源二が風呂から上がった時も、先に風呂から出ていた一夜はまだむーんとした「変な顔」をして、見てもいないテレビドラマをつけ、居間の小さなソファに体育座りをしていた。
「だから、何なんだよ」
放っておけばよいのだが、一夜が己の思いを上手く口にするのが苦手だと知っている源二。後から爆発されても困るし、こちらもすっきりしないから、と白黒はっきりつけたい性分である彼は、苛々した様子で尋ねた。
麦茶の入ったコップを持ち自分の斜め前に胡坐をかいて座った彼に、一夜はその「変な顔」のまま視線をやる。
「そんなに変な顔してる?」
「してる」
源二は喉を鳴らして麦茶を飲みながら同意した。
……うぬぬ……。どうやら、あの源二のストーカーの件の所為だろうな。
気にしていないようで、どこか気にしてしまっているようだ。
それは源二が心配だからか、はたまた彼女の思いつめたような表情が心配だからか、それとも違う理由か――。
一夜がストレートに今日の出来事を口に出来ないのは、この正義感の強い男のこと、そんなストーカーなどという存在を知れば、たとえ相手が女であれ容赦なく怒鳴りつけそうだったからだ。それはさすがに可哀想な気がした。
ストーカーなどではなく、あの子が源二と何か関わりのある……それこそ隠し彼女みたいなものならば、話せるんだけど……。
一夜は源二をちらりと見た。そしてその探りを入れるつもりで言った。
「ねえ、源二は好きな子いるの?」
唐突な質問に、ぶっ、と古典的に麦茶を吹き出しそうになった源二は、そのままがはがはと咽かえった。
「彼女いるの?」の質問の方がよかったかなあ、と一夜は思い直したが、この反応を見ると二度三度尋ねるのが悪いような気がしてそのまま黙ってしまった。
源二はまだひりひりと痛む喉を押さえて、一夜を睨んだ。
「……なん、でそんなこと、聞くんだよ……」
ぎくりとした一夜は即座に言い返した。
「い、いやなんとなく。ほら、この前私のこと心配してくれたけれど、源二はそういう人いないのかなーって」
その鋭い視線が何とはなしに恐く、それをふい、と逸らして一夜は作り笑いを浮かべる。
「……」
それが本当に素朴な疑問なのか、それとも違う意味なのか、源二には一夜の考えが読めなかった。
だが作り笑いをしているのは彼にも伝わり、その焦ったような早口な言い方もどこか気になった。だから彼からも鎌を掛けるように、少し考えた後、低い声で答えた。
「いる……っつったら?」
聞いた割にはその答えが思いがけないものであったため、一夜は驚いて源二の方を見た。
だがその視線が彼女を射抜くくらい強く見据えていたので、やはり本能的に「恐い」と感じ、またその眼を逸らしてしまった。
――そっか、いるんだ……。
仮定形ではあるが、本当にいなければ彼はかなり強く否定しそうな気がした一夜は、やはり本当なのかな、という結論に達する。
そう思うと、何故か一夜の心が逸り出す。
――それはきっと、彼のこういう話を今までに聞いたことがなかったからだ、もしくは、もしかしてあの子が源二の彼女かなんかじゃないか、という仮説が当たるかもしれないからだ、それ以外の理由などないと、と彼女は自分に言い聞かせた。
「それって、同じ学校の子……?」
強い視線が恐く顔は見れなかったが、核心に触れるべく一夜は尋ねた。
「――だからさ、」
源二は苛々したように立ち上がった。一夜の問いに答えが返ってくることがなく、その代わりに、彼は彼女と同じソファの上に座り、背もたれにしていた肘掛の部分に片手をついてきた。
「何で、そんなこと聞くんだよ」
「――」
――なんだなんだなんだ!?
一夜を覗き込む源二の顔は何処か怒ったような、真剣なものだった。
咄嗟に逃げようと思ったが、彼女の身体の横に置かれた彼の腕によって、既に逃げ道も失われてしまっている。
――な、なんなんだよ。この状況は……!
自身が招いた状況のくせに、一夜は焦っていた。今まで一緒に暮らしていたが、風邪だとか二日酔いだとか、それ以外の状況で彼とここまで近づいたことはなかった。だから一夜は固まってしまった。そもそも男性が苦手な彼女は、こんな姿勢になったこともないのだ。
その源二の、一夜の中から何かを引き出そうとするような鋭い視線に怯え、
「え、えーと……」
彼女は十歳も年上であるというのに、俯いてびくびくとしてしまっている。
先ほどの変な顔、どころの話ではない。きっと今の自分は、驚きと困惑で真っ赤な顔になっているに違いない――と一夜は恥ずかしくてたまらなかった。そしてどうして源二がこうなってしまったのか、皆目検討もつかなかいのだ。
……な、何か怒らせるようなこと、言ったかな……。
だが彼がそこを退く気配もない。それどころか答えを求めるように、じり、と一夜に近づいてきている。
「答えろよ」
逃げを許さない、口調。押さえつけるような声で迫られる。
逃げるならばそれなりの行動に出る覚悟を秘めているのが、伝わってくる――。
――恐い!
――恥ずかしい!
この状況に耐え切れなくなり、早鐘のように鳴る一夜の心がそう叫んでいた。
とにかくこの状況から逃げ出したい! その一心で彼女は俯いたまま叫んだ。
「ききき今日、源二の学校の女の子がうちのアパートに来たの!!」
「……は?」
源二は間の抜けたような声を出した。と、同時に緊迫した空気が緩んだのを感じた。一夜はそのまま戒めを解いてもらおうと早口でまくし立てる。
「私と眼が合って帰っちゃったけど、源二と同じ学校の制服来た女の子だった! 黒い綺麗な髪の、眼の大きい可愛い子!!」
「……」
その言葉に、源二は何事か考え始めた。
とりあえず彼女を閉じ込めていた腕が外れたので、一夜は内心ほっとしながらいつの間にか「恐い」と感じていた空気が消えた少年を見上げた。
「知り合い……?」
ストーカーでないことを祈りながら、一夜は尋ねた。やがて源二は、「あー、」と一言呟くと、困ったように首を掻く。
「何なに? 彼女?」
源二が元の雰囲気に戻ってくれたのもあり、一夜も現金なもので思わずわくわくして聞くと、じろりと睨まれた。
「……べっつに、どーもねえよ。……ほっとけ」
そして源二は何故か更に不機嫌そうな顔になり、つっけんどんにそう言うと、それ以上触れて欲しくないように立ち上がって彼の部屋へと行ってしまった。
ひとり居間に取り残された一夜は呆然としていた。
ひとまず、彼女がストーカーとされ源二があの子を怒鳴りつけてしまうという最悪のことにはならないようで安心はしたものの、知り合いであり、放っておけ、と言われればそうするしかないのだが……。
何か変なことにならなければいいな、と嫌な予感が当たらないよう、一夜はこっそりと心の中で祈っていた。
それにしても先ほどの質問で、何故あのように怒られたのか――。
一夜は思わず、彼に追い詰められたソファの背もたれを見る。
ここに大きな手が置かれた。びくともしなさそうな引き締まった筋肉のある腕が、自分の身体のすぐ横にあった。それを思い出すと、何故だか妙に、ドキドキ――というよりも、ぞくぞく、とした。
怒った理由も分からない。あのまま答えなかったらどうなっていたのか……それも分からないが、それを考えると、「何か」が身体中を走り抜ける。
それはついぞなかった感覚であった。あえて言えば、この前北條に告白された時と少し似た感じだが、あれよりもずっと――。
――ずっと……?
一夜は自分でも自分のことがよく分からず、妙な高揚感の残る身体を抱き締めるように、再び体育座りをした。そしてふと、思った。
……好きな子って、あの子のことなのかな……。
そう思うと、今度はずくん、という痛みが走る。
今日の夕方以降、自分でもよく分かない感情に支配されている。一夜は結局少しも見ていないテレビドラマを消して、こういう気分の時はさっさと眠るに限る、と決めた。眠れるかどうかは別として……。
この本日の訪問者が、後に二人の聖域を壊すひとつの要因となることに、自分の気持ちも分かっていない一夜がこの時気付くわけもなかった。
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