ごくささやかな冒険の始まり
ホームルーム終了の喧騒を隠れ蓑に、無事教室を出て、足早に校門へ向かう。
本当は校庭を横切って南門から出る方が家には近いのだけど、校庭は校舎から丸見えでいかにせん無防備だ。校庭を歩く僕を見付けて、急に工藤たちが気まぐれを起こさないとも限らない。
僕はいつも通り、家の方角から行くと少し遠回りにはなるけど、校庭を横切らずに正門から学校を出た。
教室、校門と二つ関門を突破して一息つき、ほっとしながら少し歩いた曲がり角で、捕まった。
「マキトちゃぁん、そんなに急いで帰るなんて冷たいじゃないのぉ」
工藤が嫌な笑いを浮かべながら、肩を組んで来た。
身長が僕より15センチは高い工藤に肩を組まれると、ほとんど覆いかぶさられるような圧迫感がある。勿論工藤はそれを分かって、威圧するためにやっている。
石村が後ろからディパックを掴み、坊西が工藤の反対側に回る。僕を逃がさないためのいつもの布陣。
「別に急いでないよ」
僕は曖昧に笑う。もうこうなったら逃げられない。僕はいつものように、心の中でいくつかの扉を閉じた。
「今日は鉢ノ木にある廃屋に行くからよ。お前も行きたいだろ?」
工藤が顔を寄せて睨みつけるようにして言う。
「廃屋って?」
勿論行きたいわけはなかったけど、僕はさも興味を引かれたように聞く。
「知らねえのかよ。まあ、知らないほうが楽しみも増えるだろ。行くぞ」
工藤はそう言うと、僕の肩にまわした腕に力を込める。中一とは思えない厚い筋肉が盛り上がる感触を首筋に感じる。
三人に囲まれたままの体勢で、駅まで連れて行かれた。
僕がお金を払って四人分の切符を買わされ、下り電車に乗る。上がりの路線は、特急が乗り入れるターミナル駅へ向かうが、下りの路線はいくつかの町を経て、やがて北へ広がる山脈の入り口となる山の麓で終点になる。ターミナル駅がある街の中心から見ると郊外にあたる場所にある僕たちの中学校は、街の端と言っていい場所にあって、この辺りから下り電車に乗る人はあまり多くは無い。
電車は、しばらくの間住宅街の中を走り、次第に疎らになっていく家が途切れると、車窓には田園風景が広がる。
「ほんとに霊なんて出るのかよ」
坊西が誰ともなしに言う。
「まじで出るんだってよ。兄貴の友達が先週の土曜日に行ったら、子供の泣き声が聞こえたって」
石村が少しムキになって答える。
「ほんとかよ」
「まあ、でも事件があったのはほんとなんだからよ。その現場ってだけで何かありそうだな」
工藤が二人の会話を引き取る。
本当は僕も鉢ノ木にある廃屋の事は知っていた。
事件が起こったのは今から十五年くらい昔。僕たちが生まれる少し前の事だ。
ある家で、父親による無理心中事件があった。
会社を首になり、借金を抱えて、そのうち酒びたりになった男が、ある日自宅で奥さんと娘を殺して、自分も居間で首を吊った。そして、その事件が起こった家が、今でも取り壊されること無く廃屋となって残っている。家を相続した男の弟が気味悪がって近づかないため、放置されたままって話だけど、本当の事はわからない。
当然、その家は有名な心霊スポットになった。でも、所詮は東京から電車で三時間半、新幹線も止まらない田舎街の話。そこまで激しく荒らされる事も無く、廃屋は過ぎた歳月分古くはなっているが、中の部屋なんかは、今でもほとんど事件当時のまま残っているらしい。
何の気まぐれか、月曜日の放課後だと言うのに工藤たちは今からそこへ行こうとしていて、そしてその気まぐれに僕を巻き込んでいる。
その後は、しばらくの間三人は工藤の兄がバイクを盗んで持ち主に追いかけられたあげくに、逆に待ち伏せて持ち主をボコった、なんて話で盛り上がっていた。
僕は、気付かれないようにそっと溜息をつく。
鉢ノ木駅に降りた頃には、すでに五時を過ぎて、九月の空は夕方の気配があった。
十五分ほど畑の中を歩き、雑貨屋が一軒だけあるような小さな集落を過ぎ、少し山道を登ると、雑木林に囲まれて目的の家はあった。
荒い舗装の細い道に面した生垣が、手入れをされないまま身長を遥かに超える高さになっていて、中を覗き見る事は出来ない。
「どっから入るんだよ」
工藤が石村に聞く。
「ええと、裏のほうに門があるらしいんだけど」
先に立って入り口を探す石村の後に従い、僕たちも生垣に沿って歩く。
「あった」
生垣を端まで歩いたところで、石村が雑草に埋もれた門に駆け寄った。
「ここから入れるぞ」
門は繰り返し板で封鎖された跡があった。僕たちのような肝試し目的の訪問者に、何度も壊され、その度に修理されているようだった。最近誰かが入ったばかりらしく、打ちつけられた板は半分あたりのところで破壊され、人が一人通り抜けられるくらいの隙間が出来ていた。周囲に散らばる板塀を踏みながら、石村が取手を押すと、金属が軋む嫌な音を響かせながら門が開いた。
木造一階建ての家は、今にも崩れ落ちそうに見えた。
撓んだ屋根は所々瓦が落ちて、骨組みがむき出しになっている。
「まじでなんか出そうじゃね」
坊西が微かに震えた声で言う。
「なんだよ、お前もしかしてビビってんの?」
工藤が笑う。
「ビビってねえよ。でも、ほんと雰囲気あるなここ」
門を開けると、すぐ目の前が玄関になっていた。玄関も門と同様、何度も修理され、そして何度も壊されたような跡があった。
三人は少し顔を見合わせると、坊西がビビってないところを見せようとしたのか、真っ先に玄関の前に立ち、ドアノブを引いた。
三人とも廃屋探検に夢中で僕に構わないでいてくれるのはありがたかった。正直、僕は廃屋をそれほど怖いとは思えなかった。三人と一緒にいる事のプレッシャーのほうが、遥かに心を重くする。それを少しでも軽くしてくれるのなら、廃屋探検もそれほど悪いものでは無い。
家の中は、予想以上に荒れ果てていた。
玄関を入り、トイレとお風呂場の横を通る短い廊下を進むと、居間があった。居間の天井が崩れ、大きく開いた穴から夕方の弱い光が差し込んでいた。
事件当時のまま残されているって触れ込みに反して、建物の傷み具合はかなり激しく、侵入者に荒らされたせいもあって、居間の床は瓦礫で埋まり、壁にはいくつもの穴が開いていた。この居間で父親が首を吊ったという話だったけど、そんな痕跡はどこにも見つける事が出来ない。
「首吊りの紐、あそこに引っかけたんじゃねえの」
坊西が天井に残る骨組みを指差して言う。
「馬鹿じゃねえ。崩れる前は天井の板があって無理だろ」
工藤がせせら笑いながら言う。
「でもこの部屋で吊ったのは本当なんだろ。どの辺なんだろう」
石村は落ちつかない視線を部屋中に巡らせる。
「首を吊ったのは」
工藤がそう言いながら、部屋の端から人差し指をゆっくりと動かしていき、たっぷりと間を取った後、大声で「ここだっ」と言いながら、僕の足元で指を止める。
「うおう」
坊西が驚いて悲鳴に似た声をあげ、その声に三人がヒステリックに笑う。
徐々に暗さを増して行く居間を奥まで歩くと、ドアが二つ並んでいた。
工藤が事も無げにそのうちの一つを開く。
部屋には雨戸が閉まっていて真っ暗で、閉じ込められていたカビ臭さが流れ出る。工藤は少しの間ドアの隙間から顔を突っ込んで中を覗き込んだ後、「何も無いな」と言いながら、ドアを閉めた。
「マキトちゃん、そっちのドア開けてよ」
工藤がもう一つのドアを指差し、嫌な笑いを浮かべながら言う。何かを企んでいる時の顔だ。面倒な事になるのは分かっていたけど、僕は言われた通りドアを開けた。
部屋には大きな窓があって、中は思った以上に明るかった。三人が中に入るのかと思って振り向こうとした瞬間、背中を思い切り蹴飛ばされた。僕は前のめりで部屋の中へと倒れ込む。その瞬間、背後でドアが閉じられた。
外からバカ笑いが聞こえ、さらに何かを運んでドアに押し付けるような音が聞こえる。立ちあがってドアを押すが、重い物が邪魔をしているように動かない。
「ちょっと、開けて。開けてよ」
「それじゃ、俺たち帰るから。バイマイ、マキトちゃん」
工藤の声が聞こえ、同時に二人の笑い声が起こる。
「待ってよ、開けてよ、ねえ」
焦った声を出すが、内心はほっとしていた。このまま本当に帰ってくれるなら、どんなにありがたいか。三人の気が変わらないよう、僕は焦った振りをして、ドアを叩き続けた。
やがて、瓦礫を踏む音が遠ざかり、本当に三人は建物から出て行った。
物音が完全にしなくなったところで、僕はドアに押し付けた耳を外した。
後はゆっくり出られる場所を探せばいい。
そう思いながら改めて部屋を見ると、そこは建物の他の場所に比べて、驚くほど傷みが少なかった。壁に沿ってベッドが置かれ、ベッドの対面にある窓に面して勉強机が配置されていた。そのどちらもかなり小さなサイズで、部屋の雰囲気から言ってもどうやら子供部屋だったようだ。
そう言えば、父親に殺された女の子は、確か七歳、小学二年生だったはずだ。
部屋の奥の窓を確かめると、ほとんどのガラスは割られていたが、侵入を防ぐために外から張られた金網のためにそこからは出られそうになかった。
窓の前に置かれた机には、文字の擦れたボロボロの教科書らしき本とノートが数冊置かれていた。ノートの一冊を開いて見ると、中には何も書かれていなかった。
机の引き出しを開けかけ、思い留まった。知らない女の子の私生活を覗き見ようとしている後ろめたさを感じた。そんな風に思えるほど、不思議とこの部屋にだけ生活感が残っていた。
ふと背中に何かの気配のようなものを感じ、振り向いた。
その瞬間、背筋に氷を押し付けられたような冷たさを感じ、ゾクリと震えが首筋まで駆け抜ける。
振り向いた目線の先に、扉の外れた押し入れがあり、上下二段に仕切られた上段の板間に人形が座って、僕を見ていた。
それは、濃紺のドレスを着たプラスティック製の少女の人形で、長いひらひらしたスカートを広げて足を投げ出し、押し入れの壁に寄りかかる様にして座っていた。ほつれた金髪の下、かつて右目があった場所には穴が開いていて、左目は黒目が剥げて濁った白目になっていた。彼女は黒い穴と濁った白目で、僕をじっと見ていた。
僕はここへ来てから、初めて恐怖を感じた。
慌ててドアまで走り、体全体を使って、思い切り押した。外に置かれた何かが、少しずつ動く感触がある。このまま押せばなんとか出られそうだ。半ばパニックになってドアを押しながら、背中に人形の視線を感じる。
もし今振り向いて、人形の顔がこっちを向いていたら、僕はきっと叫び出してしまう。今にも人形が棚を飛び下りて僕に近づいて来るんじゃないかって思えて、必死になってドアを押す体全体に力を込める。
なんとか通り抜けられそうな隙間が出来ると、僕は無理矢理そこに体を押し込んで、部屋から抜け出した。すでに外は夜になりかけていて、天井の穴から差し込む光もほとんど無く、暗くなった居間は来た時とは見違えるほど不気味に見え、僕の中に生まれた恐怖が体から溢れ出しそうなほど膨れ上がっていく。
瓦礫に足を取られながら居間を駆け抜け、居間よりもさらに暗い廊下を抜けて、玄関のドアを半ばぶつかるように押し開け、外に飛び出す。
僕は駅までの道を、ほとんど止まること無く走った。ホームで電車を待つ間も背筋の震えは止まらず、顔を上げると向かいのホームのベンチに人形が座っているんじゃないかって思えて、両手で覆った顔を上げる事が出来ない。
やって来た電車に乗り込み、家の最寄り駅で降りた時、ようやくまともに息をする事が出来た。
家の玄関を開けて家に入ると、居間から「遅いじゃない」と母さんの声がした。
「ごめん、友達の買い物に付き合ってたら遅くなっちゃった」
自分の部屋に入る前に居間に顔を見せると、母さんがテーブルに食器を並べながら「もうご飯出来るから、すぐ降りて来なさい」と言った。
「わかった」
と答えながら、いつものように胸に痛みを感じる。
両親は僕がいじめられていることは知らない。仲のいい友達に囲まれ、中学生活を楽しんでいると思っている。その事で、僕はいつも申し訳ない気持ちになる。僕の中学生活の現実を知ったら、二人はすごく悲しむに違いないからだ。
母さんに曖昧な返事をして、階段を登り部屋に入ると、荷物をベッドに放り投げ、廃屋で埃っぽくなった服を着替えた。
食事を終え、風呂に入って部屋に戻り、いつものようにテレビとゲームの電源を入れていると、背中から廃屋で感じたのと似たような気配を感じた。髪の毛がチリチリと逆立つような嫌な感じに恐る恐る振り向くと、出窓のスペースに人形が座っていた。
廃屋の部屋にいたのと同じ姿勢で、同じ暗い穴と濁った白目で、同じように僕を見ていた。
喉の奥から短い悲鳴が漏れる。
「ぎゃはははは」
突然、時間差でスウィッチの入ったテレビからけたたましい笑い声が部屋の中に響く。たまたまチャンネルが合っていたバラエティ番組の声だと分かっても、驚きで心臓が痛いほどに跳ね上がる。
呼吸を整え、慎重にその目線から逃れながら、ゆっくりと人形に近づく。
近くで見る人形は、思ったよりも傷みが少なく、服が汚れ、髪が乱れている以外はずっと廃屋に放置されていたようには見えなかった。ただ、右目に開いた穴と左の白目が、不気味だった。
なぜ、ここに。
無理矢理に理由を考えようとすれば、僕を怖がらせようとして工藤たちが置いた。
だけど、夜になってからあそこに三人が戻るとは思えない。何より、僕が食事をしている間にこの部屋に忍び込んで、ここに人形を置くなんて、絶対にあり得ない。
すぐに否定的な説明が思い浮かぶ。でも、他にどんな説明も思いつけない。
なぜ、ここに人形があるのか。瞬間的な驚きよりも、遥かに大きな恐怖感が体の中で膨れ上がって行く。
人形に向かって伸ばした手が、目に見て分かるほど震えている。右手で人形を掴み、左手で窓を開ける。手にした人形は思った以上に重みがあり、体の部分は綿が詰まっているような柔らかさだった。
僕は出来るだけ人形を見ないように、開け放った窓から思い切り人形を外へと投げ捨てた。人形は僕の部屋に面している細い路地を越え、向かいの家の塀に当り、道路に落ちた。
僕はすぐに人形から目を逸らして窓を閉め、鍵を掛ける。手の震えはまったく収まらない。
その後、今にも窓が開いて人形が入って来るんじゃないかって恐怖で、ゲームをしてもテレビを見てもまったく集中出来なかった。振り向くと人形が座っていそうな気がして、背筋の冷たい震えが止まらない。
僕は気を紛らわす事を諦めて、今日ばかりは電気を点けたまま早々にベッドに潜り込んだ。
翌朝、目覚ましが鳴る前に目を覚まし、その瞬間に昨夜の記憶が蘇る。
僕は薄目を開けて、目線をゆっくりと窓の方へと動かし、異常が無い事を確認し、知らずに詰めていた息をふぅと吐いた。目覚ましが鳴るまでもう一度寝ようと体を反転させたら、目の前で人形が僕の顔を覗き込んでいた。驚きで布団ごとベッドから転げ落ちる。布団が人形も一緒に巻き込み、人形が僕を見つめたまま、顔に向かって落ちてくる。
僕は布団を跳ねあげ、起き上がり、嗚咽のような悲鳴のような声を上げながら、仰向けに転がる人形に布団を被せ、その上から枕を叩きつけた。
急いで部屋を出て洗顔を済まし、キッチンにいる母さんに「今日文化祭の打ち合わせが朝あるの忘れてた。時間無いから朝飯いらいない」と声をかけておいて、部屋に戻る。
手早く着替え、未開封のゲームを入れたままだったビニール袋を逆さに振ってゲームを床に散乱させ、空にする。深呼吸をしてから、布団を剥ぎ、昨晩同様出来るだけ目を逸らしながら、人形をビニール袋の中に突っ込み、さらにそれをディパックの中に押し込んだ。
「行ってきます」とキッチンに向かって声をかけておいて、スニーカーを履いて外に出る。片がけにしたディパックがやけに重い。通学路の途中にあるコンビニに、人形を袋ごと放り込むと、僕は小走りでそこから離れた。
学校にいてもずっと人形の事が頭から離れず、授業がまったく耳に入って来ない。
僕はもしかしたら人形に呪われてしまったのだろうか。今まで興味本位であの廃屋へ探検に行った人はたくさんいるはずなのに、なんで無理やり連れて行かれた僕なんだ。
昼間の学校で普通に過ごしていると、怖さが薄れ、その代わり、徐々に疑問と怒りが湧いて来る。
なぜ、僕なんだ。
中学生になって少ししてから、何度も繰り返した自問。
なぜ、僕なんだ。
工藤たちは、特に昨日の事を尋ねてきたりはしない。
「あれからどうしたんだ」なんて事を聞いて来るような事は無い。僕に対して酷い事をしても、そんなのさも何でもない事のように振る舞うのがやつらのやり方だ。休み時間に席に座っている僕の後を通りがかりながら三人が連続で後頭部に肘打ちをしたり、そんな普段通りの暴力以外に、その日はそれ以上の面倒事は起きなかった。
帰り路を歩いていると、薄れていた恐怖が蘇って来る。
部屋に戻ると、人形が待っているんじゃないか。そんな思いが膨らんでいく。
家に着いて玄関で靴を脱ぎ、階段を昇って部屋の前に立ち、深呼吸をひとつして、ドアを一気に開けると、机の上に人形が座っていた。
僕は、僕の身に降りかかる災厄から、それがどんなに理不尽なものであっても、逃れる事が出来ない。
部屋に足を踏み入れながら、僕をじっと見つめる人形を、見つめ返した。
部屋に人形がある生活には、すぐに慣れた。
人形は別に僕を殴る事も蹴る事も無ければ、行きたくも無い場所へ無理やり連れて行ったりするわけでは無い。最初に座っていた出窓を人形の置き場所にして、僕は極力そこに人形がいることを無視する事にした。それでも、たまに目線が人形に向くと、いつも黒い穴と白濁目が僕を見ていた。
人形が来てから四日ほどたった夜、あの目だけは何とかしようと思い立った。
風呂に入る時に、僕は着替えに包んで人形を風呂場まで持って行って、石鹸で服と顔を洗い、効果があるかどうかは分からないけど、人間と同じようにシャンプーとリンスで髪の毛を洗った。部屋に戻り、ドライヤーで乾かすと、人形は見違えるほど綺麗になった。
人形は、薄い眉毛あたりで前髪を切り揃えた金髪で、少し吊りあがった切れ長の目に、すっと通った鼻の下の唇は、ほんの少しだけ開き気味で、ヨーロッパのお姫様風の顔は、冷たい印象の表情をしていた。
あとは、この目をなんとかしないと。
僕はまず、プラスティックの薄い下敷きを小さな丸型にくり抜き、それを黒く塗り、両端に開けた穴に太めの輪ゴムを通して、アイパッチを作った。それを穴の開いた右目に当てて、輪ゴムの長さを調節して、頭の後ろで輪ゴムを結んだ。その後、スマホで人形の画像をいくつか見て雰囲気を掴むと、マジックペンの青と黒を合わせて、白濁目に黒目を描き込んだ。
いつもの場所に人形を置いて眺めると、アイパッチは似合ってないし、黒目はいびつだしで、ますます怖さが薄れた。
出来栄えに満足していると、人形の左瞼が、すっと閉じた。
瞼は閉じる様な作りじゃなかったはず。
不思議に思っていると、やがてゆっくりと瞼が開いた。そして、僕が描いた物とはまったく違う、ブルーに縁取られた薄茶色の透明さを帯びた目が、僕を見た。
「やっと、見えた」
人形がくるりと眼球を一度回して、そう言った。
僕はしばらくの間、それこそ自分自身が人形にでもなったかのようにその場に立ちつくしていた。
怖いとか驚いたとか、そういう感情を越えたあまりに予想外の出来事に、反応することすら出来なかった。
「私は、フローレンス」
人形が名乗った。
「あ、え、あ、お、俺は、マキト」
思わず答える。
人形は立ち上がると、気持ち良さそうに伸びをした。
「お前のおかげで久しぶりに物が見える。礼を言う」
「あ、いえ、そんな、でも、なんで、どうして」
「どうして、というのは、どうして私がここにいるのかという質問か。それともなぜ人形が話しているのかという質問か」
フローレンスは両手を腰に当てて、上半身を僕に向かって傾けながら、なぜか少し意地悪そうな、そして少し嬉しそうな笑みを浮かべる。
「えと、えと、どっちも。どっちも」
「まず、私が話している理由は、私にもわからない。ずっと暗闇に閉ざされていたのだが、突然光が溢れてお前の顔が見えて、それを思い浮かべたら、声が出た。不思議な事があるものだと、自分自身も驚いている」
「それじゃあ、人と話すのはこれが初めてなの」
「ああ、そうだ。他の人形たちがどうなのかも私は知らない」
「前の持ち主とは」
「サクラのことか。一方的にではあるが会話はしていた。私は答えてやる事は出来なかったがな」
フローレンスは出窓から飛び下りると、軽やかに床に着地した。部屋を横切り、勉強机の椅子を経由して、器用に机の上までよじ登った。
「立ったままじゃ落ちつかないだろう。こっちに来て座れ」
「あ、ああ」
僕は言われるままに、椅子を引いて座ると、机の上のフローレンスとはちょうど目線が合った。
「それで、なぜここにいるか、だが。正直それも私にはわからない。ただ、お前と共に過ごすことで、私の長年の疑問に対する答えが見つかる気がしたんだ」
「疑問?」
「ああ、そうだ。お前があの部屋に入って来た時、そんな空気を感じた。理由はわからない」
「結局何も分からないって事じゃないか」
「まあ、そう言う事になるな」
結局何一つ疑問は解けないまま、フローレンスは、さあもう説明は終わったとでも言うような顔で、続けた。
「そんな訳で、迷惑をかけるが、世話になるぞ」
「ちょ、ちょっと待って。ずっとここにいる気?」
「ダメか?」
「ダメじゃないけど」
「それにしても、右目のこれはもう少しどうにかならなかったのか」
フローレンスはそう言いながら、右手の指でアイパッチを軽く叩く。
「そんな、よく出来てるじゃないか。意外と似合ってるよ」
「ふん。似合ってるものか」
不満そうな顔に、僕は思わず笑ってしまった。
その日から、僕の生活は今までよりずっと色鮮やかになった。
灰色だった毎日が色彩を帯びた。
家に帰ると、話が出来る人形が待っている。たったそれだけの事で。
夜部屋でゲームをしながら、僕はその日の学校での出来事をフローレンスに話した。
フローレンスはクールな外見や話し方に似合わず、好奇心が旺盛で、学校での生活を詳しく知りたがった。
「それで、他の生徒はその工藤とかいう男に殴られたりはしていないのか」
「うん。俺だけだよ」
「他の生徒たちは止めないのか」
「みんな見て見ぬ振り。先生もね」
「やり返す事は出来ないのか」
「無理。絶対勝てないし、もっとひどい目に合わされる」
「学校というのはなかなか辛い場所のようだな」
「普通の人にとっては、多分楽しい場所なんだけどね」
僕は誰にも話した事の無かった、いじめの日々をフローレンスには話していた。別に見栄を張る必要も無いし、その事で心を痛める事も無い相手だと気楽に話せた。
それでも、誰かに話せるって事が、こんなにも心を軽くしてくれる物だとは思わなかった。
「ところで、さっきからなんで同じ場所でずっと同じ事を繰り返しているのだ。まったく先に進まないから見ていてイライラするぞ」
その時僕は、RPGで難しいダンジョンを前に、経験値を上げるためにバトルを繰り返していた。
「こうやってレベルを上げて、ダンジョンをクリアしやすくしてるんだ」
「そのまま進んでもクリア出来ないのか」
「うん。バトルに勝つと、攻撃力や防御力も上がるし、お金を貯めれば装備も強くなるんだよ。そういうゲーム」
「ふうん。経験値ね。単純に一対一で戦うゲームのほうが見ていて面白いな」
「見てるほうはそうかもね」
フローレンスは僕の教科書を読むのも好きだった。
朝起きると、机の上で自分の体の半分くらいの大きさがある教科書を苦労してめくっている事がよくあった。
「歴史というのは面白いものだな」
「そう? 覚えなきゃいけない事がいっぱいあって大変だよ」
「覚えるより理解することが大事なんじゃないか」
「なんだよ、学校の先生みたいなこと言って」
ある日、工藤の機嫌が悪かったのか、何の前触れも無くトイレに連れて行かれて、個室に押し込まれたあげくにさんざん蹴られ、便器の水を飲まされた。
「それだけは止めて」
と頼んだのだけど、不機嫌そうな目で、「飲めつったら飲むんだよ」と工藤が言い、石村と坊西が両側から僕の腕を掴んで頭を便器に向かって押し付けた。僕は心の中でいつもよりさらに多くのドアを閉じた。
僕の口が便器の水に付くと、工藤は急に興味を無くしたように「汚ねえな」と言うと、トイレから出て行った。石村と坊西も慌てて後を追う。
僕は洗面台で口を何度もすすぎながら、中から何かが溢れて開きそうになる心のドアを必死に抑えつけた。
家に帰り、部屋に入ると荷物を放り投げて、ベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
僕がしばらくそうしていると、フローレンスが机の端からベッドを見下ろすように覗きこんで来た。
「今日はゲームをしないのか」
「無理。そんな気にならない」
「嫌な事でもあったか」
「嫌な事以外なんて何もないよ」
僕は夕ご飯の声がかかるまでそのままの姿勢でベッドに突っ伏したままで、フローレンスはそんな僕を放っておいてくれた。
夕食の後、ようやく少し持ち直してテレビを見ている時、つい弱音を吐いた。
「明日もう学校行きたくないや」
「そんなに辛いか」
「行ったってしょうがないよ、あんなとこ」
「それでも行かなければならないのだろ」
「誰か代わりに言ってくれないかな」
「私が行ってやろうか」
「え?」
思わずテレビに向けていた顔を、机の上にいるフローレンスに向ける。
「そんなこと出来るわけないだろ」
「なんでそう思う」
「出来るの?」
「多分な」
「でも、どうやって」
「こっちに座れ」
僕は椅子に座って、机の上のフローレンスと向き合う。
「私の目を見てろ」
言われるままに、フローレンスの一つだけ残った目を見つめる。
じっと見つめているうち、薄茶色の目に、次第に吸いこまれそうな気がしてきて、ふっと気が遠くなったと思ったら、目の前に僕が座っているのが見えた。
「な、出来ただろ」
僕が言った。
その後、一度元に戻して、僕たちは綿密に打ち合わせをした。
学校での細々した注意事項を思いつく限り伝える。
「工藤たち三人には、何をされても気にしない事。逆らっちゃだめだよ」
「例の三人だな」
「そう。他の人たちは俺に話しかけてくることなんてあまりないから、適当に答えてくれればいいよ」
「わかった」
翌朝、朝食を食べて、着替えを済ませてから、僕たちは再び入れ代わった。
「それじゃ、行ってくるぞ」
そう言いながら部屋を出て行くフローレンスは、やけに楽しそうに見えた。
人形でいる、というのは、不思議な感覚だった。
片目の不自由さに慣れれば、見る事には不自由は無く、普段と同じように考える事も出来るし、体も思ったように動かせる。
ただ、感覚と言う物が無かった。
動いている手足が、本当に動いている実感が無い。筋力の実感が無いから、動きの限界も分かりにくい。思い切って机の上から飛び下りてみる。着地の感触は無かったが、飛び下りてからも動きに不自由は無さそうだ。
壊れるだけの衝撃が無ければ、どんな無茶でも出来るのだろう。ただ、飛びあがって見ると、あまり高くは上がらない。
お昼くらいには、人形の体にも大分慣れた。
母さんに聞こえないよう音量を絞ってテレビを点ける。平日の昼間に見る番組は、普段は見慣れないだけに、不思議な解放感があった。
手が小さく、コントローラーが合わなくてゲームは出来ない。
僕は次第に退屈してしまい、同時にいつもこの時間フローレンスはどう過ごしているのだろうって気になった。ずっと廃屋の押し入れでじっとしていたフローレンスは、この程度のことで退屈を感じることは無いのかもしれない。
夕方になって学校から戻って来た僕の姿をしたフローレンスは、疲れ果てているように見えた。
僕たちは早速入れ代わる。
机の上で元の姿に戻ったフローレンスは、気持ち良さそうに伸びをした。
「人間でいるというのは、不思議な感覚だな」
「俺も同じ気持ちだったよ。人形って不思議だなって」
「いや、恐らく人形から人間へ変わる方が、圧倒的に違和感がある」
「どうしてそう思うの」
「思考が肉体に影響を受けすぎる」
「どういうこと?」
「頭に流れ込んでくる情報のほとんどが肉体的な感覚で、思考もそれに支配されてるように思えるほどだった」
「人間にとってはそれが当たり前だから支配されてるとまでは思わないけど」
「意識してないだけだろう。指一本動かすだけで、いろいろな感覚が重なり合って頭の中に流れ込んでくる。不思議だけど、なかなか面白いものだな」
「学校は? 上手くやれた?」
「ああ、上手くやれたと思う。思ったより授業は退屈だったけどな」
「そうでしょ。退屈なんだよ、勉強なんて」
「それにしても、いろいろな感触の中で、痛みというものは格別に思考に影響を与えるものなのだな」
そう言った時のフローレンスの目に、何かの感情が揺らめいているように見えた。
それは、もしかしたら憐れみのようなものだったのかもしれない。
何があったのか、詳しく聞かなかった。正直に言うと、聞けなかった。本来僕が受けるはずの暴力まで、フローレンスに押し付けてしまった罪悪感のようなもので、胸がチクリと傷んだ。
その日以来、僕たちは度々入れ代わった。
フローレンスは思った以上に学校を楽しみ、僕も部屋で人形として過ごす時間を楽しめるようになって来た。
「人間の本質は、痛みへの忌避感が根源にあるのかもしれないな。痛みを受け続けると、思考その物が委縮する」
ある日、フローレンスがしみじみと言った。
「深く考えたこと無かったけど、多分それで合ってると思う」
「マキトが受けて来た痛みは、私からすれば想像を絶する物だ。よく耐えているな」
「耐えてるなんて、そんなもんじゃないよ。ただ色んなことから目を背けているだけ」
「それを耐えていると言うのじゃないか」
「よくわかんない」
僕は、フローレンスに何かお礼をしたいと思っていた。
痛みばかりを引きうけて貰っていて、何もお返しが出来ないままでいいわけがない。
「ねえ、明日、一緒に出かけない?」
「出かけるって?」
「外に遊びに行こうよ。一緒に」
「ほお。どこかに連れて行ってくれるのか」
「うん。どこに行くのかはお楽しみ」
寝る準備をして電気を消して、布団に入りもう少しで眠れそうになったところで、フローレンスが話しかけて来た。
「明日は遠くへ行くのか」
「うん。電車に乗って一時間半ってとこかな」
「そうか、電車に乗るのか。そうか」
「うん。朝早いから、早く寝なきゃ」
少しして、また声がする。
「明日は晴れるのか。天気はどうなんだ」
「予報では晴れだよ」
「そうか。晴れか」
ようやく寝入った瞬間。
「それで、明日の」
「もう寝なってば」
「う、すまん」
僕は布団の中で笑みを噛み殺した。
翌朝は気持ち良く晴れた。
「しばらくこの中で我慢して」
フローレンスをディパックに入れ、外に出る。
秋の涼しい風が、気持ち良く頬を撫でる。
電車に乗り、ターミナル駅まで出て、特急に乗り換える。
「おい。少しだけでいい、外を見せろ」
ディパックの中から声がする。
僕はディパックの口を開け、フローレンスの顔を出してやった。
一時間ほど特急に乗ると、目的の駅だ。
駅前から送迎バスに乗り、目的のハイランドパークに到着したのは、まだ午前中の早い時間だった。
高原リゾートにある遊園地は小規模ながらも、ジェット・コースターやフリー・フォールみたいな最低限のアトラクションがあるし、気候も気持ち良く景色も綺麗で観光客に人気はあった。そして何より、地元の物を馬鹿にしがちなクラスメイトたちに会う心配が無い。
「ここはなんだ?」
ディパックの口から顔だけ出したフローレンスが聞く。
「遊園地。今日はいろんな乗り物に乗せてあげるよ」
「遊園地? どんな物なのかまったく想像がつかないぞ」
「でしょ。さあ、どれから乗ろうか」
まず、ジェット・コースターから乗る事にした。
席に着いて安全装置を降ろし、すぐにフローレンスをディパックから取り出す。
「急いで入れ代わって」
「今すぐにか」
「うん、急いで」
入れ代わると同時に、ジェット・コースターが動き出す。
「何があっても絶対に俺から手を離さないでよ」
「何があってもって、何があるんだ」
「さあ、何があるんだろうね」
ジェットコースターがゆっくりと長い坂を登る。僕を握る手に力が入っているのが、握られている場所のへこみ具合でわかる。
やがて、坂の頂点から一気に加速して坂を下ると、僕の口から僕の声で絶叫が上がった。
「うひゃあああ、なんだこれ、止めろ、止めて、死ぬ、ふぎゃあああ」
ジェット・コースターが終点に着いて、安全装置が上がると、僕の姿をしたフローレンスはよろよろと立ちあがり、コースターの前にあるベンチにへたり込んだ。
「どうだった?」
僕が聞くと、虚ろな目で僕を見返す。
「どうもこうも。なんというか、すごく」
フローレンスは少し考え、笑った。
「すごく楽しかった」
「でしょ?」
「ああ、こんな感覚は想像したこともなかった」
「もう一回、乗る?」
「え? いいのか」
「当たり前だよ。好きなだけ、何度でも乗ろう」
その後、僕たちは五回連続でジェット・コースターに乗った。最後には、降りると同時に小走りで乗車の列に並ぶほどだった。
ジェット・コースターの他のアトラクションも全て乗った。
フリー・フォールにも五回。合間にまたもやジェット・コースター。
その全てを、フローレンスは目一杯楽しんだ。
唯一、お化け屋敷だけは失笑していたけど。
夕方が近づいて、日差しが弱まる頃、まだ乗っていないのは観覧車だけになった。
観覧車の前に立って、「これにも乗る?」とディパックの口から顔を出しているフローレンスに聞く。
「迷ってるなら乗っちゃおうよ。彼女も乗りたがってるよ」
観覧車乗り場の入り口から、スタッフが声をかけてきた。
「彼女?」
「そ、彼女。乗りたそうに見上げてるぞ」
そう言われて、顔が赤らむ。女の子の人形を連れた中学男子って姿は、きっとやばいやつに思われるんじゃないかって、急に心配になる。
「乗りたい」
フローレンスがスタッフに聞こえないよう、耳元で囁いた。
「いかした彼女だな」
ゲートを開けながら、スタッフが自分の右目を指差す。
「あ、ありがとう」
「楽しんで来い」
スタッフはフローレンスに向かってウィンクをしながら、僕の尻を派手な音をさせて平手で叩いた。
観覧車に乗り込み、向かいの席にフローレンスを座らせ、入れ代わった。
フローレンスは窓に額を着けて、外を見る。
「ただゆっくりと回るだけだよ」
僕が言うと、フローレンスは意外そうな顔を僕に向ける。
「この高さをゆっくりと回るなんて、贅沢な楽しみだな」
「そう。良かった。あまり怖くないから退屈かと」
観覧車が高度を増すと、高原を囲む山なみが遠くまで見渡せる。空は夕焼けの予感に赤く染まりかけている。
「肉体の感覚が呼び起こす喜びや楽しさがこれほどの物とは、思わなかった」
フローレンスが外を見ながら、そう言った。
「解放感や爽快感というものが送り込む肉体的な情報は、頭の中にここまで快感を生み出すものなのだな」
「痛みが思考を委縮させるのなら、この喜びみたいな物は思考にどんな影響を与えるのかな」
「そうだな。上手い言葉が思いつかないが」
フローレンスは慎重に言葉を選ぶ。
「なんだろう、再生、とでも言うのか」
「再生?」
「まるで、新しい命を授かるような」
「大げさだよ。こんな小さい遊園地で」
「マキトがいつもやっているゲームがあるだろ」
「RPG?」
「ああ。あれで、経験値を積むと能力が上がって、出来なかった事が出来るようになるってやつ。あれに近いんじゃないか」
「でも、あれはゲームだよ」
「人間の肉体は変化するだろ。成長と共に、変化していくだろ」
「そうだね」
「肉体が受けている感覚は、全て脳内に蓄積していくんじゃないか。あらゆる経験が、自分の可能性を広げていくように感じる。こうして人間の感覚を体験してみると、どんなことも出来るようになっていくような気になる。前は痛みは思考を委縮させると言ったが、あの経験にしても、きっと別の力へ昇華出来るのかもしれない」
「難しくてわからないよ。人間の体なんて、たいして変わらないし、出来る事なんて限られてるよ」
「少なくとも、人形でいると、それ以上変わることなど出来ないのだがな」
ガタリという衝撃と共に、観覧車が元の位置に戻り、ドアが開く。同時に、僕たちは入れ代わる。
「楽しめたかい」
ゲートを通る時、スタッフが聞いて来た。
「うん。彼女もありがとうって」
「そうか。よかった」
送迎バスに乗り、電車を乗り継いで最寄りの駅を降り、暗くなった道を家まで歩いていると、ディパックの中から声が聞こえた。
「マキト。今日は本当に楽しかったぞ。お前がさっき観覧車の男に言っていた言葉を、ちゃんと私から言わせてもらう。ありがとう」
「そんな、俺のほうこそ、いつも身代わりになってくれてありがとう」
「ああ、そんな事は気にするな」
その夜、フローレンスは珍しく、かつての持ち主の事を語った。
「サクラは、マキトと違って学校でトラブルは無かったらしいのだが、家に居場所が無かった。親がいつも怒鳴り合いいがみ合い、度々サクラもその争いに巻き込まれていた」
「お父さんがおかしくなったって聞いたよ」
「私は、サクラの友達だった」
「でも、その時は今みたいに話せなかったんでしょ」
「ああ、話せなかった。サクラの世界では、私はお城に住むお姫様なんだが、息苦しいお城の暮らしが嫌いで、しょっちゅう逃げ出しては、街で遊んでいたらしい。そして、街で友達になったのがサクラだって事になっていた」
「そういう設定だったんだね。二人の関係は」
「私は、時々サクラに言うんだ。たまにはサクラが代わってお城に戻ってお姫様になってくれないかしらって」
「サクラちゃんが自分の口でそう言うんだ」
「そうして、私の中に入ったサクラがお城でお姫様のような生活をする。お城というのは押し入れの中なのだがな」
「あの押し入れだね」
「そう。あの押し入れだ。あの中で、私の体を動かしながら、お稽古ごとばかりで疲れるわね。こんな服じゃ息が詰まるわ。なんて一人芝居をした後に、また私と入れ代わる」
「なんか、事件の事を知っていると、すごく悲しい話に聞こえる」
「そうだな。サクラは元に戻った後に、私に言うんだ。お城暮らしも楽しいけど、私には合わない。父さんとお母さんもいるし、私はここで暮らすけど、フローレンスとはずっと友達だよって」
「フローレンスが話したり、俺と入れ代わったり出来るのって、それと何か関係があるのかもしれないね」
「そうかもしれないな」
フローレンスは少しの間、何かを思い出すように、じっと自分の両手の平を見つめる。
やがて、顔を上げて、話出す。
「あの夜、私は全てを見ていた。隣の部屋で激しい音が聞こえ、父親の怒鳴り声や母親の悲鳴が聞こえ、やがて荒い足音が部屋に近づいて来る。サクラは部屋の真ん中で私を抱きしめて蹲っていたのだが、鍵を閉めたドアが激しく叩かれると、私を押し入れの中に置いたんだ。フローレンスはお城から出て来ちゃだめだよって言いながら。ドアが破られ、押し入れの前のサクラが振り向いた。押し入れのドアを閉める暇もなく、父親がサクラの髪の毛を掴むと、引き倒したんだ。父親の目は、血走って完全に正気を失っているように見えた。倒れたサクラの上に馬乗りになると、父親はサクラの首を絞めた。暴れていたサクラがやがてぐったりと動かなくなってからも、随分長い間、その首を絞め続けていた」
「恐ろしい体験だね」
「その時は、それが恐ろしいのかどうか分からなかったんだ。サクラが感じた恐怖や痛みが、私にはわからなかった」
「今は」
「今は、分かる気がする。今なら」
その後も、週に一度くらいは代わりに学校に行って貰い、休日はお礼を兼ねて、いろいろな所へ出掛けた。
フローレンスは、美術館を特に気に入って、すっかり飽きてしまった僕を宥めすかして、閉館になるまで何週も回らせた。
「人間の手は鍛錬によってここまでの物を生みだせるようになるのだな」
そう言って、自分の手をじっと眺める。
その日以来、フローレンスは家にいても度々僕と入れ代わり、絵を描きたがった。時には数時間も集中して描き続けるもんだから、元に戻った後に右手が疲労で動かないほどだった。
美術の時間に描いたスケッチを、教師にひどく誉められた時があった。いつの間にか僕の手は、正確なデッサンが出来るくらいの技術が付いていた。自分の力では無いだけに、素直に喜べ無かった。
ある木曜日、代わりに学校に行ったフローレンスがなかなか帰って来ない日があった。
僕はその日が第三木曜日だったことを思い出した。それは、僕と工藤たちが掃除当番に当たる日。そして、その日は当然工藤たちは掃除なんかしないのだけど、放課後誰もいなくなった後に教室の隅にある掃除用具を入れるロッカーに、用具と一緒に僕を閉じ込める。
ロッカーの鍵を外から閉めて「片付け完了」と言うのが、ほとんど習慣となっている。
外から鍵を掛けても、実は中から外す事が出来る。簡単なフックだけの鍵は、歪んだ蝶番と扉と本体の隙間を利用すれば、何度か揺すると中からフックを外せるのだ。ちょっとしたコツは必要だけど、僕は15分程度で外せるようになっている。その事を工藤たちも知っているから、平気で僕を放置して帰る。
だけど、勿論フローレンスはその事を知らない。
迂闊にも今まで第三木曜日に入れ代わったことが無かった事に気付かなかった。
僕はなんとか学校まで行って、扉の開き方をフローレンスに教えなければならない。
この人形の体で。
出窓の鍵は掛けてない。体を伸ばせば、取手に届く。
僕は窓を開け、思い切り道路に向かってダイブした。
この程度で人形の体が壊れない事は分かっている。僕はすぐに立ちあがり、電柱の陰に身を隠した。
秋も深まって来たと言ってもまだ夕方で、外は明るさが残っているし、人通りもけっこうある時間帯だ。人に見つからないよう、慎重に、でも校門が閉められる前に学校に辿り着かなければならない。
物陰に隠れながら、通学路を急ぐ。学校までの道のりに、どうしても一か所二車線の道路を横断しなければならない箇所があった。信号のある横断歩道を渡るのは論外。僕は出来るだけ人のいない歩道から、車が途切れた隙に車道に向かって飛び出す。車の車輪が通らない道の中心で体を伏せる。頭の上を、轟音を響かせながら何台もの車が通り過ぎて行く。人形には肉体の傷みが理解出来ないとフローレンスは言っていたけど、完全な破壊に対しては、人形の体でも間違いなく怖い。10台ほどやり過すと、ようやく車が途切れる。同じ事を反対車線でも繰り返し、なんとか道路を渡り切った。
ぎりぎり校門が閉められる前に学校に辿り着いた。階段をよじ登って教室まで行くと、教室の扉は閉まっていた。人形の力では、中々開ける事が出来ない。なんとか隙間を作り、体を捻じ込んで無理矢理隙間を押し広げる。
教室に飛び込み、ロッカーの前まで言って、中へ声を掛ける。
「フローレンス、いるの? 中にいるの?」
「マキトか?」
「うん。俺だよ」
「鍵が閉まっているようで難儀していた」
「ええとね、ドアを内側から手の平で押すようにして上下に揺すってみて」
中からガタガタとドアを揺する音がする。
「開かないな」
「ちょっと待ってて」
僕は椅子の足を持って、ロッカーの前まで引き摺る。よじ登ると、なんとかフックに手が届いた。フックを外すと、中で僕の姿をしたフローレンスが笑顔を見せた。
「初めての事だが、誰かに迎えに来て貰うというのは、思いのほか嬉しいものだな」
その日以降、フローレンスは何かを考え込むような時間が増えた。
僕がゲームをしていても、興味を示さず黙って遠くを見つめている。
部屋で入れ代わる事は無くなったけど、その代わり僕もすっかり絵を描く事にハマってしまって、絵を描く時間が増えていた。
真っ白い紙の上に、鉛筆を走らせるだけで、頭の中で思い浮かべた世界が再現されていく。自分がそんな事が出来るなんて、思いもよらなかった。そして、描けば描くほど、再現出来る世界が広がって行く。
一枚描き上げるたびに、僕は自分の力が増して行く事を実感する。それは、再現出来る世界だけじゃなく、僕の世界そのものを広げてくれるような感覚だった。
「今度の日曜日、サクラの墓参りに連れて行ってくれないか」
フローレンスが僕に頼みごとをするのは珍しい事だった。
「いいけど。どこにあるか知ってるの」
「いや、知らない」
事件の検索をすると、葬儀が行われたお寺が分かった。普通に考えると、お墓もそこにあるのではないかと予想された。
お寺は、事件のあった家の隣駅にあった。
住職に、事件を知って心を痛めた、ぜひお墓に花を供えたいと言うと、快くお墓の場所を教えてくれた。
お墓の前に行き、花を供えて線香に火をつけ、目を閉じて、手を合わせる。
目を開けると、フローレンスが僕を見つめていた。
「ここで、お別れだ」
フローレンスが突然、そう言った。
「お別れって?」
「私は、サクラの元へ行かなければならない」
「サクラちゃんの元?」
「ああ。サクラはずっと、暗い場所に閉じこもったまま、泣いている」
「分かるの?」
「学校の暗いロッカーで膝を抱えて座っていた時に、予感があった。そして、ここに来て、確信した。だから、私は、サクラを迎えに行こうと思う」
「迎えに?」
「ああ。この前学校でマキトが私にそうしてくれたように」
「でも、そんな事が出来るの?」
「出来るよ。そう望めば」
「行ってしまったら、もう戻って来ない?」
「そうなるような気がする。だから、お別れだ」
「そんな、勝手だよ。急過ぎるし。今じゃなくてもいいじゃないか」
「いや、今がいいだろう。私は、今ならサクラの痛みを分かってやれる。あの子はずっと暗闇で膝を抱えて泣いているから。早く迎えに行ってやりたい」
「そっか。そうだよね。フローレンスは、元々サクラちゃんの物だし」
「私がマキトと別れる事を寂しいと感じていないなんて、まさか思っていないよな」
「え?」
「マキトのおかげで、私はいろいろな事を学べた。すごく感謝しているし、何より、楽しかった。本当にありがとう」
「俺の方こそ。フローレンスにはいつもいつも嫌な事を押し付けちゃって」
鼻の奥を、何かがツンと刺激する。
「それじゃあ、私は行く。これだけは覚えておけ。私たちは、それを望めば、何でも出来るようになる。経験を積んで、力に変えろ。簡単な事では無いがな」
「うん。忘れないよ」
フローレンスは、墓石に右手を置いて、僕に振り向くと、楽しそうな笑顔を見せた。
「この右目を見たら、サクラは何と言うだろうな」
「似合ってるって言うよ、きっと」
「そうだといいな」
フローレンスは顔を墓石に向け、目を閉じる。
静かな時間が流れ、やがて、フローレンスは、パタリと倒れた。
拾い上げると、左目はかつて僕が描き込んだ、歪んだ黒目になっていた。
部屋に戻り、人形を出窓に座らせる。
嫌な事があると、今でも僕は人形に話しかける。
人形は答えてはくれない。
それでも僕は元気が出て、そして鉛筆を持ち、スケッチブックを開いて、真っ白な紙に向かう。