この話は「闇を喰らう者:序ノ一節」の続きになります。
雨は降り続ける。
「黎司……ごめんなさい」
頬を伝う雫は雨なのか、俺の涙なのか、今は分からない方がいいのかも知れない。
「闇姫のせいじゃ……ない」
もし……涙だって分かってしまったら、俺はきっと壊れてしまうだろうから。止まない雨はないと言うが、心に降り続ける雨は上がる事はないだろう。
「……真緒」
俺にも闇姫にも、深く抉るような傷を残して……雨は降り続ける。
大事なものを失うって、こんなにも呆気ないものなんだな――。
学校は変わりなくいつもの日常が繰り広げられている。
廊下の隅――人気の少ない放課後の廊下で俺と闇姫は話をしていた。離れた場所からは他愛もない会話が聞こえ、その合間に楽しそうな笑い声も聞こえてくる。どうやら今からどこに行くかを相談しているようだ。しかし、今の俺には”それ以外の声”も混ざって聞こえてくるので、堪ったものではないのだ。
……うっとうしい。
耳障りな甲高い卑屈な笑い声、酷く澱んだ自分を呪う声、この世のものとは思えない恨みがこもった声。色々なものが聞こえ、纏わりつき、俺の身体を蝕んでいく。
「大丈夫ですか? 黎司」
「……ああ。まだ慣れなくてな」
隣から聞こえる声、肩を揺する振動。ゆっくりと俺の心を癒してくれる声の方へ向くと、心配そうに俺を見つめる闇姫がいた。
「無理しないようにしてください」
「分かってる。闇姫は大丈夫か?」
「私は大丈夫です……真緒も今は眠ってますから」
「そうか……あいつも大丈夫そうだな」
そっと自分の肩に腕を廻し、大切そうに身体を抱きしめていく闇姫。
その身体はとても女性的でふくよかな胸にくびれた腰元まで綺麗な黒髪が伸びていた。黒目がちな瞳にすらっと伸びた鼻梁。一番の特徴であった赤く艶のある唇は、今は少し紫色に変色している。しかし、これは闇姫の身体ではない。
闇姫は今、俺の妹――真緒の身体と同化している。
それには色々と理由があるのだが、今回は非常事態が起こったために真緒の身体と魂を繋ぐ役目をしてもらっているわけだ。
「力……かなり使うみたいだな」
「普段は使わない力なので、維持するのが精一杯で……」
深く息を吸い込み、胸を逸らす闇姫。その身体は真緒のものだが、ふくよかな胸元に目が行ってしまうのは男の悲しい性だろうな。
妹の身体を見て何を興奮してるんだか……俺は。
しかし、『器』を持たない闇姫には魂と肉体を”繋ぐ”という行為が未知のものなんだろう。永久の世界で『器』とは言えば精神体と言う魂の周りを覆っている人間でいうところの皮膚のようなモノ。そのおかげで霊体は不安定な形を維持する事が出来き、器を剥ぎ取って新しく生まれ変わる事を『転生』と言う。
だが、闇姫にはその器が存在しない。
「それが自分であり、魂を浄化するためには必要な事です」と闇姫は当たり前にように言っていたが、黒い闇のような姿からは表情なんて読み取れなかった。しかし、あのときの闇姫が俺にはすすり泣く子供のようで、とても儚げに見えた。
……こんな存在は、永久の世界でも闇姫だけなのだから。
「こっちに帰ってきて、もう一週間……か。時間の感覚もやっと戻ってきたが、魔変の退治がこんなに大変だとは思わなかった」
「黎司は慣れるまでは、無理をしないでください。でも、魔変の様子が……はあ、はあ……どうもおかしい気がします」
闇姫は小さく息を吸い込み、荒くなり始めた呼吸を整えようとしていた。どうやら真緒の身体は安定しているようだが、それを維持している闇姫自身の力の消耗が想像以上に激しいようで疲労の色が目に見えて分かる。それにここ最近、昼夜問わず魔変との戦闘で疲労もピークに達しているようだが、俺にはどうしてあげる事も出来ない。
「本当にすまない……」
「いいえ……黎司のせいではないです」
小さく首を振る闇姫の瞳は俺を責めるわけでもなく、全てを許してくれる慈悲に満ち溢れていた。
今から一週間前、「現世で異変が起こった」という報告が入ったので闇姫に同行して帰って来たのだが、最初は時間の感覚が掴めずに随分と苦労した。現世と永久の世界では時間の流れが違うらしく、俺が学校に来なくなって三日ほどしか経っていなかった。しかし、永久の世界では太陽は昇らないのでよくは分からないが一ヶ月ほどの時間が経っていたので、その時間のズレを修正するのに大変だった。
と、そんな話は今は置いといて――こちらに帰って来た理由は俺の住んでいた町に異常な数の魔変が現れて人間に危害を加え始めたと聞いたからだ。いつもなら闇姫だけも問題ないのでほっておくが今回は俺が一七年も住んていた町が大変だと聞けば黙って見ているわけにはいかなかった。
そして、帰って来てからは昼夜関係なく現われる魔変との戦いに明け暮れる毎日だったのだが――。
「しかし……人間の魂だけならまだしも、どんな魂でも魔変化するんだな。まさか、犬や猫の魔変と戦う事になるとは思わなかったよ」
こちらに帰ってきて最初に出会ったのが犬の魔変化した集団で野犬より性質が悪く、凶暴な上に鋭い牙を持っていたので身体中が傷だらけになってしまった。そのあとは猫や鳥、際目付けがワニである。闇姫の話では人間に飼われていた動物ほど魔変になりやすい傾向があり、その種類も半端ではないらしい。人間に虐待されたり、事故で命を失ったり、身勝手な飼い主が捨てたり、そんな人間への負の感情が魔変へ導く結果になっていると言う。
「人間の魂は魔変化したばかりなら楽だが、時間が経つと力を付け過ぎて手に負えない」
「そうですね。そのときは阿修羅隊がいますので、彼等に任せるしかないでしょう」
しかし、人間の場合は生活環境や性格など、色々な要素が複雑に絡み合い、闇に堕ちやすい弱い部分を持っている。欲望、嫉妬、恨み……色んな負の感情が魔変と化したときの魂の力を強くし、より強大な力を手にした魂は更なる魂を求めて彷徨う。
俺が最初に見た魔変はワンピースの女の子だったな。
見た目に惑わされると痛い目に遭うって典型的なパターンだったが、あれでも魔変では比較的弱い部類に入るらしい。魔変は穢れた魂が闇に飲み込まれて黒く染まったもので姿は生前とほとんど変わりがない。しかし、闇に染まった影響で血を好み、肉を食らい、満たされる事のない欲望の虜になり、綺麗な魂を求めて彷徨うようになる。あのワンピースの女の子も、兄を探し求めている途中に闇の誘惑に負けて魂を喰われ、次々と人を殺める殺人鬼と化してしまったところを闇姫に救われた。今は永久の世界で生まれ変わるために自らの魂を清める努力をしている最中で、こちらへ来る前に会ったがとてもいい笑顔をするようになっていた。
「魂は本来は無色透明なものです。しかし、生きている間には様々な出来事があります」
「確かに、な。罪を犯す奴もいれば、未練を残したまま死んでいく奴だっているだろ。そういうのが魔変化するのは分かってるけど、今のご時世……多過ぎるって」
「……そうですね」
悲しそうに目を伏せていく闇姫は頭を二度三度振って無理からに笑みを浮かべていた。
この世に未練を持ったまま死んだ奴、罪を犯しても反省なんてしない奴、色んな心の闇が多過ぎるんだよ。だから死んで闇に飲まれて魔変なんて化け物になってしまうのだ。もう少し、自分と向き合って色々と考える時間があればいいのに……って、そんなゆったりとした時間がある時代じゃないか。
「頑張って一つずつ浄化するしかないのかあ……面倒な話だよ」
「魔変化する魂は浄化出来るからいいのですが、あの妙な力には私の力も……」
「……確かにアレは厄介だな。力の差が圧倒的で、今の俺はどうする事も出来なかった」
拳を握りしめている俺を心配そうに見つめている闇姫。
ヤツには勝てない――それは今の俺が一番よく知っている。でも、このままじゃいけない事も分かっている。
「あいつを倒す事が出来るのなら、俺はどんな事でもする。あいつのせいで……真緒は」
途端に表情を曇らせて目を逸らした闇姫は身体を抱きしめて震えだした。
きっと、あのときの事を思い出しているのだろう。あの男は危険だ……今でも思い出すたびに俺の身体も恐怖で震えてしまう。
それは今から三日前の夜に起こった。
いつものように闇姫と魔変を浄化していたのだが、帰って来てから毎日のように出掛ける俺に不信感を持った真緒が後を着けていたらしくその現場に現われたのだ。突然の事で驚いている俺に更に予想外の出来事が起こった。
突如現われた威圧的な力を持つ男に力の差を見せ付けられて動けなかった俺。狡猾的な笑みを浮かべて見下ろす男の赤く光る瞳と、その腕に抱えられた真緒の身体。そして、青白い閃光が走り抜け、俺の身体は宙を舞っていた。そのあとは意識を失い記憶はないが、目が覚めた俺に闇姫が教えてくれたのは残酷な現実だった。
それが今も俺の肩に重く圧し掛かり、後悔の念で心が張り裂けそうになっている――。
「……行くか」
苛立ちを隠すため、小さく息を吸い込んで吐き出し、立ち上がると闇姫も同じように立ち上がった。
しかし、揺らぐようして膝から崩れ落ちそうになった闇姫を俺は受け止めた。慣れない肉体との同化で闇姫自身も不調を来たしているようで、真緒の顔色は酷く青白かった。
「大丈夫か? 真緒の身体……あと、どれくらい持つんだ?」
「……このままだと、持って二週間くらい」
その言葉が胸を抉り、眩暈を覚える。
今の真緒は肉体と魂を切り離された不安定な存在となっている。本来は魂と肉体は『魂浄の鎖』というもので器から抜け出さないように固定されている。しかし、あの夜……男がその鎖を断ち切り、真緒は生死の境を彷徨っている状態なのだ。
「分かった。それまでになんとしても真緒を助ける方法を考えないといけない……な」
静かに頷く闇姫は表情を曇らせて俯いていく。
このままでは真緒は死んでしまう。そうなる前に何とかして元に戻す方法を見つけないといけないが、闇姫もその方法を知らないのだと言う。
「それじゃ、遅くなる前に帰るか」
「はい……そろそろ、真緒が目を覚ます頃でしょうから、私は眠りにつきます」
「ああ、ゆっくり休んでくれ」
「……はい」
すっと目を閉じた闇姫だったが、次の瞬間ゆっくりと目を開けていった。
一瞬の事で瞬きする間もなかったが、目を開けて辺りを見渡しながら目の前にいる俺に気付いて――
「あっ……お兄ちゃん」
小さく弱々しいがしっかりと俺を呼ぶ声が聞こえていた。
日は何もしなくても進んでいく。
あれから三日、特に進展もなく時間だけが進んでいた。焦りの気持ちが顔に出ているのか、クラスメイト達は俺の周りには近寄ってこようとはしない。一定の距離を保ちつつ、何やら陰口のようなものを話しているのが聞こえてくるが、今はそんなものはどうでもよかった。
「……くそっ。何か方法はないのかよ」
握りしめた拳が熱く熱を持ったように痛みを放ち、赤い筋が掌を伝い流れ落ちていく。
このまま、真緒が憔悴しながら死んで行くのをただ待つしかないのか? 俺は何も出来ないまま、家族を失うしかないのか?
「お兄ちゃん、いますか?」
小さな声が俺の耳に届いてきた。
喧騒に包まれた教室内でその声はかき消されてしまうほど酷く弱々しいが、今の俺にはどんな声よりもはっきりと聞こえる。まあ、昔から聞いていた声だから耳が慣れているだけって事もあるだろうけど。
「どうした? 真緒」
「あ、お兄ちゃん……あ、あのね」
足早に歩いてきた俺に気付いたが、辺りを気にして視線を巡らせていた。
「……また、視たのか?」
俺の言葉に一瞬、身体を震わせたかと思えば、小さく頷いていく真緒。
真緒は小さい頃から普通は見えないものが見える不思議な力を持っていた。が、今思えばそれは日狩の血が影響しているのだろう。俺は見えなかったので最初は真緒が冗談で言っているのだと思っていたが、普段は大人しく俺の後ろを付いて来るだけの真緒が声を荒げて否定する姿に驚き、それからは真緒の言う事は表面上は信じるようにした。
しかし、今は俺も見えるので否定のしようもないのだが……。
「小学生くらいの男の子が学校の中を歩いてたの。でも、誰も見えてないようだったし、変な感じがして……」
「……そうなのか? 確かにおかしいけど、ほっといても――」
大丈夫だろう――そう言い掛けたところで、納得出来ない様子で俺をじっと見つめていた真緒が制服を引っ張っていた。そんな子犬のような怯えた瞳で見つめないでくれよ。
「分かった。それじゃ、ちょっと見てくるから真緒は教室に帰ってろよ」
「……うん、分かった」
一瞬、考えるような素振りを見せた真緒だが首を縦に振り、素直に帰って行った。大人しいがあれで意外と頑固で自分で決めた事は曲げない性格だからな……誰に似たのやら。
「さて……ちょっと様子見に行くか」
小さく息を吐いて教室を出た俺は、予鈴の鳴る廊下を歩き出した。
階段を上り、教室が一つもない俺と闇姫がいつも話をしている四階までやってきていた。一階からくまなく探してみたが見つからず、四階まで来てみたが一向に見つからない。
「特別、おかしな気配もしないし、探すのに一苦労だな……こりゃ」
頭をかきながら踵と返そうとして、そこで視界の隅におかしなヤツが入ってきた。見た目は小学三、四年生といったところで、身体の線は細くあまり背が高い方ではないようだ。ここには不釣合いなヤツが廊下に隅に座っているが、どうみても普通の人間だよな? 霊体でもないし……でも、妙な感じもする。言葉に出来ないが胸の奥で何かが警告を出しているような、そんな感じだ。
「どうしたんだ?」
ゆっくりと顔を上げた男の子は無表情に俺を見つめ、首を傾げていた。
「お前だよ、お前」
明らかにおかしな態度に苛立ちを覚えながらもう一度呼び掛けると、男の子は今度は辺りを見渡したあとに不思議そうな顔をして俺を見つめていた。
「……僕が見えるんだね」
「ん? ああ、見えるぞ。で、なんでこんなところにいるんだ?」
意味の分からない事を言っている男の子は俺をじっと見つめ、屈託ない笑みを浮かべていた。
「僕、普通の人には見えないようにしてるんだけど……僕が見えちゃうって事は、普通じゃないんだね?」
……一体、何だって言うんだ?
「ところで、ここって臭いね」
「は? 臭い?」
眉をしかめて俺を見上げていた男の子は目を逸らして辺りを見渡していたが、ゆっくりと手を廊下に付き――
「ここって、とっても臭い匂いがするんだよ。吐き気のする闇の匂いがプンプンしてるんだよ」
表情を一変させ、鋭い目付きで口角を上げていた。
「……何?」
「まだ、気付かないんだ。お前の事を言ってんだよ……馬鹿」
今までの雰囲気を払拭するような狡猾でいやらしい笑みを浮かべ、俺を見上げているの瞳は不気味に青く光っていた。
「ここ――お前の匂いでいっぱいだから、近寄ってきたときにすぐに分かったよ」
……こいつ、危険だ。
そう思った瞬間、何かが足元から駆け上がってくるのを感じ、咄嗟に後退ったが鋭い痛みが足首に襲ってきた。
「つあっ――お前、何者だっ」
「別に僕が何者でもいいじゃない。……だって、お前はここで死ぬんだからさあっ」
「――くっ」
ゆっくりと立ち上がってくる男の子は笑いを堪えるように口元を歪め、身体は眩い光に包まれていった。
「ウリエルがサンプルの捕獲に失敗するから、僕が出てくるハメになったんだ。いい迷惑だよ……ったく」
光が収まり、その中から現われたのは真っ白な衣を纏った男の子。屈託ない子供のような笑みを浮かべているが、その姿は教会の壁画などに描かれている天使にそっくりで翼があれば間違いそうなほど神々しかった。しかし、その瞳は一切笑う事なく俺を見据え、身体が押し潰されそうになる力の波動が校舎をも揺らしていた。
「ぐはっ、はあ、はあ……その姿。それに、その力は――」
得体の知れない力に身体が震え、足が思うように動かない。
それにこの力の波動とよく似たものをつい最近、嫌というほど身体に受けたのだ。
「言ったって分からないでしょ? だから、言わなーい」
楽しげに口を開き俺に近づいてくる男の子は右手の人差し指だけを伸ばして掲げていく。刹那、人差し指を中心に白い光が集まり始め、直径五〇センチほどの光の輪を作り上げていた。
「これで切り刻んであげるよ。バラバラに、ね」
言っている事はさっぱり分からないが、俺は今殺されそうになっている事だけは分かる。ウリエル? サンプル? 何の事だよ……俺に分かるように説明しろって言うんだよ。
「くくっ……そんなに怯えなくて一瞬で終わるから、痛さなんて感じないよ」
「お前、頭おかしいじゃないかっ」
「なんで? これは遊びだよ。お前だって昆虫採取するでしょ? あれと同じ……僕はサンプルを捕まえにきただけ。でも、お前はサンプルでもなんでもない、ただのお邪魔虫だから切り刻んで遊んで、あ、げ、る、よ」
悪びれた様子もなく大きな笑い声を上げている男の子。その笑い方は嫌味たらしく見ているだけで吐き気がしてくる。しかし、相手にするにしても力の差は圧倒的に俺の方が不利だ。
この小さな身体から感じるのは魔変の闇とは対をなす光の力。
魔変が闇に魅入られて変化した魂なら、光を崇拝するあまり闇を忌み嫌う勧善懲悪の魂となったものを『天変』と言い、永久の世界でも扱いに困る存在となっている。
しかし、こいつは明らかに肉体を持っている普通の人間だから魂だけの存在とは違う。
「お前、天変……なのかっ」
「……天変? あんなものと一緒にしないで欲しいな。僕は選ばれた存在なんだっ」
男の子が吼える。
「くあっ――がはっ」
一瞬の出来事だったが、男の子が作り出した光の輪は咆哮に反応するように砕け散り、稲光のような閃光が辺りに弾け飛び、廊下を縦横無尽に駆け巡りながら窓ガラスを粉々に砕いていった。欠片は宙を舞い踊り、重力に従って廊下に落ちるかと思いきや、意思を持った生き物のように宙で一旦止まって軌道を変え、俺の方へと加速しながら一直線に飛んできた。
「お前が悪いんだよ。僕を天変如きと一緒にするから……このラファエル様を侮辱した罪は、万死に値するよっ」
無数のガラス片が俺の身体を掠め、数え切れないほどの傷を作っている。流れ落ちていく赤い血が制服を染め上げ、痛みで目が霞み始めていた。
……こいつ、強い。
天変でもない未知の力。しかも、桁外れに強い力の持ち主で今の俺には太刀打ちなんて出来ない。だが、このままでは一方的にやられてお終い、最悪の場合は――死。それだけはなんとしても避けないといけない。
「はあ、はあ……お前、頭いかれてるだろ?」
「僕を馬鹿にするなっ! お前は……お前は、ここで死ぬんだよ。僕に肉体も魂も粉々に砕かれてなっ」
俺の話などまったく耳に入らず完全に眼が逝ってしまっている男の子――ラファエル。
両手を振り上げ、その間に光の輪を作り出していくが、今の状況であれを防ぐのは無理に近いだろう。しかし、直撃されたら間違いなく死んでしまうので、何か策を考えないといけない。
「逃げようとしても無駄だよ。僕の光輪は闇の匂いを追尾する力があるからね。どこに逃げても追いかけてお前を切り刻んでやるから、覚悟しなっ」
「くそっ」
痛む身体に鞭打って走り出した俺のうしろで一箇所に収束していく力を感じながら、絶体絶命の危機的状況に陥っていた。俺の走る速度とあの光輪の速度は、どう考えても向こうの方が上だろう。こんな一直線に伸びる廊下では逃げ場がないのと同じだ。せめて階段まで行き着ければ何とか策も講じる事が出来そうだが――そう思い、うしろを振り返った俺の目に飛び込んできたのは、廊下の幅ギリギリまで広がった光輪を身体をうしろに逸らしながら口角を上げ、鋭い眼光で俺を見据えながら腕を振り抜いていくラファエルの姿だった。
「くそっ」
廊下を揺らす轟音と共に俺に向かって真っ直ぐ飛んでくる光輪から逃れようと痛む身体に鞭打って走り続けていたが、血が流れ過ぎたせいか身体がよろけて転んでしまった。
「ぐあっ」
「ははっ……もう、お終いだね」
遠くでラファエルの笑い声が聞こえ、俺の耳に絶望を届けてくる。
俺は死ぬのか? ここで俺は死んでしまうのか?
振り返った俺の視界は真っ白に染まり、頭の中では色々な事が過ぎっていくが心は意外と穏やかに最後のときを覚悟していた。
……ごめん、真緒。
お前の身体、元に戻してやる事が出来そうにないよ。
こんな駄目なお兄ちゃんで本当にごめんな。
迫り来る光の輪を眺めながら俺はゆっくりと目を閉じようとしたところで――
「きゃあっ」
辺りに響き渡る断末魔のような悲鳴と生暖かい飛沫が全身に降り注いできた。
「……な、なんだ?」
目を開けるのが怖かった。いや、開けたくないって思っていた。
「……真緒? なあ、真緒……な、なんで…………ここに」
目を開ければそこに俺が想像している光景が広がっていたとき、俺はどうしていいか分からなかったからだ。
「お、お兄ちゃん……」
背中を真っ赤に染め、床に倒れ込む真緒が俺に向かって手を差し出してくる。震える指先を絡めしっかりと握ると、どこか焦点が合ってない瞳で俺を見つめ――
「お兄……ちゃ…………ん」
力ない笑みを浮かべてゆっくりと目を閉じていった。
それはスローモーションのように俺の瞼に焼き付き、真っ赤な血の海に溺れていく真緒に手を差し伸べて支える事しか俺には出来なかった。
「真緒……? 真緒、嘘だろ? なあ、返事してくれよ……真緒っ、真緒っ!」
何度呼び掛けても俺の声に何も返っては来ない。
目の前には廊下を真っ赤に染め上げる大量の血があり、俺の腕の中には小さく呼吸をする妹の身体がある。
これは夢か? 何か怖い映画でも見て悪夢でも見ているのか? なあ、誰か教えてくれよ。これは夢だって……誰か、夢だって言ってくれよっ!
「黎司……」
「……やみ、ひめ」
俺の腕に抱かれて目を閉じる真緒の身体から抜け落ちるように這い出てきた黒い物体がうねりながら形を作っていく。しかし、かなり不安定なようでいつもの形を作る事が出来ないでゆらりと揺れているだけだった。
「なんで……なんで、真緒がここにいるんだっ」
「ご、ごめんなさい……はあ、はあ……突然感じた異様な力に導かれて、くっ……」
闇姫を責めても仕方ない事は分かっている。でも、この憤りをどこにぶつければいいんだっ!
「止める事が……はあ、くっ……出来なく、て――っ」
真緒の身体から這い出してうしろを向いた闇姫は驚きに満ちた瞳を震わせ、愕然とした表情を浮かべていた。
「まさか、お前まで一緒とは――なあ、ガラクタちゃん」
いつの間にか俺達の前に立っていたラファエルは威圧的な瞳で見下ろしていた。まったく気配も動きも感じさせないで近くに移動してくるなんて、やっぱり力の差があり過ぎる。永久の世界であれだけ鍛錬したっていうのに、まったく手も足も出せない。それどころか死ぬかも知れないって恐怖で身体が縮み上がってうまく動く事すら出来ないでいる。
目の前で真緒がこれだけ傷付けられたのに、俺は何も出来ない。
俺に力がないから?
俺が弱いから?
いや……違う。俺は逃げてるんだ。怖いから逃げているんだ。
「い、いや……近寄らないで、来ないでっ」
「記憶が消去されても、僕の事は覚えているんだね。でも、その姿は醜いな……吐き気がするほど、醜くて最悪だよ」
普段からは想像もつかない声を出して頭を抱えて震えだした闇姫を見下ろして楽しげに笑みを浮かべていたラファエルだが、すぐに表情を曇らせて眉尻を下げていた。
「しかし、困ったね。サンプルが自分から出てくるなんて……身体がボロボロになっちゃったよ」
「……な、なんだと?」
「おまけに邪魔なヤツはまだ生きてるし、ほんとイライラするんだよね――こういう展開って、さあっ」
「ぐはっ」
いきなり力任せに俺の鳩尾を蹴り上げ、怒りを露にしているラファエル。その瞳には一切の慈悲はなく、容赦なく邪魔者は排除する意思が明白に伝わってきていた。
「お前……消えろよ」
冷たく言い放つラファエルの声を最後に俺は意識を失っていた――。
俺は死んだのか? 真緒はどうなったのか? 何も分からない俺をただ静かに見つめている闇姫が全ての答えが教えてくれいるような気がした。
「俺は、生きてるのか……?」
周りを見渡してみると、そこは見慣れた校舎の廊下だった。
だが、ある一点に俺は釘付けになり、身体が震えるのを止められなかった。
『サンプルはもらっていく。ガラクタと馬鹿は近いうちに殺しに来るから待ってろな』
壁に真っ赤な文字で書かれたそれを呆然と見つめている俺に――
「黎司……ごめんなさい」
闇姫は申し訳なそうに俯いて呟いていた。
しかし、よく見れば闇姫の身体は形を安定させるどころか維持するのが精一杯のようで、薄っすらと透けて見ていた。
「闇姫のせいじゃ……ない」
多分、俺が気を失っている間、必死に止めようとしてくれたのは明らかで、そんな闇姫を責める事なんて出来なかった。
……俺は何も出来なかった。
ただの気まぐれか、それともいつでも殺せるって言う余裕なのか、どっちにして俺は負けたんだ。
「俺は……俺は、力が欲しいっ」
心配そうな声で真正面から俺を見据えている闇姫に俺は構わず思いをぶつけた。
「真緒を助けるためには……誰にも負けない力が必要なんだっ」
……俺が死なずに済んだのは真緒のおかげだ。
真緒に助けってもらった命……その命を掛けて今度は俺が助けないといけないんだ。
「分かりました。ですが……今はゆっくり休んでください」
静かに俺を包んでいく闇姫に傷が徐々に癒されていくのが分かるが、胸にぽっかりと開いた穴は一向に塞がってくれない。
何も出来なかった自分が悔しくて、守れなかった自分が情けなくて――
「……真緒」
頬を静かに雫が伝い流れ落ちていった。
割れた窓から吹き込む風に混ざり香ってくる雨の匂い。頬を、髪を、身体を、容赦なく雫が濡らしていくが、真緒が寂しくて泣いているようで胸が締め付けられるように痛い。
俺の頬を流れ落ちてくいくのは涙なのか、それとも雨なのか、そんな事はどうでもよかった。
ただ、流れ落ちる雫が今だけは心の痛みを洗い流してくれるのを願いながら、闇姫に抱かれて静かに目を閉じた――。
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