたぶん、あきれちゃったのよ!」
「ねぇ」
「好きだからこそ嫌いになっちゃう瞬間って、確かにあるのよ、女には。だから ……ん??」
 お母さんの一方向放送がいったん止まり、やっとお父さんとお母さんの意識が孝太に向いた。
「ねぇ、今お隣さんって言ったよね?」
「うん? 隣の奥さん?」
「……隣、真美の家だよねぇ?」
「はぁ!?」
 お父さんは少々酩酊し始めてきているみたいだ。必要以上に大きな声で、あからさまにバカにした表情で、たった一言「はぁ!?」。
それでお父さんの答えは終わり。
 お母さんも自分の話を続けたいらしくて、返事はこんなふうにほぼスルー。
「何言ってるの? メイコちゃんでしょ? それでね、思うわけよ、やっぱり俳優さんはどんなに大御所でも、流行りすたりの水物だって ……」
 孝太はそんな話どうでも良かったし、そもそもなんだ、そのテキトーな態度は!?
 孝太はキレた。中根くんの時みたいに立ち上がった。箸を乱暴に置いて。
「メイコなんて知らないよ! 何言ってるんだよ母ちゃん! 真美だろ!?」
「もー。なによ、マミって?」
「……真美ちゃんだよ! 隣にずっと住んでるだろ!? 昔はよく遊んだじゃないか!!」
 今は?
 孝太の心はチクッと痛んだ。なのにお母さんは、
「誰? 真美? いたかしら、お父さん」
 と答えを丸投げ。
 お父さんは箸も置かずに、箸先を孝太に向けた。親子と言えど、失礼にもほどがある。さらに失礼なことに、食べたものも飲み込まず、
「……何バカなこと言ってるんだ?」と米粒とともに吐き出した。
 お母さんはハァ、とタメイキをつき、
「進路調査票もらって来たでしょ? くだらないこと言ってないで、そろそろ真面目に将来のこと考えたらどう?」
「野球選手とかな、そう簡単になれるもんじゃないからな、第三希望くらいにしとけよ」
 お父さんも追い討ちをかけて話題をそらそうとした。(米粒を拾って口に入れながらだ!)
「……ッ!」
孝太の怒りは声にならない。
「……なんだってんだよ! クラスの皆だけじゃなくてお前らもかよ!?」
「オマエってアンタ! 親に向かって!」
「うるせーッ! シカトもここまでくりゃあ手が込んでるよ! ひでーよ! 真美ずっと病気でふせってるんだぜ! 一年以上も学校行けてないんだぞ!!」
「?」
 お父さんとお母さんは顔を見合わせた。
 さっきまでくだらない酔っ払いだったお父さんが、変に冷静になってこう答えた。
「メイコちゃんなら毎日おまえと登校してるじゃないか」
「……!」
 孝太は、瞬発的にこれは会話ではないと感じた。……まさかこれは ……。
「――やっぱりあのタマゴの夢の続き!? もーいーよ、こんなひどい夢! 起きろ! 夢から覚めろ!」
 耳を押えてわーわー言う孝太に、お父さんとお母さんは再び顔を見合わせた。孝太の言うことが全然意味がわからない。
「あのタマゴ……。オッサンめ……! 夢を見るなんて代物じゃない、きっとあいつが何かしたんだ……。そんでぼくは別の世界(・・・・)に引き込まれて……」
 お父さんとお母さんは完全にあきれていた。孝太はと言うと、こちらもやっぱりもうお父さんもお母さんも関係なく、自分の世界に入りこんで独り言を言っている状態。
「いや……まさかあのオッサン、魔法使い……! いや超能力……」
 お母さんも独り言のように、
「……マンガの見すぎだよ」とつぶやいた。
 お父さんはゴハンを食べながら、
「あとでこいつのマンガ、全部捨てとけ」と答えた。
 孝太は目の前のその言葉すらもう聴こえないくらい、ぶつぶつと一人の世界に入っていた。
 今ここにいる世界は本当に自分がいた世界なのか、パラレルワールドじゃないのか。映画やマンガならこれからぼくはどうしたらいいのか。どうしたら元の世界に戻れるのか。この夢の世界から脱出できるのか。

 ――自分は、何をするべきなんだろう。


   ◇◇◇ 五・夢と現実、マトリックス ◇◇◇

 この町の名は〝夢喰町(むくろちょう)〟。
 この頃子どもは夢を見ない。
 夜に見る夢。将来の夢。サンタや魔法を信じる夢。
 深夜に見る夢は――ファンタジーだった。とりとめもなく理屈も通らない、でも何か見てる時は納得しちゃう。
 昨晩見た夢を話す子どもの目はキラキラしてるものだ。たわいもない子どもらしい夢、論理のロの字もない突飛な夢。サンタと一緒に空を飛んだ、お菓子の家に住んだ。おおかみに食べられた――
 ところで、夢ってなんだろうか。学問的に何かと言うとそれは脳の機能の一種。
 夢占いや夢判断、かの有名なフロイトの言うように深層心理が働きかけて見るものだという話もあるけど、今一番もっともらしい説は、『夢という現象は記憶の再構築である』という説。
 例えるならこうだ。
 まず人間の記憶を表層的なものと、深層的なものに分類してみる。
 表層的なものは比較的最近「ついさっき」というものも含まれる、バラバラの記憶だ。今見た「この花が美しい!」と感じた、そういったひとつひとつの経験のこと。
 深層的なものは、それら個々の記憶が複雑にからみ合った、その個人の考え方や経験の根底となる、整然としたデータ。
 キミが頭の中に、通学路を考えてみればいい。
 家から出て、学校までの道のりを、きっと3D映像のように頭に描けるはずだ。そしてその道の途中、ここは同級生の誰の家、ここは何の店、ここは友達の家――そんなふうに覚えていることをファイルから取り出すように思い出せるはずだ。そんなファイルが地図と共に収められている棚が、『深層的記憶』。
 そしてこれから実際に学校へ行こう。行く途中で新たに見たもの経験したものがあったら、それが『表層的な記憶』。例えばAさんの家に花が咲いていた。初めて見た犬に吠えられたが、その犬はBさんが連れていた。道路工事をしてた、うるさかった ――そういう記憶のこと。
 そうした一日の『表層的な記憶』が、それぞれ分類され、Aさんちの家ファイルに花が咲いていたことが収められたり、Bさんファイルによく吠える犬を飼い始めたことが書き加えられたり、道路ファイルに現在工事中の情報が書き加えられたり。そうしたことで、キミが新たに街を思い返した時、3D地図に新しいファイルが表示されるようになるわけだけど、それがつまり『記憶の再構築』ってやつ。
 そしてその『記憶の再構築』ってやつは、人間が寝ている時行われ、それが人には『夢』として感じられるってのがこの説の趣旨だ。
 表層の記憶がバラバラに砕かれ、分類されて深層の記憶へ書き込まれている過程を、レム睡眠下の人間が見る=夢。
 だから、夜見る夢には昼間あったことや考えたこと、さらにはまさに寝ている今、耳から入るつけっぱなしのテレビの音が、なんの脈絡もなくつながって現れるのだ。
 この例じゃ今日あったこと(経験)だけだけど、表層的な記憶ってのは、キミが今日考えたことも含まれる。
 夢を見ないってのは ――もしくは朝起きた時覚えてないくらい大したことのない夢を見てるってのは、そもそもキミが何もしていないから(・・・・・・・・・)かもしれないね。ただまんじりと一日を過ごして、感動も発見もない一日だったなら、再構成される記憶もないだろうし、そうすると当然、夢も見ないわけだ。

 さて、そんな世相を反映して、大道芸人の男の言葉を借りて言うならば、〝夢不況〟の町、夢喰町。深夜この町の屋根を駆ける、ひとつの人影があった。
 漆黒の髪に、月明かりがつやつやと反射していた。年の頃は十二、三歳の少女。
 サンタのように大きな袋を持っていたが、その袋の中身はとても少ないように見える。
 その少女の影は、目星をつけた家の中にスッと消えると、しばしの後に出て来て、再び屋根を駆けた。
 そんな作業を繰り返し、――その人影は孝太の隣家、つまり孝太が言うには「真美の家」、でも家族もクラスメートも「メイコの家」と呼ぶ一軒家に入って行った。
 ちょうどその時、孝太はベッドに寝ていたけれど、目は覚めていた。天井をじっと見つめながら。
 眠って起きればこの変な〝夢〟から覚めるだろうか。夕方から早く寝たいと思ってたんだけど、考えれば考えるほど、逆に眠れなかったのだ。
 夢ってなんだろう?
 夜見るとりとめもない夢もあれば、将来なりたいものだって夢って言う。
 でも今ぼくが遭遇してるこの不思議なことは……?
 本当にぼくの家の隣にはメイコが住んでいて、ぼくはずっと真美という女の子が住んでいる、長い長い夢を見ていて、夢の中であのタマゴを食べたショックで目が覚めて――
 だから〝現実〟は隣の家はメイコの家だって可能性もある。……それは真美との思い出も全部〝夢〟だったということ。
 でも、机の上にピサンカはあった。だから真美の存在が〝夢〟だなんて思えない。
 やっぱり今この真美がいない世界こそが〝夢〟で、その長い長い〝夢〟から覚められないでいる。そっちだ。そっちのがいい。でも……。
 頬をつねってわかるくらいの夢ならいいが、こんな時はどうしたらいいんだろう。――たぶん寝るしかないんだろう。起きた時にまた考えればいいんだろう……。
 そう思っても、こんな答えの出ない思考の堂々巡りをしていたら、眠れるものも眠れない。でもそれはたぶん、孝太だから。大人なら「とりあえず寝るか」とシャットアウトできるだろう。しかし孝太は納得するのに時間制限なんて、それこそ納得できなかったし、実のところ、〝夢〟と〝現実〟の境界について考えることが面白くなってしまっていることも確かだったんだ。答えが出ない、思考の遊び。
 その時だった。夢喰町の屋根を駆ける怪しい人影が、(孝太が真美の家だと思っている)隣家に入ったのは。
――ガララッ……
 窓がゆっくり開く音。
 その音に気付き、孝太は思考の遊びをやめた。ベッドから身を起こし、窓ごしに真美(のだと思う)部屋の窓を見た。
 窓ガラスは半開きだった。孝太はびっくりした。侵入者かもしれない。
 だって、この一年ちょっと、あの窓は開いたことがなかった。
「よーし…」
 孝太は机の横に置いてある、バットを手に取った。

 もう言葉がしつこいので、その部屋は「真美の部屋」としよう。
 真美の部屋は、整理整頓されていた。それが真美の性格なのか、それとも母親の性格なのかは判らないが、よく掃除されているというのとも違う、何か生活感の無さ、かな。
 しかし誰もいない部屋じゃなかった。
 ベッドには少女が一人、寝ていた。
 ――それは真美だった。一年とちょっと前、孝太と空き地で会った時と同じ柄のパジャマが、掛け布団のすそから見えた。
 死んでいるとか、植物人間とか、そんなマイナスのイメージは感じられなかった。肌の血色も良く、栗色の髪も整い、本当にただそこに寝ているだけの少女。孝太にとっての眠り姫――。
 真美の寝ているベッドの端にメイコが座っていた。メイコはいとおしそうに真美の顔を見ていた。
――ぎしッ
 床がきしむ音がした。
 メイコの背後にバットを持った孝太が立っていたのだ。でもメイコは振り向かなかった。気づいていないわけはないのに。
 孝太はバットを握り締め、上空に振り上げ、
 と振り下ろされたバットは、手ごたえのないまま一回転。……空振り。
――ブンッ
 孝太は手加減したつもりはなかった。思い切り振り下ろした。間合いも遠慮なくだ。
 でも空振りしたのは、メイコの姿が一瞬で消えたからだった。
「え……!?」
「好きなのね」
 孝太の背後から声がした。
 メイコが、今、孝太が入ってきた、真美の部屋の窓に腰をかけていた。
 孝太は再びバットを構えた。
「……なんだって?」
 メイコはニッコリ笑った。
「気が付いたのはあなただけだわ。孝太くん、よっぽど好きなのね」
「……?」
「……真美が」
 孝太は顔が真っ赤になるのを感じた。それどころではないというのに。
「な!?」
「そしてあなたは、直情的で、空想家で、想像力豊かで……。……そしてとてもコドモ」
 バカにしたニュアンスは感じられなかったが、孝太は赤い顔のままムッとした。
「……だからかしらね。あなたは夢と現実の狭間を行ったり来たり。あたしの存在に疑問を持ってしまう」
「おまえ何モンなんだ!? あのタマゴ売りとグルなのか!? この夢はあのタマゴのせいなのか!?」
 メイコはふふ……と笑った。
「安心して、ココは〝夢〟じゃなくて確かに〝現実〟よ」
「……安心? そんなのオマエがいる限りできないんだよ! あのオッサンもオマエも一体何なんだよ!」
 メイコの表情はスッと消えた。ニュートラルな顔になった。そしてまっすぐ孝太を見すえた。
あたしは真美(・・・・・・)
「……!」
そして今はメイコ(・・・・・・・・)
 孝太は口の中が乾くのを感じた。それなのにゴクリと唾を飲み込んだ。言葉が出なかった。
 振り向いてベッドを見た。
 そこには真美が寝ていた。あの一年前の春の夜以来、初めて見る真美の顔。
 穏やかで、健康そうな顔をしていた。
「……な、何を……!? 真美は今……、そこで……」
「そう、ずっと寝てる。この一年、目を覚まさずにね。だからその代わり、あたしが起きてるの」
「え?」
だから(・・・)その代わり(・・・・・)あたしが起きてるの(・・・・・・・・・)
 と、メイコは同じ言葉をゆっくり繰り返した。
「あなたになら想像つくでしょ?」
 戸惑う孝太がメイコと真美を見比べた瞬間、メイコは孝太のすぐそばに立っていた。メイコの顔が、孝太の顔の目の前にあった。
「……!」
 孝太はバットを振り下ろすタイミングもスペースもなかった。あまりにも瞬間の出来事だったし、目の前にメイコの顔のアップに、一瞬ドキッとしたってせいもあるんだけど。
「……まぁもっとも、忘れてもらうけどね」
 メイコは孝太のおでこにキスをした。
 孝太の瞳は瞬間的に光を失い、その場に力なく身体を落とした。孝太は初めてのキスの感触を自覚する間もなく、意識を失った。
 メイコはタメイキをつき、
「いーわね、カンタンに眠れて」
 そして真美を見た。掛け布団の胸のあたりは、小さな寝息でゆっくり上下していた。
「――不眠症には毒な光景」
 メイコは真美に近づき、顔をのぞきこんだ。ちょっとした騒ぎにも気づかず、ただ寝ているだけのような真美の顔を。
 メイコは自嘲的な笑顔を浮かべ、
「アンタが起きてくれなきゃ、アタシ眠れないんだから」と言った。

 孝太はベッドに寝かされていた。
 孝太自身の部屋の、孝太のベッドだ。寝相は良いほうじゃない。そして、さっきまでメイコ相手にひと悶着あったってのに、なんだか健やかな笑顔で寝ている。
 孝太のベッドの横で、メイコは孝太の笑顔を見ていた。
 メイコは、大道芸人の男がしていたようなパペット人形を手にはめていた。ウサギでもカメでもなく、ニワトリのパペット人形。
 メイコはニワトリのクチバシにあたる部分 ――口を開け、孝太の頭に向けた。
 すると孝太の頭から、もやもやした何か『気』のカタマリのようなものが出て来た。その『気』はニワトリの口に吸い込まれていった。
 ニワトリはぴくぴくっと震えると、一瞬の間を置いて、手を入れるすその部分から、
――ポトリ
 とタマゴを産み落とした。
 メイコは慣れた手つきでタマゴを手に取ると、床に置いていたズタ袋に、ニワトリとタマゴを放り込んだ。
 メイコはベッドから離れ、窓へ向かった。窓を開け、チラリと孝太を見た。孝太は何もなかったかのように寝ていた。――ただ寝顔から笑顔は消え、ニュートラルな表情をしていた。
 メイコが身体を窓枠から外へ出そうとした時、横目に何かが視界に入った。
 孝太の机の上。孝太もその日の朝何の気なしに眺めていたもの。――それは真美が孝太に渡した、ピサンカ。
 メイコは一瞬、寂しそうな顔をした。
 が、そのまま窓から外へ出て行った。

 孝太の家の界隈は住宅街で、深夜になるとあまり人はいなかった。
 その道路に一人、大道芸人の男が、ただ立っていた。目をつむり、何かを感じていたのか、電波でも受信していたのか。まったく動かない身体に、マントが風に揺れていた。
――ざ……
 と地面を踏む音がした。
 男は目を開け、音のしたほうを見た。
 メイコが立っていた。
 メイコは持っていたズタ袋を男に渡した。
 男は袋の中身を確認した。容量より格段に少ない中身のように見えた袋。中にはニワトリのパペット人形と、タマゴがいくつか。
 そのタマゴをひとつひとつ手に取り、男は月明かりに照らした。そうすると中身が透かし見えるかのように。
「これは?」
 とタマゴのうちの一つをメイコに尋ねた。
「……中根くん。クラスメートの」
「またアイツか。淫夢しか見ないのか、中根って子は」と苦笑した。
「…むっつりだと思う」
「ま、セミヌード止まりなのが微笑ましいけどな。でもやっぱり商品としてはイマイチだ」
 そう言って男はそのタマゴを袋に戻した。
 また一つ取り出し、透かす。
「それは孝太くんの」
 メイコは訊かれる前に答えた。
「………」
 無言のまま男はそのタマゴを袋に入れた。
 そして袋を肩から担ぎ、メイコを見た。
「行こう」
 メイコはうなづいただけだった。
――ぶわッ……
 突風が吹いた。
 二人は夜の闇に溶け込んで、消えた。


   ◇◇◇ 六・夢から覚めない ◇◇◇

「いってきまーす!」
 バットとグローブを持って、孝太が家から飛び出した。今朝は野球部の朝練習の日だ。練習時間が惜しいので、孝太はカバンに制服をつめ、野球のユニフォームで学校へ向かう。
 朝練習とはいえ、練習時間は授業の前の数十分しかない。だれかの親が朝練の始まる時間が早すぎるという苦情を出したのは去年。孝太は別になんとも思ってなかったのだが、困ると思っていた生徒が一部にいたのだ。PTA側からの要請ということで、毎日あった朝練習は月水金になり、時間も短くなった。むしろ孝太はそれが残念だったが、全く無くならなくて良かったと思うことにしている。
「おはよう」
 声をかけたのはメイコだった。
 孝太は立ち止まり、いや、その場足踏みしながらメイコを見た。
「おはよう! メイコ。おまえ早いな!」
「うん。ちょっとね」
 メイコの声は少しトーンが低かったのだが、孝太は全然気にしていないようだった。
「じゃあ先行くからな!」
 そう言うと全速力で学校へ向かった。
 メイコは孝太の姿を目で見送った。
 メイコの肩が上下した。後姿で見えなかったが、タメイキをついたようだった。

 学校は、いつもどおりだった(・・・・・・・・・)
 いつもどおりに孝太は授業を受け、いつもどおりにちょっと昼寝をして怒られ、いつもどおりに給食を残さず食べた。
 あえて加えて取り上げろと言うのなら、野崎先生の黒皮の手帳は、クラスメート達の私語をやめさせるために何度も教卓に叩きつけられたし、中根くんは先生を熱い視線で見ていたし、それを「トシマニア」と揶揄するクラスメートとどったんばったん大騒ぎしたし、大騒ぎも先生も快しとしない女子達が「エロおんな」と陰でこっそり悪口を言ったりした。
 孝太はというとそんな喧騒には加わらず、でも仲間はずれになっているでもなく、体育の時なんかは持ち前の運動能力で一番目立ったりした。
 ――たったひとつ、いつもと様子が違うと言えば、帰りの学活の時。
 野崎先生に呼ばれ、教室の一番前にメイコが立った。先生はメイコの肩に手を置いた。
「急な話だが、メイコが引越しすることになった。今日でお別れになる。寂しくなるけど、笑顔で送り出してやってくれ」
 メイコはペコリと頭を下げた。
「みんなのことは忘れません」
 孝太は戸惑っていた。長年幼馴染みだったメイコ(・・・・・・・・・・)が、前もって何も話してくれずに、急に引越すだなんて……。
 なぜか孝太はその日の学校の帰り道、メイコと一緒に歩く気になれなかった。先を行くメイコを、後でも尾けるように遠くから見守った。
 家に帰ってからも孝太は心がもやもやしていた。机の上のピサンカを何気に手に取り、眺めてぼんやりして、
「引っ越すのかぁ……」と独り言。
 そもそも今手に取っているピサンカも、確かメイコからもらった気がした。詳しくは覚えていない。なんかすごく大事なものだった気がするけど……。
 覚えてないけど、孝太はピサンカを丁寧に置き、立ち上がって窓を開けた。
 すると、真美の部屋の窓からもメイコが外を見ていた。
「あら、孝太くん」
 メイコは別段孝太を待っていたというふうではなかった。ただ、町の明かりを見ていたような様子だった。
 でも孝太は帰りの学活からの気まずい雰囲気のまま(孝太だけが感じているものかもしれなかったが)別れるのもイヤだった。孝太はメイコに問いただした。
「なんで急に引っ越すんだよ」
「あたし、旅人だから」
「?」
「世界の全ての風を見るのがあたしの夢だった。……だから」
 メイコは視線をフッと落とした。
 二人の家の向かいのアスファルトに、大道芸人のオッサン、あの男が立っていた。メイコは男のほうを見て、
「風に乗って旅をするとね、滅多に同じ町に来れないのよ。でも、久しぶりに戻って来たの、この町に。懐かしかった。でも、もう、行かなきゃ」とつぶやき、「また旅に出るの」
 と、これだけは孝太の目をしっかり見据えて口にした。
 孝太はどきん、とした。なんだか、こんな気持ち、前も感じたような……。わからない。でも、ずっといっしょだったメイコが旅に出ると言うのだ。
 ぼくは一緒に行けない。ぼくは待ってなくちゃいけないんだ。
 ――待つ? 誰を? 誰だったっけ?
 ぼくは誰かを待っていて、でもその誰かはぼくと「一緒に、外にいたい」って。そんなこと言ってた気がする。
 ―― 一緒に? 外にいたい? 外って?
 孝太の頭の中に甦る、記憶の断片。
 寝てもいないのに起こる、記憶の再構築。
 いや、この場合は再構築の逆、かもしれない。脳の奥の奥に追いやられたファイルから、少しずつ記憶の断片がもれ出している。
 孝太は頭をおさえた。
 メイコは心配そうに孝太を見たけど、孝太はすぐ、頭を起こした。
「そうだ!」
 孝太は窓から部屋に引っ込むと、カバンから何かを取り出し、机からペンのようなものを引っかき出した。そして何か書いている。
 メイコは孝太の部屋の窓を覗きこんだ。
 すると孝太は窓から飛び出して、屋根瓦をつたって来て、メイコの窓に腰掛けた。
 そして何か書きつけていたものを、メイコに手渡した。
「やる!」
 ――それはサインボールだった。
 汚い字で、孝太の名前が書かれている、野球のボール。
そいつ(・・・)はぼくだ。だから、旅、一緒にしてやってくれ」
 メイコは少しだけうつむいて、ニッコリ笑った。そしてそのボールを、丁寧に両手で孝太に返した。
「変わらないのね」
 せっかくの旅の餞別を取って返された孝太はちょっと戸惑って、「なんで?」という顔をした。不安そうな顔に、メイコはクスっと笑った。
「ううん、孝太くん。あたしのほうがあなたといつも一緒なの。あなたと一緒に、机の上で冬が明けるのを待ってる。忘れないで。 
それにね」
 メイコは服のポケットから、一個のボールを取り出し、孝太に見せた。
 それはやっぱり野球ボールで、汚い字で孝太の名前が書いてあった。
「もう、とっくにもらってる」
 と、細めたメイコの目には、なんだか涙がにじんでいた――孝太はそんな気がした。
 それと同時に、さっき脳裏に浮かんだ記憶の断片が、あふれるように渦巻き始めた。

――どくん

 病室。
 お守り。
 手術。
 メジャーリーグ。

――どくん、どくん

 入院。
 ボール。
 旅。
 ピサンカ。
 風――

――どくん、どくん、どくん!

 そう、孝太の頭の中に風が吹いた。
 いろいろな記憶がいっぺんによみがえり――メイコの窓を見た時、そこにはメイコがいなかった。
 孝太はまわりを見回した。
 さっき大道芸人のオッサンがいたアスファルトに、大きな影と、小さな影がひとつずつ、去って行くのが見えた。

――ドクン!!

 一際大きな心臓の音がして、それを合図に孝太は走りだした。
 屋根から、自分の部屋に。
 自分の部屋から、階段に。
「!」
 と、気がついて、孝太は自分の部屋に戻って、机の上のピサンカをつかみ、再び階段へ向かい、玄関に向かい、外へ向かい、全速力で走った。
 待て。待って。待ってくれ。
 夢中で走った。
 行き先は決まってる。迷わず孝太はソコヘ向かった。全速力で。


   ◇◇◇ 七・夢コロガシという仕事 ◇◇◇

『……今夜は初め晴れますが、西から気圧の谷が接近するため、次第に曇りとなるでしょう。明日は北の風曇り時々晴れ、波の高さは
センチメートル……』
 桜の木の公園。
 夜の公園には昼間の暑さとはうってかわり、涼しい風が吹いていて、公園の隣の家の開け放った窓からの天気予報の音を運んできた。
 でも、誰もいない。外灯の明かりだけがこうこうと差していて、やがて人影が二人分、地面に伸びた。
 大きな影。小さな影。
 ふたつの影は公園の真ん中、桜の木の下に足を止めた。
 大道芸人の男と、不知火メイコ。
「せっかく帰ってきたのに、いいのかい?」
 男はメイコに尋ねた。
 メイコはふと、来た道を見た。
「いいの。あたし、まだ起きないから …」
「……」
「まだ夢を見ていたい。まだ行ってない町がいっぱいあるもの」
「……そうか」
 男はそう言うと空を仰ぎ見た。
 天気予報で言っていた、北の風とは北から南へ流れる風のこと。たぶん、だから男は、
「南へ行こう」
 と言った。
 そして男がマントをひるがえし、マントの内側にメイコを隠そうとした、その時だった。
「待って! 待ってくれ!」
 それは息せき切って公園に入って来た、孝太の声だった。
 男のマントは宙に舞ったまま、メイコは孝太のほうを見た。
「孝太くん……」
「はぁ、はぁ、間に……合った……かな?」
 メイコの前で、息を整える孝太。
「どうしたの、孝太くん?」と孝太の顔をのぞきこむメイコに、孝太はえへへ、と笑い、ポケットからタマゴを取り出し、手渡した。
 それはピサンカだった。真美が、孝太に持っていて欲しいと言った、あのウクライナのお守り。孝太はピサンカを、メイコに渡した。
「なんで……?」と、メイコの顔には戸惑いの表情が見えた。
 孝太は今度は得意げに、鼻をこすってこう言った。
「だって、治ったら返す約束だろ? 真美(・・)!」
 びっくりしたのはメイコだった。
 面食らって何も言えないでいるメイコに、孝太はこう言った。
「わかったんだよ、メイコ、キミの正体が。思い出した。真美だったんだ。ぼくは何が夢で何か現実か、そんなこと考えてたんだ。メイコって誰だろうって、ぼくが変な夢みてるのかなって」
 孝太の息は整って来て、あとは一気に言い通した。
「違うんだ、これは真美が見てる夢なんだよ。真美は言ってた、手術して身体が良くなったら世界中を旅したいって。手術はうまくいったのに、真美は目を覚まさなかった。たぶん、手術の時真美は夢を見たんだ。メイコって女の子になって、世界中、風に乗って旅をする夢を。そんでそのまま旅を続けたくて、目を覚ましたくなくなったんだ。だから真美は目を覚まさないし、メイコ、キミは真美の代わりに、ずっと旅をしてる。そうだろ?」
 メイコは答えなかった。でも、スッと、表情を変えないまま涙をこぼした。
「つまりさ、手術はうまくいったんだよ。真美は元気になった。元気に旅をしてるんだ。だからさ、いつまでもぼくの部屋に置いとかなくていいんだ。冬は過ぎたんだ。このピサンカ、役目を果たしたんだよ。だから、これ、真美に返すんだ」
 メイコは「うっ」と小さな声を上げて、その場にうずくまった。小さな肩が揺れて、泣いてるのがわかった。
 孝太はその背にやさしく手をかけた。
 大道芸人の男は、それまで手に持って上げていたマントを、ゆっくり下げた。そして後ろからメイコに声をかけた。
「夢を見る時間は終わりだよ」
 メイコは顔に手をやったまま泣き続けていた。だから男は孝太のほうに顔を向けてこう言った。
「オジサンの名前は、『夢コロガシ』。子どもの夢を盗んで売る……ゲスな商売をしながら世界中を旅している。――去年オジサンは手術中の真美の夢を盗んだ。売ろうとしたけど、つい、ね。同情しちゃったんだ。それで、付いて来るのを許してしまった。だけど、いつまでも夢を見続けられるはずはなかったんだな。キミに気付かれて、良かったのかもしれない。次この町に来れるのはいつか、わからないからね」
 ある意味、タネ明かしだった。孝太の想像だったことは、だいたい合っていたことになる。
『夢コロガシ』と名乗った男は、ズタ袋からタマゴを一個取り出した。
「こんな商売、オジサンだけでよかったんだ。世界中を旅したいと言ったって、ずっとオジサンといっしょじゃもったいないよ、真美」
 真美と呼ばれたメイコは、ゆっくり顔を上げた。涙がいっぱいたまった目は、誰もしっかり見ることはできなかったけど、口をしっかり結んで、もう泣くまいと我慢しているように見えた。
 夢コロガシは、取り出したタマゴをメイコに手渡した。そして、
「夢ってのはさ、ただ見るもんじゃないんだよ。叶えるものなのさ」
 と言い、なぜか孝太を見てウインクした。
「これはね、孝太くん。キミが昨晩見てた夢だ。こういうのをいくつも仕入れて、また子ども達に売るんだ、夢の見れるタマゴ、ハンプティダンプティとふれ込んでね。これがオジサンの仕事だ。許しておくれ」
 メイコがタマゴ――孝太の夢のつまったハンプティダンプティを手に抱いた。
「見てみてごらん」
 夢コロガシは笑顔で促した。
 メイコはタマゴの殻をむいた。
 孝太と、夢コロガシの目の前で、メイコの身体が光を発し、段々姿が消えていく。
「あ…!」と声をあげたのは孝太だったが、夢コロガシは大袈裟な身振りでうなづくと、
「キミの見た夢は――正夢になるよ」と言った。
 メイコだった光は、急激に夜空へ飛び上がり、一瞬またたくと、ついっと空の端へ向かって消えた。

 ちょうどその頃。真美の部屋。
 ずっと、ずっとずっと眠り続けていた真美が、この瞬間にうっすらと目を開けた。
「あ……れ……?」とつぶやき、上半身を起こした真美の手には、未来のメジャーリーガーのサインボールが握られていた。

 光が消えたあたりをずっと見ていた孝太と夢コロガシだったが、
「さてと」という夢コロガシの声で二人は顔を見合わせた。
「オッサン……」と、ただ声をかけるしかなかった孝太に、夢コロガシのオッサンは、
「いい夢見ろよ」
 と、またウインクして背を向けた。
「うん」
 とだけ答えた孝太は、道路の行く先、闇にまぎれて消えていく夢コロガシを、完全に見えなくなるまで見送った。


   ◇◇◇ エピローグ ◇◇◇

――チュンチュン……
 鳥が鳴き、カーテンの隙間から朝日が差し込む。
 日の光がちょうど目のあたりに当たって、まぶしくて、目覚ましよりちょっと早く目を覚ました孝太は、上半身を起こしたままボンヤリと何かを考えていた。
 夢……?
 長い、長い夢を見ていた気がする。
 悪夢のようだった気もするけど、そう悪い夢でもなかった気もする。
 とにかく孝太は身をベッドから起こして、カーテンを開けた。
 まぶしい。今日も暑くなりそうだ。
「おはよ!」
 窓を開けた孝太に、間髪入れずかけられた声。
 びっくりした。
 窓の向こう、お隣の窓が開いている。そんなこと、この一年と少しの間一度もなかった。
 それに――それに何より、去年の桜の夜以来顔を見ていなかった真美ちゃんが、その窓に腰かけて、こっちを見ていたんだ。もちろん「おはよ!」って声は、真美ちゃんの声。しつこく言うがあの桜の夜以来一年とちょっとの間、一度たりとも聞くことのできなかった、確かに真美ちゃんの声。
 すごくすごくびっくりしたけど、孝太はなんだか照れくさくて、鼻をかきながら小さな声で、
「おはよう」って言った。
 真美は満足そうにニッコリ微笑むと、こう言った。
「ありがとう、起こしてくれて」
 孝太はますます照れて、でも真美とお互い目を見合わせて、あははと笑った。

 孝太がメジャーリーガーになるか、
 真美が世界中への旅に出かけるか、
 その夢が叶うかどうか、どちらが先か、それは誰にもわからないけれど、真美と孝太だけがライバルじゃあない。
 キミもライバルの一人なんだって。
 これは夢コロガシのオッサンが、ボクに書けって言ったんだ。まったくもう。


                    【了】
漫画家から漫画原作者に転向するまでの間に、新しいことに挑戦したくて、今は潰れてしまった出版社の懸賞「児童文学部門」に応募した作品です。
(佳作か何か、微妙な賞をいただきました。)
数年が経ち、改稿も考えたのですが、多少の改変に留めました。
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