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  ネムリヒメ。 作者:takao
第1章
第4話 青天の霹靂
 週が明けた月曜日のことだった。千菜に二次会以降の様子を聞かれたが、一夜は適当に濁してしまった。
 緊張しながら上司、北條の登場を待った一夜だったが、その日彼は出張で一日留守にしていたため、彼と顔を合わせたのは火曜日になってからだった。
 酒に飲まれてもそこまで弱くもないので、一夜にも記憶はしっかりとある。調子に乗って彼に色々なことを喋り、最後にはタクシー代を出してもらって家まで送ってもらったうえに、支えられながら部屋に入ったことも覚えている。
 源二の怒りもまた物凄いもので、長い説教の後は不機嫌な状態が日曜日まで続いていた。余程一夜の失態を怒っていたのだろう。初対面の北條に一言言われたのも、更に不快感を煽られたらしい。
 一夜自身も今回は迷惑を掛けたのが上司にまで及んでしまったことで、深く反省していた。職場の飲み会ではしばらく酒は控えよう……と彼女は真剣に思っていた。

 北條の顔を見るのも恥ずかしかった一夜であったが、火曜日、彼は彼女に何を言うこともなくいつもどおりの態度で、仕事の指示をしてきた。
 ……やっぱり室長は大人だ……、と一夜は思った。
 そうは言っても上司に迷惑を掛けたことは謝らなくてはいけない。あのことは出来れば皆には知られたくない失態だったし、家まで送ってもらったと言えば変な風に誤解されるかもしれない。
 そう考えた一夜は北條が仕事で遅くまで残っていることを知っていたので、今日は少し遅くなると源二にメールをすると、残業をしながら北條が一人になるまで待っていた。

 ――そして狭い事務室に二人きりとなった。

 一夜はやや緊張しながら、席を立つと北條のデスクへと向かった。
「あのー……」
 彼は特に反応を示さなかったが、間違いなく何の件かは察しているだろう。
「金曜日は、すみませんでした」
 いつもの飄々とした感じは何処へやら、素直にしゅんとうな垂れる常に無い一夜を、北條は思わず笑いながら見た。
「俺の前でまだよかったよ。いつもあんな風にしていたら、いつか本当に変なのに連れてかれるぞ。最近は物騒だし、今後は気をつけることだな」
 笑ってはいたが、きちんと大事なことは注意され、一夜は「はい」と素直に頷いた。

「タクシー代、出してもらってしまいましたよね……。家までも、連れてきてもらってしまって……」
 あのへべれけな己の姿を思い出すと、言えば言うほど落ち込んでくる。
 「借りは作りたくない」と啖呵を切った割には、酷い有様である。一夜はそれをこの男に対する「借り」と考えていた。だからよい方法も思いつかなかったが、彼女は思わず口走る。
「謝っても謝り足りませんが、……何かお礼とかお詫びでも出来たら……」
 他意もなく真剣な顔でそう言う女を半ば驚いたような顔で見た北條であったが、ややあってふと思いついたように呟いた。

「じゃあ、埋め合わせとして――今度、飯でも食いに付き合ってもらおうか」
「は……?」
 一夜はぽかんと口を開けた間抜けな表情をした。
「俺も一人暮らしだから、毎日作るのも面倒だし」
 とってつけたように付け足しながら、北條は名案とでも言うようにうんうんと頷いている。
 そしてそのまま唖然と立ち尽くす一夜の眼を見上げた。口調の割にはそれが冗談ではない、というのがその視線から伝わり一夜はどきりとした。正確には、ひやっとした。

「え……っと、源二の……弟の、夕飯作らなきゃいけないので、それは、ちょっと……」
 「お礼をしたい」と言った割には尻込みしてしまっているが、直感でそれをOKすることを怖いと思う自分が居たので、無意識のうちに一夜はそう答えていた。
 何よりも、「黙っていれば中々の美人」という周囲の評価も知らないくらい男に興味を持たない一夜は、この歳でありながら男性――しかもこのように色気のある男と、二人きりで洒落た場所に行ったことなどなければ、そもそも言い寄られたことすらないので、突然そんなことを言われ非常に戸惑っていた。
 たとえ食事に行くだけでも、端から見ればただの男と女と見えるような行為や、プライベートな二人きりの時間を過ごす事に、彼女は情けないがどうしても抵抗を感じたのであった。

 ……源二とラーメン屋に行くのは、全然何でもないんだけどな……(しかも替え玉までしてるし)。
 一夜は自分でも不思議に思った。
 そして何で、咄嗟に源二のことを言い訳に使ったのかも分からなかった。だがこうして男性と二人で出掛けることをあの少年には知られたくないと思ったし、彼に言えないことはしたくない、とも思っていた。
 結局、結論として室長とそういう仲だと誰かに誤解されちゃいけないしな――ということで、彼女は彼の誘いを断った自分を正当化した。

 少し赤くなってもごもごと断りの言葉を口にする一夜を見ていた北條は、声を出してくっくっと笑った。
「――冗談だよ。セクハラだって言われそうだな」
 そう言うと彼は机の上のパソコンの電源を落とし始めた。一夜は思わずほーっとため息をつく。しかし、

「……でも気に入った女じゃなきゃ、あそこまでしないけどな」

 続けられた男の言葉に、一夜は再び愕然とさせられる。それはおそらく、金曜日の夜に彼女の面倒を看てくれたことを指しているのだろう。
 その眼は一夜を見ていなかったが、横顔は嘘を言っているようには見えない、真剣な眼差に彼女には見えた。
「安心しろ。仕事には私情は挟まない」
 北條はそう言うと、電源の落ちたパソコンを閉じて、席から立ち上がった。
 一夜は放心状態で上司……今は生身の男にしか見えない北條を、見上げていた。そして彼は最後にこう言った。
「戸締りするから、先に帰れ。――『弟』君に、よろしくな」
 意味深な言葉に、一夜は我に返った。
 一夜が息を飲んだことに気が付いた北條は、今度は彼女の方を真っ直ぐに見ると視線を交わした。そしてゆっくりと、彼女の心の奥に届くように、言い聞かせた。

「でも弟なら、いつまでも一緒に居られるわけじゃ、ないだろう」

「――」

 一夜は絶句して、北條を見上げていた。

 ――また、だ…。
 
 あの夜微かに感じたが、この男は自分と源二の閉鎖的な関係を揺さぶろうとしている。
 一夜は本能的にそう確信した。

 ひとりぼっち同士で出会ったあの日から、誰に理解されなくとも二人で生きてきた。
 それを互いに知っているから、どんな我が侭でも言い合えるし、口喧嘩したって絶縁することは無い。必ずお互い、あの家に帰ってくる。――それはある意味、聖域とも言えるものだった。
 百年もの間、その眠りを守ってきたネムリヒメが眠る城くらい、誰にも侵されない安全な場所。
 二人しか理解し合えない、他者や社会の介入を許さない特異で静かな領域。

 少年が大人になるまで、あと少し。
 ――分かっている。この聖域は、それまでだと。
 それからは、また一夜はひとりぼっちの生活に戻らなくてはいけない。それでも、今は誰にも邪魔されずこのまどろみの中にいたかった。
 源二は多分、自分の気持ちを知っている、と一夜は思っていた。本当にあの少年に依存しているのは、一夜の方だと言うことを。自分がひとりぼっちに戻ることを、どれほど恐れているのかを。
 恋人でもない、血の繋がりも薄い少年を本当はどれほど頼りにしてしまっているのかも。

 察しのよい北條もそれに気付こうとしている。そしていつものように的確に、客観的な意見を彼女にくれる。
 一夜がどうするべきなのかを。
 それが、正しいこと。それが――、現実。

 北條は三十を超えても未だ独身であるが、今の時代そう珍しいことではない。前の彼女と結婚を前提に長く付き合っていたけれど、事情があって別れたという噂を聞いたことがある。
 実家は兄が継いで家を出ているので、条件的にもとてもよい男である。
 ひとりぼっちが嫌ならば、勇気を出して聖域の外に出て、そろそろそういう生身の男を現実的に選び、自分で新しい居場所を探さなくてはいけないのに……。

 一夜自身もそれは頭では分かっている。しかし北條ほどの男にあんな風に言われても、怯えるだけで心が動かされなかったのは、そうしたいと思えないのは、そうすることが面倒だからか、ただ単に自分を「女」と認めることが怖いからか、――それとも、別の理由からか……。


 一夜は大きなため息をつきながら帰宅した。
 先に帰っていた源二が夕飯を作って待っていた。夕飯を彼が作ったのは久しぶりだ。テーブルの上を確認すると、一夜の大好物のぶり大根が置かれている。
 この豪快な味は自分には出せないから、と一夜は彼の作るこれが好きだった。恐らく自分が好きなのを知っていて作ったのだろう。ちょっとしたことなのに、彼女は思わず不覚にも泣きそうになってしまった。

 それは頼りにしていた上司から告白じみたものをされた、動揺もあるかもしれない。
 そしてその彼に、源二との関係を、そして自分がまだ高校生の少年に依存していることのおかしさを、冷静に指摘されたからかもしれない。それに少なからず、ショックを受けていた。

 ――こうやって、源二は誰より自分のことを分かってくれる。
 それがとても居心地よかった。本当はすごく優しい奴なんだ。

 ――だけどこの優しさは期間限定だ。

 自分が彼を引き取ったから。だからそれに恩を感じて大事にしてくれるだけだ。
 だからどんなに怒っても、自分がどんな馬鹿なことをしても、見捨てないでいてくれるのだ。

 自分の傍に、居てくれるのだ……。


 喜ぶとばかり思っていた一夜が呆然としているので、茶碗を取り出しながら源二は怪訝そうに彼女を見た。しかもその表情が珍しくも泣きそうなものであったので、彼は二度驚いた。
「どーしたんだよ!? 何かあったのか?」
「……うん……」
 なんでもない、と言おうとしたが、間違いなく「なんでもない訳があるか」と返されるであろうことは分かった。だから一夜はすとんと椅子に座ると、
「とりあえず、おなかすいたから、食べよ……」
ぼんやりとした声で、そう言った。


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