一八五年のトンネル
バレンタインということで恋愛ものを書いてみました。最近読んでいる小説の影響を受けてSFになっています。
空を覆う雲は絶え間ない雨を降り注ぎ、僕は城山公園への道を脇にそれた獣道に入る。ただでさえ人通りの少ない市役所裏登山口からの登りだが、足元がアスファルトからじっとり濡れた土に変わると、この道が人を歓迎するものではないことがわかる。左右におびただしく茂る枝葉は恵みの雨にもかかわらず落ち込んでいて、今元気であるのは雨だけである。
なぜ僕がこんなところを歩いているのかといえば、自分でもよくわかっていない。ただ心の中に突如湧きだした空虚感からふらふらと家を出て、気の向くままに足を動かしていたに過ぎない。目的地があるわけでもなく、ふと見つけた小道の先に何があるのか期待を寄せることさえない。まるで屍者のように歩く自分の姿を想像して鼻で嗤うようなことを繰り返すうち、遠くに開けた場所を見つけた。
大きな四角い箱。僕の目の前に現れたそれは豆腐のような外観で、大きさといえばプレハブ小屋程あった。真っ白な四角形の面は模様や継ぎ目に加えて汚れさえなく、とても古くからこの場所に在ったとは思えない。むしろ目の前の物体が持つ今まで見たことの無い無機質さに未来の匂いさえ感じさせる。しかし空虚感を埋めるには不十分で、僕はきびすを返そうと右足を浮かせる。
「動くな」
冷たい女の声が雨音の隙間を縫った。背中に固いものが当たっている。これはおそらく銃だと推測してみるが、だからといって何の役に立つわけでもなかった。刑事ドラマでよく見る強盗の人質よろしくゆっくり手を上げるが、傘を差したままでは滑稽に映るだろう。
「お前は何者だ。ここで何をしている」
「……筑田カズナリ。学生です。今日はただの散歩でここに」
やけに冷静なこの脳はまともな受け答えに加えて、背筋の冷たさと早まった心臓の鼓動を認識させる。やがて固いものが背中を押すと、僕の身体は前へと進まざるを得ない。そうして豆腐の前まで移動すると、目の前の白い壁が割れて内側へと格納された。奥には物置のような薄暗い空間と、所々に走る何色とも言い難い光の線が確認できる。
「入れ」
自分の顔が強張るのがわかる。一歩踏み入れたが最後、もう二度と戻れないのではないかという思いが頭をよぎる。しかし踏み入れなかったとして、背中の固いものから発せられる何かは僕の命を奪うだろう。僕は地獄へ行く思いで足を踏み出した。
数歩歩くと、暗闇が訪れた。一拍置いて眩い光が四方から襲い、僕の視界を奪う。片手で目を押さえつつ、徐々に目を慣らせながら耳を澄ませると、冷たい女の言葉を捉えた。
「時性、西暦、二〇一六。地域性、日本。擬態開始」
ようやく慣れた僕の目には、水の中から上がってきたと言わんばかりの女性の姿が映る。一目見て日本人では無いとわかるその金髪はしっとりとして先端から無数の水玉を落としている。何となくではあるが触れれば清流のような感じがするのではないだろうか。水玉の側に立つ靴は真っ黒で、登山用のものに見える。足元から実りの良い太もも辺りの黒い肌をよく見るとこれもまた衣類であるらしく、さしずめ薄手のライダースーツを全身に纏っているようだ。兎のように白いスカートやシャツはずぶ濡れで彼女の身体に密着し、黒い肌を透かせている。そのどれもが見覚えのない素材で作られているのに気付くとともに、今の自分の状況より女性の容姿に頭を使うあたり、僕も男なのだと苦笑すると、彼女の視線に気が付いた。
「君にはここで見たことを忘れてもらう」
その顔は凛々しく、キッとした目が印象的だ。歳は二十五を越していないように見える。
「忘れてもらうために中に入れていいんですか? 新しく知っちゃった感じがするんですけど」
「問題ない。忘れてもらう装置はここにある」
なるほど問題ない。彼女が取り出した白いヘルメットがどうやらその記憶を消す装置のようだ。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「なんだ。私はさっさとこれを済まして身体を乾かしたいのだ」
「じゃあ先にやればいいじゃないですか」
「その隙に逃げる気だろう」
彼女は僕を信用していないらしいが、おそらく同じくらい僕も彼女を信用していない。事実身体を乾かす間に逃げるだろうという彼女の指摘は望ましいものに思えた。まんじりともしない二人の見つめ合い――もとい睨みあいは数分続いたが、やがて可愛らしいくしゃみによって突然遮られた。
「まさか五十五年もずれたとは」
カバンから取り出した僕のタオルで頭を拭く彼女の言葉に、僕はある単語を思い浮かべる。まさかそんなはずはと思いつつ何の小細工も無しに正面からぶつけると、彼女は驚いた猫のような顔でこちらを見ていた。
「貴様何故それを! やはりさっさと記憶を消してしまったほうが良いようだな!」
「ま、待ってくださいよ! こんなところに連れ込んでおいてそれは無いでしょう!」
「こんなところだと! 貴様、我ら時空警察の技術の結晶に対してこんなところとは!」
口を開くほどに語るに落ちていく彼女だが、その言葉は到底鵜呑みに出来るものではない。取り囲む不明な機械があってなお、自分が思い当たった単語を飲みこめないでいる。
「ともかく! 君にはここで見たことを忘れてもらう! いいな!」
大人びた姿をしているが、怒る様子は駄々をこねる少女のようだ。見た目とのギャップについ口元が緩みそうになるが、このままではらちが明かないと思い、白いヘルメットを手に取る。
「わかりましたよ。これを被ればいいんですね?」
疑うような目が僕を刺す。しばらくしてヘルメットを取り上げ
「貴様何か企んでいるだろう。だがそうはいかないぞ」
と言ってそそくさとそれを仕舞った。その単純さは警戒の必要がないことを示しているが、同時に彼女の警戒を解くには時間がかかるだろうことを表している。彼女は左手にスクリーンを出現させると、五本の指をあてがった。それだけで操作が出来ているのか画面は目まぐるしく変わるが、彼女の青い目は変わらずこちらを見張ったままだ。やがてスクリーンからビープ音が響くと、彼女は舌打ちをして画面を消した。
「本部のヤツ、こういう時に限って出やしない……貴様名前は?」
「筑田カズナリ……ってさっき名乗ったじゃないですか」
「そうだったか。日本の名前はどれも似ていてわかりづらいな」
何気ない顔で言う愚痴は不思議と不快には感じなかった。どちらかといえば彼女自身の純粋な感想のように思えたし、僕だって他の国の名前をすぐに覚えろと言われてできる自信はない。
続く彼女の言葉を待つが、彼女は先ほどと別の機械の前で何やら作業を初めてしまったため、催促の声をかける。
「あ、あなたは?」
「過去の人物との接触は許されていない。未来の事を教えるわけにはいかん」
ぶっきらぼうに言うが今更遅い。僕は既に大きな豆腐の中で記憶を消すヘルメットや宙に浮いた画面を見てしまっているのだ。
「いやここまで触れておいて……それにどうせ後で記憶消すんだったらいいじゃないですか」
彼女の白い指が静止する。二度三度目をぱちくりさせると、僕の方へ向き直った。
「仕方のない奴だ。そんなに聞きたいなら聞かせてやる。本部との通信が繋がるまでの暇つぶしだ」
エフ、というのが彼女の呼び名らしい。もちろん本名ではなく時空警察内でのコードネームで、いくらせがんでも本名は教えてくれなかった。彼女は近年――といってもここからずっと先だが――設置された時空警察の職員で、時空管理局に許可されていない密航者を連れ戻すのが主な仕事だと言う。
「UFOを見たとか、宇宙人にさらわれたとか言う話を聞いたことはないか? あれは全て私たちが書き換えた記憶だ。忘れてもらうと言っても、彼らにとって未来の人間と接触している間の時間は空白になってしまうからな。代わりに言いふらしても信じられない記憶に変えておくんだ。因みに異星人は私達の時代でもまだ見つけられていない」
鏡を見せられれば多分間抜けな顔をしているだろう。僕は周囲の圧倒的な技術力によって彼女の話を受け入れざるを得なかった。それでも辛うじて、頭を未来に追いつくよう回転させる。
「それで、密航者はどうなるんですか?」
「そうだな、まだ法の整備も進んでいないからな。とりあえず今はしばらく時空警察の監視下に置いて、再犯の恐れがなくなったら解放するようにしている。時間密航者の存在自体、あまり表に出したいものではないしな」
随分甘い処分に思えるが、彼女のいた時代より未来においてはさらに厳しくなったりするのだろうか。僕は頷いてエフに話の続きを促す。
「ともかく、過去の人間に接触すれば、未来に影響が出るからな。私が生まれてこないなんてことにもなりかねない」
「なるほど、たしかにエフさんが生まれてこないのはもったいないですね」
彼女の目が点になった。おそらく僕の目も点になっていただろう。ごくごく自然に出た言葉は僕の頬を熱くさせ、彼女の顔を赤くする。
「な、貴様何のつもりだ!」
「い、いや別に他意はないです! その、綺麗だからつい」
怒りながらツンと顔を逸らす様は思春期の女の子のようだ。そう考える頭は同時に早まった心臓の鼓動を認識させる。
「貴様に褒められても嬉しくはないが、この身体は一切の遺伝子操作も整形手術も受けていない自慢の身体だ。そこに目をつけたのは褒めてやろう」
途中で得意げな顔に変わった彼女はようやく見た目に近づいたような気がしないでもない。両親はさぞ美男美女だろうと思いながら、今度は整形手術についての話題を振ってみる。
「ああ、酷いもんさ。顔や身長、足のサイズに胸の大きさ、果ては性別までいじくって自分の好きな姿になれる。おかげでこっちはせっかく掴んだ人相もすぐ無駄にされるよ。まったく親からもらった身体を何だと思ってるんだか」
その口調は心底うんざりしているようだった。未来から来たにしては古風なことを言うが、それは自分の身体に文句がないからじゃないのかというのは黙っておいた。
「と言っても、それにも規制はかかっていて、許可をもらった者でしか受けられない。あるいは非合法に手を加えるかだ」
「非合法にねぇ……そう言えばエフさん。あなたはどの時代から来たんですか?」
「二二〇一年だ。この時代から百八十五年後だな」
僕が死んだ後の遠い未来。想像もつかない世界から来た彼女は案外普通の人間のようだ。少し抜けたところはあるが、決して僕たちの時代に生きる人間の範疇を越えるものではない。
「街は変わっているんでしょうね」
「ああ。さっきこの辺りから街を見下ろして愕然としたぞ。たった二百年でこんなに変わるものかとな。因みにこの辺りはまるごとアンドロイド生産工場だ」
思わず挙げた素っ頓狂な声に彼女は驚いたが、よほどおかしかったのか腹を抱えて笑い出す。白い肌の頬に増す赤みは無機質な機械の中で唯一自然で、何となく温かい印象を受けた。
「そんなに笑わなくたっていいじゃないですか」
「ハハッ、すまない。ついな」
一緒になって笑い出し、僕は自分が彼女に惹かれていることに気が付いた。同時に未来の世界にも興味がある。できることならアンドロイド工場になった城山公園を見てみたいし、彼女の両親がどんな人なのかも見てみたい。しかし何より今は、彼女と話がしていたい。
それから何時間か談笑を続けた。長い時間の壁を両側から掘りあうように、話せば話すほど距離が近づいていく気がした。最初の警戒心はどこへやら、時間も忘れて僕らは友達のように笑いあっていた。
「でもさらに未来からしたら既に起こってることだから取り締まらなくてもいいんじゃないですか」
「君の考えがあってたとしたら、私たちが取り締まることも既に起こったことだから問題ないだろう」
二人の声を遮るビープ音。彼女の顔つきが変わり周囲に無数の画面が浮かぶ。どうやら本部との通信がつながったようだ。僕は画面の一つに目を止める。おそらくエフが追っている密航者の情報だ。画像には綿毛のような柔らかい白さが印象強い、同い年くらいの女性が写っている。名前は――
「はい。ではそのように」
やがて通信を終えたエフがこちらを見ながらヘルメットを取り出した。その目は変わらず青いが、どこか寂しげに見える。
「そろそろお別れだ。短い間だったが、話せて楽しかったぞ。カズナリ」
「アンジュリーナ……」
名前を呟くと、彼女は目を見開いた。
「カズナリ、その名を何故」
僕は画面に書いてあったことを並べる。
「……エフ。私です。私はアンジュリーナ・ダンデライオン。二二〇一年のアメリカから父のタイムマシンで、二〇一六年の日本に来ました」
なぜ僕がこんなところを口にしているのかといえば、自分でもよくわかっていない。ただ心の中に突如湧きだした熱い思いが身体中を駆け巡り、思ったままに口を動かしていたに過ぎない。こうなったらもう後には引けない。一八五年という壁を越えた未来と彼女を知るためならなんだってやってやる。
「冗談はよせカズナリ。君は日本人だし男じゃないか。身長だって全然違う。どこでその情報を知ったのか知らないが」
「整形ですよ。エフ。私は非合法の手段で姿を変えたのです。まったく気が付かなかったでしょう?」
口調も気持ち女の子のものに変えてみる。エフの口がパクパクと開くが、声は出ていない。
「ごめんなさい。私も記憶の書き換え装置で書き込んだ筑田カズナリとしての記憶に抑えられていたけれど、あなたの話を聞いて思い出すことができた。ここまでのようね」
エフは俯いていたが、やがて僕の顔を見て目に覚悟を据わらせる。
「カズナリ、いや、アンジュリーナ・ダンデライオン。君は未来に戻れば、再犯の可能性が無いと判断できるまで時空警察の監視下に置かれることになる。もっとも、君の父が開発していたタイムマシンはもう使えないことが確認されているからすぐ解かれることになるだろうが……本当によいのだな?」
僕は頷く。
「わかった。本部に連絡を入れる」
こうして、僕は二〇一六年の日本に別れを告げることになった。たった数時間の出会いが一八五年の隔たりを越えることになるなんて実感はまだ薄く、彼女にはまだまだ僕の知らない所があるだろう。きっとそれを、僕は僕の時間をかけて探していくことになる。なにより彼女は一人で放っておけない。僕が支えてあげるべきだと、このわずかな間に確信したのだ。ここに来るときに僕が感じていた空虚感も既にない。ぐちゃぐちゃになって言葉がまとまらないが、彼女に惚れてしまったというのは疑いようのない事実だ。
彼女が通信を終え、機械の中から現れたハンドルに手を取る。部屋全体が小刻みに震えだし、近くの機械に手を置いて体を支えた。
「そうだカズナリ。記憶を消す装置だが、あれはせいぜい一日や二日分の記憶しか書き換えられない。二十年分の人生を丸ごと書き換えるなんて私たちの時代じゃまだできないんだよ」
振り向いた彼女の悪戯っぽい笑みに、僕は一八五年のトンネルが繋がったことを悟った。