挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

ブックマークする場合はログインしてください。

明けぬ夜に動く針

作者:桐谷瑞香
 月明かりが家々を照らす中、今日も食堂『やすらう亭』は人々の温かな空気と談笑で溢れていた。
 その食堂では、焦げ茶色の髪を緩い三つ編みで結った女性が、机と机の間をきびきびと動いていた。歩きながら、机の上にのっている空になった食器を片づけていく。そんな彼女に向かって、椅子に座っている客は手を挙げた。
「すみません、ノーラさん、注文いいかい?」
「はい、少々お待ちを! 食器を置いてから行きますね」
「あ、ノーラちゃん、酒追加ー」
「グレンさん、わかりました。お水でも飲んで少し休んでいてください」
「ノーラ、料理できたぞ!」
「今行く!」
 様々な声と情報が飛び交う中、ノーラは真っ先にすべきことを頭の中に叩き込んだ。厨房に行き、できあがった料理を持って行く。その帰りに追加注文を聞き、グレンのジョッキを持って厨房に戻る。それを実行すると決めると、流れるように動いていった。
 額にはうっすらと汗が浮かんでいるが、ノーラは構わず動いた。客に笑顔を振りまき、冗談であっても失礼な客に対してはきっぱり断る。凛とした給仕の女性は、その日も日付が変わるまで動き続けた。
 忙しかった時間も過ぎ、あと一時間ほどで店仕舞いというところで、一人の青年が店に入ってきた。ドアが動くとベルが鳴り響くため、ノーラはすぐにその人物に気づいた。
 彼を見たノーラは顔をぱっと明るくする。そして皿を下げてから、エプロンで手を拭きながら近づいた。
「いらっしゃい、デリック。久しぶりね」
 赤褐色の髪の青年は頭を軽くかきながら、ノーラを見た。
「ああ。一ヶ月ぶりかな。しばらくは町にいるから毎日来るよ。ごめんね、まだ大丈夫?」
「全然大丈夫よ。お酒にする? それとも夜も遅いから、ジュースにでもしておく?」
「いや、酒でお願いするよ」
「わかった。いつもの席空いているから、そこに座ってちょうだい」
 彼との話を一区切りすると、残っていた四人組に会計を頼まれる。ノーラは元気よく返事をして、席に向かった。支払いを終えると、四人組はノーラに手を振りながら店から出ていった。
 ほんの一時間ほど前まで人でいっぱいだった食堂は、今ではデリックと二人組の男女と男性たちだけになっている。
 ノーラが厨房に戻ると、暇を持て余していた料理人であるノーラの父が、カウンター席に座っているデリックに酒を出しているところだった。
「ありがとうございます」
 デリックが礼を言うなり、父は彼に顔を近づけた。
「お前な、そろそろ腰を落ち着けないのか? その気がないなら娘をたぶらかさないでくれないか?」
「ちょっとお父さん、何を言っているのよ!」
 ノーラは顔を真っ赤にして、父をデリックから引き離した。父の眉はへの字になっている。
「ノーラ、お前はもう二十二歳だ。嫁ぎ先を早く決めないと、後が苦しくなるぞ」
「言われなくてもわかっている!」
 腕を組んで、ぷいっと顔を逸らした。
 ノーラが住んでいる交易の町エーモンでは、二十代前半までに結婚している者が多い。すなわちノーラの歳くらいで、一生を誓う相手を見つける人が多いのだ。
 それゆえか、年頃の年齢でもあるノーラは、町の男性から結婚を前提に付き合わないかと言われたことがあった。しかしそれはやんわり断っている。理由は横にいる青年の存在だ。
 デリックはジョッキに手を付けずに立ち上がり、父のことをじっと見た。父はやや背の高い彼から見下ろされる形になる。
「な、なんだ?」
「……アーネットさんたちにお伝えしたいことがあります。先日、次の行商を終えたら、この町にある中継店で勤めたいと行商隊長に進言しましたら、承諾を得ることができました」
 彼の優しげな視線がノーラに向かれた後に、父に戻った。
「――収穫祭の前にはこの地に腰を下ろす予定です。そしたら正式なご挨拶をしに伺ってもよろしいですか?」
 デリックは微笑みながら父に向かってはっきり言った。
 ノーラは一瞬の間を置いて目を丸くする。今の台詞はつまり――。
 彼はノーラを見ると「ごめん」と言葉をこぼした。
「あとで詳しく話すよ」
 その言葉に対し、ノーラは呆然と首を縦に振るしかできなかった。


 閉店後、他の客を外に出してから、ノーラはデリックの右隣に腰を下ろした。机の上にはおつまみ用の簡単な食事が並んでいる。ノーラは店の戸締まりは自分でやると言い、先に父を二階にある自宅に上がらせた。
「さっきの話、本当?」
 微笑んでいるデリックは頷いた。店内全体を灯していた明かりは消され、今はノーラと彼の前にあるランタンの炎だけが、唯一の明かりだった。
「今日ようやく行商隊長から言質をとれたんだ。ただ、挨拶周りとかあるから、あと一周は行商に付き合えって言われて……」
 机の上に乗せたノーラの左手にデリックの右手がかぶせられ、そして握られた。視線をあげると、すぐそこに彼の茶色の瞳があった。
「もう少しだけ待っていて欲しい」
「デリック……」
 ノーラはそっと彼の腕にもたれ掛かった。そして彼も寄り添ってくれた。
 彼と出会ったのは二年前。行商人として各地を回っている彼が先輩に連れられて『やすらう亭』に来たときである。ここはエーモン町でも比較的繁盛している店で、焼きたての肉や新鮮な野菜が評判だった。それを教えるために、先輩は彼を連れてきたのだ。
 ノーラは彼らに対し笑顔を振る舞い、てきぱきと給仕をこなしていた。しかし、ふとした拍子に酔っ払いに絡まれたのである。いつもは適当にあしらうか、常連さんにやんわり止めてもらっていたが、その日は運悪く気前のいい客がいなかった。
 どうにか受け流そうとしていると、急に手首を捕まれ、身動きがとれなくなってしまった。その時、デリックが助けてくれたのである。彼は背が高いだけでなく、武術にも心得があったため、簡単に酔っぱらいの動きを封じてしまったのだ。それから酔っぱらいを自警団に突きつけた後、ノーラはお礼がしたいと言い、翌日の夜に食堂に誘ったのである。
 それから彼との交流は始まった。
 行商人であるデリックは常に町にいるわけではないが、町に来たときはいつも顔を出してくれた。翌日が休みの日には、町を案内するという名目で一緒に歩き回ったりもした。
 優しく穏やかな彼に惹かれつつも、彼の立場を考えて今まで何も言えずにいた。流浪の身である彼に、それ以上の感情を持ってはならぬと自ら制していたのだ。
 だがもう、一歩踏み出してもいいだろうか――。
「デリック、私ね、貴方のことがずっと――」
「その言葉は次にこの町に来たときに、僕から言わせて」
 こちらの言葉を遮るようにしてデリックが言ってくる。そして彼はノーラの肩に触れて、手で引き寄せた。
 しばらくその状態で温かな体温を感じあっていた。だがデリックが「あ」と声を漏らすと、体を離された。彼は布袋に手を突っ込み、何かを探し始める。やがて口元に笑みを浮かべて、取り出した物をノーラの前に差し出した。
 手のひらに乗るくらいの小さな木の箱。中を開けると、銀色に輝く丸い物体が入っていた。上部にあるでっぱりを押すと、蓋が開き、中から時計が露わになった。
「素敵……!」
「今回の行商でみやこに行ったんだ。そこで手に入れたものだよ」
「これ、かなり高いんじゃ……」
 煌めく輝きが、その時計が高価なものだということを静かに物語っている。しかしデリックはおどけた表情で言った。
「ノーラが思っているほど高くないよ。裏通りで買ったものさ。――前に使っていた時計が壊れたって言っただろう。これを見つけたとき、是非ノーラに贈りたいと思ったんだ」
 壊れたのは二、三ヶ月前のことである。それを覚えていてくれたことに驚きを隠せない。
 彼の優しさに感謝を噛みしめながら、ノーラは懐中時計を両手で握りしめた。


 * * *


 翌日の夜、デリックは来ると言った。前日より遅くならないようにする、とも付け加えて。
 それを聞いたノーラは朝から機嫌よく仕事をしていた。やすらう亭では昼の営業もしているため、昼前から慌ただしい時間が開始する。昼の営業後は夜まで時間があるので、買い出しにでたりしていた。
 父に頼まれた買い物の途中、露店で林檎を見つけた。デリックが好きな果物だ。買い出しの予定リストには入っていないが、自分で食べると言えば、父も嫌な顔をしないだろう。デリックにデザートとして出そうと思い、こっそり林檎を買い足した。


 太陽が沈むくらいの時間帯から、夜の営業は始まった。早く来ないとは思っていたが、ドアが開く度にすぐさま満面の笑みを向けていた。
 それが何度続いただろうか。忙しい時間帯になってもデリックは現れず、その時間帯を越えても姿を見せなかった。そしてついには営業時間が終わっても現れなかったのである。
 店のドアを閉めるのを躊躇っていると、肩の上に父の手がのった。
「あいつは帰ってきたばかりなんだろ。疲れているんじゃないか? 数日来なくても、おかしくない」
「そうね……。昨日はわざわざ無理して来てくれたかもしれない。今日はもう片づける」
 そう言ってノーラはドアを閉めて、店内を片づけ始めた。その背中を父が肩をすくめながら眺めていたのにも気づかずに。


 * * *


 父の言葉を受けて、ノーラは何事もなかったかのように振る舞った。しかし待てども、待てども、彼は来なかった。あの日から既に一週間経過している。
 何か重い病にでもかかったのだろうか。
 それともあの夜の言葉は、すべて嘘だったのだろうか――。
 疑惑が脳内で巡る中、デリックの行商仲間である青年が店に顔を出した。今日の彼は一人であり、カウンター席の端で酒を飲んでいた。
 鶏肉を焼いた定食を出すと、彼はきょろきょろと周囲を見渡してからノーラに顔を近づけた。
「なあ、デリック知らないか?」
「え?」
「あいつ、ここ一週間くらい見ていないんだ。仕事は休みだったから問題はなかったが、休みは今日で終わり。さすがに行方をはっきりしたほうがいいと思って」
 ノーラと最後に言葉をかわしたのが一週間前の夜。その日以降、彼の姿を見た人はいないということなのか。
「来てないのか?」
「……一週間前の夜に店に来たきり、顔は出されていないです。てっきり体調を崩されたのか、お忙しいのかと思っていました」
 それを聞いた青年は眉をひそめる。
「ノーラさんに会いに来ていないとなると、どこに行ったんだ?」
「つまりデリックが行方不明……」
 呟いて事実を認めると、顔がどんどん青ざめていく。青年はノーラの腕を軽く叩いた。はたと我に戻る。
「俺から自警団に声をかけてみる。最近失踪している人間が多いから、きっと力になってくれるはずだ。ノーラさんはもしデリックが顔を出したら、俺らの店まで連れてきてくれ。行商隊長に事情は話しておく」
「わかりました……」
 弱々しい声で返事をする。心配そうな表情で見ている青年に対し、無理に笑ってからノーラは持ち場に戻った。
 それ以降の仕事は散々なものだった。注文を取り違えたり、運ぶ食事を間違える。しまいには皿を割ってしまう始末。呆れられた父に「休め」と一喝されてしまった。
 足取りが覚束ないままノーラは店を後にし、自室に引っ込んだ。ベッドの上に腰をおろす。雲の間から月明かりが漏れて、部屋の中に射し込んでいた。
「ねえデリック、どこに行ったの? 毎晩貴方が来ると思って待ち続けているのに、何も音沙汰がないなんて……」
 言葉にするが、誰も答えてくれる人はいなかった。
 不安が渦巻く中、ノーラは両手を握りしめて、デリックが一日も早く顔を出してくれることを願った。


 * * *


 いつのまにか眠ってしまったノーラは、雨が地面に叩きつける音によって目を覚ました。横になっていた上半身をあげ、外をぼんやり眺めた。太陽の光が雲で遮られており、薄暗い。
 首からかけている銀時計で時間を確かめる。ちょうど朝食の時間帯だ。まだ仕事には間に合うだろう。軽く髪を整えてから、ノーラは居間に向かった。


 いつもより反応が鈍いながらも、昼の営業をどうにかこなす。それを終えると、傘を差して買い出しにでた。いつもより人通りが少ないのは雨のせいだろう。徐々に人が少なくなっていく通りを歩いていった。
 ふと人気ひとけがなくなったところで、ある一件の家が目についた。三階建てのアパートに挟まれた、赤い煉瓦の屋根の一軒家。扉の左右にある窓にはカーテンが閉められている。そのカーテンの内側には、埃をかぶった置き時計が時を止めて置かれていた。
「空き屋……?」
 ぼんやり眺めていると、猫が扉に近寄り鳴き出した。ほどなくして猫は爪で木の扉を傷つけ始める。まるでこちらに気を引き付けたいように見えた。
 ノーラは扉に寄り、猫を見下ろす。猫は一声鳴くと、さらに激しく扉をひっかき始めた。視線がドアのノブにいく。
「中に入りたいの?」
 猫は答えずにひっかき続ける。ノーラは試しに軽く回した。開いている。目を丸くしながら扉を押すと、簡単に扉は開いた。その隙間から、猫はするりと入っていく。
「あ、ちょっと……!」
 声をかけたが止まるはずもなく、行ってしまった。僅かに開いた隙間から中を覗き込む。明かりはなく、人がいる気配がしない。やはり空き家のようだ。
 猫の望むままに扉を開けたが、このまま放っておくのは気が引けた。別の場所に猫用の出入り口があれば話は別だが、ここで扉を放してしまったら、猫は家に閉じ込められてしまう。
 猫を何とかして外に連れ出そうと思案していると、突然耳につんざくような雷鳴がとどろいた。ノーラは肩を震わして、背後をちらりと見る。すると再び雷鳴が轟き、落下する音が響いた。
 ノーラは躊躇いもせずに、中に入り込んだ。入っても雷の勢いは途絶えることはない。手だけでなく、全身が震えている。雷は昔から大嫌いだった。
「少し雨宿りさせてもらおう……」
 両手で扉をしめながら、自分に言い聞かせるようにして声を出す。家の奥からはあの鳴き声が聞こえてきた。
 ノーラは振り返り、廊下を見据えた。その先にある部屋に猫は入り込んでいく。肩をすくめながら廊下を歩き、猫の後に続いた。
 奥にある部屋はカーテンが開いているのか、どんよりとした光が入り込んでいる。雷が鳴り、落ちる音がするのと同時にさらに目映い光が射し込んできた。
 そこでノーラはここが空き家ではないことに気づいた。奥の机の傍に誰かがいるのだ。猫の黄色い瞳はこちらに向き、呼び寄せるかのように鳴き声をあげた。
「お邪魔しています……」
 一歩一歩ゆっくり廊下を歩いていく。近づく度に猫が鳴いた。
 奥まで進むと、ノーラは息をのんだ。
 金色の髪の長い女性が、机の上で腕を枕にして突っ伏している。美しい金髪は床につくのではないかという長さだ。それが暗闇の中で煌々と輝いている。
 机の上にある時計の振り子は、一定の間隔で動いていた。
 猫が再び鳴き声をあげる。すると女性は頭を動かし、むくりと顔を上げた。
 予想に違わず、とても美しい顔立ちをした女性だった。ノーラが顔を見た瞬間、あまりの美しさに胸が高鳴ったほどである。
「どちら……さま?」
 見惚れていたノーラは鈴の音が鳴るような声を聞いて我に戻った。
「す、すみません。勝手に入ってしまい。雨が急に強くなってきたものですから、雨宿りをさせて頂きたいと思い……」
 女性は外をぼんやりと眺めた。雷が鳴っても動じずに眺めている。
「雷が苦手なの?」
「はい……」
 俯きながら俯くと、女性はにこりと笑みを浮かべた。
「私も雷は好きではないわ。よかったら雨がやむまでお茶でもしましょう」
「いや、それは……」
 女性に迷惑をかけたくないという想いと、夜の仕込みまであまり時間がないということが、考えとして浮かんでくる。
 しかし彼女はノーラの懸念をすべて見透かしたように微笑んだ。
「少しだけよ。お茶を一杯くらい。私も時間を持て余していたところだから……ね?」
 女性に押し切られ、ノーラは渋々頷いた。置き時計の針を見る限り、まだ一時間はいても大丈夫だ。気分転換のためにも、彼女の好意を素直に受け取ろう。


 椅子に座りながらノーラは机の上で燃えているランプの火を眺めていた。部屋の明かりはこれだけ。猫が椅子の周囲をぐるぐる回っているので、時折撫でながら待っていた。
 間もなくしてケイシーと名乗った女性がお盆を持って部屋に入ってくる。ゆらゆらと湯煙がのぼっているのが、暗い背景の中ではよくわかった。
「お待たせ。さあどうぞ」
 差し出されたカップの中は焦げ茶色の液面が揺れていた。少し甘ったるい香りがする。それをノーラは一口飲んだ。
「美味しい?」
 女性が笑みを浮かべる。ノーラはこくりと頷いた。
「飲んだことがない味ですね。どこで入手されたものですか?」
「秘密」
 人差し指を口元にあてながら、茶目っ気ぷりに言う。その仕草がどこか洗練されたもののように見えた。
「――そういえば浮かない顔をしていたけれど、雷のせいだけではないわよね?」
 女性は椅子に腰をおろすと、両手を軽く握って聞いてくる。図星を突かれたノーラは再び茶を飲んだ。
「どうしてそう思うのですか、ケイシーさん」
「何となくよ。年長者の女の勘っていえば、いいかしら」
 ふふっと笑みを浮かべる。余裕ある彼女の姿を見て、ノーラは羨ましく思った。両手でカップをぎゅっと握る。
「少し色々とありまして……」
「恋人と喧嘩でもしたのかしら?」
 首を横に振って否定した。
「一週間前から消えてしまったんです。私や他の人の前から……」
「消える直前に何かあったの?」
「……彼は行商人で、次の行商を終えたら、父に挨拶にくると言いました」
「結婚を前提にお付き合いをする予定だったのね」
 ケイシーは予定という言葉をやや強くいった。
「その後から彼は消えてしまった。――もしかしたら貴女との約束は、ただの表向きの発言だったかもしれないわね」
「え?」
 俯いていたノーラは目を丸くして、ケイシーを見上げる。彼女は視線を逸らさず、見つめていた。
「お父様にうるさく言われたくないがために、嘘を吐いた。そしてこれ以上貴女と一緒にいたら嘘がばれると思い、目の前から去った。そう考えれば道理に合わない?」
「もしそうだとしても、行商隊の前からも消えたんですよ? それはどう説明ができますか?」
「行商人は流れ者。他の町に拠点を置いている行商隊に混ざることも可能だわ。都合が悪い人がいる、居づらい町よりも、誰も知らない町に行った方が幸せでしょう」
 ケイシーは髪をすきながら、さらりと言う。ノーラの表情は固まった。
 未だにデリックから、はっきりと想いを告げられたことはない。こちらかの想いを言おうとすれば、やんわり断られる。まるで関係を作りたくないような雰囲気だった。
 こちらが一歩踏み込んだために、目の前から消えてしまったのではないだろうか――。
 顔を強張らせていると、雷が鳴り響いた。光は二人の顔を明るく照らし出す。何気なく見た彼女の顔に表情はなかった。
「約束をした時は、さぞ幸せだったでしょう。こんな仕打ちをされたら、誰もがショックを受けるわ」
 無言のままでいると、ケイシーは口元に薄らと笑みを浮かべた。
「……所詮幸せなんて永遠に続くものではない。いつかは終わりがくるものなのよ」
 彼女の表情を見て、ノーラはぞっとした。持っていたカップを離す。
「何かあったのですか?」
「……会いに来ると言って、もう二度と前に現れなかった人を思い出しただけよ」
 金髪の女性は、髪を背に払いながら立ち上がり、窓の前に立った。長袖の黒色のロングスカートは、彼女の髪の色を引き立たせていた。
 雨だれで窓が汚れているからか、窓を通じて彼女の姿は見えない。
「男の約束なんて信じない方がいいわ。どうせ口からの出任せよ」
「そうかもしれませんが……」
 段々と強い口調になっているのが気になる。
 ノーラも立ち、ケイシーの斜め後ろに寄った。
「私も貴女と同じように、ある男からの連絡をずっと待っていたわ。でもこなかった。戻ってきたら結婚しようとまで言ってくれた人なのに……」
 彼女の背中は震えていた。その背中が見て居た堪れなくなった。
 唐突に猫が鳴き声をあげた。ノーラが振り返ると、猫は尻尾を揺らして、こちらを見ている。まるで何かを主張しているように見えた。
 ノーラはケイシーを一瞥してから、猫に近寄る。すると猫は軽やかに机の上に飛びあがった。一瞬ひやりとしたが、猫は器用に着地し、優雅に机の上を歩いていく。そして置き時計の前で止まった。
 猫の視線の先を追ったノーラは顔をひきつらせた。
 時計の振り子は動いているが、針は動いていない。お湯を沸かし、お茶まで飲んでいたのに、あれから一向に時間が進んでいないのだ。
「あの日の明け方から、時が動かなければいいのに……」
 ケイシーの独白めいた呟きは、ノーラをさらに震わした。
 この家に入る前、扉の近くにあった時計も止まっていたのを思い出す。
 部屋をよく見れば、生活感がない。この女性はいったい何者か。
 思考が混乱してくると、猫が再び鳴き声をあげた。前足で時計の前を叩いている。三通の手紙が時計の下に挟まれていた。おそるおそる手紙を抜き取る。
 太陽の光によって焼けてしまっているが、中は読めそうだ。ケイシーの動向を見ながら、一番上にあったものから中身を開いた。
 一通目は、ある男性の近居報告の手紙だった。兵役により戦場に出向いた彼が状況を報告している。比較的穏やかな地区に行けたようで、このままいけば生きて終戦を迎えることができるだろうと書いてある。
 二通目もその男性からだ。戦況は日々変わっているが、こちら側が有利なのには変わりない。相手側が降参するのを待つばかりだと書いてある。ケイシーのことを気遣う文面も多数あった。
 三通目も男性からだったが、他のよりも枚数が少なかった。軍の内部に敵側に寝返った者がいるために、男性がいる地区では戦況が悪化したと。今までずっと裏で諜報をしていたが、前線に出るかもしれないと書かれていた。そして最後の文は震えながら書いたのか、かすれていた。
 ――君の幸せをいつまでも願っている。
 手紙を机の上に置き、ノーラはケイシーの背中を眺めた。
 この国ではここ五十年くらい戦争はしていない。その時の戦争も一時戦況は悪化したものの勝利したはずだ。
 視線を下におろすと、灰色の紙の電報が机の上に置かれていた。先ほどまでなかったものだ。不思議に思いながら中身を見ると、手紙の書き手であった男性が戦死した旨が書かれていた。
 目を見張って、微動だにしない金髪の女性を見る。ケイシーは動かない。
 これは――性質(たち)の悪い冗談だろうか?
 ケイシーの彼氏が戦死したのが、かの戦争であれば、それは五十年前の話だ。
 ならば目の前にいる彼女は誰だろう。五十歳を越えている女性には到底見えない。せいぜい二、三十代だ。
 単にこの手紙の受け取り手と、目の前にいる女性が同じ名前というだけだろうか。
「あの、ケイシーさん……」
 結論が出ないまま呼びかける。その声はやや震えていた。自分が考えている中で、もっともあり得ないことが脳裏をよぎっていたのだ。
「――どうして戦争って起きるのかしら。誰かが不幸になるだけなのに」
 ドキリとした。ケイシーの言葉が静かに紡がれる。
「帰ってくると言ったから、私は今か今かと待っていたのに。毎日毎日気が付けば西に傾く月を見ていたわ。それが何日続いたことかしら」
 窓にノーラの姿は映っているが、ケイシーは映っていない。雨だれのせいではなかった。
「ずっと待っていた。電報を見ても信じなかった。いつまでも彼が戻るのを待っていた。病気になっても、ずっとずっと――」
 戦争集結から三年後、この国には流行病が襲った。国全体に流行り、村によっては全滅の危機に瀕したところもあったらしい。交易の町エーモンは比較的被害は少なかったが、それでも当時は一気に墓石の数が増えたと聞いている。
「ケイシーさんはもしかして――」
 声をかけると、彼女はようやく頭を動かし、顔を向けてきた。お茶をした際の穏やかに微笑んでいた表情はなく、文字通り無表情だった。
「誰も幸せにならなければいい。そうすれば私たちのことも、そういう運命だって受け入れられるわ」
 そう言って彼女はノーラに近づいてきた。思わず後ずさっていく。
「どうして彼が死ななければならなかったの? とても優しい人だった。彼は何も悪くないのに、あの戦争でいなくなる必要はなかったのよ!」
 言い返したいが、思い浮かんだ言葉はどれもケイシーの言葉を逆撫でするようなものばかりだった。
 時代が時代だから。たまたま敵側が攻め込んだところに、不運にも彼がいたから――すべては想像である。
 背中が壁に当たった。ケイシーはすぐ目の前にまで近づいていた。
「――今の若者は戦争なんて知らずに、のうのうと過ごしている。生まれた時代が違うだけで、どうしてこんなにも生き方が違うの?」
 言葉が出てこない。唾をごくりと飲み込む。
「幸せな人を見ていると許せないわ。やっと定住できるから婚約ができる。何よそれ、私に幸せを見せつけたいの!?」
「それ誰が言ったの……?」
「デリック」
 間髪置かずに出された名前を聞き、ノーラは目を大きく見開く。そして慌てて傍にあったドアノブに手を触れた。必死に回すが動かない。
「開かない!?」
 両手で回したり、引いたり押したりもするが、びくともしなかった。
「皆、幸せにならなければいいわ」
 淡々と紡がれる言葉。ノーラはそれを聞いて、無性に苛立ってきた。自分たちの人生を勝手に決められたような気がしたのだ。
 ノーラは噛みつくように言葉を発した。
「自分の不幸を他人に押しつけないでください!」
 ケイシーは首を動かさずに言い返す。
「それは不公平でしょう。どうして私たちは苦しまなければならなかったの?」
「時代が時代だからです! 私がその時代に生きていたら、同じ運命を辿ったかもしれません。でも今は戦争も何もない五十年後。戦死なんてあり得ません!」
 そして部屋をざっと見渡して、右腕を大きく広げた。
「この空間はケイシーさんが作り上げた場所ですよね。どうしてこんなことするのですか? 私たちを存在する時代に戻してください!」
 必死に叫ぶがケイシーは首を横に振っていた。
「ここは私の家。私にとってここが存在する場所なのよ」
 これでは埒があかない。ノーラはケイシーの横を通り過ぎて椅子を持ち上げると、それを窓ガラスに向かって叩きつけた。しかしガラスはびくともせず、ヒビすら入らなかった。何度も叩きつけたが、無駄だった。
 ノーラはへなへなとその場に座りこむ。
「窓も割れないなんて……」
「夜が更けて明けても、一人でずっと待っていればいい。デリックもずっとそうしているわよ」
 鋭い目つきでノーラはケイシーを睨みつけた。彼女は扉の前で腕を組んでいる。
「一生ここにいな――」
「貴女と違って私たちには明日がある。一生なんていれるわけありません!」
 右手を握りしめながら、ノーラは立ち上がる。そして視界に入った針が動いていない置時計を彼女の前に突きつけた。
「ケイシーさんの時はここで止まっています。でも――私たちは動き続けている」
 ノーラは服の中から鎖をたぐり寄せ、銀時計を取り出した。それをそっと撫でる。
「私と一緒に時を進めようと言ってくれる人からもらったものです。ここで止まるわけにはいきません――」
 ケイシーに対して微笑んでから、ノーラは緊張した面もちで銀時計の蓋を開いた。
 盤面は輝きを放っている。そこにある針は――ゆっくりではあるが確実に動いていた。
 ケイシーにそれを見せると、彼女の表情にようやく変化が生まれた。
「ほら、動いていますよね、私たちのときは」
「時間が……」
 そしてノーラはケイシーに近づいていく。
「私たちを元の世界に戻してください、お願いします。そして貴女は彼の元に行って下さい」
「彼の元に……?」
 ノーラは天井を見上げる。遙か彼方上にある空を思い浮かべた。ケイシーの姿がうっすらとぼやけてくる。
「正しい場所に行けば彼と会えると思います。だってお互いに一緒にいて、幸せな存在なのでしょう?」
 ケイシーは頷く。顔を上げた彼女の目からは、一筋の涙が流れていた。
 すると次第に周囲の壁が色あせていき、本来の壁に戻り始めた。床の一部は朽ち果てていく。止まっていた時が動き出していた。
 ケイシーの姿はいよいよ霞んでくる。彼女に向かってノーラはにっこり微笑んだ。
「同じ時を過ごせる人と一緒にいてください」
 それに応えるかのように彼女は笑みを浮かべた。
「そうね。大切な人と一緒に過ごすわ――」
 そして彼女の姿は忽然と消えてしまった。輝いていた彼女の姿が消えると、部屋の中は真っ暗になる。雷鳴は聞こえなくなり、雨の降り方は弱くなっていた。
 ノーラは振り返り、机の上を見る。時を止めた置き時計だけがのっていた。
 じんわり浮かんだ涙を拭いながら、ドアノブに手を触れる。そして廊下に出て一部屋ずつ丹念に調べ始めた。


 * * *


 失踪していた四名の赤褐色の髪の青年たちは、ノーラが彼らを発見したことで、無事に保護された。
 ケイシーが消えたのを見届けた後、入口脇にある奥まった部屋に行くと、ぐったりと横たわっている彼らがいたのだ。その中にはデリックもおり、ノーラが呼びかけるとかろうじて反応してくれた。それから助けを求めるために、自警団の詰め所に走った。
 彼らを保護してもらった際、ノーラは自警団員から発見時の詳細などを話すことになったが、さすがにケイリーという女性の幽霊話は信じてもらえなかった。
 それゆえ、なぜこのような事件が起こったのかわからなかったが、失踪者が保護されたからよかった、という結末で終えている。失踪者の青年たちも記憶があやふやなため、それで納得しているようだった。
 様々な事後処理を終えた頃には、デリックが最後の行商に出て帰ってきたときだった。
 久々に彼がやすらう亭に顔を出した翌日、彼の手を引っ張ってノーラはとある家の前に連れてきた。
「ここってたしか……」
「デリックが見つかったところ。明日からこの家は解体作業に入る。前々から近所では幽霊話があがっていたようよ」
 家の扉や窓は誰も入らないよう、細長い板で罰印を作って封鎖されている。その光景が少し寂しく見えた。
 ケイシーという女性について運よく彼女を知っている教え子と会えたため、そこで詳細を聞くことができた。
 二十歳前から先生として働き出し、二十代初めに赤褐色の髪の青年と恋に落ちたそうだ。しかし二十五歳の時に彼は出兵し、帰らぬ人となった。その後、たびたび縁談話もあったらしいが、すべて断っていた。そのうちに流行り病にかかり、二十九歳という若さでこの世を去った女性だった。
「あの時の出来事は彼女の想いが強すぎるがために、起こってしまったことかなと思う」
「すごく強い想いだったみたいだな。巻き込まれたこっちからしてみれば、迷惑な話だが」
「本当ね。あの時はもう一生デリックに会えないかもしれないと思った」
 不可思議な空間に取り残される恐怖もあった。だが彼と言葉をかわせないという理不尽さを突き付けられた時、恐れは消え、彼に会いたいと切実に思った。
 彼と一緒にその瞬間を生きたい。
 これからずっと同じ時を歩みたい――。
 だからあの時、彼から贈られた時計に手を触れたのは、自然な成り行きだった。
 ノーラが左手を軽く握りしめていると、デリックは銀色の指輪がはめられているこちらの手を包み込んできた。優しさと共に温もりが直に感じる。
「ノーラ、幸せになろう」
 頬を赤らめながら聞いたノーラは、彼の手を握り返した。
「……ええ」
 そして二人は並んで町の通りを歩いていった。
 空は雲一つない晴天。
 時を止める雨が降る気配は――ない。



 了




 お読みいただき、ありがとうございました。
 こちらの作品は比恋乃様主催の『百人一首アンソロジー さくやこのはな』参加作品です。百首ある和歌を一人一人に割り振れられ、それをテーマにして創作する企画です。

 私が振り当てられた和歌は、〇五九番の赤染衛門の『やすらはで 寝なましものを 小夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな』です。来ない男への恨み言を綴った悲恋系の和歌ですが、この小説では一捻りした話にさせて頂きました。
 お読みいただいた皆様に、少しでもお楽しみいただけたら幸いです。

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
― 感想を書く ―

1項目の入力から送信できます。
感想を書く場合の注意事項をご確認ください。

名前:

▼良い点
▼気になる点
▼一言
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ