一方源二と言えば、どこか少し寂しそうに微笑む一夜を見ながら、今はこんな言葉でしか、彼女を踏み止まらせることができない自分自身に苛立っていた。
――もし自分が北條と同じ立場だったなら。そうしたら同じ方法で勝負出来るのに。
北條と同じでなくてもいい、せめて成人していたなら。せめて高校を卒業していたならば――。
十七歳という現在の年齢で、一夜が他人に源二の存在を「弟」と紹介していることからも、彼女が世間に対し何を恐れているのか彼にも伝わってくる。
そして彼女が同じ「ひとりぼっち」である自分を引き取った理由も、この毎日を心から楽しいと思ってくれていることも彼は分かっている。
――だが、「それ以上」の意味はないんだろう?
そんな風に思ってもらえても、一緒に居ても、子供としか見られていないもどかしさ。
綺麗だけれど世間一般の「オンナ」とはちょっと違う、一風変わった女。源二は出会った頃から一夜のことをそう認識していた。
そんな彼女はこのまま自分が大人になるまで、「眠ったまま」でいると子供心に思っていた。大人になったその時に、その彼女を「目覚め」させるのは自分だと、ずっとその時を待ち続けていた。
しかしそんな幼い夢を嘲笑うように、この二人だけの聖域をかき乱す現実があの北條という男によって、今、起こされようとしている。
――どうすればいいのか、は俺の台詞だ。
この焦りを、衝動を、どうすればいいのか。いっそ今、このまま、爆発させてしまおうか……。
黒い欲望に濁った眼で一夜を見つめる少年の視線には気付かないのか、まだ落ち込んだような切ない表情で笑っている彼女は、ふと源二に問い掛けた。
「じゃあ逆に源二は、将来どうしたいのさ」
自分の考えていたことが読まれたかと思い、源二はどきりとした。だけどそれはそういう意味ではなかった。
「ほら三者面談も近いしさ?」
一夜は冷蔵庫に貼ってあるメモを指差した。三者面談には小学校六年の頃から保護者として彼女が出席していた。
自分が将来この聖域の外を出てどうするべきなのかを考えた時に、ふと源二自身は彼の将来をどう考えているのか、一夜は疑問に思ったのであった。
色恋の話から急に現実的な話になり、よからぬことに頭を悶々とさせていた源二は我に返って少し罪悪感すら抱き、それを誤魔化すように頭を掻くと、少し考えた後にぽつりと呟いた。
「……最初は、高卒で働こうってずっと思ってた」
それは一夜からの独立が目的であった。自分も彼の立場だったらそう考えただろうと思った彼女は、黙って頷いた。
「でもさ今の時代、高卒じゃ就職の時、採用の幅が狭いだろ。それこそ一夜の職場なんて、管理職みんな大卒だろうし」
一夜は学歴などは気にしない方だが、ふと思い出してみて、「確かに」とまた頷いた。自分も短大卒ではあるが、初任給はそれに応じているからだ。
「出世したいとか職業で差別してるとかそういうんじゃなくて、少しでも安定した収入とか立場を手に入れたいって思うから、それなりの企業に入りたいと思う。今の時代、そんなとこの採用なんて大卒が当たり前になってるだろ」
今時の若者にしては現実的な考えを持った少年を、一夜はぽかんとして見ていた。確かにあの進学校ならば、入学できる大学など山ほどあるだろう。
だが彼は彼で、自分がそんな考え方になったのは一夜と生きてきたからだと思っていた。彼女の生き方、考え方に子供だった彼は少なからず影響を受けていた。
彼女の女一人で、この汚い世の中を真っ直ぐに、着実に生きているところに、憧れた。それに躍起になって追いつこうとしていたからこそ、親のいない自分も道を外すことなく生きてこれた。
――そんな彼女と対等になり認めてもらうためには、今度は自分が守るためには経済的、社会的に力を持ち、ひとりの男として自立しなくてはならない、と源二はいつの頃からか思うようになっていた。
人の価値は学歴や給料という問題では決してないが、そんなちょっとした男の意地もあった。
「だから、悩んでる。早く社会に出たい気もするし、進学したい気もするし」
それは特殊な環境から違う形で少し早く大人になった、少年の素の感情だった。
「で、でも、私もそうだったけれど、勉強したいなら今しか出来ないんだから、上に行けば……?」
一夜がそう言った時、源二は珍しく可笑しそうに笑った。
「ん、でもなあ。――そこで問題なんだけど、いつまでも一夜に面倒看てもらうのも情けないし、高校卒業したら家出ようってずっと考えてたんだけどさ、」
その言葉に一夜の胸がちくんと痛む。しかし少年の言葉はこう続いた。
「進学したとしても、バイト代で全部賄うつもりだったんだけど、たとえ奨学金がとれたとしても、バイト代だけで、入学金から学費からアパート代から生活費から全て払ってたら、勉強どころか過労で死にそうになんだろ」
源二は少し冗談交じりのように言うと、悔しそうに苦笑した。甘いと言われるかもしれないが、いくら金が足りなくとも別の方法が見つけられるうちは水商売に手を出すつもりはなかった。
彼の言葉の意味を考えていた一夜はきょとんと彼を見ていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……じゃあ、このまま、ウチに、住む……?」
卒業した、その後も。
しかしそこで源二は大きなため息をついた。
「だから悩んでんだろうが」
そして苦笑を消すと、腕組みをしていつもの仏頂面に戻る。
「この家出て、完全に自立してえなら就職だ。でも進学したいって場合、学費は全部自分で出す、此処にこのまま住ませてくれるだけでいい、家に金も入れる……って約束したって、どっかなんか一夜に頼ってるみてえだし……。でもこんな一時の意地で将来棒に振りたくもないだろ」
「……」
困ったように眉を寄せる源二の、珍しく少年らしい表情とその悩みに、落ち込んでいた一夜はぶっと吹き出すと、ようやくいつものようにからからと快活に笑い出した。
「源二は、昔気質だねえ」
「ほっとけ……」
「気にすることないのに。ルームシェアなんてそれこそ今は普通だし、ヒモなんて言やあ、大人の男でもっと酷いのいっぱいいるよ?」
「……」
それでもまだ反論したげに、源二は一夜をじろりと見た。
「源二は頭いいんだから、勉強したい時に勉強しなよ」
それは自分が寂しいとかそういう問題を差し引いても、進路に悩むひとりの少年にそう言ってやりたいことだった。だから一夜はそそれこそ児童館の子供たちにやるように、少年の額を白い指で軽く突いた。
――結局、ガキ扱いか……。
源二は不服そうにそれを睨み、余程その細い手首を掴んで実力行使に出てやろうかとでも思ったものの、それこそこんな進路の相談を聞いてもらったくせに子供染みた態度になるな、と思い留まった。代わりにぼそりとこう言った。
「その代わり……俺が居たせいで嫁に行けねえとか言うなよ。行きたかったらさっさと俺のこと追い出せよ、もしくはお前が出て行けよ」
一夜の気持ちを確認するように彼はそう言った。
「分かってるよ。まだ、そういう気、ないもん」
しかしあっさりとそれを否定して笑う一夜。
その笑顔が何故かいつもどおりのものに戻っていたので、今度は源二がぽかんとしてしまった。
「……行き後れるぞ」
「なんとでも」
――夢みたいでも、いいじゃないか。後悔したって、いいじゃないか。
誰に分かってもらえなくとも、いいじゃないか。
夢でも私は、幸せなんだ。
何も確かなものなどない、心もとない小さな約束。
こんな風に子供みたいな約束の方を、北條からの告白よりもずっと喜んでしまったことを彼に知られれば、きっとまた窘められるだろう。将来後悔することもあるかもしれないだろう。
それでも自分は幼くて臆病だから、今はまだこの聖域の延長線上にいたい。一夜はそう思っていた。こっちの方が、ずっとよかった。
ごめんね、と源二にも北條にも心の中でこっそり謝る。
更にその先を考えれば北條に投げかけられた現実は何も解決していないが、もう少しだけこうしてまどろんでいられることに、安心してしまった彼女がいた。そしてそれでいいと思う彼女も。
そう思う限り、自分など北條には到底足りない女だろう。こんな風に逃げている間に彼に嫌われてしまっても仕方ないと思っていたし、追いかけるつもりもなかった。
一夜が何に落ち込み、どうして突然元気になったのか、全ては分からない源二であったが、彼もまたこの場所にいられる時間が延長されそうなことには安堵していた。それはずっと心配していたけれど、言い出せなかったことだったからだ。
そのうえ今日の突然の北條の告白により、自分と彼女との繋がりを、大人になるその日まで夢見ていたことを無理矢理絶たれようとしたことに彼は内心ひどく焦ったが、どうやらまだ首の皮一枚、繋がったようだ。
しかし北條と一夜が同じ職場であることには変わりなく、高校二年の源二にはまだ卒業まで一年半以上もあるので、予断は許さない状況であるが。
――それでももしも、自分が大人になるその日まで、彼女が眠り続けていたならば、その時は……。
いつの間にか、いつもと同じ安堵に包まれていた家の中。その中で、互いにこっそりと抱く聖域への願い。
いつしか最初の気まずかった空気は消え、二人だけの居心地のよい空間へと変わっていった――。
だが、二人はこの時まだ知らなかった。
この守りたかった聖域が、思いがけなく突然に、そして自分たちの手によって破壊されることになることを……。
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