深い夜の眠りの水底に沈んでいてもなお、鮮やかに心に響いてくる音色がある。真田にとってその曲は特定の人物と強く結び付いた上で記憶に刻みこまれているから、意識は半ば濁っていたが条件反射のように、軽やかな4分の3拍子を鳴らして自分を呼ぶ携帯電話を探し当てた。
開口一番の「遅くにすまないが」という幸村の言葉は単なる挨拶代わりであって決して意味のあるセンテンスではない。それを知悉する程度には繰り返してきた営為。布団の上でもぞもぞと居住まいを正しながら、次の言葉を待つ。
「困っているんだ。意見を聞きたい」
「………またナメクジか?」
確かこの前はそんな話だった、と思いながら真田は右手で両目を擦った。そう、草木も眠る丑三つ時、真面目でいたいけな男子中学生が二人、丹精したベゴニアの鉢に大量発生したナメクジ駆除方法について議論すること小一時間。シュールだ。しかしそもそも真田は“ベゴニア”の何たるかすら知らないのだから、相談を持ちかけた方にも根本的な誤りがある。そういえば、その後の経緯は一向に聞かない。
「そんなはずないだろう。もっと切実に困っている」
「………うむ」
それは困った、と真田はぼんやり思った。幸村が困っていると、もれなく真田も困ってしまう。その事実と、だがその逆の事象は成立しないというもう一つの重要な事実こそが、彼の最大の弱点だと言える。
「蓮二風に言えば、俺は今、コミュニケーションにおける言語の限界と脆弱性を改めて認識し、更に言語という観点から見た世界の在り様についての考察を巡らせている最中だ、というところだな」
幸村の淡々とした声が、真田の覚醒しきらない意識の表層をするりと撫でて流れ去った。解ったのは、確かに蓮二はこんな風に持って回った言い方をするということだけだ。
「………参考までに聞くが、おまえ自身の言葉でそれを簡潔に表現するとどうなる?」
「今夜は月がよく見えた。そのうちに世界に本当に存在するのは名詞と動詞だけではないかと思い始めた」
「………そうか」
聞いた俺が馬鹿だったという台詞は辛うじて呑み込むことに成功したが、さて、こんな場合に一体どんな言葉をどう返すべきか。逡巡する暇すら与えてはもらえず、なぁ、真田、と幸村が静かに名前を呼ぶ。
「名前が付けられないものは、結局、ないと思うか?」
「いや」
その問いへの答えは自然と口から滑り出てきた。巧くは言えないが、そういうものでもないだろう。ものの名前に限らず、たとえ百万語を費やしても言葉で言い表せないものは確かにあるに違いない、と。
「うん、それならよかった」
幸村の声が満足そうに緩んで聞こえる。
「なにしろ色々と探してみたが、どうしてもしっくりくる言葉が見つからなくて困っていたんだ。そうこうしている間に、それが本当にあるのかどうかも疑わしくなってしまった」
「ほぅ。何を言いたかったんだ?」
「だから、それを説明する言葉を探していたって言っただろう。うまく言えない。微妙だからな。でも、いい。それがちゃんとあるのなら」
迂闊な問いを発した真田だったが、幸村は依然として御機嫌の体でそう返して寄越した。もう一歩前進してもよさそうだと判断して、真田はもう一つ問いを発した。
「どこにあると?」
「あぁ、勿論、俺の中に」
「………」
また訳が解らなくなった、と真田がじんわり暗い気分になったのを見透かすかのように、電話の向こうから幸村の微かな笑い声が聞こえる。本当を言うと、物凄く単純な言葉に意訳できないこともないんだけどな、と秘密めかした小声が囁く。だけど嫌になるくらい単純で気に入らない。あくまで意訳だぞ、と念を押して続けられた言葉は確かにあまりにもシンプルで意味の違えようもなく、真田から眠りを遠ざけた。
「“君を愛している”−多分ただそれだけのことだ。おやすみ」
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