第8話 訪問者(後編)
源二が風呂から上がった時も、先に風呂から出ていた一夜はまだむーんとした『変な顔』をして、見てもいないテレビドラマをつけ、居間の小さなソファに体育座りをしていた。
「だから、何なんだよ」
別に放っておけばいいのだが、この女は自分の思うことを口にするのが苦手らしい。
後から爆発されても困るし、こちらもすっきりしないので、白黒はっきりつけたい性格の源二は思わず苛々して尋ねてしまった。
麦茶の入ったコップを持ち、自分の斜め前に胡坐をかいて座った少年を一夜はその『変な顔』のまま見た。
「――そんなに、ヘンな顔してる?」
「してる」
源二は喉を鳴らして麦茶を飲みながら同意した。
……うぬぬ……。どうやら、あの源二のストーカーの件の所為だろうな。
気にしていないようで、どこか気にしてしまっているようだ。
それは源二が心配だからか、はたまた彼女の思いつめたような表情が心配だからか、それとも違う理由か――。
一夜がストレートに今日の出来事を口に出来ないのは、この正義感の強い男のこと、そんなストーカーなんて存在を知れば、たとえ相手が女であれ容赦なく怒鳴りつけそうだったからだ。それはさすがに可哀想な気がした。
ストーカーなどではなく、あの子が源二と何かかかわりのある…それこそ隠し彼女みたいなものならば、話せるんだけど…。
一夜は源二をちらりと見た。そしてその探りを入れるつもりで言った。
「――ねえ、源二は好きな子いるの?」
唐突な質問に、ぶっ、と古典的に麦茶を吹き出しそうになった少年は、そのままがはがはと咽かえった。
……「彼女いるの?」の質問の方がよかったかなあ、と一夜は思い直したが、この反応を見ると二度三度尋ねるのが悪いような気がしてそのまま黙ってしまった。
源二はまだひりひりと痛む喉を押さえて一夜を睨んだ。
「……なん、でそんなこと、聞くんだよ…」
ぎくっとした一夜は即座に言い返した。
「い、いやなんとなく。ほら、この前私のこと心配してくれたけれど、源二はそーゆー人いないのかなーって」
視線がなんとなく恐かったので、それをふいっと逸らして一夜は作り笑いを浮かべた。
「……」
それが本当に素朴な疑問なのか、それとも違う意味なのか、源二には一夜の考えが読めなかった。
だが、作り笑いをしているのは分かったし、その焦ったような早口な言い方もどこか気になった。
だからこちらからも鎌を掛けるように、少し考えた後に、源二は低い声で答えた。
「――いる……っつったら?」
聞いたくせにその答えが思いがけなくて、一夜は驚いて源二の方を見た。
だがその視線が自分を射抜くくらい強く見据えていたので、何故か本能的に恐いと感じて、またその眼を逸らしてしまった。
――そっか、いるんだ……。
でも仮定形だったので違うかもしれないが、本当にいなければ彼はこういうことはかなり強く否定しそうな気がしたので、もしかしたら本当なのかもしれなかった。
そう思うと、何かドキドキした。
それはきっと、彼のこういう話を今までに聞いたことがなかったからだ、と一夜は思っていた。
あとはもしかして、あの子が源二の彼女かなんかじゃないか、という仮説が当たるかもしれないからだ。
一夜はそれ以外の理由はないと思っていた。
「それって、同じ学校の子……?」
強い視線が恐かったので顔は見れなかったが、核心に触れるべく一夜は尋ねた。
「――だからさ、」
少年が苛々したように立ち上がったのが分かった。
一夜の問いに答えが返ってくることがなく、その答えの代わりに、気がつけば彼は自分と同じソファの上に座り、一夜が背もたれにしていた肘掛の部分に片手をついてきた。
「何で、そんなこと聞くんだよ」
「――」
――なんだなんだなんだ!?
自分を覗き込む少年の顔はどこか怒ったような、真剣なものだった。
逃げようと思ったけれど、自分の身体の横に置かれた彼の腕によって既に逃げ道も失われていた。
な、なんなんだよ。この状況は……!
自分で招いた状況のくせに、一夜は焦っていた。
今まで一緒に暮らしていたが、風邪だとか自分が二日酔いだとか、それ以外の状況で彼とここまで近づいたことはなかった。だから一夜は固まってしまった。そもそも男性が苦手なので、こんな姿勢になったこともないのだし。
その源二の、自分の中から何かを引き出そうとするような、鋭い視線が恐くて、
「え、えーと……」
いい大人なのに情けなくも俯いてびくびくしてしまった。
さっきの変な顔、どころの話ではない。きっと今自分は、びっくりしてドキドキして真っ赤な変な顔になっているに違いない。
そしてどうして源二がこうなってしまったのか、一夜には皆目検討もつかなかった。
……な、何か怒らせるようなこと、言ったかな…。
だけど彼がそこを退く気配もない。それどころか、答えを求めるように、じり、と自分に近づいてきている気がする。
「答えろよ」
逃げを許さない、口調。押さえつけるような声で迫られる。
逃げるならばそれなりの行動に出る覚悟を秘めているのが、伝わってくる――。
――恐い!
――恥ずかしい!
この状況に耐え切れなくなり、早鐘のように鳴る一夜の心は咄嗟にそう叫んでいた。
とにかくこの状況から逃げ出したかった。一夜はもう観念して、俯いたまま叫んだ。
「――ききき今日、源二の学校の女の子がウチのアパートに来たの!!」
「……は?」
源二は間の抜けたような声を出した。と、同時に緊迫した空気が緩んだのを感じた。
一夜はそのまま戒めを解いてもらおうと早口でまくし立てる。
「私と眼が合って帰っちゃったけど、源二と同じ学校の制服来た女の子だった! 黒い綺麗な髪の、眼のおっきい可愛い子!!」
「……」
その言葉に、源二は何事か考え始めた。
とりあえず自分を閉じ込めていた腕も外れたので、一夜は内心ほっとしながらいつの間にか恐い空気が消えた少年を見上げた。
「……知り合い…?」
ストーカーでないことを祈りながら、一夜は尋ねた。
やがて源二は、「あー、」と一言呟くと、困ったように首を掻いた。
「何なに? 彼女?」
彼が元の雰囲気に戻ってくれたのもあり、一夜も現金なもので思わずわくわくして聞くと、少年にじろりと睨まれた。
「……べっつに、どーもねえよ。ほっとけ」
そして源二は何故か更に不機嫌そうな顔になり、つっけんどんにそう言うと、それ以上触れて欲しくないように立ち上がって自分の部屋へと行ってしまった。
ひとり居間に取り残された一夜は呆然としていた。
とりあえずストーカーか何かで源二があの子にキレてしまうという最悪のことにはならないようで安心したし、やはり知り合いのようなので、放っておけ、と言われればそうするしかないのだが……。
何か変なことにならなければいいなあ、と平和主義の一夜はこっそり心の中で願っていた。
そして、それにしても先ほどの質問で、何故あのように怒られたのか――。
思わず自分が彼に追い詰められたソファの背もたれを見る。
ここに大きな手が置かれた。びくともしなさそうな引き締まった筋肉のある腕が、自分の身体のすぐ横にあった。それを思い出すと、何故だか妙に、ドキドキ―というかぞくぞく、した。
怒った理由も分からないし、あのまま答えなかったらどうなっていたのか……それは分からないけれど、それを考えると、『何か』が身体中を走り抜ける。
それはついぞなかった感覚だった。あえて言えば、この前北條に告白された時にちょっと似た感じだけれど、あれよりもずっと――…、
ずっと……?
一夜は自分でも自分のことがよく分からず、妙な高揚感の残る自分の身体を抱き締めるように、また体育座りをした。
そしてふと、思った。
……好きな子って、あの子のことなのかな……。
そう思うと、今度はずくん、という感じがした。
今日の夕方以降、自分でもよく分かない感情に支配されている。
一夜は結局少しも見ていないテレビドラマを消して、こういう気分の時はさっさと眠ることにした。眠れるかどうかは別として……。
この今日の訪問者が、後に自分達の聖域を壊すひとつの要因となることに、自分の気持ちも分かっていない一夜はこの時気付く由もなかった。
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