警告
この作品には
〔残酷描写〕
が含まれています。
苦手な方はご注意ください。
煩悩ドライヴ
元はと言えば、講談社月刊少年シリウスの創刊に当たって、当時の相方・オオシマヒロユキと企画した連載漫画の第一話でした。
紆余曲折あって実現せず、実際は別の企画が連載されたのですが、漫画原作者に転向する前にライトノベルを書いてみようとした時期がありまして、その時に小説として書き直したのが、この作品です。
ちなみに電撃大賞に応募し、落選しました。
『有りやァ~~~アァ、無しやァ~~~アァ……』
……なんだ?
『有りやァ無しやァ~~~アァ、幻のォ~~~オォ。無有大陸よりおン出てェ~~~エェ。波間にィい、揺れるはァ~~~アァ、男とォ~~女ァ~~~あ……』
唄声が聴こえる。
『二つの影ェ~~エのォ~~~オォ、向かうる先はァ~~~ア、北か南か東か西かァ~~~ア……。さてェ~~エもォ語らン~~~ン、聖者のォ~~~旅ィ路ィ~~~………………………………』
あれはロックンロール琵琶法師の唄声だ。
いや、聴こえるはずもない。
こんな嵐の洋上に、遠く無有大陸の放浪坊主の唄う声が聴こえるわけがない。
俺はネコを見た。
ネコは俺より不安だろう。洋上に舞う木の葉のような俺達のイカダは、暴風波浪に翻弄され、もはや方角どころか正しい天地の方向すらわからない。その上ネコは視覚を奪われているのだ。
ネコは太いハチマキをしている。目もヒタイも隠すくらい太く白いハチマキには、黒マジックで目の模様が描いてあり、その稚拙な瞳でこちらをのぞきこまれているような感じがして、時々俺は不思議な気分になる。以前の俺なら爆笑してしまうところなのだろうが、病気のせいだ、ふとそう思うだけで心の中身は表情に現れない。
ま、今は笑う場面ではないけれど。
もうロックンロール琵琶法師の唄は聴こえない。
今俺の耳に聴こえるのは、風と、波と、雨と、雷鳴と。
もちろん目に見えるのは、風に舞う水しぶき、十メートルを越える波山、横殴りの雨粒、時折光る稲褄。
はっきりいって生命の危険。
俺は、志半ばにして死ぬのだろうか。
俺が死んだら皆はどうなるのだろうか。
あのくそ坊主――ロックンロール琵琶法師の唄だけは、別に聴こえなくなってもいいけどさ。
俺の心を見透かしたように、ネコは口許にうっすら笑顔を浮かべてこちらを見た。
見えない目で。てきとーな落書きの瞳で。
「大丈夫よ、ボンノ。アタシらは助かる。きちんとつかまっていなさい。ほら、もっとこっちに」
俺はネコに身を寄せた。
くそ。こんな時に、こんな時だからこそか、俺はネコに対して身長のコンプレックスを感じている。
俺はネコの肩に手を回し、このおんぼろイカダのマストごと自分の身に抱き寄せた。
冷たく濡れたネコのセーラー服は、ごわごわとして掴みにくい。
俺は詰襟、ネコはロングスカートのセーラー服。服装は変わらないのに、どう見てもオトナと子ども。もちろん、オトナはネコで、俺が子ども。
くそ、くそくそ。
この落書き目のくそ女。
波しぶきに濡れた髪に、肌に、その笑顔。
今俺達は生死の境にいるんだぞ。
なんだってそんな顔で見る? 生意気だ。
俺は右手首の手錠から伸びた鎖を引っ張った。
ジャラッ。
鎖はネコの首輪に繋がっている。その鎖の音に動揺したネコは、
「放さないでね」と呟いた。
その声色に不安の色を帯びているのを感じ、少しだけ満足した俺は、ふと空を見た。
雲がうねっていた。黒く大きな蛇がとぐろを巻く姿にも見える。
その隙間から、白い光が見える。
稲褄は蛇の長い舌。チロチロッとこちらを伺っていたが、一瞬の静寂の後、稲褄は不意に俺たちのイカダへ襲いかかってきた。
耳をつんざく、なんてウソだ。
どん、と小さな音がして、気がつくと俺達は空中に投げ出されていた。
もう何の音もしなかった。
ゆっくり、ゆっくり俺達は空中を漂い、やがて海中へ沈んだ。
ただ一度、俺の右手が引っ張られた。手錠だ。もちろんその先にはネコの首輪があり、ネコがいる。
鎖を伝い、俺達は抱き合った。
抱き合いながらただ水の流れに身を任すしかなかった。
そして、俺は意識を失った。
◇ ◇ ◇
夢を見ている。
夢だとわかるのは、そこに博士と坂本龍子がいるからだ。
博士は俺がこの旅を始める直前に、無有大陸で、
龍子は高知での旅の途中に行きずり、戦いの最中、
……死んだ。
――日本国は四国アイランド、桂浜。
イカダに乗り込む俺とネコを、博士と龍子が見送る。
ここに、別の場所で死んだ博士と龍子が同時にいるということは、これは俺が今、見ている夢ということだ。だけれど俺は、夢だとわかったまま、正しく過去をなぞっている。
ネコはイカダのマストを握って、浜を、彼らを見る俺に声をかける。
「行こう。ボンノ」
そういえばネコも、無有大陸から出たばかりの時と同じ、メイド服を着ている。
ネコの自前のメイド服は、俺達の四国アイランドでの修羅の日々を語るように、すっかりボロ布状態だ。これも夢だという証拠のひとつ。
なぜなら龍子が死んだ時、ネコは龍子のセーラー服を譲り受けたからだ。
「どうしても行くの?」
坂本龍子が俺に言う。
ああ、どうしてもだ。俺の旅は始まったばかりなのだ。そうだろ? 博士。
博士は龍子の肩に手をのせる。ありえない、夢ゆえのシチュエーション。
「あぁ、ボンノ。残る〝煩悩〟は、一〇四ツ。まだお前は一〇八分の四しか手に入れておらん」
俺は首にかけた紐を見る。珠が四つ下げられている。俺はポケットから鍵を出し、珠と一緒に紐へくくり付けた。
大きな銅製のこの鍵は、珠と同様、無有大陸に戻るまで、絶対失くすわけにはいかない代物だ。
「いくぞ、ネコ」
俺は浜の砂を蹴り、イカダの帆を張った。太平洋からの海風を受けて、イカダはあっという間に桂浜から離れて行く。
浜では龍子がいつまでも手を振っていた。
こんな切ない別れは無い。
こんな罪な旅は無い。
俺は無有の民を救うために、日本国の民を蹂躙しているに等しい。
煩悩を得るために、結果的には、関係ない龍子のような者の命まで奪っているようなものだ。
人は罪を嘆き、死に悲しみ、別れに涙を流す。
だが俺は、病気のせいで、そんな思いが表情に出ない。
俺はただ、首にかけた鍵と珠を握り締め ……、
「!?」
――無い。
俺は胸許を見る。数多の血を吸い、傷だらけになった学ランの、鈍く光る金ボタン。
そこにカチャリと音を立ててぶつかるはずの、鍵と、珠が無い!
俺はゆっくり周りを見渡す。
もう浜は見えない。
「おい」
ネコ、鍵……と言いかけて、俺は絶句する。
イカダの上には俺しかいない。
ネコがいない。
手錠から伸びる鎖の先は、イカダのマストに括られた首輪。
無い。
いない。
最悪だ。
「ネコ」
俺は抑揚の無い声でネコをもう一度呼んだ。
「ごめんね」
ネコの声が遠くで聞こえる。
「あたし、そーいうの飲まないの」
……?
飲ま……?
――むっくり、しかし勢いよく、俺は身体を起こす。
ごちぃぃん! 俺の頭が何かにぶつかった。
だが俺は気にせず周りを見回す。どうやら家の中らしい。
しかし近代的なものではない。壁は石積みと木の板作りが半々で、所々の隙間から外の日差しが漏れ入ってきている。もしかしたら手作りの家かもしれない。
囲炉裏がある。自在鍵には鉄鍋が下がっていて、それを挟んでネコと、無精ヒゲを生やした男が座っていた。山男風の彼は、ネコから椀を受け取りながら、こちらを見ている。そして、
「起きたべ?」と俺に向かって言った。
だが、俺はまだ状況がつかめない。
「おはよう。ボンノ」
ネコが俺に挨拶をする。
「……ん」
俺はとりあえず挨拶を返し、改めて室内を見渡す。
俺は布団に寝かされていた。そして、半身を起こした俺の後ろで、また無精ヒゲの男とは別の男が、顎を押さえてもがいていた。
「ひどーい、ボンノ」ネコは妙に冷静な声で俺に言う。
「今アンタその人に、何かしたでしょ? その人、あたし達の命の恩人よ」
「頭突き食らうそいつが不注意なだけだべ」
ヒゲ男が笑う。
「すまん」
俺はそいつに謝ったが、男は声も立てずにめそめそ泣くばかりで、何だか俺は申し訳ない気持ちになった。
「安心しれ、そいつは無口なだけだべ」
ヒゲ男は、ネコから受け取った椀を足許に置き、新たな椀に鉄鍋から味噌汁を注ぎ、こちらへ差し出した。
「ワシの名前は月ノ輪。そいつはシャケ」
ちなみに、足許に置かれた椀は、おそらく同じように彼がネコに差し出した味噌汁だろう。
ボヤけていた頭が、やっと回転し始める。きっとネコはそれを「そーいうの飲まないの」と返したんだ。その声で、俺は目が覚めたわけだ。
俺は無言で彼の椀を受け取った。
旨そうな味噌汁だ。一口すすって俺は月ノ輪に、
「助かった」とだけ言った。
「礼はシャケに言うべサ。浜に打ち上げられていたアンタらば、ここまで連れて来たのはそいつサ」
シャケと呼ばれた男を返り見る。あいかわらずうずくまって泣いている。
シャケは妙にぬらりとした肌の、怪しい風貌をしていた。左目に眼帯をしている。開いているほうの目は、瞬き一つせず、死んだ魚のような瞳をしていて、感情を読み取れる気がしない。
……ま、俺も人のこと言えないけど。
月ノ輪もシャケも薄汚れた学生服を着ていた。シャケが眼帯をしている代わりに、月ノ輪は学生帽を被っている。
二人の学生服の汚れも、月ノ輪の帽子の汚れも、貧乏や田舎暮らしのせいではなく、たった今ケンカから帰って来たような ――そういうボロさだ。
「それとサ」月ノ輪はその学生服のポケットから、紐に繋がれた鍵を取りだし、
「この鍵もアンタのでないかい?」
じょっぴん? あぁ、訛ってるのか。そんな冷静な判断より、俺はあわてて胸許を見た。
……無い。
鍵が無い!
月ノ輪の取り出した鍵が、まさにその鍵だ。
俺は椀を置いて、鍵を受け取った。
――それは、長い紐に下げられた古めかしい鍵。
銅で出来た、緑青すらうっすら浮かぶ、年代物の鍵だ。しかし、これはれっきとした現役の鍵で――
ネコがこちらをじっとりと見ている。
「ボンノ、鍵だけでいいの? 珠の数は?」
くそ、言われなくてもわかってる。嫌味のつもりだろうか。ネコめ。
紐には、鍵の他に、四つの珠が連なっている。
鈍い黒色を発した、しかし金属製ではない――そうだな、琥珀が輝きを失うとこんな色かもしれない。
そう、そんな色をした珠が、確かに四つ。これは俺の旅の証明だ。一個でも無くなると困るのだ。
その珠を確認する俺を見て、月ノ輪が言った。
「アンタ、なまら慌てとるようなのに、言葉も少ねえし、全然顔に出ないべな。仮面でも被っとるんでないかい?」
いや、これはれっきとした俺の顔だ。俺の表情にはなかなか感情が現れない。まるで仮面のような、無表情な俺の顔。
それは、俺の抱える病気の症状なのだ。
そして、そういった説明をぺらぺらしゃべることも出来ない。
口を利けないわけじゃないが――
「その子はシャケさんと同じで、無口な子なの」
あっ、くそ。ネコめ。一言だけでも言おうとしたのに、先に言いやがって。
その上その子だと! 子ども扱いしやがって!
くそ、確かに見た目は相当子どもに見えるだろう。でも俺は、もうすぐ十七になるんだ。子どもじゃない。
屈辱感を感じながらも、屈辱感を顔に出さず――いや、出せず、俺は数を確認した珠と鍵を、紐ごと首にかけた。
くそ、いずれは百八個の珠が下がるとはいえ、今はただの緩い紐だ。
しかしまぁよく、あの嵐で海へ沈まなかったものだ。そう考えれば、今、こう首に下がっているだけでも良しとするべきなのか。
「なぁアンタ、その珠……」
「?」
「いや、なんもサ」
月ノ輪は言葉を濁して、帽子を目深に被りなおした。
ネコの目がキラリと光った。
おそらく俺の目も。
しかし月ノ輪は、その中途半端な質問は全く無かったことのように、不意に立ち上がると、土間に降りた。
「まぁ、ゆっくりして行くべサ。この辺は何もないけどサ」
そういえばここはどこだろう。俺は聞こうとして「あ」と声を上げた時、そのセリフに被せてネコが訊いた。
「あなた方は日本語が通じるからここは日本で間違いないと思うけど、ここはどこなのかしら」
味噌汁を受け取らない、そして助けてもらった身でありながら上から目線の言葉遣い、あんまりいい印象を与えるとは思えないな。あとで注意しておかないと。
「――ここは日本国最北の国、北海道は稚内、日本国最北端の地、宗谷岬……だべ」
そう答えると、月ノ輪は扉に手をかけた。おそらく、外への出口だ。扉はそこにしかない。
すると今さっきまで俺の傍らでうずくまっていたシャケが、なぜか、
びちびちっ。
という音を立てて、疾走った。
そして扉の前に立ちはだかり、月ノ輪を遮った。
依然涙目のシャケは黙ったまま、ぬらぬらとゆっくり首を振った。
「何の意思表示だべや」
ガン! と月ノ輪はシャケを裏拳で殴ると、悠々と扉をくぐり、外へ出て行った。
シャケは土間でうずくまって、さっきみたいに泣いている。
俺は閉まりきらない扉を開け、外を見た。まだ月ノ輪に訊きたいことがある。
ジャラッ。
俺の手錠とネコの首輪を繋ぐ鎖が、限界の長さだったけど、扉の向こうは一本道で、まだ全然月ノ輪の姿が見えた。
「月ノ輪の」
自分でも違和感ありありの無感情で抑揚のない俺の言葉に、月ノ輪は振り向いた。
「月ノ輪の、アンタ…この辺じゃあ名の通った番長じゃあ……ないのかい?」
月ノ輪の顔が曇った。そして俺に負けないくらい無感情に、抑揚のない言葉で言った。
「ワシは、がっさいフリーターだべよ」
そして再び向こうへ歩いて行った。
月ノ輪は畑の中の一本道を、向こうへ歩いて行く。
畑。一面の畑だ。何も無い? この畑の広さは何だ。
しかもおそらく作物はたった一種類――ジャガイモ畑。
見渡す限りジャガイモ畑だ。
ただ、月ノ輪の向かう方向にぽつんと、サイロのような高い建物が見える。
それにいくつか比較的低い三角屋根が連なっていて、さらにそれぞれの屋根は短い煙突が伸びていて、どれもから白い煙がぼんやりと立ち上っていた。
「気になるの?」
不意に俺の後ろから声がした。ネコの声だ。
相変わらず落書きの目で、ニコリとこっちを見ている。
月ノ輪は学生帽をまぶかに被っていて、奴のヒタイが見えなかったのだ。
だから俺はうなずいた。
それが見えるわけないのに、ネコは自ら首輪を緩めた。
「行って来なさい」緩めた首輪は完全に外され、ネコはそれを俺に投げて言った。
「お食事はきちんと吟味しないとね。あたしはここで一歩も動かず待ってるから、気の済むまで確かめていらっしゃいな」
言われるまでもない。こっそり後を尾けるとなると、目の不自由なネコははっきり言って足手まといだ。
ジャラリと音をたてる鎖は気になるけれど、それは注意をする。手錠が外れないのだから、ネコを置いておくには首輪を外す以外無いのだから。
まったく、ネコの奴は気が利くのかメンドくさがりなのか。それとも単に、名前どおりの気まぐれなのか。
とにかく俺は鎖と首輪を手早く巻いて握ると、月ノ輪の後をこっそり追った。
◇ ◇ ◇
門はルーズで開きっぱなし。
壁も敷地を区切る程度の何でもないもの。
サイロはともかく、低い三角屋根の正体は、ちょっとした工場だった。
中ではいくつもの巨大な鉄釜が火に焚かれ、何かが調理されている。
もうもうと釜から噴き出す蒸気が、短い煙突から外に排出されている。煙に見えたのは、その蒸気だった。
匂いは……嗚咽したくなるほどのジャンクな脂臭さ。おそらくあの鉄釜の中では、ことごとく食用油脂が煮えたぎっているに違いない。
工場の門の前に、趣味の悪い看板。
看板にはこうあった。
『ジャガー男爵印のポテトチップス工場 見学随時』
なるほど、周り一面のジャガイモ畑は、材料の供給源なわけだ。
門のルーズさ、壁の低さから言っても、あまりセキュリティが厳しいようには見えない工場だが、まさにその通り。月ノ輪は入場チェックされるでもなく工場の敷地内に入り、それをこっそり追った俺も、正面から門をくぐっただけで潜入が完了してしまった。
拍子抜けに周りを必要以上に観察していると、月ノ輪が建物の角を曲がって消えた。
慌てて俺はそれを追ったが、角から月ノ輪の行方を確認しようと首を出した時だ。
――サイレンの音が工場内に鳴り響いた!
ウ~~ウ~~ウ~~!
俺か? 俺の侵入がバレたのか?
――いや、そうではなかった。なぜならば、場内にすぐ、アナウンスが流れたからだ。
『逃亡者発生、逃亡者発生』
けたたましいサイレンの割には、正直余り緊張感の感じられないアナウンス。
そもそもあの門にしても、カンタンに乗り越えられそうな壁も、監禁・逃亡といった言葉から程遠いようにも思える。
それなのに、逃亡者?
俺はもう一度角から首を出した。
ほんのちょっと先に月ノ輪がいた。
月ノ輪はその場に立ち尽くしていた。いや、単に動けないでいたのかもしれない。
俺が見たのは、月ノ輪の正面に若者がドン、とぶつかった瞬間だった。
なかなか人間は正面衝突しないものだ。この場合、月ノ輪が避けられたろうに避けなかったか、若者が前方不注意だったのか、それともその両方だったか。
もしかしたらあの若者はアナウンスされていた逃亡者かもしれない。事実、若者は自分が月ノ輪にぶつかったのだとわかると、すがる表情でこう言った。
「た、助けてくれ、ば、番長……!」
俺は耳に入ったそのセリフが、余りにすんなり脳みそに届いたので、驚いて、しっかりともう一度反芻させた。
――助けてくれ、番長。
よし、確かに。
聞いたか? あの若者は、月ノ輪のことを、確かに番長と呼んだ!
しかし、月ノ輪は無言。すがる若者に返事をせず、ただ、視線を避けるようにうつむいた。
「わかっておいでですね、月ノ輪クン」
いつの間にやら月ノ輪の正面に、若者の背後に、シルクハットに黒マントの男が立っていた。もうちょっと油断していたら、俺が見つかっていたかもしれない。そんな距離だ。
若者がたじろぐのが見えた。
怪人、だった。紳士的な服装がまったく似合わない顔をしていた。下ぶくれでアバタ面。貧相なヒゲが2本、鼻の下からちょろりと伸びている。
――そして、そのヒタイには琥珀色をした小さな珠が埋まっている。
あれこそ俺が捜し求めているもの。
あれこそ俺が必要としている至宝。
日本国に存在ると言う、煩悩の守護者――〝一〇八番長〟が、一人ひとつずつ持つ……〝煩悩珠〟!
あのシルクハットの怪人は、そんな一〇八分の一、に相違あるまい!
くそ、しまった。無理をしてでもネコを連れてくるんだった…!
俺は歯噛みした。ネコのいない俺には、今、この事態を見守ることしか出来ない。
くそ、焦りは禁物だ。ジャガーと呼ばれた男が番長であるのは確実だが、月ノ輪が番長かどうかは、まだ判別がつかない。
それに、どっちにしろたったひとりの俺には何も出来ないのだ。
くそっ。くそっ!!
煩悩珠を少なくとも一個、こんな目の前にして、何も出来ないとはッ!
くそッ、もう俺は二度とネコを手放さない。首輪のほうだけ外れる仕様の鎖なんか、意味なんか無い。
手に巻いたこの重くて邪魔なだけの鎖を、俺は今、憎々しげに見つめることしか出来ない。
くそ。俺は再び角からこっそり顔を出した。
若者がジャガーと、月ノ輪を背にしたまま対峙していた。
「ジャ…ジャガー……」
「番長はワタクシです。ま、番長なんて単語、汗臭くて好みじゃないですから、男爵と呼ばせていますがね」
若者は再び月ノ輪に向き直り、
「番長!」とすがりついた。
月ノ輪は一層、視線を逸らしている。
ジャガーと呼ばれた男はあからさまに人を蔑んだ笑みを浮かべた。
「どっちにしろ、月ノ輪クンが、番長でないことは確かです」
月ノ輪は無言のままだ。肯定も否定もない。
とうとう月ノ輪が頼りにならないと判断した若者は、そこへ立ち尽くして何もしない月ノ輪を避けるようにして、出口――つまり俺のほうへ駆けた。
やっべ。逃げないと。そう思ったけど、なぜか、目線が離せなかった。
「芽が出ますよ」
ジャガー男爵が呟いた。若者を指差しながら。
それを合図に、走った若者が一瞬うずくまり、
「うっ」と小さくうめくと、今度は逆にばね人形のように跳ねた。
芽? 芽って??
その答えはすぐわかった。答えは若者自らが提示した。
こちらへ向けた若者の顔から、具体的に言えば鼻や口、目、耳。顔の穴という穴から急速に、植物の芽――もはや蔓と葉と言っていいかもしれないものが伸びて出て来たのだ。
「番長奇術! 〝聖餐生産〟!」
そう叫び、高笑いするジャガーの目の前で、若者から、まるで植物の成長の早回し映像を見ているようなスピードで、芽が、蔓が、葉が、伸びていく。
――やがて、若者の首や手や足、目に見える肌からぽろりぽろりと球形のこぶが出来、膨らんで、落ちていく。
服に隠れた場所からも同じ現象が起きているのだろう、球形のこぶが衣服の布を押し上げ、裾からこぼれていく。
そのこぶに見えるものは、ジャガイモだった。
ジャガイモが成長し、こぼれる度に、若者の顔や身体は、みるみるうちに痩せ細って行く。
これも人がミイラになる過程の早回しを見ているようだった。
――ジャガイモに養分を吸われたということか。
顔から出た芽も茶色く萎れ、若者は完全な老人に成り果て、力無く地面につっぷした。
彼の足元には、バケツ三杯ほどのジャガイモが転がっている。
月ノ輪はただ、その様子を見ていただけだった。
ジャガー男爵は得意げにヒゲを撫で付け、月ノ輪にねめつけるような目線を浴びせた。
「やりなさい」
その一言で、工場の扉から巨大な鍋が出てきた。三人の男が、苦悶に耐える顔で鍋を持っている。その大きさは直径二メートルほど。工場に潜入した時確認した、あの油鍋だった。
当然鍋の中身は油だった。ぐつぐつと煮えたぎる、巨大な揚げ油鍋。
「やりなさい」もう一度ジャガーは言った。
月ノ輪がやっと身を動かした。
何も持たない手を構えた。
握った拳にぐっと力を込めたかに見えた瞬間、月ノ輪の拳から四本の鉤状の鉄兵器が生えた。
――ベアークロー。
何で見たか覚えてないが、あの武器の名は、そんな名前のような気がする。
ジャガー男爵は若者から生まれたジャガイモの一個を手に取り、作物の出来を確認するかのように吟味した。
そして山積みのジャガイモをおもむろに胸に抱え、空へ放った。
月ノ輪のベア―クローが空中に一閃きらめいた。
空中のジャガイモは全てきれいにスライスされ、油鍋に落ちた。
パリパリと、高温の油に揚がるスライス・ジャガイモの音がする。
俺は一体何をしているのか。
そりゃあ〝煩悩〟は欲しい。
しかし、今、俺一人では何も出来ない。ただの子どもだ。
――でも。
でも何か。この心に去来するものは何か。
月ノ輪への非難?
ジャガー男爵への罵り?
若者への同情?
その全てかもしれないし、どれも違うかもしれない。
少なくとも、それらを理性的に考えているような時間でなく、ある一瞬間に、急に俺の足は、自然と前へ出た――のだが。
「!?」
俺の小さな身体は誰かに掴まれ、元の位置に戻された。
焦った。それはつまり俺の背後に、俺に気取られずに立っていた奴がいたということだ。
振り向いた。
そこにいたのは――俺と同じ、無表情で無口の男、シャケだった。
「なっ?」と叫びかけた俺の口を、シャケはそのぬらりとした手で塞ぐと、ゆっくりと首を振った。気持ち悪く。
これは確かに「何の意思表示だべや」と尋ねたくもなる。まぁ、おそらくは黙れ、動くな、で間違いないとは思うのだけれど。
そして俺はそのままシャケに連れられて、工場の外へと出た。
今の俺は、ネコ無しでは何も出来ないに等しい。
シャケも俺を何も出来ない子どもと判断して、外に連れ出したのだろう。
……くそ。
俺は今はまず、ネコの所へ行こう。
そして再びここへ戻らねばならない。
シャケと共に月ノ輪の小屋へと戻る。
俺はふと工場を振り返った。
門が開きっぱなしのルーズな門。このセキュリティの甘さには、理由があったのだ。
逃げる者は、ジャガーのあの能力でジャガイモの養分にしてしまえばいい。
潜入する者は、その能力――〝聖餐生産〟を目の当たりにして、戦慄するもよし、喧伝するもよし、どちらにしろジャガーの名を高めることになるだろう。
くそ。くそったれ。
◇ ◇ ◇
宗谷の浜は、何とも味気の無い浜だ。
薄い砂浜が長く続き、緑も人影もほとんどない。今日はその上天気が悪い。
冬になると流氷が押し寄せて来るという話だが、流氷なんてものも味気があるかというとそんなことはない。
そんなしょっぱい浜に、たったひとつ、ぽつんと人工物が建っている。
『日本国最北端の地』碑。
細長く尖った石が二本、お互いを支え合っているモニュメント。「人」という字にも似て。
そこにネコが座って、落書きの目を海へ向けている。
天気が良ければ、きっと海上に樺太が望めるだろう。
しかし、天気の良し悪しに関係なく、ネコは異国の島を見ることが出来ない。
ネコは俺の気配に気がついて、
「良くここまで来れたなぁとか思ってるんでしょ?」と言った。
「ああ」
「馬鹿にしないで、鎖さえ無ければ、目が見えなくたってあたしは動けるんだから」
そういってネコは俺に手を差し出す。俺は腕に巻いていた鎖を解いて、首輪をネコに渡す。
ネコは一縷の迷いもなく、その首輪を首にはめる。
そして訊いてもいないのにこう言った。
「音がしたのよ。風が揺らす畑の作物の音に混じって、波の音が。だから、音のする方向に来てみた。ただそれだけ」
ネコは膝の上にポテトチップスの袋を持っていた。未開封だ。
それはあたりまえなのだ。ネコはネコのエサしか食わない。
「それは?」
「ピクニックにはおやつが付きものでしょ? あの小屋で匂いがしたから掴んで持って来たの」
よく利く鼻ですこと。
「いる? 誰か来たらあげようと思ってたの」
ネコは袋を開けて、こちらに向ける。
何気に手を突っ込んで一口食おうとしたが、やめた。このポテトチップスはもしかして。
ネコから袋を奪ってラベルを見ると、案の定だ。
――ジャガー男爵印。
しかし、これはなんだろう。『カムバックサーモン味』? 北海道限定味だろうか。
ふと、何かポツリ、という音を聞いて後ろを見た。
そこにはシャケがいた。
そうだ。俺はシャケと共に月ノ輪の小屋へ帰って来た。そしたらネコが見当たらない。だからシャケと手分けして探そうということになったのだった。
そして俺は浜にネコの足跡を発見し、それを追ってココまで来た。『日本最北端の地』の碑まで。
おそらく、シャケも足跡を見つけてここまで追って来たのだろう。さっき俺が工場で背後を取られたように、また気配を殺して立っていた。しかし――
ポツリという音の正体は、シャケの涙だった。
眼帯をしていない右目、感情を表に出さない、鈍く光る丸い目に、どろりとした涙が溜まり、やがてぼつりと落ち、浜の砂へとゆっくり吸収されていく。
ネコもシャケの気配に気づいたようで、若干引き気味だ。
いや、引き気味なのは、それを実際目の当たりにしている俺のほうだ。
シャケはとうとう、大声をあげ、どんよりとした北国の空に慟哭した。
……なぁ、こんな場合俺はどうしたらいい?
どうしようもなくて、ただネコと泣き声をあげるシャケを見ていたら、浜の向こうから人影がやって来た。
それは月ノ輪だった。
月ノ輪は俺達の所までゆっくり歩いて来ると、まず最初に、ネコからポテトチップスの袋を取った。
奪ったとか、取り上げたとかいうものではない。無造作に、さも当たり前のように袋を手に取り、開いた口を縛った。
「食ったんかい?」
俺は首を振った。
「いんでないかい? こんなの食っても良い事はひとつも無いしょ」月ノ輪はポテトチップスの袋をシャケに渡し、
「――したって、それはシャケにも、ワシにも、大事なポテトチップスなんだべや」
シャケは大声で泣くのを止め、その袋を膝に抱えるとその場に座りこんだ。
俺はネコの横に座って海を眺めた。
月ノ輪も、少し距離を取って座った。
ポテトチップスの袋を抱いたままうつむいているシャケ以外の三人は、揃って海を眺めた。
どんよりとした空に、暗く、しかし力強い波を寄せる海。
この海の向こうには、樺太がある。日本国でも、無有大陸でもない、遠い異国の大地。
月ノ輪はポツリと呟いた。
「説明する……、必要があるしょ」
俺はうなずきはしなかったが、どこか月ノ輪は話したかったことなのだろう。勝手に俺の無言を肯定と取って話し始めた。
それは日本国最北端の領地である北海道は稚内の、小さな領権争いの話だった。
北海道は日本国の僻地だ。気候も厳しく、まともな産業も無い。日本国の歴史を紐といても、日本国として併合されたのはほぼ近年と言っていいだろう。
稚内は、そんな北海道でも最北端の地。
いくら今が番長戦国時代と言えども、狙われるのは最後――どころか、狙われることさえないのではないかと思われる土地に過ぎなかった。
しかし、一〇八人の番長の噂は、そこに人間が住む限り、聞こえて来ないはずのないものだ。
人口も少なく、荒れ果てた土地とはいえ、領民がいる限り、そこには民を従える長が必要だったのだ。
そこに目を付けたのが、
「――ワシだべ」月ノ輪は、地面を見たまま、誰に話すともなくぽつりぽつりと呟いている。
「自分でぬかすのも何だけどサ、ワシは暴力で民を制圧したわけではないサ。こったら僻地だけどもサ、土地は余るほどあるべ? したら単に民がサ、わかりやすいまとめ役を求めてよ、それに自分が乗ったに過ぎないべサ」
そして月ノ輪は番長を名乗った。
月ノ輪という番政権によって、稚内は平和な農村になり、民が安心して暮らせる田舎町になったと言っていい。
――ところが。
予想に反して、早々に北海道へ挙兵した番長がいた。
ジャガー番長――男爵を自称しているが、その中身は正しく番長である。
彼が稚内なんて僻地にやってきたのは、誰もが目に付けぬ土地だからこそ狙い目だと思ったのかもしれないし、あるいは、
「――たまたまワシが守護してる〝煩悩〟が気に食わなかったからかもしれないべ」
そう言って月ノ輪は、今まで被っていた学生帽を脱いだ。
帽子に隠れていたボサボサの髪を、手櫛で直すと、前髪の一部を掴んで、俺達へ見せた。
月ノ輪のヒタイには、〝一〇八番長〟がそれぞれ守護する小さな珠――〝煩悩珠〟が埋まっていた。
煩悩珠には小さく文字が刻印されている。
【卑慢】。
――自分の未熟さを知らない状態、という意味の煩悩だ。
しかしこれはもちろん、
「偽物だべ……、ただのガラス玉しょ」
月ノ輪がヒタイをぽんと叩くと、煩悩珠はぽろりと外れた。煩悩珠が本物ならば、そうカンタンに外れるわけがない。
「したっけここ急に攻めて来たジャガーこそ、本物の【卑慢】の守護番長だったんだべや」
本物の番長、本当の戦争。
ただ農民の集団でしかなかった月ノ輪の番政権は、ジャガーの軍勢に為すすべも無く、カンタンに稚内の地を渡してしまった。
ジャガーはこの土地のジャガイモ畑に目をつけ、ポテトチップス工場を建設し、月ノ輪のかつての部下や民を、強制的に工場労働をさせている。
これがこの土地の現状だ。
「どったら昔の部下や民達が疲弊しても、逃げることも逃がすことも出来ないっしょ。逃げればジャガーの能力で、ポテトチップスの材料にされてしまうべサ。……それはワシも同じだべ……」
その時シャケが、うっとうめいた。胸にポテトチップスの袋を抱いて。
「そのポテトチップスはシャケの弟だべ」
「え?」
「ワシらの言葉も聞かず逃亡したシャケの弟は、シャケの説得の最中にジャガーに見つかって……」月ノ輪は帽子を被りなおした。
「弟ば兄貴自ら捕えて、ワシがスライスして揚げた、いわばワシらの罪のポテトチップスだべよ。したっけシャケは、そのショックで……」
――口が利けなくなったのだと言う。
シャケはあうあうと何かを呟き、また泣いた。
それとは別に、ううう……と、俺の背後でもこもった声がした。
これも泣き声だ。ネコが落書きの目から水をこぼしている。
「ボンノ!」ネコが涙声で叫んだ。
「アンタ、何も感じないの!? そんな無表情な顔で!」
ぐぐ、苦しい! 襟を掴まないでくれ。それにこの顔は病気だ。何も感じないわけがない。今すぐにでもオマエを連れて、工場へ行こうと思っているのだ。てゆーかその目でオマエ見えてんのか?
泣いて泣いて、ネコは俺の胸をぽかぽか殴る。やめろ、ネコの腕を握って止める。
「馬鹿! 冷血感! 鉄面皮! 蛇野郎! 何がボンノだ、アンタなんか煩悩じゃない、所詮聖人だよ! 我関せずで、拝んだって何にもしてやくれやしない!」
「ボンノ……」
と呼んだのは月ノ輪だ。
ネコの俺の変なケンカは一時休戦。
「?」
「――そう言えば、風の噂に聞いたサ。四国で暴れた凶風波浪、〝一〇八番長〟の〝煩悩〟を狩る謎の少年のことを。その少年は四国で狩った煩悩珠を紐に括り、いずれ数珠にするのだという……」
俺は胸にかかる紐、その先に絡まる珠と鍵を握った。
これは俺の、未完成の数珠なのだ。
そうだ。俺はここに来る前、四国にいた。四国で四つの煩悩を狩った。
坂本龍子と出会い、戦い、手を組み、失った旅路で。
四国から本州に渡る術がなく、龍子が用意したイカダで黒潮に乗った。そこに龍子はいなかった。
元通り、ネコと二人っきりになった洋上で嵐に巻きこまれ、気がついたら北海道――日本国最北端の地に来ていた。
この俺は、
「――その名をボンノ……〝煩悩駆動〟ボンノと聞いたべ」
ネコは、俺の口に指を突っ込んだまま、そうつぶやいた月ノ輪に顔を向けた。
「しょせんあだ名よ、こいつ自分の名前忘れてるんだから」
「はんはほ!?」
くそ、ネコめ、口から指を離せ。俺は「なんだと!?」と言ったのだ。
しかし、悔しいことに、ネコの言ったことは真実だ。
俺は自分が何者であるかの記憶はない。
しかし、遠く離れた無有大陸で何が起きているか、自分の使命は何であるか、それだけは覚えている。
そういう病気なのだ。俺は。
人間が根本的に持っている、一〇八の煩悩。それを全て失う病気を、俺は患っている。
その名を――〝聖人病〟。
無有大陸に突如蔓延した、新種の病気。
人はこの病いにかかると、記憶を失い、表情を失い、感情を失い、やがて若返りが始まる。
老人。
壮年。
中年。
青年。
少年。
幼児。
赤ん坊。
そして胎児。
さらに細胞片。
――無。
この病いを治すには、失った〝煩悩〟を再び身体に取り戻す以外方法はない。
博士が言うには、全一〇八種の〝煩悩血清〟を打てば、治る見込みがあるというのだ。
その上で、俺の血を輸血することで、無有大陸の聖人病患者はたちまち治癒するのだと。
だから俺は、無有大陸の西に有りと謳われた、番長列島・日本国に足を踏み入れた。
この国に有る番長が守護せし一〇八つの〝煩悩〟から、〝煩悩血清〟は抽出されるのだ。
ロックンロール琵琶法師は唄った。科学や医学で治る病気なものかと。
だが、俺はやらなくてはならない。それが博士に、ネコと共に託された、俺の使命なのだから。
――自己犠牲?
そういう意味では、まったくもって聖人病なのかもしれない。
そうして初めて踏み入れた日本国の地、四国と呼ばれる島国で、俺はそこで四つの〝煩悩血清〟を手に入れた。
先はまだまだ長い。この数珠が完成した時こそ、この身と、血を、無有大陸へ届けなくてはならないのだ。
「そうか、アンタがその……ボンノだべか」
月ノ輪が俺の胸許へ視線を向ける。
くすんだ煩悩珠は、狩った〝煩悩〟の証拠であり、番長のヒタイから奪ったものでもある。
しかし、その未完成の数珠の真ん中には、珠より大きな鍵が提がっている。だからこそ、初めて月ノ輪と会い、この数珠を渡された時、「この鍵もアンタのでないかい」と言われたのだろう。
珠よりも、鍵の存在感は大きい。
「その鍵は、その……〝煩悩〟と関係あるんかい?」
狩った煩悩珠四つ。紐に通し、それを振り分けた二つと二つの間に提げた、緑青すら浮かぶ、何の変哲もない銅製の鍵。
複雑な切り欠きも無い、土蔵の鍵然としたそのアンティークの域に近い鍵は、これはこれで大事なものなのだ。
ネコも月ノ輪の質問に答えているのか答えていないのか、口許に笑顔を浮かべるばかり。
それにしても。
「――月ノ輪が本物の番長でなくて良かった」
「!」
あれ? 月ノ輪とシャケは驚いてこっちを見ている。そして顔を見合わせている。
そうか、俺が一言以上の言葉を発したからか。
俺は話せないわけじゃあない。
「――一宿一飯の礼に、義を果たそう」
◇ ◇ ◇
看板に描かれたジャガー男爵を漫画絵にしたキャラクターは、ウインクをして、親指を立てて、いかにもなポーズで不愉快だ。
俺達を連行する格好で、月ノ輪とシャケは、セキュリティの甘い工場内に入り、進んで行く。
俺とネコは最初から鎖で繋がれている。捕縛されたと偽るにはおあつらえむきだ。
拍子抜けする程カンタンに、俺達はジャガー男爵の目の前までやって来れた。
「何ですか月ノ輪クン、そいつらは」
ジャガーは何の危機感も抱いてないようだった。そりゃあそうだ、自分の倒した月ノ輪がしょっぴいたくらいの相手に、必要以上の危機感を抱くわけがない。
「浜に怪しい人間が上がっていたべ。名前も素性も言わんべサ」
「うむ、見たこと無い面ですネ、子どもに、女……」
ジャガーは、俺の半歩後ろに立つネコをねめまわすように見ている。そりゃあ気になるだろう、セーラー服を着た女が、ぶっといハチマキで目を隠し、目のあるべき所に黒マジックで瞳を落書きしているのだから。
「月ノ輪クン、彼らにご馳走したざんすか? わが工場のポテトチップスを」
「だべ」
ウソだ。俺達はご馳走になっていない。
工場までの道すがら、俺達はジャガーの能力〝聖餐生産〟の秘密を教えてもらっていた。
奴の能力は種イモがまさにタネ。タネ明かしはこうだ。
最初はジャガーの身体より生まれたジャガイモで作られたポテトチップス。
それを食べた者の体内に、ジャガーの細胞が侵入する。食べた者はジャガー細胞の宿主となるわけだ。
そしてジャガー細胞は、ジャガーの命令――指差して「芽が出ますよ」の一言で宿主を栄養分として、急速に成長。これが最初に工場に来た時見た、若者の死の答え。
そして厄介なことに、あの若者から作られたポテトチップスを食べても、この現象は同じ。永遠に連鎖する。
月ノ輪が浜で、シャケの弟が材料となった「カムバックサーモン味」を俺達が食べたかどうか訊いたのも、これに由来する。
つまりジャガーにご馳走になったとウソをつくことで、俺もネコもジャガーの種イモの呪縛を被ったと偽ったのだ。
「それにしても気になりますね、そのハチマキは……。目隠しですか?」
ネコは答えない。もちろん、俺も。
「月ノ輪クン、取って差し上げなさい」
月ノ輪は俺に目配せする。
「月ノ輪クン。どうしました?」
「あ、いやサ……、この落書きの目が気になってサ……」
「いいから、取りなさい」
「だべ……」
再び月ノ輪は俺に目配せする。いいのか? ああ、いい。――だが……。
月ノ輪はゆっくり、ネコのハチマキを取る。
ハチマキの下から出て来るのは、なんの変哲もない、目だ。
ただその目は閉じられている。まぶたは下がったまま。
しかし、なぜハチマキをしているのか、重要なパーツはそこではない。
目を隠すだけなら目隠しでいい。それがなぜ、太いハチマキでなければならないのか。
ヒタイだ。ネコのヒタイを見ろ。
見ろ、ジャガー。
「鍵……穴……?」
そうだ。隠しようも無いネコのパーツ。
それは鍵穴だ。
前方後円墳と同じ形をした、いわゆる鍵穴だ。
「……」
ジャガーはしばし身を動かさず、何かを考えているようだった。
ハッと気付いたかと思うと、座っていたマホガニーの机の引き出しを開け、何やら書類の束を取り出し、めくった。
そしてその一枚と俺達を交互に見比べた。
今度は俺が月ノ輪に目配せした。わかっているな?
「――男、身長一四〇強、見た目小学生、常に仮面のように無表情……」ジャガーが独り言のように呟く。
「――女、身長一六五、女子高生風、目が不自由、ヒタイに鍵穴があり……」
ジャガーは椅子を下げる余裕もなく、立ち上がり、叫んだ!
「キサマ! ……ボンノ! 〝煩悩駆動〟ボンノ!」
俺はヒラリとネコの肩に乗る。
「もう四国から兇状が廻ってるのかい? ジャガーさんよ!」言いながら俺はネコのまぶたに手をかけて、
「続きを読んでやってくれよ、女の項をよ!」
ジャガーはヒステリックな声で兇状を読み進める。
「女子高生風、目が不自由、ヒタイに鍵穴があり、その正体は……自動人形!!!」
俺は手をかけていたネコのまぶたを、開けさせる。
月ノ輪は、俺の目配せの合図で既に、シャケと共にネコの攻撃範囲から避けていた。
ネコのまぶたはスイッチと言うよりは、連動していると言ったほうがいいだろう。
ネコの腰から下が回転を始めると、ネコのまぶたが開き、目がぴかぴか光る。
ネコはそういう、コマ人形なのだ。
しかも機能はそれだけではない。まだ鍵のことは俺は言っていない。
しかし今はコマについて、もっと言及せねばならないだろう。
回転スピードは、最速、毎秒二五〇回転。
ギョ、ギョ・ギョ・ギュウゥゥゥゥゥゥ~~~~~ンンン!!!
最高回転に至るまで、約四コンマ五秒。
ネコはプリーツのロングスカートを履いている。すなわち、四コンマ五秒で、
「え~ん、パンモロ~~~~~~ッ!! しかも目びかびか光って馬鹿みたい~~ッ!!」
……えぇと。
もろパンだが、大事なのはそこじゃあない。
そもそも毎秒二五〇回転のパンツがエロいかどうか。
大事なところは、ネコのロングスカートの裾に鋼鉄の刃が仕込まれているという事だ。
そう、四コンマ五秒で、ネコはコマ状の、巨大チェーンソーとなる。
ロングスカートの丈は九〇センチ。ネコを中心に半径九〇センチがネコの攻撃範囲。
月ノ輪には一メートル以上離れるように言っておいた。
しかしさすがにこんな攻撃だとは教えていなかった。一メートル離れていれば安心なのに、ネコの回転が始まり、一体どんな武器で攻撃するのかわかった途端に、倍以上、二メートルは飛び離れたかもしれない。大丈夫。俺とネコが狙うのはジャガーだけだ。
つま先をコマの芯としたネコは、目が開いても、やはり俺がネコの肩からナビゲートしてやらなくちゃあならない。
フォォォォォォォォォォォォォォ……
回転音は軽やかに。スカートそのものは既に目に見えない。
俺はネコの肩に乗ったまま、重心を前に傾けた。
ズバッ!!
毎秒二五〇回転のネコのスカートは、ジャガーのマホガニーの机を切り裂いた。高級なオガクズが部屋に舞う。
「うおっ!」情けなく叫んで、ジャガーは飛び避ける。
飛びながら、ジャガーは指をこちらに向けて、
「芽が出ますよ!」と叫んだ。
「無駄だ」
さっき言ったとおり。
「俺はてめーなんかの細胞は、ひとっつぶも食っちゃいねぇ!」
ネコは下半身のコマ回転に、若干人形らしく首を振動に揺らしながら、俺の言葉に被せて言う。
「あたしは人形だしねッ」
下半身の振動は、さらにネコの口を震わせて、まるでカタカタと笑っているかのようだ。おそらく、ジャガーは必要以上に不愉快だろう。
「月ノ輪! 裏切りましたね!!」
ジャガーが叫ぶと同じく、月ノ輪はジャガーへ襲いかかっていた。ベア―クローが窓から差し込む光にきらめいた。
しかし、襲うより、指先の方向を俺達から月ノ輪の方向へズラして叫ぶジャガーのほうが、若干早い。
「芽が出ますよ!」
ところが。
ベア―クローより早いジャガーの言葉を超えて、さらに早く動く物体があった。
「!?」
それは、月ノ輪をかばうように割って入った、シャケだった。
ジャガーの番長奇術〟聖餐生産〟は、シャケを襲った。
しかしシャケは止まることなく、割って入ったその流れでジャガーへ飛びついた。
くるんと、ジャガーの胴を回転して、背後に廻る。
シャケとジャガーがもつれ合う。
くそ、俺はコマネコの上に乗ったまま、どうにも出来ない。
それは月ノ輪も同じだ。
二人して何も出来ないで手をこまねいているうちに、どんどんシャケの身体から、ジャガイモがぽろりぽろりと落ちていく。痩せ細っていく!
「くっ」
ジャガーは闇雲に番長奇術を使おうと指を差したり言葉を発したりするが、シャケが自分の身からこぼれるジャガイモを、事もあろうにジャガーの口へ押し込め、ジャガーの言葉は、
「へは! へははほ!」
キーワードを正しく発せられない。
その時、シャケの目が光った。それが光を発したのか、それとも涙だったのか、それはわからない。
とにかくシャケの目が光り、俺はシャケの声を初めて聞いた。
「番長~~~~~! 月ノ輪番長~~~~~~!」
想像していたよりだいぶ低く、渋い声だった。
シャケはもがくジャガーを押さえた手のわずかな可動範囲の中で眼帯を取った。
眼帯の下には、涙に濡れた、〝煩悩珠〟が埋まっていた。
光ったのは、目でもあり、涙でもあり、珠でもあったのかもしれない。
シャケは泣きながら、しかし、笑った。
「――俺ごと……! 俺ごと刈れッッッ!!!!」
それは覚悟の一言に違いない。
呼ばれた番長とは、もちろん長年つるんだ、月ノ輪以外、有りえない。
しかし、月ノ輪は突然のことに躊躇していた。
「やれッ! 月ノ輪!!」
「だ……だべ……」
駄目だ、腰が引けてる。
久しぶりのシャケの声、
シャケの眼帯の下に隠されていた煩悩珠、
身代わりに死に逝くシャケ、
複雑な気持ちもわからないでもない。
しかしそれではせっかくのシャケの覚悟が台無しだ……! 俺はタイミングを逸さぬよう、これ以上少しでも月ノ輪がためらったら突っ込むつもりで、ネコの前方に体重をかけ、前髪を引っ張った。出走直前、競馬馬の足を溜めるように。
「やれッ! 月ノ輪!! じゃねーと俺が代わりにまっぷたつにして、ネコにシャケの魂食わせるぞ!!!」
ゴオッッ!!
とうとう月ノ輪が吠えた。
ベア―クローが天井に届くほど高く。
窓ガラスがビリビリッと振動し、
カッと鳴った。
ベア―クローは床に火花を散らす。
しばしの沈黙があって、
ガラスが、四本の白い線が走った。
五枚に寸断され、外へ落ちて行った。
ガラスが地面に落ち、砕けて四散した音が聞こえてから、
――ジャガーとシャケの身、同じ高さに、斜めの平行線が四本走る。
時は今。
ジャガーとシャケの身体が、三つの切り身と、それを中心に上半身と下半身に分断され、地面に落ちる前に空中で静止するその瞬間。今。
俺は、胸にかけた鍵を手にし、胸元にあるネコの頭を抱え込む。
鍵を高く上げ、
「待たせたな」ネコのヒタイの鍵穴に、鍵を突き挿す。
「あ……あん」とネコが小さくあえぐ。
ムードもへったくれもない。
しかしネコの目は急速に潤む。期待感と、直後に確実に訪れる歓喜を想像して。
俺は挿した鍵を一気に回す。
「お食事の時間だ」
がががががががががが、とネコの頭が震える。
鍵で封印されていた、ネコの、人形としてのもうひとつの機能が動き出す。
植えられた髪に隠れて見えないが、後頭部――人間で言えば頭蓋骨と首の接地面に、ネコにはちょうつがいがある。
今まで口に見えていた部位が、そのちょうつがいを支点に大きく開く。
妖怪で言えば、ただの女だったものが、口裂け女になり、さらにお化け提灯へ二段変身したかのようだ。
ネコの隠された大口の中は、開くと何も見えない闇だった。
恐ろしい牙や、機械的な構造も、何も見えない。
おそらく、次元が違う。三次元の世界に住む人間には視覚出来ない何か特殊な構造がそこにあるのかもしれない。
しかしその姿は、ほんの一瞬だ。
俺は鍵を回すと同時に、重心を前にかけている。
ネコの大口が開いた時、
その口の前には、
何が起こったかわからない表情のジャガーと、目を閉じ全てやり遂げた笑みのシャケとの、重なった上半身が。
ばくん。
と、ネコの大口が閉じる。
ジャガーとシャケの上半身は、吸い込まれるように消えた。
同時にネコの身体がびりびりと震え、
ジャガーとシャケの切り身と下半身が、床にぼとりと、肉質の音を立て落ち、
俺はネコのヒタイの鍵を逆に回し、抜き取る。
ネコの顔は元に戻る。
しかしその表情は、アクメの余韻に浸る処女の顔にも似て。
ジャガー男爵印のポテトチップス工場の社長室に残されたのは、
壊れたマホガニーの机。
割れた窓。
ジャガーとシャケの死体。
シャケが生んだジャガイモ。
鍵を持った俺。
今だあとを引く快楽にぼんやりするネコ。
そして、地面に落ちたシャケの切り身を見つめる月ノ輪。
割れたガラスの音に気付いて、工場で働く労働者やジャガーの部下が、風通しの良いこの部屋を、何が起こったのかわからず戸惑った顔で見ている。
いずれ、このオープンで閉鎖的な工場も、開放されるだろう。
◇ ◇ ◇
宗谷岬のどんよりとした寒空に、一本の煙が立ち上る。
俺はヒッチハイクした軽トラの荷台からその煙を見ている。
あの煙の下には月ノ輪がいるはずだ。
「何か見てるの?」
視界の上からネコが俺を覗き込む。例の落書きの目が描いてある大きなハチマキで。
鍵穴も今は当然、隠している。
俺は口に咥えていないフリーなほうのネコの乳房を掴み、
「へふに(べつに)」と言った。
乳房を掴まれてネコは、
「あん」と小さくあえいで、
「ヒトのおっぱい吸いながら言ってもカッコ悪いよ」と笑った。
人形のくせにヒトかよ、と、俺はさらに強く、ネコの乳首を吸う。
ネコは頬を紅潮させ、軽く震えた。
ネコの人形としてのもうひとつの機能。
それは、煩悩血清抽出機だ。
ネコは腹の中で、食った番長の魂から煩悩血清を抽出し、それを乳首から排出する。
俺はその煩悩血清を飲まなくては、どんどん身体が胎児に近づいていってしまう。
だから俺は今、ネコの乳房を吸っている。
今日のネコのおっぱいは、飲み甲斐があるな。さすがは番長二人分の血清だ。
その時、耳のそばで、
ぷぅ。
と音がした。
「あ」とネコが声を上げる。
「へはは(出たか)?」
「や。恥ずかしい。出てない」
言葉と裏腹に、てゆーか追い討ちをかけるように、
ぷぅ。
とネコの腰許から二回目の音がする。
俺は乳首から口を外し、座っているネコのスカートの中を探る。
そこには輝きを失って黒く鈍い色をした珠が落ちていた。二個だ。
一個には、
【卑慢】
と刻印がしてある。ジャガー男爵のヒタイに輝いていた百八番長が一人の証明、【卑慢】の煩悩珠。
そしてもうひとつは、
【昏沈】
と読めた。
これはおそらく、たぶん確実に、シャケの持っていた煩悩珠。
【昏沈】が意味する煩悩は、
――心がめいってふさぎこむこと。
俺はその珠を空に透かして見た。透けて何かが見えるわけじゃない。
ただ、あの空に吸い込まれていく煙と、この珠の持ち主は、同じ存在なのだ。
今頃月ノ輪は、浜でシャケの切り身を焼いている。いや、おそらくはもう貪り食ってしまったかもしれない。
『ワシは、食うサ。シャケば食ってワシの身に取り込むべさ。きっとそれが……一番の供養になるはずっしょ……』
月ノ輪は浜に打ち上げられ、乾いている流木をやぐらに組み、火を点けた。
小さな枝がぱちぱちと燃え始めてから、やぐらの中心にカゴ一杯のジャガイモをくべた。
そして独り言のように続けた。
『煩悩珠なんか有っても無くてもサ、ワシはこの稚内で番を張るべよ。シャケの血肉と共にサ……』
やぐらの上には鉄製のフライパン。
バターが溶け始めている。シャケの切り身と、スライスされたジャガイモが、ようやく焼ける音を立て――
月ノ輪は俺達に背を向けたまま、片手を上げた。
俺は黒ずんだ二個の珠を、鍵と他の四つの珠のぶら下がる紐に通した。
いずれ煩悩玉が全て揃った時、これは数珠として完成するのだ。
それは日本国の旅を終えた時。
無有大陸へ戻る時。
俺は再びネコの乳房を吸った。
ネコは俺を膝枕し、俺の頭に手を置いた。
「ほい(おい)」
「?」
「ほへ、へほひはは(俺、背伸びたか)?」
「そんなの知らないわよ、見えないし」
くそ。
『有りやァ~~~アァ、無しやァ~~~アァ……』
……なんだ?
『有りやァ無しやァ~~~アァ、幻のォ~~~オォ。何がァ~~~あったかァ~~アァ、無有のォ~~国ィ~~~イィ。何のォ~~故にてェ~~~エェ、煩悩狩りィ~~~イィ……』
軽トラのエンジン音に、唸るような唄声が混じってくる。
ネコも気がついたのか、耳を澄ましているようにも見える。
『残るゥ~~煩悩ゥ~~~ウゥ、百とォ~~三ン~~~ンンン。先ィ~~長ァきィ~~~、唄ァ~~なれどもォ~~~オォ……』
あれはロックンロール琵琶法師の唄声だ。
いや、聴こえるはずもない。
こんな北国のジャガイモ畑の真ん中で、遠く無有大陸の乞食坊主の唄う声が聴こえるわけがない。
聴こえるわけがないのだ。
『――今宵はここまでにしとうござりまする』
べん、べべん。
【了】
まえがきにも書いたとおり、電撃大賞ではまったく評価されなかったし、その後の担当編集にも色よい反応いただけなかったので、今後漫画化することはないでしょう。
しかし内容や設定については今だに気に入っていて、既に単行本になっている私の作品「ものミコ」(作画:ゆみまる)の最終回でも、このメインキャラクター・ボンノとネコの二人をこっそり登場させています。
良かったら公式ブログのプロフィールなどから、既刊一覧を御覧ください。
「ものミコ」のAmazonリンクが貼ってあります。
http://d.hatena.ne.jp/iharadaisuke/about
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